第37話 王女に銅貨八枚の髪紐を贈っただけなのに、王宮が「国家案件です」と会議を始めた」
その日の夕食前。
俺は東迎賓宿舎の部屋で、トーマたちと買ってきた菓子を広げていた。
レティシアとの一時間は楽しかったし、普通の買い物をあれだけ喜んでもらえたのもよかったと思う。青い髪紐だって銅貨八枚だったから、記念としてはちょうどいい。
問題があるとすれば、帰ってきてから向かいの《教育交流支援臨時連絡室》が妙に騒がしいことくらいだった。
「なあ、アレン」
「何?」
寝台に腰掛けたトーマが、俺の向かいで何とも言えない顔をしている。
「念のため確認するけど、お前、今日のデートで王女様に何した?」
「買い物したよー」
「それは知ってる。そのあと」
「髪紐買った」
「それも見た。そのあと」
「付けてあげた」
「そのあと」
「お菓子食べた」
「そのあと!」
「口にクリーム付いてたから拭いた」
「そこだよ!」
トーマが頭を抱えた。
「何が?」
「何がじゃねえよ! よその国の王女様だぞ!?」
「クリーム付いたままの方がよかった?」
「そういう話じゃない!」
どういう話なのだろう。
俺が首を傾げていると、同室の二人まで苦笑しながらこちらを見た。
「クロフォード。さすがに俺でも、あれは距離近いと思ったぞ」
「俺も」
「そう?」
「そうだよ!」
三対一になった。
おかしい。
セレスたちの髪を結んでいた昔と、そんなに違うことをした覚えはない。
「昔はよく髪を結んであげてたんだけどなー」
「誰に?」
「セレスたち」
「世界最大企業の最高幹部十人に!?」
「小さい頃だよ」
「情報量が多いんだよ!」
トーマが叫んだ直後、向かいの部屋から何かを落としたような音がした。
聞かれているらしい。
◇
同じ頃。
王宮本宮。
王族用の夕食室では、料理より先に一つの髪飾りが注目を集めていた。
レティシアは普段どおり自分の席へ座ったのだが、今日は金色の髪をまとめている紐が違う。学生街で買った青い髪紐には、小さな銀色の留め具が付いていた。
「レティシア」
上座に座るアルヴェイン国王が、娘の髪へ視線を向けた。
「その髪飾りはどうした?」
「いただきました」
「誰に?」
「アレンさんです」
国王の手が止まった。
その横では王妃も止まり、さらに同席していた王族たちの視線まで一斉に髪紐へ集まる。
「……アレン・クロフォード君か?」
「はい」
「《アウローラ》の最高幹部十名が、なぜか全員付き添っている?」
「はい」
「教育交流参加者の?」
「はい」
レティシアは平然とスープを口へ運んだ。
国王はしばらく娘を見つめていたが、やがて慎重に次の質問をした。
「いつ、もらった?」
「今日です」
「どのような経緯で?」
「デート中に」
今度は王妃の手から匙が落ちかけた。
「レティシア?」
「何でしょう、お母様」
「今、何と言ったの?」
「デートです」
「聞き間違いではなかったのね……」
王妃が額へ手を当てる。
レティシアは少し不思議そうにしながらも、学生街での出来事を簡単に説明した。
普通の店へ入ったこと。
初めて身分を知られず自分で代金を払えたこと。
青いペンを選んだこと。
髪紐を見ていたら、アレンが記念に買ってくれたこと。
そして、その場で髪を結び直してくれたこと。
「待ちなさい」
国王が止めた。
「最後をもう一度」
「その場で髪を結んでいただきました」
「本人が?」
「はい」
「直接?」
「髪を結ぶのですから、直接でなければ難しいと思いますが」
「そういう意味ではない」
父親の顔になっている国王を見て、王妃が小さく笑った。
「あなた。顔が怖いですよ」
「怖くもなる!」
「私は少し安心しましたけれど」
「どこに安心要素がある!?」
「レティシアがそんな顔で話しているのを、久しぶりに見ましたから」
言われたレティシアが目を瞬かせた。
「私、どんな顔をしていますか?」
「嬉しそうな顔です」
「……」
