第64話 古代の案内人を呼んだ名前が《アウローラ》だったので、世界最大企業の名前まで偶然ではなくなりました
暗い場所。
足元も、自分の手さえほとんど見えない。
俺はそこに立っている。
いや。
立っていたのかどうかすら分からない。
四百年以上前の記憶より、さらに古い。
いつの出来事かも分からない記憶。
誰かが俺の背中を押した。
『今度は、ちゃんと帰る場所を作って』
俺は振り返ろうとする。
けれど顔は見えない。
それでも。
記憶の中の俺は、その相手を知っていた。
名前を呼ぶ。
――アウローラ。
「……アウローラ」
気づくと、実際に声へ出していた。
調査室が静まり返る。
一番最初に反応したのは、トーマだった。
「え?」
俺も同じ気持ちだった。
「たぶん、そう呼んでた」
「誰を?」
「今思い出した人」
「いや、それは分かる。そうじゃなくて」
トーマがゆっくりセレスを見る。
次に俺を見る。
「《アウローラ》?」
「うん」
「世界最大企業の?」
「……同じ名前だねー」
「同じ名前だねー、じゃない!」
トーマの声が調査室へ響いた。
さすがに今回は、俺も軽く流せる内容ではない。
《アウローラ》。
現在では世界中の物流、金融、医療、通信、魔道具産業にまで影響を持つ巨大企業の名前。
その元になったのは、もちろん《ノクス・アウローラ》だ。
俺が四百年前。
十人と一緒に暮らしていた頃。
秘密基地の延長みたいな組織へ、冗談半分でつけた名前。
そのはずだった。
セレスが椅子から立ち上がった。
「アレン」
「うん」
「今の名前は、本当に記憶の中で聞いたのですか?」
「聞いたというより、俺が呼んだ」
「その人物を?」
「たぶん」
セレスの表情が明らかに変わる。
彼女はすぐ、自分が持っている四百年前の日記の複製を開いた。
検索。
《アウローラ》。
当然、大量に出てくる。
現在の企業についてではない。
もっと古い。
秘密基地だった《ノクス・アウローラ》の名前が決まった頃。
「ありました」
セレスが該当箇所を開く。
四百年前。
俺たちがまだ小さな家で暮らし始めたばかりの頃の記録だ。
『ラグナが秘密基地にも格好いい名前が必要だと言った』
「我であるな」
ラグナが頷く。
「そこは覚えてる?」
俺が聞くと、ラグナは胸を張った。
「当然である。我は《黒龍魔王城》を提案した」
「却下した覚えある」
「なぜだ!」
「家だったから」
「格好いいではないか!」
四百年経っても評価は変わっていないらしい。
セレスが続きを読む。
『ヴィオラ案、《星影宮》。ミコト案、《家》。ラグナ案、再び《黒龍魔王城》』
ミコトが小さく頷いた。
「家でいいと思ってた」
「今聞いても一番実用的だねー」
「秘密結社感がないではないか!」
ラグナだけが不満そうだった。
そして。
日記の次の部分。
『アレンが笑いながら、《ノクス・アウローラとかどう?》と言った』
全員の視線が俺へ集まる。
やっぱり。
最初にその名前を口にしたのは俺だった。
セレスはさらに読む。
『意味を聞くと、夜と朝みたいなもの、と答えた』
『ラグナが「なぜ夜と朝なのだ」と聞いた』
『アレンはしばらく考えて、《何となく? 秘密結社っぽいし》と言った』
トーマが両手で顔を覆った。
「お前……」
「何?」
「四百年後に世界最大企業になる組織の名前を、本当にその程度で決めたのか?」
「その時は秘密基地だったからね」
「今まで聞いた由来の中で一番軽い」
でも。
俺自身も妙だと思い始めていた。
当時。
《ノクス》については覚えている。
秘密結社なら夜っぽい単語がいい。
それくらいの発想だった。
でも。
なぜ《アウローラ》だったのか。
今まで考えたこともなかった。
朝。
黎明。
夜明け。
響きが良かったから。
それだけだと思っていた。
「セレス。その日の俺、名前を考えるまで時間かかってた?」
「いえ」
「すぐ?」
「日記には、『ほぼ考えずに言ったように見えた』とあります」
「……そっか」
