第49話 四百年前の手帳を開いたら、秘密結社を作った理由より『アレンに褒められた回数』の方が詳しく記録されていた
学院長室の中央に置かれた古い手帳を前にして、しばらく誰も動かなかった。
革張りの表紙はところどころ擦れ、留め具も錆びている。それでも四百年近い歳月を経た品とは思えないほど状態がよく、ページを開けば、色褪せた紙の上に細かな文字がびっしりと残っていた。
そして、その一ページ目に書かれていたのが。
――今日もアレンが勝手に三日寝なかった。
だった。
「……もっと歴史的に重要なことから始まると思ってたんだけど」
俺がそう言うと、セレスは手帳を抱えるように持ったまま、少しだけ眉を寄せた。
「私にとっては十分重要なことでした。当時のアレンは、止めても聞かずに働き続けましたから」
「でも三日くらいなら――」
「今、その続きを仰ると四百年分まとめて叱りますよ?」
「やめときますー」
学院長や歴史学院の教師は、俺たちのやり取りをどう受け取ればいいのか分からないらしく、完全に黙っている。
ユリウスだけは違った。
さっきから手帳とセレスと俺を順番に見つめながら、研究者としての興奮を必死に抑えている。
「セレス会長。確認してもよろしいでしょうか。この手帳が、約四百年前にご本人が書かれたものだという認識で間違いありませんか?」
「はい。筆跡も内容も覚えがあります。ただし、すべてを研究資料として公開するつもりはありません」
ユリウスの目が一瞬だけ寂しそうになったものの、すぐに真剣な顔へ戻った。
「当然だと思います。個人の日記であれば、歴史資料である以前に私的記録です。公開可能な部分だけでも確認させていただければ十分です」
「ありがとうございます」
セレスが少し安心したように頷く。
四百年前の品だからといって、何でも公開していいわけではない。
そういうところまでユリウスはきちんと考えているらしい。
「じゃあ、《ノクス・アウローラ》を作った日のところだけ探す?」
俺が提案すると、セレスは手帳の厚みを確かめながら、少し困ったように笑った。
「すぐ見つかると思います。ただ……アレン」
「何?」
「先に一つだけ約束してください」
「いいよー」
「何が書かれていても、笑わないでください」
「そんな変なこと書いたの?」
「約束してください」
妙に真剣だった。
「分かった。笑わないよー」
その返事を確認してから、セレスは慎重にページをめくり始めた。
◇
問題は、《ノクス・アウローラ》誕生の日を探すより先に、別の記録が次々と目に入ってくることだった。
――朝、アレンが髪を結んでくれた。昨日より上手だった。
――昼、私の作ったスープをおいしいと言ってくれた。塩を入れすぎたと思ったけれど、おかわりもしてくれた。
――ラグナがまた木剣を折った。アレンに怒られていた。
――今日はアレンに二回褒められた。
――昨日は三回だったので一回少ない。
「……」
俺は黙っていた。
約束したから。
横ではラグナが何とも言えない顔をしている。
「セレス」
「何でしょう」
「お前、何を書いておるのだ」
「日記です」
「我の木剣まで記録する必要があるか?」
「三日で七本壊したのですから、十分記録事項でしょう」
「昔の話ではないか!」
「四百年前でも実績は実績です」
どこかで聞いた台詞だった。
カレンは口元を押さえて笑い、ヴィオラも扇で顔の下半分を隠している。
セレスは少し頬を赤くしながら、さらにページをめくった。
ところが。
次。
――本日のアレンからの評価。
料理 二回。
訓練 一回。
片付け 一回。
髪 一回。
合計五回。
「集計してる……」
思わず口から出た。
セレスがこちらを見る。
「笑ってはいません」
「声が少し笑っています」
「笑ってないよー」
「では、その口元を戻してください」
難しい。
ユリウスはもっと大変そうだった。
歴史的価値のある一次資料を前にしているのに、書かれている内容の大部分が「アレンに褒められた回数」なのだ。
「この……評価回数というのは、当時の組織運営に関する指標でしょうか?」
「違います」
セレスは即答した。
「完全に私個人の記録です」
「承知しました。では研究対象外とします」
「お願いします」
ユリウスがものすごい速さで筆記欄に線を引いた。
◇
さらに数十ページ進んだところで、雰囲気の違う記述が現れた。
日付はおよそ四百年前。
当時の俺たちが、北方の森に小さな拠点を作った頃だった。
セレスの指が止まる。
「ここです」
ページの上には少し大きな文字で。
――今日、私たちの集まりに名前がついた。
と書かれていた。
俺も椅子を近づける。
昔のことを全部覚えているわけではない。
でも。
その日の景色だけは、少しずつ戻ってきた。
雨の多い季節。
森の中。
古い小屋。
机代わりにした木箱。
まだ今よりずっと幼かったセレスたち。
『せっかく秘密基地を作ったんだから、名前も欲しいですね』