そこで初めて、レティシアの頬が赤くなった。
王妃はそれを見逃さなかった。
「まあ」
「お母様」
「何も言っていませんよ?」
「言う前のお顔です」
国王だけは笑えなかった。
問題は娘が嬉しそうだということではない。もちろん父親としてはそこも大問題なのだが、国王として考えた場合、もっと分からないことがある。
アレン・クロフォード。
表向きは外国から来た一学院生。
しかしその一学生がアルヴェイン王国へ来るだけで、世界最大企業が三千二百名もの人員を動かした。
最高幹部十名が自ら同行している。
昨日など、旧商業区で少年が一軒の菓子店を褒めただけで《アウローラ》関係者が殺到し、危うく買い占めが起こるところだった。
そして今日は、彼と第二王女が一時間二人で出かけるというだけで、あの十名が半径二百メートルの境界ぎりぎりに並んでいたという。
普通ではない。
何かが。
明らかにおかしい。
「レティシア」
「はい」
「彼は一体、何者なのだ?」
「学院生です」
「それは知っている」
「とても面白い方ですよ」
「そういうことでもない!」
娘本人から情報を取るのは諦めた方がよさそうだった。
◇
夕食から三十分後。
アルヴェイン王宮。
小会議室。
「緊急というほどではありませんが、確認すべき案件があります」
宰相の言葉とともに、机の中央へ一枚の紙が置かれた。
そこに書かれているのは。
――第二王女殿下への贈答品について。
「髪紐一つで会議をするのか?」
国王が疲れた声で尋ねる。
「通常ならいたしません」
「ではなぜ集めた」
「贈った人物がアレン・クロフォードであるためです」
国王は黙った。
それを言われると反論しにくい。
「価格は?」
「銅貨八枚です」
「……国家会議で扱う価格ではないな」
「はい」
「何か特殊な魔道具なのか?」
「いいえ。学生向け装飾品店で販売されている普通の髪紐です」
「ますます会議する理由がないではないか」
「問題はこちらです」
宰相が次の紙を出した。
そこには王宮情報部からの報告が記されている。
――贈答直後、《アウローラ》最高幹部十名に顕著な反応。
――十名全員が翌日の私的外出を申請。
――目的は学生街での買い物。
――備考《アレン本人による選定を希望》。
「……」
「陛下?」
「すまん。もう一度読んでくれ」
「最高幹部十名全員が、同じ少年に自分用の品を選んでもらうため、予定を調整しております」
「なぜだ?」
「分かりません」
「情報部は?」
「分かりません」
「外務省は?」
「分かりません」
「《アウローラ》王国支社は?」
「問い合わせること自体を強く止められました」
「誰に」
「支社長本人です」
「本人が止めたのか……」
世界最大企業の現地責任者ですら触れたくない話らしい。
宰相が咳払いをした。
「ただ、一つだけ確かなことがあります」
「何だ」
「髪紐そのものに価値があるのではありません」
「だろうな」
「誰から渡されたかに価値があるようです」
「……」
国王は椅子へ深く座り直した。
銅貨八枚。
平民の学生でも無理なく買える。
その程度の髪紐を、世界最大企業を動かす十人が羨んでいる。
意味が分からない。
だが、意味が分からないからこそ怖かった。
「結論は」
国王が尋ねる。
「現時点では静観を推奨いたします」
「妥当だな」
「ただし」
「まだあるのか」
「王女殿下が夕食時にも髪紐を外されなかったことが、すでに侍女たちの間で話題になっております」
「止めろ」
「難しいかと」
「止めろ!」
「善処いたします」
国王は天井を見上げた。
教育交流祭はまだ二日目だった。
◇
翌朝。
「アレン!」
食堂へ入るなり、トーマが新聞のようなものを持って走ってきた。
「見ろ!」
「朝から元気だねー」
「いいから見ろ!」
学生向けの小さな情報紙だった。
王都の学校や学生街で配られているものらしい。
中央には大きな見出し。
――第二王女殿下、謎の外国人学生と学生街で買い物?
