第54話 三百九十七年間帰還要求を送り続けた相手へ『家は残ってる』と返したら、『扉を開けるな』と返事が来た
《帰還案件――零号》
壁面に浮かんだその文字を見たまま、しばらく誰も動かなかった。
三百九十七年前から続いている帰還要求。
発信者は不明。
場所も通常の座標として取得できず、記録には《災厄干渉を確認》という警告まで残されている。
さすがに、すぐに「じゃあ行ってみようか」と言える内容ではなかった。
俺が表示へ近づこうとすると、横からカレンの手が伸びてきた。
止められたわけではない。
ただ、俺より先に記録端末との距離を測り、安全圏を確認したらしい。
昔だったら「触らないでください」と言われていた気がする。
「直接操作しても問題なさそうです。ただし、帰還経路を開く操作だけは避けたほうがよいでしょう」
「うん。じゃあエルシアに任せるよー」
俺があっさり離れると、カレンが一瞬だけ目を丸くした。
シズクもこちらを見る。
「……素直」
「最近ちゃんと覚えてるからね」
「偉い」
褒められるほどのことなのだろうか。
そのやり取りを聞いていたトーマが、何とも言えない顔をした。
「世界最大の秘密結社の創設者が、危険物を専門家に任せただけで褒められてる状況がおかしいだろ」
「昔の首領を知れば、その評価も変わるぞ」
ラグナが腕を組んで断言した。
「危険と分かれば、まず自分で触る。危険かどうか分からなければ、とりあえず自分で触る。誰かが止めれば、皆が寝静まってから一人で触る」
「そんなにひどかった?」
十人から同時に見られた。
どうやらひどかったらしい。
「……今はしないよ」
「ならばよい」
セレスが微笑んだ。
以前なら、その笑顔の奥には「本当に?」という不安が残っていただろう。
今は違う。
俺が任せると言えば、本当に任せると思ってくれている。
その違いが何となく嬉しかった。
エルシアはすでに《帰還案件・零号》の解析を始めていた。
壁に浮かぶ術式を一つずつ分離し、保存記録と現在進行中の信号を切り分けていく。
しばらくすると、三百九十七年間の記録が年代順に並んだ。
「奇妙ですね」
「何が?」
「帰還要求そのものは継続していますが、常に同じ強度で発信されているわけではありません。周期的に弱まり、再び強くなっています」
エルシアが指を動かすと、波形が表示された。
数十年単位で強弱を繰り返している。
しかし完全に途絶えた時期は一度もない。
「発信装置みたいな物が動き続けてるのかな?」
「可能性はあります。ただし、信号には微妙な揺らぎがあります。完全な自動送信とは考えにくいですね」
「つまり、誰かが今も送っている可能性がある?」
トーマの問いに、エルシアは即答しなかった。
「少なくとも、機械が同じ内容を繰り返しているだけとは断定できません」
三百九十七年。
普通の人間が生きられる時間ではない。
もちろん、この世界には俺のような長命種もいるし、寿命そのものを変える技術や魔術も存在する。
だから不可能ではない。
ただ、帰還要求を送り続けながら四百年近く待つ状況が普通でないことだけは確かだった。
エルシアがさらに記録を開いていく。
《案件登録:三百九十七年前》
《分類:帰還不能》
《対象者数:一》
《氏名:記録不能》
《所属:記録不能》
《肉体状態:確認不能》
《帰還先指定――最初の家》
セレスが息を呑んだ。
俺も、最後の一行をもう一度見た。
帰還先が《ノクス・アウローラ》でも、《アウローラ》でもない。
《最初の家》。
俺たちがまだ何者でもなかった頃に暮らした、あの家だ。
「この記録が作られた時には、俺たちもうここを離れてたよね?」
「はい」
セレスが答える。
「正確な年数を照合する必要はありますが、三百九十七年前なら、私たちはすでに別の拠点へ移っています。《最初の家》は補給所としてしばらく維持された後、正式には閉鎖されています」
だったら、帰還先としてここを指定したのは誰なのか。
俺たちを知っている者。
あるいは、俺たちがいた頃からこの場所を知っていた者。
「もっと古い情報は?」
「確認します」
エルシアが記録を遡る。
すると、案件の最初に一つだけ付記が残されていた。
《既存分類に該当せず》