たぶん。
俺は新しく考えていなかった。
思い出したわけでもない。
ただ。
頭のどこかへ残っていた名前が、自然に出た。
トーマが嫌そうな予感を覚えた顔で俺を見る。
「待てよ」
「何?」
「じゃあ《黎明喰らい》は?」
俺も気づいた。
アウローラ。
黎明。
それを喰うもの。
四百年前。
俺は子供たちとの遊びで、
《黎明喰らい》
という架空の災厄を作った。
その設定は、
夜を終わらせない。
帰り道を追ってくる。
本体は別の場所にいる。
誰かが帰ろうとすると現れる。
そして後になって。
それとほとんど同じ性質を持つ何かが、本当に存在すると分かった。
「俺」
自分でも少し呆れながら言う。
「思ってたより、昔のこと結構忘れてるのかも」
「かなり重要な部分をな!」
トーマが即座に返す。
でも今回は。
単に四百年という時間のせいで記憶が薄れた、という話ではなさそうだった。
俺が最初にこの世界へ帰還した時の記録。
日時は適用不能。
帰還先は世界全体。
そして誰かが言った。
《今度は、ちゃんと帰る場所を作って》
その誰かを。
俺は《アウローラ》と呼んでいた。
その後。
長い時間が経った。
十人と暮らすことになった。
秘密基地へ名前をつける時。
俺は何となく、
《ノクス・アウローラ》
と口にした。
偶然。
そう考えることもできる。
ただ。
最近、その言葉を便利に使いすぎている気がする。
「ユノア」
俺は映像通信の向こうへ呼びかけた。
「《アウローラ》って言葉、知ってる?」
彼女は少し困った顔をした。
「その音の言葉は知らない」
「古代語じゃない?」
「たぶん」
少なくともユノアの時代で一般的に使われた言葉ではないらしい。
「じゃあ、人の名前としては?」
「聞いたことない」
俺は少し安心した。
古代文明の王様とか、帰還網を作った有名人の名前だった、という単純な答えではなさそうだ。
ところが。
ユノアが続けた。
「でも、似た意味の言葉ならある」
「意味?」
「うん」
彼女が古代語を口にする。
聞き覚えのない発音。
俺には意味が分かる。
《帰ったあとに見る、最初の光》。
現代語へ無理に訳すなら。
朝。
夜明け。
あるいは。
「黎明……」
俺が呟く。
ユノアが頷く。
「長い夜の外から帰った人が、最初に見る光」
俺は少し黙った。
アウローラ。
俺たちの世界で使う言葉なら、夜明けを連想する名前。
古代帰還網にも。
ほとんど同じ概念が存在する。
帰った人が最初に見る光。
「また偶然?」
トーマが聞く。
「今回は俺も言いづらくなってきた」
「やっとか」
セレスはずっと考え込んでいた。
やがて、静かに尋ねる。
「《アウローラ》という名前を会社名へ使ったのは、私です」
「うん」
それは知っている。
《ノクス・アウローラ》から派生した表の組織。
その創業文書には、
**『我らが帰る場所へ、再び朝が来ることを願い、《アウローラ》と名付ける』**
と残されている。
「私自身、《朝》という意味を強く意識していました」
セレスは胸元の《また帰る》の首飾りへ触れた。
「アレンがいなくなったあとも、この場所を残す。皆が戻れるようにする。そしていつか、アレン自身が帰ってきてもよいように」
俺は黙って聞く。
「だから《アウローラ》でした」
「うん」
「ですが」
セレスが俺を見る。
「その意味を最初に与えたのは、私ではありません」
《ノクス・アウローラ》。
俺がつけた名前。
そこから彼女は《アウローラ》だけを取った。
つまり。
今の世界最大企業の名前を遡ると。
最終的には俺へ辿り着く。
さらに遡ると。
俺の失われた記憶の中にいる、
《アウローラ》
と呼ばれた誰かへ行き着く。
ラグナが腕を組んだ。
「では、現在の《アウローラ》は、その者の名を継いでおるということか?」
「そこまではまだ分からないよ」
俺は首を振る。
「俺が呼んでたのが、本当にその人の名前だったのかも分からないし」
あだ名。
役職。
呼称。
俺が勝手につけた名前。
