第44話 紙一枚持ち帰っただけなのに、次は世界中から八百人がうちの学院へ来るらしい
アルヴェイン王国から戻った翌朝、王立魔法学院の食堂はいつもと変わらなかった。
窓から差し込む朝日も、焼きたてのパンの匂いも、眠そうな学生たちが席を取り合っている光景も、出発前と同じだ。数日しか離れていなかったのだから当然なのだけれど、他国の王宮で寝起きし、王女に案内され、国王に四百年以上生きていることまで知られたあとでは、この騒がしさが妙に落ち着く。
「やっぱりここがいいねー。朝から王宮の人に果物の皮まで剥かれないし、自分でパン切って食べられるのが落ち着く」
俺がパン切り用の小刀を手に取ると、向かいに座ったトーマは呆れたように肩を落とした。
「普通は王宮暮らしの方を惜しむんだよ。豪華な飯もあったし、何もしなくても全部用意してもらえただろ。それで自分でパンを切れることに安心してるお前は、やっぱりちょっとおかしい」
「でもトーマも、帰ってきてから顔が楽そうだよー」
「俺はお前の隣で毎日事件みたいなものを見せられて疲れてただけだ!」
そう言いながらも、トーマ自身、この食堂の雑然とした空気を嫌がっている様子はなかった。
俺もパンをちぎりながら、昨日持ち帰った荷物のことを考える。フェルナード王国でもらった小麦の種は、学院の栽培実習区画を借りられないか先生へ聞くつもりだし、各国でもらった研究資料も専門の先生へ渡したい。
それから、もう一つ。
「そういえば、大陸学生交流連絡会の登録票も先生に渡したし、今回の俺の仕事はあれで終わりだよね。組織も作ってないし、代表にもなってないし、本当に紙を一枚運んだだけだよー」
かなり完璧だった。
四百年前の俺なら、困っている人を見つけるたびに自分で間へ入り、人を集め、物を運び、気づけば《ノクス・アウローラ》みたいなものまで作っていたらしい。その反省を踏まえ、今回はちゃんと他の人たちへ任せた。
トーマはしばらく俺を見つめていたものの、やがて諦めたように息を吐いた。
「まあ、今回は俺もそこだけは認めるよ。お前自身は組織を作ってない。座談会で喋って、王族三人に他国へ招待されて、学生交流組織ができるきっかけを作っただけだ」
「最後のは俺が作ったんじゃないってば」
「そこだけ訂正すれば普通になると思うな」
それでも、以前よりはかなり普通になったと思う。
少なくとも今日は授業を受け、昼には小麦の相談をして、放課後は少し本屋へ寄る。久しぶりに予定らしい予定がない一日だった。
そう思っていたところへ、食堂の入口から担任教師が入ってきた。
教師は周囲を見渡して俺を見つけると、なぜか一度だけ天井を仰いだあと、まっすぐこちらへ歩いてくる。
「アレン・クロフォード君。朝食が終わったら学院長室へ来るように。何をしたのかと聞かれても、私自身どう答えるべきか分からんから、とにかく行ってこい」
「まだ何も聞いてないのに先に答えられたねー」
「お前の顔を見れば分かるんだよ」
教師が去っていくと、トーマは妙に納得した顔で頷いた。
「ほらな。お前の平和な一日は、朝飯の時点で終わった」
◇
朝食後、学院長室へ向かうと、呼ばれていないはずのトーマまで当然のように付いてきた。
「呼ばれたの俺だけだよ? 一人で行けるけど」
「分かってる。でも今回だけは、一人で行かせると気づかないうちに何か増えて帰ってきそうな気がするんだ。四百歳超えてる奴の保護者をやる気はないけど、監視役くらいならやる」
「監視されるようなこと何もしてないよー」
「その台詞を聞くたびに不安になるんだよ」
そんな話をしながら扉を叩くと、中から疲れた声で入室を許された。
学院長は机の向こうに座っており、その目の前には見覚えのある一枚の紙が置かれていた。
「昨日の登録票ですね。ちゃんと届いたんだ」
「ああ。実に無事に、何の損傷もなく、君の手から教師を経由して私のところまで届いた。私は昨日その報告を聞いたとき、少し感動すらしたのだぞ」