《創設者制定・想定災厄規定を暫定適用》
俺は少し嫌な予感がした。
続きが表示される。
《干渉災厄仮称――黎明喰らい》
「あ」
思わず声が出た。
セレスたちもほぼ同時に反応した。
ラグナは額へ手を当て、ミコトは珍しく目を少し大きくする。
トーマだけが状況についていけていない。
「……知ってるのか?」
「知ってるというか」
どう説明したものだろう。
俺が考えていると、セレスが代わりに答えてくれた。
「四百年前、《ノクス・アウローラ》を作ったばかりの頃の話です」
それはまだ、本当にただの秘密基地だった頃。
助けた子供たちが増え、皆で拠点の名前を決めた。
秘密結社らしい名前まで付けたところで、ラグナが言ったのだ。
秘密結社なら敵が必要だ、と。
世界を救うなら世界を滅ぼそうとする悪者も必要だ、と。
「それで首領が適当に考えたのである」
ラグナが遠い目をした。
「適当って言わなくてもいいでしょ」
「適当であったではないか」
否定できない。
トーマが嫌そうな顔になった。
「待て。まさか、その《黎明喰らい》って……」
「昔、俺が考えた架空の災厄」
「やっぱりかよ!」
地下施設にトーマの声が響いた。
北方歴史学院の教授たちが一斉にこちらを向いた。
トーマはそんな視線を気にせず、俺を指差している。
「世界規模の秘密結社を冗談で作っただけじゃ足りなくて、世界を滅ぼす災厄まで冗談で設定してたのか!?」
「秘密結社って、そういう敵がいたほうがそれっぽいかなって」
「その『それっぽい』で歴史を増やすな!」
俺だって本物になるとは思わなかった。
当時の設定は簡単なものだった。
夜を終わらせず、朝を奪う災厄。
だから《黎明喰らい》。
《ノクス・アウローラ》が「夜から朝へ」という意味合いを持つ名前だったので、反対の存在を作っただけだ。
世界各地に眷属がいるとか。
どこにでも現れるとか。
倒しても本体は別の場所にいるとか。
子供たちと遊ぶために、それらしい設定を足していった覚えがある。
……思い返すと、かなり余計なことを言っていた気がする。
カレンが静かに尋ねた。
「アレン。その災厄について、ほかに何か覚えていますか?」
「うーん」
昔の記憶を探る。
「確か……帰り道を使って追いかけてくる、とか言ったような」
エルシアの手が止まった。
「何?」
「もう一度お願いします」
「帰り道を使って追いかけてくる?」
部屋が静まり返った。
嫌な沈黙だった。
エルシアが《帰還案件・零号》に残された警告を開く。
先ほど表示された、
《救助隊を単独で派遣してはならない》
《災厄干渉を確認》
という二行。
その下には、さらに閲覧制限された記録があった。
創設者認証によって制限が解除されたらしい。
新しい文章が現れる。
《対象者は救助可能性あり》
《ただし帰還路形成時、第三存在による追跡干渉を確認》
《経路接続を中断》
《以後、双方向門の形成を禁ずる》
トーマがゆっくり俺を見る。
「お前が昔言ってた設定そのままじゃないか」
「……そうだねー」
今回はさすがに笑えなかった。
俺が冗談で考えた災厄。
それと同じ性質を持つ何かが、三百九十七年前に実際に確認されている。
しかも誰か一人が、その向こう側に取り残された。
「でも、少なくとも救助可能性ありって書いてある」
俺は表示の別の部分を見る。
「門を開かなければ、通信だけならできるのかな?」
エルシアが頷く。
「おそらく。帰還要求が今もこちらへ届いている以上、一方向通信路は維持されています」
「返事は?」
「……記録があります」
過去の応答履歴が開く。
初期には何度も返信が試みられていた。
《こちらは最初の家》
《信号を確認した》
《現在地を知らせよ》
《帰還経路を探索している》
しかし、相手側から意味のある文章が返ってきた記録はない。
ノイズ。
断片。
読めない文字列。
それだけだった。
最後に返信が試みられたのは、二百六十一年前。
そこから先は、
《災厄による追跡危険性を考慮し、能動応答停止》
となっている。
「つまり百年以上、向こうから送らせるだけだったのか」
トーマの声が少し沈んだ。
責めているわけではない。
当時の人間も、そうするしかなかったのだろう。
