第56話 四百年前の『ただいま』を聞き直したら、全員違う声に聞こえていました
『――ただいま』
雑音だらけの四百年前の音声を聞いた瞬間、胸の奥に妙な感覚が残った。
誰の声かは分からない。
名前も出てこない。
それなのに、知らない声だとは思えなかった。
俺はしばらく記録装置を見つめてから、エルシアへ尋ねた。
「もう一回聞ける?」
「可能です。ただし、先ほどの通信とは切り離して再生します。《帰還案件・零号》側へ接続することはありません」
「うん。それでお願い」
エルシアが術式を操作すると、黒い板ではなく地下施設側の記録装置から同じ音声が流れた。
ざらついた雑音。
風のような音。
その向こうから、ほんの一言。
『――ただいま』
やっぱり知っている気がする。
ただ、今度は声そのものより先に別のことが気になった。
俺の横で、セレスが息を止めていた。
顔色まで少し変わっている。
「セレス?」
呼びかけても、すぐには返事がなかった。
彼女は胸元の《また帰る》の首飾りへ無意識に触れながら、記録装置を見ていた。
「……もう一度、聞かせてください」
エルシアが再生する。
『――ただいま』
セレスの指がわずかに震えた。
「どうしたの?」
「アレン」
「うん?」
「今の声……誰の声に聞こえましたか?」
変な質問だった。
「誰って言われると分からないんだけど、知ってる声みたいな感じがする」
セレスは何も答えなかった。
代わりにラグナが眉をひそめる。
「待て」
いつもの豪快さが消えていた。
「我には、首領の声に聞こえたぞ」
今度は俺が黙る番だった。
「俺?」
「うむ。今より少し若い頃……という表現が正しいかは知らぬが、昔の首領の声だ」
「私もです」
カレンが続いた。
「四百年前のアレンの声に聞こえました」
「同じ」
ミコトも短く答える。
周囲を確認すると、セレスたち十人全員がほぼ同じ反応をしていた。
声質に多少の印象差はあるらしい。
それでも全員、
《昔の俺の声》
として聞いていた。
「……俺、自分で外から『ただいま』って言ったの?」
「その可能性はありません」
セレスが即座に否定した。
「この記録が残された日について、私の日記にも記述があります。その夜、アレンは家にいました」
「そこまで書いてるの?」
「書いてあります」
「何で?」
「あなたが珍しく、皆より早く眠った日だったからです」
そこまで記録するものなのだろうか。
口に出すと怒られそうなので黙っておく。
それより問題なのは、俺が家の中で寝ている時に、家の外から俺の声で「ただいま」と言った何かがいたことだ。
そこでトーマが遠慮がちに手を上げた。
「あのさ」
「どうしたの?」
「俺には、お前の声には聞こえなかったぞ」
全員の視線が集中する。
トーマは少し困ったように頭をかいた。
「俺の母親の声だった」
空気が止まった。
「正確には、子供の頃に聞いてた声に近い。実家に帰った時、向こうから『おかえり』って言われる前くらいの……まあ、そんな感じだ」
北方歴史学院の教授の一人が、突然椅子へ座り込んだ。
カレンがすぐに駆け寄る。
「大丈夫ですか?」
「え、ええ。ただ……私には、恩師の声でした」
教授は青ざめた顔で記録装置を見る。
「二十二年前に亡くなった人です」
そこから確認は早かった。
調査隊の全員に、同じ音声を一度ずつ聞いてもらう。
結果は完全には一致しなかった。
父親。
母親。
兄。
幼なじみ。
昔暮らしていた孤児院の院長。
すでに亡くなった人物を挙げる者もいれば、今も生きている家族を挙げる者もいた。
共通していたのは一つだけ。
全員が、
**自分にとって「帰る」という言葉と強く結びついた人物の声**
として聞いている。
そしてセレスたち十人には、俺の声として聞こえた。
「……なるほどねー」
思わず呟く。
するとトーマがすぐこちらを見る。
「いや、そこで納得するな。怖いだろ、これ」
「怖いけど、分かったことはあるよ」
俺は十人を見る。
「みんなにとって、俺が帰ってくる側だったんだね」
今度は別の意味で静かになった。
セレスは目を逸らした。
カレンは額へ手を当て、ヴィオラは苦笑している。
ラグナだけは腕を組んだまま堂々と頷いた。
「当然であろう。我らは四百年近く待ったのだぞ」
「そうだね」
昔の俺なら、こういうことを言われても軽く流していたかもしれない。
けれど今は少し違う。
俺がいなくなったあとも。
《ノクス・アウローラ》を残し。
《アウローラ》を作り。
帰る場所を守り続けた。
十人が待っていたのは、伝説の創設者ではなかったのだと思う。
たぶん、普通に「ただいま」と言って帰ってくる俺だった。