「紙運んだだけで?」
「君が他国から帰ってきて、組織も作らず、世界企業の経営方針も変えず、本当に紙を一枚持ち帰っただけだったからな。成長したと思った」
「俺もそう思いますー」
「私がそう思えたのは三分ほどだったがな」
「短いですね」
「四分目に、この備考欄を読んだからだ」
学院長は登録票を裏返し、机の中央へ滑らせた。
そこには、次回交流会開催候補地第一候補――王立魔法学院、と書かれている。
「昨日、八百人くらい来たがってるって聞きましたよー」
「それは昨日の数字だ」
学院長は別の書類を一枚取り出した。
八百四十七名。
さらに一枚。
九百十二名。
もう一枚。
九百六十八名。
「順調に増えてますねー」
「喜ぶな。今朝八時の時点で千人を超えた」
「人気なんですね」
「他人事の顔をするな!」
学院長が机を叩くと、隣でトーマが小さく「やっぱり」と呟いた。
学院長は額を押さえながら、参加希望者の内訳を説明し始める。
「各国の学生だけならまだいい。発起校七校に加え、参加希望校は二十六校まで増えた。教師、研究者、行政関係者まで視察を希望している。アルヴェインでの交流が予想以上に好評だったらしい」
「それなら、いいことじゃないですか」
「そこまでは私もそう思っている。問題は、なぜ本学院へ来たいのかという理由だ」
押し出された分厚い束を受け取り、上から順に目を通す。
王立魔法学院の魔法教育を見学したい。
共同研究先を探したい。
学生同士の交流制度を検討したい。
実戦魔法の授業を見たい。
学院都市の商業環境を視察したい。
そこまでは普通だった。
「問題なさそうですけど」
「もっと下まで読んでみろ」
言われたとおり読み進めると、途中から内容が少し変わる。
――アレン・クロフォード君が参加している通常授業の見学を希望。
――可能であれば、学生食堂における普段の交流風景を視察したい。
――学生代表挨拶を行った本人が、普段どのように学院生活を送っているのか興味がある。
――《アウローラ》最高幹部十名が頻繁に訪れる学院環境について確認したい。
「俺、観光名所みたいになってない?」
「ようやく気づいたか。アルヴェイン王国が君を普通の学生として扱おうと努力した結果、『世界最大企業の最高幹部に囲まれながら普通に暮らしている謎の学生』として各国から興味を持たれている。何だ、この逆転現象は」
「それを俺に聞かれても困るなー」
「私も困っている!」
どうやら普通にすればするほど、外から見ると普通ではなくなっているらしい。
◇
話はそれだけでは終わらなかった。
学院長は今度は《アウローラ》の紋章が入った封筒を机から取り出した。
「そして今朝、《アウローラ》教育支援部門から正式な支援提案も届いた。次回交流会が本学院で開催される場合、施設、輸送、宿泊、警備、医療、通信設備を無償で支援するそうだ」
「助かるんじゃないですか?」
「私も最初の一枚だけ読んだときはそう思った」
学院長は二枚目をめくり、そこへ書かれた数字を指で叩いた。
「最大対応可能人数、一万二千名」
「……多いねー」
「学院の全在籍者より多い!」
アルヴェインへ行ったときは三千二百人だった。今回は開催地が《アウローラ・グランド》から徒歩圏内にある王立魔法学院だから、さらに増やせるらしい。
「それで全部断ったんですか?」
「一万二千人案はな。必要最低限の人数を再提出するよう求めたところ、二千四百人になった」
「かなり減ったじゃん」
「八割削ってまだ二千四百人なのだ! 私は今朝から《アウローラ》と『最低限』という日本語――ではなく共通語の意味について交渉している!」
学院長の苦労が、少しだけ分かった。
横ではトーマが堪えきれず笑っている。
「笑い事ではないぞ、トーマ君」
「す、すみません。でも最大一万二千から必要最低限二千四百って、さすがに……」