たしか。
誰かがそんなことを言った。
「……懐かしいなー」
俺が呟くと、セレスも小さく頷いた。
日記には、その日の会話がかなり詳しく残されていた。
――ラグナが《黒龍騎士団》を提案。全員反対。
「なぜだ!」
現在のラグナが声を上げた。
「格好よいではないか!」
「四百年前から趣味変わってないねー」
「アレンまで何を言う!」
続き。
――ヴィオラが《宵闇の薔薇》を提案。アレンが「お菓子屋さんみたい」と言ったため却下。
「……覚えているわ」
ヴィオラが遠い目をした。
「かなり気に入っていたのよ、あれ」
「ごめんねー」
「四百年越しに謝られても困るわ」
さらに。
――ミコト案は長すぎて覚えられなかった。
「何て名前?」
「覚えてない」
ミコト自身が答えた。
「本人も?」
「長かったことだけ覚えてる」
教室――ではなく学院長室なのに、だんだん歴史資料を読む雰囲気ではなくなってきた。
しかし。
その次。
――アレンが「夜に作った箱舟みたいなものだから、《ノクス・アウローラ》でいいんじゃない?」と言った。
そこで。
全員の視線が。
俺へ向いた。
「俺が決めたんだっけ?」
「ほとんど」
セレスが答えた。
「正確には、アレンが適当に候補を出して、私たちが全員賛成しました」
「あー」
「そのあと私が『では今日から秘密結社ですね』と言いました」
「それは覚えてる」
日記にも続きがあった。
――秘密結社という言葉を使ったら、アレンが笑った。
――「じゃあ世界征服でもする?」
――ラグナだけ本気で賛成した。
「待て!」
ラグナの声が部屋に響いた。
「そこまで書く必要があるか!」
「事実です」
「子供の頃だぞ!」
「私たち全員子供でした」
「アレンは違うではないか!」
「俺はまあ……」
その頃も。
それなりに生きていた。
「何歳だった?」
学院長が恐る恐る尋ねる。
「覚えてないけど、少なくとも百歳は超えてたかなー」
「百歳を超えた長命種が、子供たちと秘密基地を作り、世界征服を冗談にするな」
「楽しかったですよー」
「そこは否定していない!」
学院長まで、最近トーマに似てきた気がする。
◇
ユリウスだけは。
途中から笑いを堪えながらも。
必要なところを。
慎重に。
書き留めていた。
「つまり、《ノクス・アウローラ》は最初から国家転覆や世界支配を目的とした秘密組織ではなく、身内の集まりに遊び半分で付けた名称だった、ということですね」
「そうだよー」
「そして、活動目的も最初から明確に決められていたわけではない?」
「なかったと思う」
俺がセレスを見ると、彼女も頷いた。
「最初は拠点で暮らしながら、近くで困っている方がいれば助ける程度でした。人数が増え、活動範囲が広がったのはもっと後です」
「では、後世の文献にある《世界を影より導くことを目的に創設された》という説は……」
「何それ?」
「有力説の一つです」
「格好いいねー」
「違うのですか?」
「違うよ」
ユリウスが。
静かに。
目を閉じた。
「私の卒業論文の第一章が消えました」
「ごめんねー」
「いえ」
目を開けた彼は。
なぜか。
少し笑っていた。
「むしろ最高です」
「そうなの?」
「はい。《後世に神格化された組織と、実際の創設理由との乖離》として書き直せます。研究者としては、こちらの方がずっと面白いです」
強かった。
やっぱり。
研究者。
◇
ところが、《ノクス・アウローラ》誕生の記録には続きがあった。
名前を決めた夜。
秘密結社と言って笑った。
それだけなら。
ただの思い出で終わる。
でも。
日記の最後。
セレスの文字が。
少しだけ。
丁寧になっていた。
――アレンが、冗談のあとに言った。
――「でも、帰ってこられる場所にはしようか」
セレスの指が止まった。
俺も。
その言葉を見て。
少し黙った。
「覚えていますか?」
「……うん」
思い出した。
あの頃。
セレスたちには。
帰る場所がなかった。
戦争。
魔物。
家族。
いろいろ。
理由は違ったけれど。
俺と出会うまで。
安心して。
戻れる場所がなかった。
「秘密基地だからねー」
俺は。
少し笑う。
「外で嫌なことあっても、ここ帰ってきたら大丈夫って場所にしようって言った気がする」
「はい」
セレスも。
昔の文字を見ながら。
笑った。
「それで」
日記。
続き。
――私は、この場所を絶対になくさないと決めた。
――アレンがどこかへ行っても。
――みんなが大人になっても。
――帰ってこられる場所にする。
部屋の空気が。
少しだけ。
静かになる。
セレスの胸元。
今も。
首飾り。
《また帰る》。
四百年前。
少女だった彼女が。
日記へ書いた言葉。
百五十二年前。
《アウローラ》創業文書。
――我らが帰る場所へ、再び朝が来ることを願い、《アウローラ》と名付ける。
全部。
つながった。
「セレス」
「はい?」
「本当に守ってたんだねー」
俺が言うと。
