30話 旅人の見た長い夢
今日もまた、日が昇る前に目が覚めていた。
ここ最近はこんな事が何度も続いている気がするので、
もはや日課のような物になりつつあるのかもしれないが……
いつもとは違う雰囲気を纏った巫女さんが居た事が、頭の中でずっと残り続けている。
あれは、忘れたくても忘れられそうにない。
だけど、僕の中での時間はそこから大して動いていないみたいだ。
今日までにどれだけ同じ事を繰り返しているのだろうか。
日常の繰り返しは、似た事の繰り返しか、それとも違うのか。
とにかく、前後の記憶が曖昧になっている時間は間違いなく増えている。
その日の出来事が全く思い出せなくなる状況なんて、
以前は全くと言って良いほど考えられなかった。
「一体、どうしてこんな事になっているのだろうな……」
僕以外誰も居ない、音の無い静かな部屋に呟きは解けて消えた。
(今から外に出ると、あの時と同じ流れを辿るのだろうか)
一つの仮定が、僕の頭の中に湧き上がって形になる。
同じ事が、延々と繰り返されているのかを確かめられるのでは、と。
(今から外に出て、巫女さんと遭遇すれば……)
その時の反応次第で、色々と解るかも知れない。
いや、そもそも巫女さんと遭遇すらしない可能性も……
(その先は、やってみなければ)
どんな結果が出ても納得しようと思いながら、
鳥居の見える場所を目指して僕は外に出たのだった。
見慣れた境内は、やはり先日と同じ状況を醸し出している。
異様なまでの静寂に支配された世界の中で、僕は遠くを見て佇んでいた。
(誰も来ない……か)
暫く待ってみても、巫女さんが来る気配は無い。
社殿や本殿の方を見ても、玄関の近くを眺めても誰も居ない。
夜明けが刻一刻と迫っているはずなのに、
遠くの空に光が射している様子も無い。
(今は未明の時間帯ではないのか?)
ここでは時間を知る方法が少ないので、日が昇るまでは正しい時刻を知るのは困難を極める。
故に、大体直感に近い形で時刻を読み、外に出てきたはずだったのだが……
僕の見当違いだったのだろう。
とはいえ、折角外に出てきたのだ。
このまま戻ってしまうのも色々と勿体無い気がするので、
鳥居の向こう側に広がる広大な世界を眺めてから戻る事に決めた。
(遠方の空が明るくなっているかもしれないからな……)
そんな期待も何処と無く織り交ぜながら、
僕は鳥居の下に立ってその向こう側の世界を眺めた。
(風の流れ、か……)
風景はほぼ同じ。風が僅かに吹いているを感じる。
記憶が間違っていないのならば、毎度の事だろう。
だけど、遠くの空にはまだ光が射していない状態で比較しても意味は薄いが、
あの時は無風の状態で朝日を迎えていたはずだから……
(日が昇る頃に風が止むのかもしれない……)
ここで日が昇るのを待ちながら、予想が正しいのかを確かめてみるのも良いが、
僕は一旦鳥居から離れて歩く事にした。
戻り際に巫女さんの姿が見えるかもしれないと気付いたからだ。
(会ってどうなるかは、見当も付かないけどな)
この状況から抜け出す手がかりさえ得られれば何でもいい。
そう思いたくなるほどに、立ち止まっているのは辛く感じていた。
それでも、僅かばかりの希望は無いかと探しつつ、
孤独を最も強く感じる環境で、ただ待ち続けていた。
いつまで待っても……
どれだけ待っても……
そこに誰かが来る気配は無い。
鳥居の下に居た時感じた風も、ここでは感じない。
別に不思議な事など無いのだが、何故か一層強い孤独に苛まれてゆく。
鳥居から少しだけ離れた場所。
今か今かと、そこで佇み待ち続ける。
延々と、状況は変わろうとしない。
飽きが来るまで待ち続けたが、何も変わろうとしない。
遠くの空を眺めても、月を見上げてみたとしても、変わらない。
(まるで、時が止まっているかのようだ……)
僕だけが、そこに居た。
体が冷える事も無く、音が聞こえる事も無く……
(このまま待ち続けて、何の意味があるのだろうか?)