「もう勝手にいなくならないよ」
そう言うと、セレスがゆっくりこちらを向いた。
「はい」
短い返事だった。
でも、それで十分だった。
「しかし」
エルシアが現実へ引き戻す。
「感動している場合でもありません」
「そうだったねー」
エルシアは記録装置の術式を分解していた。
「今再生したものは、通常の音声記録ではありません」
「音じゃない?」
「音そのものは保存されています。しかし、それだけでは説明できません」
エルシアが一度、記録から魔力情報を完全に除去した。
「魔力成分を消した状態で再生します」
再び音が流れる。
ざらついた雑音。
そして、
『――――』
何かを言っている。
ただし、今度は聞き取れなかった。
人の声らしきものがあることだけは分かるが、「ただいま」とは聞こえない。
トーマも首を傾げる。
「今の、何て言った?」
「分からないね」
調査隊の反応も同じだった。
エルシアが説明する。
「言葉を認識させていたのは音声そのものではありません。音へ混入した魔力情報です。聞いた人間の記憶へ干渉し、最も近い概念を引き出している」
「最も近い概念?」
「この場合は、おそらく《帰還》です」
カレンの表情が険しくなる。
「つまり、あれは『ただいま』と言っていたわけではない?」
「少なくとも、人間の言語としてそう発音したとは限りません」
部屋に重い空気が広がった。
俺が聞いた声。
セレスたちが聞いた俺の声。
トーマが聞いた母親の声。
すべて、向こうから送られてきた本当の声ではない。
聞いた側の記憶を使って、そう聞かされていた。
「帰りたいと思う声を使うんだ」
俺が言うと、エルシアが頷いた。
「あるいは、帰ってきてほしい相手の声です」
それなら性質としてはかなり危険だ。
夜。
家の外。
大切な誰かの声。
「ただいま」と言われれば、扉を開ける人は多いだろう。
特にその相手が、長い間帰ってきていない者だったなら。
セレスが自分の首飾りを強く握った。
俺も何となく想像できてしまった。
もし俺がいなくなったあと、最初の家へ一人残ったセレスのところへ。
俺の声で。
「ただいま」と言う何かが来ていたら。
「……開けちゃいそうだね」
「開けます」
即答だった。
「セレス」
「四百年前の私なら、間違いなく」
今の彼女なら違う。
たぶん確認する。
周囲にも相談する。
一人で判断しない。
それでも、昔なら開けたという言葉が妙に重かった。
「だから《帰り道を使って追いかけてくる》なのか」
トーマが呟いた。
俺が子供たちとの遊びで考えた設定。
《黎明喰らい》は、帰ろうとする人間を追いかける。
でも。
もしかすると順番が逆だった。
俺が考えた設定に現実が似たのではない。
現実に存在した何かの性質を、俺が知らないうちに拾っていた。
「セレス」
「はい」
「俺が《黎明喰らい》を考えた日の記録、もう一度見せてくれる?」
彼女はすぐ日記の複製を検索した。
四百年前。
未登録魔力が《最初の家》の外で検出された夜から、三日後。
該当箇所が見つかる。
セレスが読み上げる。
「朝、アレンが珍しく寝坊した。夜中に何度も目を覚ましていたらしい、とあります」
「その次は?」
「朝食の時、ラグナが『秘密結社には宿敵が必要だ』と言い出した」
「我だな」
ラグナが誇らしげに頷く。
「そこは誇るところなの?」
「世界最大の秘密結社に宿敵を用意した功績である」
「本物になってるから功績かどうか怪しいよ」
セレスは続きを読む。
「それに対してアレンが、《じゃあ朝を食べる怪物とかどう?》と提案しています」
覚えている。
ラグナが世界を覆う巨大な竜を提案し、ミコトが「大きすぎる」と却下した。
ヴィオラが闇の王を提案したけれど、ありきたりだから嫌だと言われた。
それで俺が、
夜を終わらせない怪物。
朝を食べてしまうもの。
《黎明喰らい》。
そんな名前を出した。
遊びの中で生まれた設定だった。
「その前に何かない?」
セレスが少し遡る。
そして止まった。
「あります」
「何て?」
彼女の表情が変わっている。
「アレンが朝食の時に、夢の話をしています」
俺は覚えていなかった。
セレスが日記を読む。
『アレン、変な夢を見たと言う。家へ帰ろうとしているのに、後ろから自分と同じ足音がずっとついてくる夢』
誰も話さない。
さらに続く。
『走っても同じ速さで追ってくる。立ち止まると、向こうも止まる』
『家へ着いて扉を開けようとすると、後ろから誰かに「先に入れて」と言われたらしい』
背中が少し寒くなった。
「俺、そんな夢見たんだ」
「日記にはそう書いてあります」
「全然覚えてないなあ」
「四百年前ですから」
その三日前。
