2-8
魔本堂のレジに備え付けてある椅子は、店主が快適に本を読みふけるという目的のため、こと座ることに関しては
なんの不便もないような、
それなりに上等なものを使っていた。
しかし今のクエストには、それですら多少の苦痛を伴う必要があった。軋む身体をおしてどうにか腰を下ろすと、背もたれに体重を預ける。
会計はたいていの場合、店主が担当しているため、その場所から見る店内の景観というのは珍しかった。しかしそれ以上に、今は全く雰囲気が違う。
二人でも広すぎる店だが、今は主を失ったことでしょげ返っているように空虚さを湛え、普段ならば感じる美しくもおぞましい気配や、心震わせる背徳的な邪悪を感じさせることもない。
店は大量の書棚と古書で視界を塞ぎながらも寒々しい広大さで、クエストを見下ろしていた。
「店長を、早く取り戻さないと……」
あの夜――いや、正しくはそれよりも時間が経ってからか。自分が気絶していたことに気付いたのは、月明かりが朝陽に変わった頃だろう。
早朝の徘徊を日課としているらしいごろつきの数人に揺すり起こされ、初めて自分の状況が把握出来た。
いかにも悪人顔をした彼らに抱えられ、顔に似合わぬ善良な意志で診療所での治療を熱心に勧められたが、そうなれば何日間に渡り拘束されるかわからないと断り、運び先をこの店へと変えてもらった。
それでもその日は全く動けなかったのだが、一日が経過した今はこうして椅子に座ることも可能なほどに回復した。まだ完治というには至らないが――そんなことよりと、クエストは自分の手の中に視線を落とす。
握っているのは小さな紙。そこには粗雑な地図が描かれていた――ルードの居場所を示す地図。彼が最後の最後でクエストの意志に感服したのか、あるいは付きまとわれる可能性と、その不快を自ら知っていて、そうなるのなら排除しようと考えたのか。
いずれにせよ、クエストにとっては渡りに船ではある。実際、なにもなくとも店主を取り戻すまで彼を追跡する気でいたのだから。
その強い意志で――しかし問題は感情ではなく、ルードに対抗する具体的な手段だった。
少なくとも体力面においては、旅と本屋のバイトによって鍛えられた自分の方が勝っている。それはネイジに対しても同じだ。彼女を再び戦いの場に立たせたとしても、正面からならば圧倒出来るだろう。
魔法に関してはもう少し話が変わる。しかしルードが最も愛好する精神支配は恐ろしいものの、戦いの中にその罠を仕掛けるのは困難を極めるはずだ。問題となるのはネイジの方だろう。彼女が攻撃的な魔法を使用した場合、どうすればいいのか。
そしてなによりも――ネイジを操ったあの魔道書。あれをどうにか破壊しなければならない。
魔道書を破壊すれば魔法も解けるというのは勘だったが、ルードが『書食書』への対抗策を講じていたことからも間違いないだろう。
「どうやって『書食書』に食いつかせるか。あるいはもっと別の方法が必要なのか……」
そう考えて、しかしふと疑問が浮かぶ。
「そもそもルードは、真っ正直に魔道書を持ってくるのか?」
こちらがあの防御策に対してなんらかの破壊手段を用意してくるのは目に見えているはずだ。ならば彼の場合、魔道書は……
それが頭の中でまとまりそうな時。遮ったのは、けたたましく店の扉を叩く音だった。
店主がいないため、今は臨時休業ということにして店を閉めているのだが、それを無視して真新しい扉が沸騰するように跳ねる。
クエストは仕方なしだが、また新しい扉の取り付け作業をやらされるのも面倒だと、軋む身体をおして椅子から立ち上がり、鍵を開けて来訪者を呼び込んだ。
「どうしてくれるんだ!」
直後、真っ先に飛び込んできたのは怒号だった。その次に人が店内に押し入ってくる。
歳は四十には届かないが、それなりだろう。身長の低い、そろそろ中年の風体が板についてきたという様子の男が、その顔を怒りで真っ赤に燃やしていた。
彼はどこか歩きにくそうにしながら、突然のことに目を丸くしているクエストに詰め寄り、続けて喚く。
「この責任をどう取ってくれるんだ! おい!」
「ま、まあまあ。とにかく落ち着いてください。いったいどうしたんですか」
怒鳴るばかりの男に両手を向けて制し、なんとかその激昂を鎮めようと努める。
もっとも、それで彼の怒りがそう簡単に沈静化するわけではなかったが、少なくとも仔細を聞く必要があった。