暫く待っていたが何も変わらない事に嫌気が差していた。
ここで待ってみても、巫女さんらしき人どころか、
物音一つすら聞き取れず、妙な不気味さを醸し出していた。
音の無い世界に解けていくような感覚が時間と共に増して、
不安の山が競り上がっていく感覚に、次第に耐えられなくなっていく。
(巫女さんも、日が昇るまでは眠っているのだろう……)
結局、何も得る事が無いまま時間は過ぎ、
諦めた僕は強引に結論を付けて次の目的を考える事にした。
(もう一度あの場所を見て、何も無ければ戻ろう)
正直、このまま静寂すぎる世界に居続ければ嫌な想像に飲まれかねない。
星や月の光を邪魔しない場所として考えるならば絶好の場所かもしれないが、
度を越せば不自然で気味の悪い空間になる。
現に、今の自分は声が聞こえないというのがどれだけ恐ろしいのかを、
身をもって思い知らされているわけなのだから、当然だろう。
(たとえ、三人しか居なくとも……)
誰かが隣に居て、声を掛けてくれる。
それだけで、本当に心強いのだ。
だからこそ、普通に考えてこんな場所にずっと居続ける事になれば気も狂うだろう。
しかし、しかし……
もしも、あえて想像したくない仮定のその先にある、過去を思い浮かべると……
(僕が来る前のこの神社は、こんな異様な静寂しか無かった可能性もあるのか)
そんな、あまり考えたくない推論を呼び起こすのには十分過ぎるほどの根拠と、
目の前に広がる無音の現実が立ち塞がっていたのだった。
それならば、僕が来た事はそれをこじ開けるのに等しい。
偶然ではあるが奇跡の所業だろう。
二人に引き止められるのもまた、少し腑に落ちないが気持ちとしては解らなくも無い。
そんな、些細だと思っていたはずの何かが……
僕の心を、強烈に震わせている。
曖昧な記憶と旅人の格好を纏った、外から来た誰かだったはずの自分。
僕の出自に対する疑問は、数えられないほどあるだろう。
しかし、今ならその答えに少し迫れた気がする。
「ただ、一緒に日常を過ごす存在で良かったのか。
外との繋がりが無いのならば、身近に居る存在を大切にしたくなるのも道理だな……」
だからこそ、ここに居る限り必要とされるのもまた当然の成り行き。
その為に僕が居るのならば、記憶や格好なんて些細な事だった。
(ああ、なるほど……)
ようやく、自分の心の中にある焦りのようなものが削ぎ落とされた気がした。
月夜の下、星瞬く夜の空は尚更美しさを増して感じられる。
意識の変化に釣られたのは偶然かもしれないが、
ようやく鳥居の向こう側の空に変化らしいものが見えてきた。
気のせいでは無いかと最初は思ったのだが……
その瞬間は確かに近付きつつあると思った時には既に、
鳥居の下を目指して足が自然と動いていた。
近付く度に、境内の地面が視界から消えていく。
そして、その遠くに見える広大な地平線。
その先は遥か遠くまで白い霧のような物に包まれている。
恐らくこれまで、一度も晴れた姿を見たことは無いはずの世界が眼下にある。
(あの時も、陽の光に照らされていたのに白い霧は消えなかった)
僅かに色が変わりつつあるその先。
だけど、それは白い霧を払う事もなくただ際立たせるだけだった。
心の何処かで、あの霧が晴れて欲しいと期待していた。
だが、目の前には望んだ結果とは違う風景。
あの霧は何時晴れるのか、どうすれば晴れるのか。
そもそも本当に霧なのか、あれは……
(僕が知っている世界は極めて狭い……か)
消せない事実が、今はとても憎たらしくも思えた。
そして、役に立たない知識ばかりしか持っていない事も含めて、
改めて自分とこの世界の異質さに頭を抱える事になるのだった。
この先にある世界の姿が掴み取れない。
恐らく、そこが一番重要なのではないかと僕は考えていた。
明けつつある星空と、霧に包まれた大地。