家の外では、人間ではない魔力反応が検出されていた。
音声らしき記録には、聞く者にとって大切な誰かの声で、《ただいま》と認識させる情報が含まれていた。
その三日後。
俺は夢の内容をほとんどそのまま使って、《黎明喰らい》という架空の災厄を作った。
「じゃあ、俺が考えたっていうより」
トーマが続きを言った。
「お前、先に見せられてたんじゃないか?」
誰も否定できなかった。
エルシアはさらに古い記録を調べている。
しばらくして、彼女の手が止まった。
「もう一つあります」
「何?」
「未登録反応が検出された夜。帰還標は自動で認証を試みています」
四百年前の黒い板。
俺たち十一人しか登録されていなかった簡単な魔道具。
帰ってきた人間の魔力を読み、登録者なら家の方向を示す。
あくまで子供たちが迷わないために作った程度のものだ。
それでも最低限の記録機能はあった。
《外部反応検出》
《登録情報照合》
《該当なし》
そこまでは先ほど見た。
だが、さらに破損領域を復元すると、その後にも処理が続いていた。
《外部対象より認証要求》
《要求された帰還者名――》
そこで文字が乱れている。
エルシアが慎重に補正する。
一文字ずつ復元された。
俺は途中で何が出るのか分かってしまった。
《アレン》
次の行。
《クロフォード》
地下施設が完全に静かになった。
トーマが俺を見る。
「お前、その時……」
「家の中で寝てたみたいだねー」
「だよな」
セレスの日記にも残っている。
十人全員がいた。
俺もいた。
なのに家の外では、何かが俺の名前を使って帰還認証を求めていた。
ラグナが腕を組む。
「偽物だったということか」
「たぶんね」
「なぜ首領を名乗った?」
それは分からない。
俺に化けて家へ入りたかったのか。
偶然俺の名前を知っていたのか。
それとも。
もっと別の理由があるのか。
「認証は?」
カレンが尋ねた。
エルシアが次の記録を表示する。
《魔力波形不一致》
《認証拒否》
俺は少し安心した。
「ちゃんと動いてたんだ」
四百年前の俺が適当に作った道具にしては偉い。
しかし記録には続きがあった。
《認証拒否後、外部対象より再要求》
《帰還理由を受信》
帰還理由。
そんな入力欄を作った記憶はない。
どうやら相手側が一方的に送り込んだ情報らしい。
文字列はかなり壊れていたが、一部だけ復元できた。
エルシアが読み上げる。
「《家へ戻りたい》」
そこまでは普通だ。
次の行。
「《ここは私の家だった》」
俺は眉を寄せた。
《最初の家》を作ったのは俺たちだ。
廃屋を直したわけではない。
最初は本当に何もない場所だった。
木を切り、石を積み、十人と一緒に少しずつ建てた。
それ以前に住人はいない。
「まだあります」
エルシアが最後の破損箇所を復元する。
《帰還者名――アレン・クロフォード》
《帰還理由――家へ戻りたい》
そして最後。
《備考――》
文字が現れた。
《先に住んでいたのは、私だ》
誰もすぐには言葉を出せなかった。
俺は地下施設の天井を見上げる。
四百年前。
俺たちは誰もいないと思っていた森へ家を建てた。
そこで暮らし。
秘密基地に名前をつけ。
《ノクス・アウローラ》を作った。
けれどもし。
俺たちが最初ではなかったのだとしたら。
この土地には、俺たちが来るより前から。
何かが「帰ってくる場所」があったことになる。
そしてそれは四百年前の夜。
俺の名前を名乗って。
俺たちの家の扉を開けさせようとしていた。
俺は少し考えてから、セレスを見る。
「今日は本当に帰ろうか」
セレスが驚いたあと、すぐに笑った。
「はい」
「全部持ち帰って調べよう。ここで続きをやる必要ないよね」
「ありません」
エルシアも同意する。
黒い板は専用の封印箱へ入れる。
記録は複製し、原本には触れない。
施設そのものも警備を置き、こちらから《帰還案件・零号》へ接続しない。
一人で残る者も作らない。
準備が整い、俺たちは最終保管庫を出た。
最後に扉が閉じる直前。
古い帰還記録装置が一度だけ光った。
通信は切ってある。
誰も操作していない。
それでも短い文字が表示された。
《帰還者認証》
エルシアが振り返る。
「誰も接続していません!」
表示が更新される。
《外部帰還要求》
《要求者名――アレン・クロフォード》
俺はここにいる。
セレスたちもそれを確認するように俺を見る。
次の瞬間。
地下施設の奥。
俺たちが今まで一度も調べていない壁の向こう側から。
コン。
と。
誰かが扉を叩く音がした。
続けて、もう二回。
コン。
コン。
そして今度は魔力記録ではなく。
本当に耳で聞こえる声がした。
俺とまったく同じ声で。
「ただいまー」