「載ってるねー」
「それだけじゃねえ!」
記事には、王女らしき女性と外国の学院生らしき少年が複数の店を回っていた、という目撃談が書かれている。
さすがに写真はない。
けれど、その下には。
――王女殿下の髪には、見慣れない青い髪紐。
――同行していた男子学生からの贈り物との噂も。
「よく調べたねー」
「感心してる場合か!」
「でも俺の名前ないよ?」
「時間の問題だろ!」
「そうかなー」
「そうだよ!」
トーマが騒いでいると、食堂入口が急に静かになった。
振り返る。
レティシア王女。
今日も。
青い髪紐。
「おはようございます、アレンさん」
「おはようー」
「……」
「どうしたの?」
「いえ」
レティシアは俺の手元にある情報紙を見ると、少しだけ困ったように笑った。
「もう出てしまったのですね」
「困る?」
「多少は」
「じゃあ髪紐、外した方がいい?」
「嫌です」
即答だった。
「じゃあ仕方ないねー」
「はい」
レティシアも即座に頷いた。
「仕方ありません」
「お前ら!」
トーマが二人の間へ情報紙を差し出した。
「少しは事態を収める努力をしろ!」
◇
朝食後。
昨日と同じ《教育交流支援臨時連絡室》。
「会議を開始します」
セレスが言った。
「今日は何の?」
「本日の買い物についてです」
「本当に行くの?」
俺は驚いた。
「昨日の勢いで言ってただけかと思った」
「行きます」
十人。
全員、予定を空けていた。
世界最大企業の最高幹部が。
十人とも。
「仕事は?」
「調整済みです」
リゼットが手帳を見せる。
「世界中から予定を動かした?」
「はい」
「買い物のために?」
「重要案件です」
「銅貨八枚くらいの?」
「価格の問題ではありません」
ヴィオラがきっぱり言った。
「あら」
入口から声がした。
レティシア王女だった。
「そこは私と意見が一致しますね」
十人。
空気が変わる。
「レティシア殿下」
セレスが完璧な営業用の笑顔を作った。
「本日もご案内を?」
「はい。それと昨日申し上げたとおり、買い物にも参加いたします」
「王女殿下のお時間を、そのような私的な用事で使わせるわけには」
「教育交流です」
「買い物が?」
「他国の文化理解です」
「装飾品の?」
「生活文化も文化です」
「……」
セレスが黙った。
「強いねー」
「アレン」
「何?」
「どちらの味方なのですか?」
「買い物に味方いるの?」
俺には分からない。
◇
午後。
結局。
俺。
レティシア。
最高幹部十人。
それから少し離れた護衛。
十二人の集団で学生街へ来ることになった。
「目立つねー」
「当然だ!」
トーマも途中まで付いてきたが、時計塔前で止まった。
「俺は行かないからな」
「何で?」
「最高幹部十人と王女様が、お前に物を選んでもらう列に混ざって歩くんだぞ。一般学生が耐えられる空気じゃねえ」
「大げさだなー」
「じゃあな!」
逃げた。
薄情な友人だった。
◇
「最初は誰?」
俺が尋ねると、十人が同時に一歩前へ出た。
「……」
そして。
同時に止まった。
「決めてないの?」
「公平性について協議中です」
リゼットが答える。
「まだ?」
「昨夜二時間協議しました」
「二時間も?」
「結論は出ませんでした」
「仕事より難航してるじゃんー」
「アレンが決めてください」
エルシアが言う。
「俺が?」
「はい」
「じゃあ」
目の前を見る。
「一番近い人から」
俺のすぐ右。
ノエル。
「やったー!」
「異議あり!」
ラグナ。
「位置取りで決めるな!」
「でも分かりやすいよー」
「偶然ノエルが近かっただけではないか!」
「偶然ではありません!」
ノエルが胸を張った。
「最初からここを取りました!」
「もっと悪い!」
揉め始めた。
レティシアが俺の隣で笑いを堪えている。
「楽しそうですね」
「毎回こんな感じですよー」
「羨ましいです」
「何が?」
「いえ」
レティシアは青い髪紐をそっと触るだけで、それ以上は言わなかった。
◇
結局。
順番はくじ引きになった。
一番。
シズク。
「何がいい?」
「アレンが選んだもの」
「それじゃ分からないよー」
「何でもいい」
「余計難しいねー」
いくつか店を回る。
シズクは普段、黒や暗い色の服が多い。装飾品もほとんど付けない。
だから少し考えて。
「これかな」
選んだのは、小さな銀色の鈴が付いた細い革紐だった。
「首とか手首に付けられるみたい」
「理由」
「シズクって音なく歩くから」
「……」
「たまには音がしてもいいかなーって」
「採用」
「早いねー」
「生涯使用」
「そこまでしなくていいよー」
シズクはすぐ会計へ向かった。
二番はヴィオラ。
「私は当然、あなたが私に最も似合うと思うものを選びなさい」
「難易度上げてきたねー」
「世界金融より簡単でしょう?」
「比較対象おかしくない?」
ヴィオラには、赤紫色の小さな石が付いた扇留めを選んだ。
「扇よく使うから」