厭きるほどに広大で終わりが見えない世界が外には広がっている。
下にあると思われるあらゆる存在は隠され、
何も窺い知ることなど出来そうもない。
(この霧の下、何か一つでも判る事があるのならば……)
巫女さんや里遠ちゃんからその手の話を聞いた事は無い。
特に、巫女さんの場合は話題を振っても答えてなどくれないだろう。
そもそも、意図的に教えてくれないのではないかと疑ってかからねば、
手掛かりすら容易に見せてはくれない相手だ。
考えてみればみるほどに……
目の前の世界が、遠く、遥か遠くに感じられる。
そして、先に出ようと考えれば考えるほど、
心の何処かで、頭の何処かで、警鐘のような物が鳴り響いてくる。
故に、ここから先の世界に足を踏み出す選択が浮かんでは消え、
結局その場所からずっと動けないまま佇む事しかできない。
里遠ちゃんや巫女さんと仲良くなる事で生じた、
僕を繋ぎ止める為の妙な力が、こんな力を生んでいるのだろうか。
そうだとすれば、この鳥居自体が大きな壁になる。
外に見える世界は、その壁に描かれた大掛かりな絵のような物でしかない。
(全ては幻だとは思えないが、全てが正しいとも限らない)
色々と照らし合わせて考えてみれば、
あらゆる所に矛盾が潜んでいる。
もしもこの鳥居の外の世界が幻だというのならば、
僕が旅人の姿で、鳥居を潜ってここへ来た所から疑問が出てくる。
だが、その記憶もまた正しいと突き付けられるほど覚えてはいない。
曖昧すぎて、その境目が全く掴み取れないのだ。
他にも当然、色々と考えられる事はあるのだが……
外の世界が無ければ成立しないような事は、山ほどあるだろう。
だが、それは今ここで考えるべき事ではない。
唯一考えなければならない事は、外の世界の姿。
実際に目にする時は、本当にやって来るのだろうか?
(幻でないのならば、いつかは見てみたい……)
恐らく、ほぼ閉鎖された状態に近いこの世界の中で、
叶うかどうかも判らない本当に小さな願いが、
僕の頭の片隅にへと引っ掛かり、固まっていくのだった。
鳥居の下に立ち、延々と立ち尽くす。
限りないほどの静寂が、何故かとても心地良く感じた。
引き摺られてはいけないと思いながら……
気付けば、無心のまま太陽がその顔を見せるまで立ち呆けていた。
どれだけの時間、そこに居たのだろうか。
ふと、そのまま静止して動かなかったとさえ思いつつあった中で……
止まっていたかのような時間が動き出したかのような感覚を受ける。
(ん……?)
微かな風の音が、一瞬だけ微風が耳元を通り過ぎていった。
(気のせいか?)
耳に少し集中を傾ける。
だけど、先程の風の音は聞こえてこない。
再び、僕はこの風景へと解けようとする。
陽の光が、刻一刻と辺りを照らし始めていく。
大地を覆う霧のような物は、まだ晴れて行こうとはしない。
やはり、その下の存在を見る事は叶わない。
しかし、風の吹いてくる先……
闇に覆われていたはずの石段の下の踊り場に目を遣ると、
僕の目は確かに、今まで見た事が無かった物を捉えていた。
「あれは……一体?」
踊り場に敷き詰められた石の上を、何かが通り抜けている。
とても小さな存在だが、不規則な挙動を見せて跳ねている。
(風が、出てきた……)
ここでもそれなりの風が吹いているのだが、
どうやら下の方でも結構な風が吹き荒れ始めているらしい。
上から下ではなく、駆け上がってくるかのような感じで……
「うわっ!」
思わぬところからの一撃を受けそうになる。
正面から吹き荒れた突風に驚いて、思わず僕は顔を背けて後ろに下がった。
すぐに顔を正面に戻して前に出るが、何も変わった物は無かった。
とりあえず砂などが巻き上げられていたのではないかと思い、
僕は全身を軽く手で払っていたのだが……
(これは、まさか……)
足元を見ると、先程まで落ちてなど居なかったはずの物がそこにあった。
(木の葉か?)