「私も同じ反応をした」
◇
「それで、俺は何をすればいいんです?」
そろそろ本題だろうと思って尋ねると、学院長は急に真顔になった。
「何もしないでくれ」
思っていなかった答えだったので、俺もトーマも一瞬黙る。
「……俺、このお願いをされるためだけに呼ばれたんですか?」
「その通りだ。次回交流会については、学院、学生会、《大陸学生交流連絡会》の各代表が協議する。君は発起人でも代表でもないし、本人も役職を断ったと聞いている。ならば今回は、その立場を最後まで貫いてほしい」
そこまで説明されれば分かる。
「つまり、困ってる人を見ても俺が勝手に全部やらない。《アウローラ》に全部お願いもしない。普通に授業受けてればいい?」
「それが一番ありがたい。何か思いついても、まず担当者へ相談してくれ」
「任せてくださいー。何もしないの得意ですよ」
「君の過去を知る者が聞けば、全員首を横に振ると思うぞ」
トーマが、ものすごい勢いで頷いていた。
◇
学院長室を出ると、俺は久しぶりに肩の荷が下りたような気分になった。
「よかったねー。今回は本当に一般学生としていればいいんだって」
「学院長から直々に『余計なことをしないでくれ』って頼まれる一般学生は存在しないけどな。でもまあ、今回はそれで済むなら俺も安心だ」
「細かいこと気にしすぎだよー」
「お前が気にしなさすぎなんだ」
午前の授業が始まるまで、まだ少し時間がある。
教室へ戻ろうとしたところで、廊下の先に見慣れた十人が揃っているのが見えた。
セレス、ラグナ、ミコト、エルシア、ヴィオラ、カレン、リゼット、シズク、ノエル、クラリス。
「十人揃って何してるの?」
「本日は学院側との教育交流支援協議がありますので、その前に少しだけお顔を見に来ました。偶然、全員の時間が重なっただけです」
セレスは自然な笑顔でそう言った。
「一万二千人の件?」
十人の空気が、一瞬止まる。
「知っているのですか?」
「今、学院長から聞いたよー。最大一万二千人で、最低限に減らして二千四百人なんでしょ?」
セレスはわずかに視線を逸らしたが、隣のリゼットがすぐ補足した。
「一万二千名はあくまで最大対応可能人数です。書類上にも《必要に応じて最大》と記載しました。二千四百名については、各部門が必要と考えた最低人員を積み上げた結果です」
「そっちは本当に最低限なんだね……」
セレスたちから説明を聞くと、医療班、通信班、警備、宿泊支援、輸送担当など、それぞれに理由はあった。
ただ、一つ一つは必要に見えても、全部を《アウローラ》だけで担当する必要があるのかは別だ。
「今回は学院が主催するんでしょ? だったら、学院だけでできることまで《アウローラ》がやらなくてもいいんじゃないかな。宿泊場所が足りないならそこだけ相談するとか、医務室で足りるなら医療班を増やさないとか。学生の案内まで社員さんがやったら、交流会なのに学生同士で話せなくなるし」
俺がそう言うと、リゼットが反射的に手帳へ何かを書きかけた。
しかし途中で動きを止め、自分から筆を置いた。
「……これはアレンの命令ではなく、一意見として扱います」
「うん。その方がいいよー」
セレスも少し考えたあと、穏やかに頷いた。
「おっしゃる通りです。支援すること自体が目的になりかけていました。学院側と改めて必要範囲を協議します」
「みんな仕事できるから、できること全部やろうとしちゃうんだよー」
「返す言葉もありません」
カレンが隣で小さく笑う。
「以前なら、アレン様がそう仰った瞬間に全項目を撤回していたかもしれませんね。今の方が健全です」
「今も全部撤回してよいぞ」
ラグナが言い出したので、カレンは即座に首を振った。
「閣下、それでは必要な支援まで消えます。だから今から学院側と話し合うのです」
「普通に任せるというのは、なかなか面倒なのだな」