可能性はいくらでもある。
「勝手につけた名前……」
自分で言って。
少し引っかかった。
昔から。
俺はそういうことをしている。
名前がない場所へ名前をつける。
秘密基地へ《ノクス・アウローラ》。
分からない災厄へ《黎明喰らい》。
後世の人々は、それを正式名称として使う。
もしかすると。
《アウローラ》も同じだったのではないか。
「俺が名前つけた可能性もある?」
誰にともなく尋ねた。
エルシアはまだ休憩中。
代わりにユノアが考える。
「あり得ると思う」
「本人に名前がなかった?」
「それもある。でも、名前を消した人だったかもしれない」
旧管理者。
氏名を残さなかった人物。
《名前があると、それは名前を使う》
だから記録から自分を消した。
その人物と、俺を最初に帰還させた案内人が同一人物なのかは分からない。
だが。
もし同じなら。
名前を残さない相手へ。
俺が勝手に呼び名をつけていた可能性はある。
「……やりそうだねー」
俺が言うと、十人全員が頷いた。
「そんなに?」
ミコトが短く言う。
「やる」
シズクも。
「絶対やる」
信用されているのか、されていないのか分からない。
その時。
休憩を終えたエルシアが戻ってきた。
今度はセレスが睡眠時間を確認する。
「追加で?」
「二時間四十一分」
「合計八時間以上ですね」
「はい」
「では働いて構いません」
何だか学院の寮母みたいになっている。
エルシアは状況を聞くと、すぐに俺の初回帰還記録を再解析した。
「《アウローラ》という音そのものが残っていないか確認します」
完全な音声記録はない。
それでも。
古代帰還網には、通信時に使われた識別語や呼称が断片的に保存されることがある。
俺の初回帰還。
年代不明。
暗い場所から、この世界全体を帰還先として戻った時。
補助者。
識別不能。
「一件あります」
全員が画面を見る。
《帰還補助者 呼称情報》
破損率。
九十二パーセント。
ほとんど残っていない。
でも。
俺から補助者へ向けた呼びかけだけ、一部が復元できた。
エルシアが音声へ変換する。
雑音。
長い沈黙。
そして。
俺の声だった。
今より少し幼いようにも聞こえる。
『――アウ……ラ』
それだけ。
トーマが俺を見る。
「ほぼ確定じゃねえか」
「そうだね」
さすがに否定する理由はない。
俺は昔。
誰かを《アウローラ》と呼んでいた。
その誰かに助けられて、この世界へ帰ってきた。
そして。
いつか帰る場所を作れと言われた。
その後。
俺は全部忘れたまま。
十人と暮らす家を作り。
そこを《ノクス・アウローラ》と呼んだ。
「……変だね」
セレスが心配そうに俺を見る。
「何がです?」
「嫌じゃないんだよね」
自分でも少し不思議だった。
自分の人生の大事なところへ。
知らない記憶が入り込んでいる。
普通なら、もっと怖くてもいい。
でも。
《アウローラ》
という名前を口にすると。
どこか懐かしい。
危険な感じがしない。
むしろ。
帰ってきた。
そんな感覚に近かった。
ただし。
だから信用する。
とはならない。
それはここ数日で嫌というほど学んだ。
「懐かしいからって、本人とは限らないからね」
俺が言うと、セレスが少し驚いた。
「はい」
「声も名前も信用しない」
「はい」
「実際に会ったとしても、すぐ一人でついていかない」
「……非常に良いです」
トーマが拍手した。
「教育の成果が出てる」
「俺、何歳だと思われてるの?」
「行動だけ見れば最近ようやく成人したくらいだな」
ひどい。
でも。
もし《アウローラ》を名乗る誰かが現れたとしても。
俺は一人で行かない。
今度はそうできる。
「ところで」
カレンが一つ確認する。
「《アウローラ》という呼称が古代帰還網から確認できた以上、現在の会社名との関係はどう扱います?」
「公表するの?」
トーマが驚く。
セレスは首を横へ振った。
「まだ早すぎます」
それには俺も賛成だった。
現時点で外へ出せば、
