第55話 四百年前の冗談で作った災厄について聞いたら、『あなたは作ったんじゃない。名前をつけただけ』と言われた
《あなたが昔、冗談で作った怪物は》
《わたしのところにいる》
最後の文字が表示されたあとも、黒い板は淡い光を放ち続けていた。
三百九十七年間、帰還要求を送り続けていた相手。
その相手が帰れなかった理由は、単に道が失われたからではない。
俺たちが扉を開けば、《黎明喰らい》までこちらへ帰ってくる。
「……なるほどねー」
俺が呟くと、すぐ横からトーマが顔を覗き込んできた。
「その反応で済ませていい話なのか?」
「済ませてはないよ。とりあえず、開けない」
俺は黒い板から一歩離れた。
エルシアを見る。
「通信だけ維持できる?」
「できます。ただし、先ほどより災厄干渉値が上昇しています。こちらから長文を送るのは避けたほうがよいでしょう」
「じゃあ短くしよう」
昔の俺なら、たぶんもう少し踏み込んでいた。
向こう側に人がいる。
助けを求めている。
それだけ分かれば、危険があっても自分で何とかしようとしたと思う。
けれど今ここには、俺より術式に詳しいエルシアがいて、記録を読み解けるセレスがいて、危険管理ならカレンのほうがよほど向いている。
だったら任せればいい。
俺が全部やる必要はない。
「エルシアは通信路だけ見てて。危なくなったら俺に確認しないで切っていいよ」
「承知しました」
「カレンは施設全体の退路確認。何か連動して閉じる可能性もあるから」
「すでに調査隊へ指示を出します」
「セレスは《帰還案件・零号》と地下施設の設立記録をお願い」
セレスは一瞬だけ俺を見つめ、それから柔らかく笑った。
「はい。任せてください」
ラグナが期待に満ちた顔で一歩前へ出る。
「我は?」
「扉を開けない」
「先ほどと同じではないか!」
「重要だからねー」
「首領よ。我への扱いだけ雑になっておらぬか?」
シズクが静かに首を横へ振った。
「適材適所」
「シズクまで!?」
緊張していた調査隊から、小さな笑いが漏れた。
状況そのものはまったく笑えないけれど、全員が固まったままになるよりはいい。
エルシアが送信術式を整える。
「送信できます。何と?」
俺は考えてから、短く答えた。
「《分かった。開けない。あなたは誰?》」
送信。
今度はそれほど待たなかった。
黒い板の針が震え、文字が現れる。
《よかった》
続けて二通目。
《昔より、人の話を聞くようになったね》
俺の後ろで十人が一斉に反応した。
「……知り合い?」
ミコトが黒い板を見る。
俺にも分からない。
「誰だろう?」
「首領よ。四百年前に助けた者を一人二人忘れておるのではあるまいな?」
「人数が多かったから、絶対ないとは言えないけど……」
セレスがじっと俺を見た。
少し怖い。
「でも、こんな状況になった人なら覚えてると思うよ」
「そこは自信を持ってください」
カレンに言われながら、もう一度通信を送る。
《会ったことある?》
返事はすぐに来た。
《ないよ》
全員が少しだけ肩の力を抜いた。
しかし次の文章で、また空気が変わる。
《わたしが最初の家へ来た時には、あなたたちはもういなかった》
続けて、
《十二歳だった》
《雨の日だった》
《空っぽの家に、壊れかけた帰還標だけ残ってた》
俺は手元の黒い板を見る。
どうやら、これのことらしい。
《それを直したのが、わたしの最初の仕事》
《帰れない人を帰す仕事を始めた》
セレスが息を止めた。
彼女はすぐに別の壁面記録を検索し始める。
「ありました」
古い帰還記録の最初期。
まだ地下施設が現在の規模になる前の記録だ。
《帰還所管理者――リーネ・ハルヴァ》
《初任時年齢――十二》
《最初の家、臨時管理を開始》
《迷子二名を保護》
《北方街道遭難者一名を帰還》
《以後、本人の希望により施設管理を継続》
その後、記録数は急速に増えていく。
迷子。
遭難者。
戦争で故郷から離れた者。