「ようやく分かっていただけましたか」
以前なら、俺の一言を命令として受け取り、世界規模の会社が一斉に動いていた。
今は違う。
俺は意見を言うだけ。
決めるのは担当者たち。
それでいい。
「じゃあ俺、授業行くねー。あとはみんなに任せるよ」
「はい。こちらは任せてください」
セレスが自然に答えたので、俺はそのまま歩き出した。
三歩ほど進んだところで、背後からもう一度呼ばれる。
「アレン」
「何?」
「……本当に、任せてくださるのですね」
振り返ると、セレスは会長らしい落ち着いた表情をしていたが、その奥にはどこか昔を懐かしむようなものがあった。
「だって仕事でしょ? みんなの方が詳しいんだから、俺が口出すより任せた方がいいよー」
「分かりました」
セレスはそれだけ答えた。
今度は誰も騒がず、俺たちを見送った。
少し歩いてから、トーマが横目でこちらを見る。
「今の、結構すごいこと言ってたぞ」
「任せるってだけ?」
「昔のお前を知ってる連中には、それが大きいんじゃないか。でもまあ、お前に説明しても分からなそうだからいい」
「最近みんなそれ言うねー」
◇
その日の昼休み、俺は予定どおり、フェルナード王国でもらった小麦の種を持って学院の栽培実習区画へ向かった。
担当教師に事情を説明すると、空いている一角を使っていいと言われたので、土を軽く掘り返す。
「本当に植えるんだな。昨日まで王族三人と外交みたいな話してた奴が、今日は土いじってるの、落差がすごいぞ」
なぜか付いてきたトーマが、しゃがみ込んだ俺の横で笑っている。
「もらった種なんだから育てるよー。こっちの方が学生っぽいでしょ?」
「農業科じゃないけどな。先生はこの土地でも育つだろうって言ってたけど、収穫まで何ヶ月もかかるぞ」
「待てるよー」
「四百歳に言われると説得力が違うんだよな……」
袋を開け、種をいくつか手のひらへ出した。
乾燥地でも育ちやすい品種で、アルヴェインで会ったフェルナードの学生は、三年前の旱魃の経験から改良したものだと言っていた。
一定の間隔を空けながら一粒ずつ土へ埋め、最後の種に土をかぶせたところで、実習区画の入口から一人の学生が駆け込んできた。
「アレン・クロフォード君、ここにいたのか! 次回交流会の準備委員会が正式に発足したんだ。君にも少し協力してほしい」
「役職なら嫌ですよー」
「安心してくれ。学院長から、君を役職へ就けるなとかなり強く言われている。頼みたいのは、アルヴェインで実際に交流会へ参加した学生として、何が良かったか、何が不便だったかを聞かせてもらうことだ」
「それくらいならいいですよ」
「助かる。ただ、今のところ一番大きな問題が宿泊場所なんだ」
現時点で参加希望は千人を超えている。学院寮へ泊められるのは一部だけで、学院都市の宿を全部押さえるわけにもいかない。
「《アウローラ》からは仮設宿泊施設を建てる提案も来ているんだが、学院長が『一晩で街を一つ増やすな』と止めた」
「やりそうだねー」
「問題は、できるらしいことなんだ」
「本当にできるんだ……」
セレスたちは相変わらず何でもできる。
俺は土の付いた手を払いながら、学院の奥へ視線を向けた。
校舎、訓練場、寮。
そのさらに西側には、今ではほとんど使われていない古い建物がいくつか残っている。
「あっちの古い寮みたいな建物って、使えないんですか?」
「ああ、西旧校舎区か。昔は寄宿舎と講義棟だったらしいが、今は物置に近い。設備も古いし、長年まともに使われていないぞ」
「建物自体が壊れてないなら、一回見てみればいいんじゃない?」
その言葉で、上級生が少し考え込んだ。
同時にトーマが、妙に険しい顔で俺の肩を掴む。
「アレン。確認するけど、お前は今朝学院長から何て言われた?」
「何もしないでくれって。でも俺、建物を見ればって言っただけだよー」
「……そうなんだよな。勝手に修理計画を始めたわけでもないし、ただの疑問なんだよな」