彼女は少し目を伏せた。
「……はい」
「四百年」
「はい」
「すごいね」
「……」
返事が。
ない。
見る。
泣いていた。
「セレス?」
「泣いていません」
「いや泣いてるよー」
「埃です」
「四百年前の?」
「そうです」
「強い埃だねー」
カレンが黙ってハンカチを渡した。
ヴィオラは扇を閉じ、ラグナまで何も言わない。
俺は。
どうしたらいいか。
少し考えて。
「ありがとう」
それだけ。
言った。
セレスは。
ハンカチで目元を押さえながら。
「はい」
小さく。
でも。
ちゃんと。
笑った。
◇
そこで。
静かにしていたユリウスが。
恐る恐る手を上げた。
「……研究者として、非常に申し上げにくいのですが」
「何?」
「今の部分は」
手帳。
セレス。
俺。
順番。
見る。
「《アウローラ》創業理念と《ノクス・アウローラ》の継承関係を示す、極めて重要な一次資料になる可能性があります」
「あー」
そうなるのか。
「ただし」
ユリウスはすぐ続けた。
「公開するかどうかを決める権利は、所有者であるセレス会長にあります。私は許可なく引用しません」
セレスはしばらく手帳を見つめていた。
そして。
「創設当日の部分だけ」
「はい」
「私的な記述を除き、複写を許可します」
ユリウスの目が。
一気に輝く。
「本当ですか!?」
「ただし、《アレンに褒められた回数》は絶対に削除してください」
「もちろんです!」
「料理評価も」
「削除します!」
「髪を結んでもらった回数も」
「研究対象外です!」
「ラグナが木剣を折った本数は残してよいです」
「なぜだ!」
部屋に。
久しぶりに。
笑い声が広がった。
◇
問題は。
そのあとだった。
ユリウスが。
複写対象のページを確認している途中で。
ふと。
手を止めた。
「セレス会長」
「何でしょう」
「この次のページ」
「はい?」
全員。
見る。
《ノクス・アウローラ》ができて。
三日後。
セレスの日記。
――今日、新しい子が一人増えた。
――アレンが道端で拾ってきた。
「……」
俺。
黙る。
セレス。
俺を見る。
「覚えていますか?」
「誰だろう」
次の行。
――名前はノエル。
全員。
ノエルを見る。
「私?」
現在。
《アウローラ》最高幹部。
ノエル。
本人。
首。
傾げる。
「私、道端で拾われたの?」
「あー」
何となく。
思い出した。
「雨の日だったかなー」
「アレン」
ノエル。
じっと。
こちら。
「私は」
「うん」
「道端に落ちてた?」
「落ちてたっていうか……」
困ってたから。
「拾った」
「……」
「たぶん」
ノエルは。
しばらく。
黙った。
そして。
少しだけ。
嬉しそうに。
笑った。
「なら」
「うん?」
「拾われてよかった」
「そう?」
「はい」
それで。
終わると思った。
でも。
ページ。
その下。
さらに。
文章。
――アレンが「これ以上増えたら秘密基地が狭いなー」と言った。
――なので明日から全員で増築する。
その翌日。
――二人増えた。
さらに。
一週間後。
――また増えた。
さらに。
――食料庫が足りない。
――寝床も足りない。
――アレンが「ちょっと大きい家にしようか」と言った。
さらに。
一ヶ月後。
――近くの村まで面倒を見ることになった。
さらに。
三ヶ月後。
――商人が十二人加入した。
半年後。
――人数が分からなくなった。
「……」
学院長が。
ゆっくり。
俺を見る。
「アレン君」
「はい?」
「君」
一度。
深く。
息。
「四百年前から」
「うん」
「まったく同じことをしているではないか」
「……」
「気づいたら人が増えていた、と」
「……」
「本当に書いてあるぞ!」
「俺のせいかなー」
「他に誰がいる!」
学院長の声が響いた。
その横。
ユリウス。
目。
ものすごく。
輝く。
「セレス会長」
「何でしょう」
「この部分も研究対象として――」
「駄目です」
「まだ最後まで言っていません!」
「アレンの再犯防止教材として学院へ提出します」
「何で!?」
俺の抗議。
誰も。
聞いてくれなかった。
◇
翌朝。
王立魔法学院。
俺たちの教室。
黒板の横。
学院長からの。
新しい掲示。
――アレン・クロフォード君へ。
――困っている人物を見つけても、その場で新組織を作らないこと。
その下。
追記。
――《四百年前にも同様の事例あり》。
「……」
教室。
静か。
三秒後。
爆笑。
「誰が貼ったのこれ!」
俺が叫ぶと、トーマは机へ突っ伏して肩を震わせていた。
「学院長だよ! 朝一番で先生が貼ってた!」
「剥がしていい?」
「歴史的根拠付きだから駄目だろ!」
「何で昔の日記が俺の生活指導に使われてるの!」
「四百年越しの証拠が出たからだよ!」
大陸学生交流会。
三日目。
四百年前の秘密結社の実在を証明するかもしれない。
歴史的大発見。
その最初の実用例は。
なぜか。
創設者本人への。
生活指導だった。