「……実用品なのね」
「嫌だった?」
「いいえ」
ヴィオラは扇で口元を隠した。
「むしろ」
「うん?」
「毎日使えるわ」
声だけ少し嬉しそうだった。
◇
三番、ラグナ。
「剣だ!」
「学生街に売ってないよー」
「では鎧!」
「もっとないよ」
「武器屋へ行こう!」
「買い物の目的変わってるじゃん」
結局、ラグナには革製の腕輪を選んだ。頑丈そうだったからだ。
「これなら仕事でも邪魔にならないんじゃない?」
「……」
「どう?」
「アレンが我のために」
「うん」
「実戦時の邪魔にならぬものを」
「そうだねー」
「選んだ」
「そう言ったよー」
「家宝にする!」
「普段使ってよー」
◇
四番。
リゼット。
「手帳は禁止ねー」
「なぜ先に潰すのですか」
「もういっぱい持ってるじゃん」
「用途別です」
「今日は違うのにしよう」
しばらく見て。
小さな砂時計を選んだ。
数分を測るだけの、学生用の安いもの。
「これ」
「理由を伺っても?」
「予定を詰めすぎたとき」
「はい」
「たまには砂が落ちるまで何もしない時間にしたら?」
「……」
リゼットが。
完全に止まった。
「嫌だった?」
「いいえ」
「じゃあこれで」
「……はい」
リゼットは砂時計を両手で受け取った。
「大切にします」
「使ってねー」
「はい」
その返事だけは、いつもより少し小さかった。
◇
五番、エルシア。
六番、カレン。
七番、ミコト。
八番、ノエル。
九番、クラリス。
そして最後がセレスだった。
全員。
違うものを選んだ。
エルシアには淡い水色の栞。
カレンには白い髪へ合いそうな細い青銀の留め具。
ミコトには小型の筆記具。
ノエルには黄色い鳥の飾り。
クラリスには小さな花模様のブローチ。
高価なものは一つもない。
全部。
学生でも買えるもの。
「セレスは何がいい?」
聞くと。
セレスは少し考えた。
「アレンが決めてください」
「みんなそれ言うねー」
「それが目的ですから」
「じゃあ探そうか」
何軒か回る。
でも。
なかなか決まらない。
「難しい?」
レティシアが尋ねる。
「ちょっと」
「セレス様には、すでに特別なものをたくさん贈っているからでしょうか」
「そうかも」
昔作ったもの。
一緒に選んだもの。
長い時間の中で。
たくさんある。
だから今さら何を選べばいいのか。
迷った。
最後に入った小さな雑貨店で。
見つけた。
「あ」
細い革紐の先に、小さな金属板が一枚だけ付いた首飾り。
飾り気はほとんどない。
「これにしよう」
「理由は?」
「裏」
金属板をひっくり返す。
刻印を入れられるようになっている。
「何か書けるんだって」
「……何を?」
「まだ決めてない」
「では」
セレスが。
ほんの少し。
期待するように俺を見る。
「アレンが決めてください」
「また丸投げだねー」
「今日はそういう日です」
「仕方ないなー」
店主に頼んで。
一言だけ。
刻んでもらった。
――また帰る。
「……」
受け取ったセレスが。
動かなくなった。
「どう?」
「アレン」
「うん」
「これは」
セレスは言葉を探して。
でも結局。
何も言わず。
ただ。
首飾りを胸元へ抱いた。
「ありがとう」
「うん」
それだけだった。
でも。
目が少し潤んでいたから。
たぶん。
気に入ってくれたのだと思う。
◇
「……ずるいです」
隣から声。
レティシア。
「何が?」
「最後だけ」
青い髪紐へ触れながら。
「意味が重いです」
「そう?」
「そうです」
周り。
残り九人も。
うんうん。
頷いている。
「じゃあみんなにも文字入れる?」
「そういう問題ではありません!」
十人と王女が。
珍しく完全に意見を一致させた。
「難しいなー」
「アレンが難しくしているのです!」
セレスが首飾りを握ったまま言う。
でも。
怒っている顔ではなかった。
◇
その日の夜。
アルヴェイン王宮では。
第二王女が昨日もらった青い髪紐を今日も付けていた。
《アウローラ》最高幹部十名は、それぞれ学生街で買った安価な品を身につけて王宮へ戻ってきた。
王宮情報部は。
当然。
混乱した。
「報告します!」
「今度は何だ!」
「《アウローラ》最高幹部十名全員が、例の外国人学生から選定された品を身につけています!」
「価格は!?」
「最高でも銀貨一枚未満!」
「安い!」
「しかし誰一人として外そうとしません!」
「意味が分からん!」
「さらに!」
「まだあるのか!」
「会長セレス様の首飾りには」
「何だ!」
「《また帰る》という刻印が!」
小会議室。
静かになった。
国王が。
ゆっくり。
宰相を見る。
「……国家案件か?」
「髪紐の段階では否定いたしましたが」
「うむ」
「少し」
「うむ」
「自信がなくなってまいりました」
そして。
王宮側が。
アレン・クロフォードという一学院生について。
本気で調べ始めるまで。
あと。
半日。
俺は。
もちろん。
何も知らなかった。