トーマは今度は上級生を見る。
「今のって、普通の提案の範囲ですよね?」
「たぶん」
「ならセーフか……」
「二人とも何の判定してるの?」
俺としては、空いている建物があるなら確認してみればいいと思っただけだ。
◇
結局、放課後には準備委員会の学生十数名、施設管理担当の教師、それから希望者として俺とトーマが西旧校舎区を見に行くことになった。
今回は俺が責任者ではない。
それだけでも、かなり進歩していると思う。
古い鉄門を開けると、奥には三階建ての石造り校舎と細長い寄宿舎が二棟並んでいた。壁には蔦が這っているものの、窓ガラスは意外と残っている。中庭は雑草だらけだったが井戸もあり、外から見る限りでは少し手を入れれば使えそうだった。
施設管理の教師が鍵を開けると、扉の隙間から長年閉じ込められていた埃っぽい空気が流れてくる。
中はさすがに古かった。
床板の一部は軋み、壁紙も剥がれている。家具は布をかけられたまま何十年も放置され、浴室や厨房も今の基準では使いにくいらしい。
それでも準備委員の学生たちは、部屋を見てすぐに相談を始めた。
「寝室だけなら、一棟百五十人前後はいけそうだな。二棟で三百。ただ、水回りは全面的に確認しないと無理だ」
「食事は本校舎の食堂を使えばいいんじゃないか? ここで全部完結させる必要はないし、掃除なら学生も手伝える。配管や魔導設備だけ専門業者へ頼めば、費用も抑えられるかもしれない」
誰かが問題を見つければ、別の誰かが方法を考える。分からないところは教師に聞き、必要なら業者を探す。
ちゃんと進んでいる。
「アレン、何か言わないの?」
トーマが隣へ来たので、俺は相談を続けている学生たちを見ながら首を振った。
「俺よりみんなの方が分かってるじゃん。掃除するときなら手伝えるよー」
「……そうだな。お前が全部決めない方が、ちゃんとみんなで進むんだな」
「俺、学生だからねー」
「ようやくその言葉の正しい使い方が分かってきたな」
◇
一時間後、西旧校舎区を交流会用の簡易宿泊区として再利用できないか、正式な調査が行われることになった。
決めたのは準備委員会。
許可を出すのは学院。
修繕が必要なら複数の業者から見積もりを取る。
《アウローラ》にも、必要な部分だけ協力を求める。
俺は何も決めていない。
本当に。
「今日の俺、完璧じゃない?」
「西旧校舎を見てみようって最初に言ったけど、それくらいなら普通の提案の範囲だろうな。少なくとも勝手に会社を作ったりしてない」
「でしょー」
トーマからも認めてもらえた。
◇
その日の夕方、学院長室では、西旧校舎区についての報告が行われていた。
「準備委員会から、旧校舎区を宿泊施設として再利用できないか調査したいという申請が出ています」
「安全性を最優先に確認し、問題がなければ検討しよう。ところで、この案を出したのは誰だ?」
「準備委員の学生たちです」
学院長の表情が少し明るくなる。
「アレンではないのだな?」
「はい。ただ、現地を見るきっかけになったのは、アレン君が『あの古い寮は使えないのか』と尋ねたことだそうです。その後はほぼ黙って見学し、最後に掃除なら手伝うと言っただけです」
学院長の手が途中で止まった。
「勝手に修理計画を作っていない?」
「いません」
「《アウローラ》へ直接指示も?」
「していません」
「新組織は作ったか?」
「作っていません」
「代表には?」
「なっていません」
学院長はゆっくり椅子へ背中を預け、心底感動したように目を閉じた。
「……成長している」
「そこまで感動することですか?」
「君は知らないからそう言えるのだ」
しかし報告者はまだ帰らず、手元の別紙を確認した。
「学院長、もう一点あります。交流会への参加希望者が先ほど千二百名を超えました。参加理由も集計できています」
「増加速度がおかしいが、聞こう」