《世界最大企業アウローラの社名は古代文明由来》
《創設者アレンは古代帰還者》
《ノクス・アウローラは数千年前から予定されていた》
みたいな話になる。
最後の一つは特に違う。
「《ノクス・アウローラ》を作ったのは、俺たちだよ」
俺は言った。
セレスたちがこちらを見る。
「昔の誰かが全部用意してたわけじゃない」
名前に古い記憶が混ざっていたとしても。
秘密基地を作ったのは俺たち。
冗談で秘密結社ごっこを始めたのも俺たち。
困っている人を連れてきたのも。
寝床を増やしたのも。
仕事を任せたのも。
四百年かけて世界規模へ育てたのも。
全部。
別の人たちが実際にやったことだ。
「そこを『古代文明に選ばれた組織でした』みたいにするのは違うと思う」
セレスがゆっくり頷いた。
「私もそう思います」
「ですよね」
北方歴史学院の教授たちは少し残念そうだった。
たぶん論文を書きたいのだろう。
「調査自体は続けていいよ」
俺が言うと、一瞬で表情が明るくなった。
分かりやすい。
「ただし、今は《関連不明》で」
「承知しました!」
元気だ。
その日の解析は、そこで終わる予定だった。
けれど。
最後に一つだけ。
エルシアが変なものを見つけた。
俺の初回帰還補助者。
俺が《アウローラ》と呼んだ存在。
個人情報はほとんど消されている。
名前。
姿。
魔力。
全部ない。
なのに。
一つだけ。
古代帰還網が、その相手について保存を拒否しなかった項目があった。
《帰還先》
トーマが画面を見る。
「こいつ自身にも、帰る場所があったのか?」
「確認します」
表示。
《帰還補助者》
《帰還状態――》
エルシアの動きが止まった。
「どうしたの?」
「……未帰還です」
俺は画面を見る。
《帰還状態――未完了》
「帰ってない?」
「はい」
おかしい。
四百年前の第十一帰還点の旧管理者は、
《帰還状態――完了済》
だった。
つまり。
少なくとも記録上は。
**別人。**
俺を最初にこの世界へ帰した《アウローラ》と。
四百年前、俺たちへ第十一帰還点を譲った名前のない管理者は。
同じ人物ではない。
「じゃあ《アウローラ》は、まだ向こうにいる?」
俺が尋ねる。
エルシアは慎重に答えた。
「少なくとも、この記録では帰還完了していません」
次の情報。
《帰還先指定――あり》
《帰還先――》
文字が復元される。
第十一帰還点ではない。
第一から第十でもない。
場所の名前ですらなかった。
俺には、その古代文字の意味が読めた。
「……アレン・クロフォード」
自分の名前を読んだ。
トーマが固まる。
「は?」
《帰還補助者――アウローラ》
その人物が帰る場所として指定していたのは。
町でも。
国でも。
世界でもない。
**俺だった。**
セレスの表情が止まった。
十人全員。
何とも言えない顔で俺を見る。
「いや」
俺は両手を少し上げた。
「俺も知らないよ?」
ラグナが低い声で言う。
「首領」
「何?」
「四百年前より前から、また女を待たせておったのか?」
「そういう話なの!?」
「帰還先に貴様を指定しておるではないか!」
「俺が指定させたわけじゃないよ!」
カレンが額へ手を当てる。
ミコトがぽつりと言った。
「十一人目?」
「増やさないで!」
トーマがとうとう机へ突っ伏した。
「古代文明の謎より修羅場のほうが早く来そうだ……」
俺だってそう思う。
でも。
画面には、もう一行あった。
《帰還条件》
《アレン・クロフォードが帰る場所を得ること》
俺は笑うのをやめた。
四百年前。
俺が十人と《最初の家》を作った瞬間。
古代帰還網は俺の長い帰還処理を、
《完了》
にした。
つまり。
条件は。
もう満たされている。
その下。
今まで停止していた記録が。
初めて更新された。
《帰還条件――成立済》
《帰還者アウローラ》
《帰還処理を再開します》
そして。
世界中に存在する十一個の帰還点とは別の場所で。
十二個目の反応が。
静かに灯った。