手にとって確かめてみる。
思わず、僕は自分の目を疑った。
(風は、思いもしない物を見せてくれたな……)
作り物ではないかと思い、触感なども含めてじっくりと確かめる。
何故なら、これはあまりにも不自然な代物で……
ここではまだ見る事など出来そうに無かった存在だからに他ならない。
「紅く色付いた葉、椛でも、楓でも無いな……」
恐らく、いや……
紛れも無く、それはこの鳥居の下にある石段の側から風で流されてきた物だ。
残念な事に、僕の頭の中にある知識を引っ張り出してみても、
特徴的で鮮明な色を放つよく知られているであろう、
二種類の葉っぱくらいしか名前は思い浮かばなかったが……
他にも秋になって色付く木々は存在している事は知っているので、
あの霧の下に隠されているのは……
鬱蒼とした森なのかもしれないという仮説くらいは立てられた。
それだけでも、十分すぎるほどの進歩だった。
(知識は、本当に色々とあるのだがな……)
どうして、そんな物を頭の中に抱えているのか。
益々自分の事が解らなくなりそうだが、
とりあえず持っていた知識が無駄でなかった事を喜ぶ事にした。
再び、鳥居の下に立って見下ろしてみる。
先程とあまり変化の無い光景がそこにあったのだが……
少なくとも、石段の踊り場の周辺には……
樹木が生息しているのは間違いない。
(ああ、動いていた影はこれだったのか)
陽が当たる毎に、石段も闇から解き放たれる。
そこにもまた、数枚の色付いた葉が転がっているのが見える。
間違いない。
下では、風が吹いて木々の葉を散らしているのだ。
つまり、季節は秋から冬になりつつある……
(変では、無いか?)
あまりに謎が深くて言葉に仕切れていないのだが、
どうにも噛み合っていないと思ったのは僕の勘違いだろうか。
それとも、違和感を限りなく少なくするように繋げられており、
知る必要が無い存在として切り捨てられているのだろうか。
(どんな答えだとしても、全てが滅茶苦茶である事には変わりない)
考えれば考えるほど、色々な矛盾に気付く。
夜も殆ど冷えないこの場所を中心にして考えるなら……
この神社にある木々が色付いていないのも不思議だ。
(しかし……だ)
そもそも、食材の件も含めて常識が通用しない事を忘れていた。
全てがその延長線上にあるのなら、これも仕方ないのだろう。
それでも、考えなければならない事は幾らでも在る。
(温度も、湿度も、気候も、四季も……)
全ての概念が、僕の記憶の中に描かれた常識とは違う世界。
この下にある世界には四季があり、これから冬に入る。
空も、恐らく冬の空が描かれているのだろう。
陽の光に追いやられて、殆ど見えなくなった夜の空を想う。
(確かめられるのならば、今日の夜にでも……)
ぼんやりとしか覚えていないが、
星座の見つけ方なども頭の片隅に眠っている。
その知識を活用すれば、恐らく謎が解けるであろう。
(まあ、晴れていればの話……)
そこまで考えて、僕は心に一番の衝撃を受けた。
(晴れ、曇り、雨、雷、雪……)
巫女さんや里遠ちゃんと話している時に出てこなかった言葉が、
頭の中にどんどん展開されていく。
「そうだ、天候の変化……」
あまりにも当たり前すぎた事。
そして、今の今まで僕達が気にも留めずに居た事。
(にわかには信じられないが……)
この世界で進む日常の中にある数多の不自然の中で、
巫女さんの料理の件よりも、もっと身近な所にあった物。
「こんなに不自然なのに、何故……?」
これまで、延々とまかり通っていた。
巫女さんも里遠ちゃんもそれが当たり前だと考えているのだろう。
僕も含めて、誰もそこに疑問を持たなかった。
今まで気付けなかった理由も、簡単だ。
比較するべき物も、僕が持っている物しか無いとすれば……
その僕が指摘しない限り、決してそれが表に出る事は無い。