遠征から戻ってきた者。
奴隷商から逃げてきた者。
家そのものを失い、それでも一度ここへ戻ってきた者。
最初は一人の十二歳の少女が、空き家で待っていただけだった。
それが十年後には小さな帰還所になり、数十年後には各地に連絡拠点が作られ、その思想が後の《アウローラ帰還標》へつながっている。
トーマが記録を読みながら、俺の黒い板を指差した。
「つまりお前、これもまた置き忘れたせいで世界規模になったのか?」
「言い方が悪くない?」
「違うのか?」
「……置いていったのは確かだけど」
ラグナが豪快に笑った。
「首領の忘れ物は国宝より危険であるな!」
「褒めてないよね、それ」
セレスは笑っていなかった。
彼女は古い記録をさらに読み進めている。
やがて、地下施設の建設記録へ辿り着いた。
「この施設を最初に造った人物も、リーネです」
「一人で?」
「いいえ。帰還所を利用した人たちが手伝っています。建設開始は三百九十八年前。最初は地下倉庫程度だったようですが、その後増築されています」
これで、未回収だった謎の一つが少し解けた。
俺たちが知らない地下施設を造ったのは、俺たちが去った後、この家へ辿り着いた人々だった。
「じゃあ俺たち十一人の魔力波形は?」
エルシアが黒い板へ視線を落とした。
「おそらく、これです」
彼女が箱から取り出した帰還標には、十一個の小さな窪みがある。
俺と十人が使っていた頃、それぞれが自分の魔力を一度登録していた。
家の位置を示す固定点と、使用者を識別するための簡単な仕組みだった。
エルシアが内部術式を調べると、確かに十一人分の古い魔力波形が残っている。
「この残留情報から認証鍵を作ったのでしょう。本人たちに直接登録してもらう必要はありません」
「なるほどねー」
それなら、俺たちが知らないうちに認証されていた理由も説明できる。
セレスが少し遠い目をしていた。
「私たちが捨てずに残した家と、アレンが置いていった帰還標を、後から来た人たちが使った……」
「使えるなら使ってくれたほうがいいよ」
そう言った瞬間、トーマが俺を見た。
セレスも見る。
カレンも。
ミコトまで。
「何?」
「四百年前から変わらないなと思ってな」
トーマに言われ、俺は首を傾げた。
その時、通信がまた届いた。
《ほら》
《やっぱり言った》
俺は黒い板を見る。
「聞こえてるの?」
《少しだけ》
《今も、使えるなら使えばいいって言ったでしょ》
トーマが吹き出した。
ラグナは壁を叩きながら笑っている。
セレスだけは、何かを思い出したような顔になった。
「待ってください」
彼女は自分の携行端末を開き、四百年前の日記の複製記録を検索する。
やがて片手で顔を覆った。
「……十七回あります」
「何が?」
「アレンが何かを人へ譲った時に、『まだ使えるなら使えばいいよ』と発言した記録が」
トーマが俺を見る。
「十七回も同じこと言ってたのか?」
「便利な言葉だからねー」
通信が届く。
《だから分かった》
《セレス様の日記、すごく詳しかったから》
今度はセレスが固まった。
「……私の日記を?」
《地下保管庫に写本があるよ》
《アレンに褒められた回数まで全部》
セレスの顔が赤くなった。
「リーネ!」
三百九十七年越しに初めて名前を呼ばれた相手へ、会長とは思えない声を上げた。
黒い板に、
《ごめんなさい》
と表示される。
少し間を置いて、
《でも百四十三回は多いと思う》
「数えないでください!」
さすがに俺も笑ってしまった。
「そんなに褒めたっけ?」
「アレンは黙っていてください!」
「はい」
珍しく強く言われたので素直に従う。
地下施設を造った人物。
俺の性格を細かく予測した注意書きを残した人物。
その正体は、俺と直接会ったことすらない少女だった。
俺たちが去った後の《最初の家》へ来て、残された物と記録を読み、その続きを勝手に始めた。
別に命令されたわけでもない。
《ノクス・アウローラ》へ入れと言われたわけでもない。