「魔法教育視察が三百八十二名、共同研究が二百四十一名、学生交流が二百九十六名。残りがその他です」
「その他とは?」
報告者は少し言いにくそうにしたあと、紙へ目を落とした。
「自由記述で最も多かったのが、《アレン・クロフォードが本当に普通に授業を受けているところを見たい》でした。二百七十三名です」
学院長は静かに目を閉じた。
「展示物ではないぞ、あの学生は」
「承知しております」
「通常授業へ二百七十三名も見学者を入れられるわけがない。断れ」
「すでに断る方向で調整しています。ただ、《大陸学生交流連絡会》から代替案が出ています。普段どおりの学院生活を邪魔しないため、見学用の特別行事は作らず、交流会期間中は各国学生を通常授業へ少人数ずつ混ぜてはどうか、と」
学院長は目を開いた。
それなら教育交流としてはかなり真っ当だ。
「誰が考えた?」
「七ヶ国の学生代表です。アレン君は関与していません」
「本当に?」
「本当にです」
学院長は長く息を吐き、今度こそ少し安心した。
「なら、検討しよう」
◇
翌朝。
教室では、担任教師がホームルームの最後に次回交流会について説明していた。
「まだ正式決定ではないが、本学院が次回の大陸学生交流会開催候補地となっている。実施された場合、各国の学生を通常授業へ少人数ずつ受け入れる可能性がある。特別に見学させるのではなく、普段の授業へ一緒に参加してもらう予定だ」
教室がざわついた。
「外国の学生がここで普通に授業受けるなら、アルヴェインの逆だねー。面白そう」
「お前は気楽だな。でもまあ、俺もちょっと楽しみではある」
トーマがそう答えたところで、担任教師がこちらを向いた。
「それからクロフォード君。学院長から個別の伝言がある。交流会の準備期間中も、君は普段どおり授業を受け、普段どおり生活すること。困っている準備委員を見つけても勝手に全部引き受けず、まず担当者へ相談する。《アウローラ》へ独断で連絡しない。そして――」
教師が一度、手元の紙へ視線を落とした。
「秘密結社を作らないこと」
「作らないよ!」
教室中から笑いが起こった。
「何で最後だけ四百年前の話まで入ってるんですか!」
「学院長から、ここだけは絶対に読み飛ばすなと言われた」
「俺、そんなに信用ない?」
そう尋ねると、トーマだけでなくクラスの何人かまで視線を逸らした。
「信用はしてるよ。ただ、お前の場合は四百年前の実績があるからな」
「昔の話だよー」
「四百年前でも実績は実績だ」
失礼だった。
それでも、今度の交流会は俺が作るものではない。
学生たちが考え、学院が決め、必要なら《アウローラ》や街の人たちにも助けてもらう。
俺はその中で、普通に授業を受けていればいい。
ようやく本当に、普通の学生として参加できそうだった。
◇
ただし、その日の昼。
学生会室へ届いた最新の参加希望者一覧には、俺の知らない追記が増えていた。
マリネア王国第三王女ミレイア。
フェルナード王国第二王女エリナ。
グランベル王太子アルフレッド。
そして当然のように、アルヴェイン王国第二王女レティシア。
四人とも正式に参加希望を出している。
備考欄には、それぞれ王立魔法学院滞在中にアレン・クロフォードによる学院案内を希望すると記されていた。
さらにレティシアの欄だけは、一文多い。
――前回の交流時における専属案内への返礼として、今回は私が案内される側を希望します。
一覧を確認していた学生会の面々は、しばらく誰も口を開かなかった。
やがて一人が、恐る恐る周囲を見回す。
「……これ、誰がアレン先輩の隣を歩くかで揉めない?」
誰も否定できなかった。
王女が三人。
王太子が一人。
最高幹部が十人。
そして当の本人は、その頃。
昼休みの栽培区画で、昨日植えたばかりの土へ水をやりながら、
「まだ芽出ないねー」
などと、世界で一番どうでもいい心配をしていた。