返事をした結果、災厄がこちらへ辿ってくる可能性がある。
一人を助けるために、多くの人間を危険へ巻き込むことはできない。
合理的な判断だ。
それでも。
三百九十七年。
帰りたいという信号を送り続けて。
返事すら来なくなって。
それでも止めなかった。
「安全な返事だけ送れる?」
俺が尋ねると、セレスたちの表情が少し硬くなった。
ただ、誰も「やめてください」とは言わない。
エルシアはしばらく術式を調べた。
「位置情報、魔力経路、帰還門形成情報を一切含めず、既存の一方向路を使うのであれば、理論上は可能です。こちらから新しい経路を作るわけではありません」
「危険性は?」
「ゼロとは言えません」
「じゃあ俺だけで決めないほうがいいね」
俺がそう言うと、十人が少し驚いた顔をした。
またか。
そんなに昔の俺は信用がなかったのだろうか。
「調査隊としてどう思う?」
北方歴史学院側にも聞いた。
教授たちは突然判断を求められて戸惑ったものの、最終的には「送信内容を限定し、エルシアが安全を確認できる範囲なら賛成」と答えた。
セレスも頷く。
「私も同意します。ただし、帰還路は絶対に開かない。それが条件です」
「うん」
「本当に開きませんね?」
「開かないよー」
ラグナが横から言う。
「我も監視しよう」
「ラグナに監視されるの、ちょっと納得いかないな」
「何を言う。我はこう見えて慎重であるぞ」
カレンが無言でラグナを見る。
「……時と場合による」
本人も少しだけ条件を付け足した。
エルシアが返信術式を組む。
送れる文字数は非常に少ない。
余計な術式情報を含ませないため、短い文章しか送れないらしい。
「何と送りますか?」
俺は少し考えた。
生存確認。
名前。
現在地。
聞きたいことはいくらでもある。
でも、四百年近く帰ろうとしている相手が、一番知りたいことは何だろう。
俺なら。
帰る場所がなくなっていないか。
それが一番怖い気がした。
だから送信文は短くした。
《家は、まだあるよ》
エルシアが俺を見る。
セレスは何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ笑った。
「送ります」
淡い光が黒い板へ流れ込む。
中央の針が震えた。
一度だけ、大きく。
それから何も起きない。
十秒。
二十秒。
一分。
「さすがにすぐ返事は来ないか」
トーマが言った。
向こうとの距離すら分からない。
数日後かもしれない。
数年後かもしれない。
そもそも返信できる存在が残っているとも限らない。
今日は施設を封鎖し、解析結果を持ち帰るべきだろう。
そう考えた時だった。
黒い板の針が突然跳ねた。
《外部通信受信》
全員が動きを止める。
エルシアが表示を確認した。
「……応答です」
「早いね」
「早すぎます」
彼女の声に緊張が混じる。
三百九十七年間まともな文章を返してこなかった相手が、こちらから一度送っただけで返事をした。
受信内容の解析が始まる。
文字化けした記号が少しずつ消えていき、最初の一文が現れた。
《ほんとうに?》
ひらがなだった。
それだけで、妙に幼く見えた。
次の文章。
《まだ、帰っていい?》
誰もすぐには話せなかった。
セレスが胸元の《また帰る》の首飾りを握っている。
俺は返事を考えた。
けれど、その前に三通目が届いた。
《でも》
表示が一度乱れる。
ノイズが走る。
そして。
《扉を開けないで》
エルシアの顔色が変わった。
続けて受信。
《わたしを帰そうとしないで》
さらに一通。
《あれも帰ってくる》
黒い板の針が激しく震え始める。
警報術式が作動した。
《災厄干渉値上昇》
《帰還案件・零号より緊急通信》
最後の文章が、ゆっくり表示される。
《首領が帰ってきたなら、伝えて》
そこで一度途切れた。
俺は息を止める。
数秒後。
残りの文字が現れた。
《あなたが昔、冗談で作った怪物は》
《わたしのところにいる》
誰も声を出さなかった。
四百年前。
俺が子供たちを怖がらせない程度の悪役として適当に考えた、架空の世界滅亡災厄。
《黎明喰らい》。
どうやら。
本物になっただけではなかったらしい。
三百九十七年前からずっと、誰か一人がそいつを向こう側へ閉じ込めていた。