ただ、帰れない人を帰すことを始めた。
それが何百年後には、世界中で使われる救難網になっている。
いかにも、この組織らしい増え方だった。
俺が少し笑っていると、エルシアが表情を引き締めた。
「アレン。通信が安定しているうちに、災厄について聞くべきです」
「そうだね」
俺は黒い板へ向き直る。
《黎明喰らいは何?》
少し長い沈黙があった。
今までとは違う。
向こう側で、返事を考えているように感じた。
やがて文字が出る。
《分からない》
《生き物なのかも分からない》
《でも》
《あなたが決めた設定と、ほとんど同じ》
トーマが顔をしかめる。
「そこなんだよ。どうして冗談で考えた内容と、本物の性質が一致する?」
俺もそれが気になっていた。
当時の俺は、本当に適当に考えただけのつもりだった。
《夜を終わらせない》
《帰り道を追ってくる》
《本体は別の場所にいる》
《誰かが帰ろうとすると現れる》
子供たちと遊ぶために考えた設定。
それが、ほぼそのまま現実に存在している。
俺は通信する。
《俺が考えたから生まれた?》
返事はすぐに来なかった。
黒い板の針が、ゆっくり左右へ揺れる。
そして。
《違う》
続けて、
《わたしも最初はそう思った》
《でも違った》
エルシアが画面へ身を寄せる。
《最初の帰還標を直した時》
《すごく古い記録が残ってた》
俺が作った黒い板の内部記録。
俺自身も存在を忘れていたような簡易ログ。
リーネはそれを三百九十七年前に解析していたらしい。
《アレンが黎明喰らいって名前を考えた日より》
《三日前の記録》
嫌な感じがした。
《知らない魔力反応が一つある》
エルシアがすぐに黒い板を調べ始める。
保存領域のさらに深い場所。
通常なら読み出さない、故障記録に近い領域だった。
四百年以上前の記録なので大半は壊れている。
それでも一つだけ。
日付。
夜間。
《登録者十一名》
その下に、
《未登録反応 一》
と残っていた。
「十二人目……?」
トーマが呟く。
「違います」
エルシアの声は硬かった。
「人間の魔力波形ではありません」
さらに記録を復元する。
未登録反応が検出された場所。
《固定点周辺》
つまり。
《最初の家》。
俺たち十一人が眠っていた、その家のすぐそば。
しかも、俺が《黎明喰らい》という架空の怪物を考える三日前。
通信が再び届いた。
《だから》
《アレン》
初めて名前を直接呼ばれた。
《あなたが作ったんじゃない》
俺は何も言えなかった。
次の一文が表示される。
《あなたは》
《名前をつけただけ》
地下施設に警報音が鳴った。
《災厄干渉値上昇》
エルシアが即座に通信遮断の準備へ入る。
「アレン、切ります!」
「うん。お願い」
昔なら、もう一つ質問しようとしたかもしれない。
今はしない。
リーネは三百九十七年間待った。
ここで焦って全部を知ろうとする必要はない。
「最後に一通だけ、安全確認できる?」
エルシアが一瞬術式を確認する。
「短文なら」
俺は頷いた。
《今日はここまで。また話そう》
送信。
少しして返事が届く。
《うん》
そして、
《待てるよ》
《もう三百九十七年待ったから》
それを最後に、エルシアが通信を遮断した。
黒い板の光がゆっくり消えていく。
帰還要求そのものは残っている。
けれど扉は開かない。
俺たちも今日は帰る。
それでいい。
ただ。
最後にエルシアが復元した四百年前の故障記録には、もう一つだけ情報が残っていた。
未登録反応が現れた時刻。
そして、その直後に記録された短い音声。
雑音だらけで、ほとんど聞き取れない。
エルシアが何度も補正し、どうにか言葉へ直した。
四百年前。
まだ《黎明喰らい》なんて名前すら存在しなかった夜。
《最初の家》の外から。
誰かが、こう言っていた。
『――ただいま』
その声を聞いた瞬間。
俺は理由も分からないまま、自分がその声を知っているような気がした。