それはつまり、今まで妙だと考えていた全てを覆すのには、
あまりにも十分すぎる推論でありつつ……
(都合の悪い物は、静かに消えていても不思議ではない)
そんな、この世界の持つ力の一端を垣間見た瞬間でもあった。
鳥居の下から、外の世界を見続けている。
陽が完全に昇る前には、帰らなければならないだろう。
再び、風が強くなる。
そして……
(おっと……)
再びの突風を受け、僕はまた顔や目を咄嗟に腕で覆う。
少しだけ後ろに下がって、先程のように砂埃などが無いかと体を叩いた。
その際、手に持っていたはずの木の葉の感触が無くなっていた。
(ああ、飛んでいってしまったな……)
巫女さんや里遠ちゃんに見せれば喜ぶのは間違いないし、
後々重要な証拠になるかもしれないので保管しておこうと思ったのだが……
鳥居の下から一度離れて足元を探してみても、
同じような葉っぱは一つも存在していなかった。
飛んでいったはずの葉っぱを完全に見失った僕は、
少しばかり、残念な気持ちになったのだった。
そして、気がついた時には……
無くした葉っぱを捜して、鳥居から少し離れた場所にまで来ていた。
暫し佇んで、辺りの状況を確認してみると……
鳥居の下で感じていたはずの流れる風が、
ここまで来ると止んでいた事に気がついた。
(もう一度、鳥居の下へ行くか……)
そうすれば、鳥居の下にはまだ先程と同じ物が落ちているかもしれない。
そう思って、僕は鳥居に近付こうとする。
だが、先程とは違う雰囲気の風が辺りを通り抜けて……
(この、風は……)
鳥居の方に向かって吹く風。
里遠ちゃんに異変があった時にも感じた妙な重苦しさを纏ったそれは……
(吸い込まれるような感覚……)
頭の奥底で、鳥居の下を潜って外に出ようとした時と同じ警鐘が鳴り響く。
本能的に、これは不味い状態だと判断して走り出した。
(逃げなければっ!)
大急ぎで、僕は鳥居に背を向けて走り始めた。
だが、その足取りが重くなっていく。
(何故だ、何故前に進めない……)
確かに、僕は前に進んでいるはずだった。
強烈な重圧を受けたような感覚の中でも、
諦めずに歯を食いしばって進んでいるはずだった。
次第に頭が働かなくなっていく。
動けないわけではないが、立っているのもやっとになってきた。
最初は鳥居に引き寄せられていたが、
今はこの場所に押し付けられるような力が邪魔をする。
(ぐうっ……あああああああああっ!)
声を出していたはずだった。
大声で叫んでいたはずだった。
だけど、喉から一切声は出ていなかった。
荒ぶる風の音だけではない雑音のような物が耳を支配する。
とにかく苦しくて、圧迫感が延々と自分を責め立てて来る。
間違いなく、単なる風以外の何かが僕を邪魔している。
(この体勢では、無理か……)
全身の力が、急激に抜けていくのを感じる。
立っているのは無理だと思い、膝を付いた。
そしてそのまま、地面へ倒れそうになるが……
(まだだ……倒れるわけには……)
このまま倒れるつもりは無いと、
僕は四つん這いの状態で、有りっ丈の力を振り絞り耐えようとした。
だが、そんな些細な抵抗では……
現状維持をするなんて、到底無理だと気付いた時にはもう遅かった。
(もう、無理だ……)
そのまま、全身が地へと崩れ落ちていった。
この体勢になった僕は、抗う事を半ば諦めつつあった。
どのみち、妙な力が掛かり続ける限り起き上がるのは難しいだろう。
(誰か、助けてくれ……)
僕がここで、倒れてしまうわけには行かない。
地に這いつくばっているこの状態でも、諦めてはならない。
策の一つでも考えて、とにかく何かを残さねば……
だが、腕は動かないし、力が抜けてくる……
(気が……遠くなる……)
目を閉じて、考えて、考えて、考えて……
全身の力が抜けていくのを感じた後、意識が闇の中に沈んでいった。
「……ん?」
気を失っていたのは、一瞬だったのか?