そんなクエストの願いが叶ったのは……我を忘れた彼が叫喚しながらなぜか店のさらに奥まで突き進んで来ようとするのを、必死で止めた後だった。
「……俺はよ、少し前にここで本を買ったんだ」
怒りの形相を浮かべたまま、それでも一応は正気を取り戻した様子で、彼はようやく声のトーンを落として現在に至るまでの過程を話し始めてくれた。
曰く、彼が買ったのは以前に客寄せのためにと作った、卑猥な表紙を付けた魔道書らしい。
「中身についての苦情は……」
「いいや、そうじゃねえ」
先回りで言うと、男は首を横に振った。そして本の内容を思い出すように虚空を見上げると、ひとり勝手にうんうんと頷く。
「むしろ中身には満足している。表紙の卑猥さと、中身の魔術っぽさ――この夢の競演に俺は深い感銘を受けたほどだ」
「はあ……そうですか」
どうとも言えず、そう返す。世の中には妙な偏愛を持った人が多いものだと感じながら。
さておき。ならばどうしたのかと尋ねると、彼はまた不機嫌そうに、鼻の頭にしわを寄せて言う。
どうやら――買った魔道書の中の一頁、その端に長さを測るための目盛が付いていたらしい。
そしてその紙が、測定器に出来るほど真っ直ぐで、十分な硬さを持つ、まさしく魔法的なまでに良い質だったために、それで『なにか』を測定しようとくっ付けた際、紙でその『なにか』を切ってしまい怪我をした、ということのようだ。
彼は、これは本屋の不手際だから治療費をよこせ、と主張しているが。
「そう言われても……どういう時に、なにを測ろうとして、どこを怪我したんですか?」
「それは言えん!」
この問いに対してだけは、彼は頑なにそう答え続けた。
水掛け論のように「教えてください」、「言えない、教えない」という問答をしばらく繰り返す。そんな彼の瞳にはなぜか、これだけは己の尊厳に賭けても言うわけにはいかないという妙に強い意志が垣間見えた。
やがてクエストも困り果てて、それを教えてもらわないと治療費がどうの判断も出来ないと――これも何度目か告げると、男はようやく根負けしたのか、怒りながらも恥を忍ぶように声を荒げ、それでいてなおシラを切るように言葉を濁しながら、ようやく違う答えを返してきた。
「その……ほら、人より小さいんじゃないか、とか不安になることがあるだろ!」
なんとなくヤケクソのようにも聞こえる。彼としてはそれが話せる限度ぎりぎりのところだったかもしれない。
しかしやはりそれが意味するところは、クエストにはわかりかねた。眉をひそめ首を傾げる。
「なにがですか?」
「なにがってお前、だから……ゆ、指みたいなものとか! 測るだろ!」
彼はなおさら焦りを増しているようだった。どうしてそうなるのかもわからなかったが、クエストは自分の手を見下ろした。先ほどまで地図を握っていた手を広げて、指を見つめ……やはりわからず聞き返す。
「測る……かなぁ? 親指が人より短いか、なんて心配しますかね?」
「誰が親指程度だっ!」
「えぇっ!? な、なんで急に怒ってるんですか?」
正しくは先ほどからずっと怒っていたのだが、その瞬間はさらに激しく燃え盛るように、身を乗り出してまで断固とした反発の意志を見せていた。
なにに対する反発かは不明なまま、彼は意固地になったことを恥じるように背筋を正すと、目を逸らしながら咳払いをひとつして。
「そりゃ、普段はそうかもしれないが……膨張率はすごいんだぞ!」
「膨張……指が?」
もはやクエストは奥深い森か、決して逃れえぬ魔法の迷宮に迷い込んだ心地だった。男がなにを言わんとしているのかがまったくもって掴めない。
しかし焦れたのは彼の方も同じようで、話にならんとまた激昂に声を荒げ始めた。
「あぁもう、とにかく責任者を出せ! 確かあの妖艶な……いや、そうじゃなくて……眼鏡をかけた女がいただろ!」
「それが……店長は諸事情により不在でして。それに今は臨時休業中ですし」
店主のことを突かれると、心苦しくなる。せめてもの抵抗として、クエストはその二つの要因をあえて結びつけて話そうとはしなかった。
男はそれでも納得がいかず騒ぎ続けていたが、数度再び同じようなやり取りを繰り返し、「数日中には戻ってくるから、その時にまた話を聞く」という内容を出来る限りへりくだって何度か申し出たところ、渋々ながらどうにか引き下がってくれた。