それとも、それなりに長い時間だったのか?
暫くの間地に臥せっていたのかもしれない。
誰かに呼ばれた気がして、目を覚ました。
空の明るさが先程までと殆ど変わって居ないので、
恐らく気を失っていたのは短い時間だったのだろう。
いつの間にか、僕の体は自由を取り戻していた。
周囲を覆っていた嫌な雰囲気も、耳の辺りにあった雑音も、
押しつぶされそうな重圧も、手足に掛かる妙な重さも、
体力を奪われるような感覚も含めて。全てから僕は解放されていたのだった。
(一体、何があったのか……)
全く理解できない。
だが、僕を邪魔していた何かが消えた事だけは解る。
地面に伏せたままでは駄目だと思い、立ち上がってみる。
服などを手で軽く払って、体を軽く動かしてみるが、違和感は別に感じない。
若干全身に気だるさはあるが、頭の中は妙にすっきりとしていた。
(まるで、長い夢から醒めたかのようだ……)
一応、色付いた葉の記憶は残っている。
それを見て浮かんできていた疑問も、少しくらいは覚えている。
夢として片付けるには現実味をあまりにも帯びすぎていたので、夢とは考えたくない。
しかし、手元に証拠がない、事実かどうかの是非を問う相手も居ない。
懐かしさのようななにかが、ふと通り過ぎていっただけ。
(それでも、何かが掴めた気がするのは進歩なのだろう……)
腑に落ちないとは思いつつも、今は割り切るしかなかった。
立ち尽くしていても仕方ないので自分の部屋へと戻る事にした。
途中で巫女さんにすれ違う事は無いのを疑問に思ったが、
単に寝坊しただけの可能性も捨て難い。
(あの時も巫女さんが寝坊して悲惨な朝食、だったよなぁ……)
思い返すだけで、苦笑いするしかなくなる。
今回も寝坊ならば、朝の日課は取り止めていたとしても理解できる。
勝手な理屈かもしれないが、僕は心の中でそうだと納得していた。
暫くして、朝食の時間になる。
僕は自分の部屋に戻り少し休憩をした後、改めて食堂に向かっていた。
「おなかすいたよぉ……」
「里遠ちゃん、本当に、本当にごめんなさい……」
聞こえてくる声からも察せるのだが、予感が的中したみたいだ。
里遠ちゃんが項垂れているのを見て、頼むから悪い結果にならない事を心の中で祈った。
「何かあったのですか、桃子さん?」
「いえ、少し寝坊してしまいまして……」
心配になって声を掛けてみるが、
巫女さんは歯切れの悪い答えしか返してくれなかった。
巫女さんは表情なども含めて、明らかに疲労しているのだが……
どうにも、ぎこちない。
そっけないというか、目を合わせようとすると逸らされる。
「来人さんも、眠そうですね」
「いつものように、二度寝や三度寝の類ですよ」
「そうですか……」
心配の声を掛けられるが、感情がどこか篭っていない。
ゆえに、僕も投げやり気味な答えしか返せない。
「疲れてません?」
「いえ、大丈夫ですよ」
やり取りも、どことなく元気がない。
しかし深く突っ込んで聞くにも、取っ掛かりがない。
(何であれ、巫女さんには少し休んでもらった方が良い……)
少しばかり、そんな気持ちも混じっていたのかもしれない。
もやもやとした何かが邪魔をして、巫女さんに上手く話しかけられない。
仕方なく、遠慮気味に巫女さんと接する事を心掛けた。
後々不思議に思われていたとしても、仕方ない。
そして、ほんの少しだけ生じていた妙な胸騒ぎと、
時間とともに積み重なってゆく不確かな疑問を心に深く残して。
僕達はまた、日常を繰り返そうとしていたのだった。




