第11話 俺がパンを一つ売るだけで、世界最強の女性たちが行列を作った
初めてのアルバイト当日。
俺が働くパン店《麦の朝》には、開店前から千人を超える客が並んでいた。
「……人気店なんだねー」
「昨日までは、ここまでじゃなかったはずだけどな」
隣に立つトーマが、長い行列を見て顔を引きつらせる。
列は店の前だけでは収まらず、学生向け商店街を一周し、隣の区画まで伸びていた。
並んでいる客の大半は女性だ。
冒険者。
商人。
貴族。
旅行者。
子どもを連れた母親。
中には、どう見てもパンを買いに来たとは思えないほど鋭い目をした女性もいる。
全員が自然に振る舞っているつもりらしい。
ただ、姿勢がよすぎた。
立ち位置も正確すぎる。
前後左右の間隔が、一歩も違わず揃っている。
「兵士みたいな並び方だな」
「礼儀正しい人たちなんじゃないかなー」
「パン屋の行列で、全員が周囲を警戒する必要あるか?」
「人気商品を取られないようにしてるのかもねー」
「殺気まで出す必要はないだろ」
列の先頭に立つ女性が、こちらへ顔を向けた。
胸元にある黒い紋章を、慌てて外套の内側へ隠す。
《ノクス・アウローラ》の正式構成員だった。
その後ろにも。
さらにその後ろにも。
見覚えのある黒い紋章が、わずかに覗いている。
「視察の人が多いみたいだねー」
「千人全員が視察なのか?」
「大きな会社だからねー」
便利な言葉である。
◇
俺とトーマは従業員用の入口から店内へ入った。
焼きたてのパンの香りが広がっている。
店の奥では、女性職人たちが忙しそうに生地をこね、焼き上がったパンを棚へ運んでいた。
「おはようございます!」
「おはようございますー」
「今日からよろしくお願いします!」
トーマは元気よく頭を下げる。
俺も少し遅れて頭を下げた。
「よろしくお願いしますー」
俺たちの前には、四十歳ほどの女性が立っていた。
髪を後ろでまとめ、白い調理帽と茶色の前掛けを身につけている。
胸元の名札には、店長マリナと書かれていた。
「私が《麦の朝》店長のマリナです」
「よろしくお願いします!」
「お願いしますー」
「二人には今日、商品の陳列、接客、会計を覚えてもらいます」
マリナ店長の声は落ち着いている。
しかし、右手に持っている指導用の紙が、小刻みに震えていた。
「大丈夫ですかー?」
「何がでしょう」
「紙が揺れてますよー」
「空調の風です」
「空調は動いてないみたいですけど」
「私の気のせいです」
「本人が言うことなのかなー」
マリナ店長は一度目を閉じ、深く息を吸った。
彼女の手元にある紙の表紙が見える。
――最重要機密。
――アレン・クロフォード様を一般従業員として指導する際の注意事項。
――全三百八十二項。
ずいぶん分厚い指導書だった。
「その本、今日の仕事を覚えるためのものですか?」
トーマが尋ねる。
「私自身が、平常心を維持するためのものです」
「そんなに新人教育が苦手なんですか?」
「今回が特別なだけです」
マリナ店長は俺を見た。
すぐに視線を逸らす。
「では、制服へ着替えてください」
用意されていたのは、茶色の前掛けと白いシャツ。
ほかの従業員とまったく同じ制服だった。
俺の前掛けだけ、胸元の裏側に金色の刺繍が入っている。
――世界の夜明けを導く方へ。
「何か書いてありますねー」
「製造上の模様です!」
「文字に見えるけど」
「模様です!」
マリナ店長が前掛けを裏返し、俺へ差し出す。
「表からは見えませんので、問題ありません」
「見えない場所なら書いてもいいのかなー」
「……会社の上層部へ申し上げてください」
「店長さんも大変なんだねー」
「はい」
初めて、迷いのない返事が返ってきた。
◇
「最初は、商品の陳列です」
マリナ店長が焼き上がったパンの籠を示す。
「同じ種類の商品をまとめ、値札が客側から見えるように置いてください」
「分かりました!」
「分かりましたー」
トーマは商家の息子だけあり、手際がよかった。
商品の見栄えを確認しながら、形のいいパンを前に並べていく。
俺も隣の棚を任された。
丸いパンを手に取る。
棚へ置く。
少し右へ動かす。
隣のパンとの間隔を揃える。
「アレンさん」
「はいー」
「その並べ方では時間がかかりすぎます」
「あー、そうなんですねー」
「一つ一つを完全に同じ間隔へ合わせる必要はありません。お客様が取りやすければ十分です」
「分かりましたー」
俺は置いたパンを少し崩した。
マリナ店長の顔が青くなっている。
「店長?」
トーマが心配そうに声をかける。
「どうしました?」
「い、今、私は……」
「アレンの並べ方を注意しただけですよね?」
「アレン様の仕事へ、私が、駄目出しを……」
「様?」
トーマが首を傾げる。
「アレンさんです!」
マリナ店長は大声で訂正した。
「従業員はお互いを尊重し、心の中では全員へ敬意を持つという意味です!」
「いい職場ですねー」
「ありがとうございます……!」
マリナ店長の目に涙が浮かんだ。
俺は教えられたとおり、今度は少し速くパンを並べていく。
「これくらいですかー?」
「はい。問題ありません」
「ありがとうございますー」
「こちらこそありがとうございます!」
「店長がお礼を言うところか?」
トーマが小声で突っ込んだ。
マリナ店長は再び指導書を開く。
何かを確認し、拳を握った。
「普通に指導する。普通に指導する。普通に指導する……」
「声に出てますよー」
「お気になさらず!」
初日から、店長を疲れさせてしまったらしい。
◇
開店時刻が近づく。
表の行列は、さらに長くなっていた。
店内の従業員たちも緊張している。
「本日の販売予定数は、通常の三倍です」
マリナ店長が告げる。
「それでも、午前中に売り切れる可能性があります」
「千人以上並んでるからな」
トーマが入口を見る。
「人気の理由は何ですか?」
「新しく働く従業員への期待……いえ、規格外品を安価で販売する《アウローラ・シンプル》制度が好評なためです」
「今、違う理由を言いかけませんでした?」
「気のせいです」
「今日は気のせいが多いですねー」
開店の鐘が鳴る。
扉が開いた。
「いらっしゃいませ!」
従業員たちの声が揃う。
「いらっしゃいませー」
「アレン、声が小さいぞ」
隣のトーマが小声で注意した。
「そうかなー」
「もっと腹から声を出せ」
「いらっしゃいませー!」
少し大きな声を出してみる。
列の先頭に立っていた女性が、その場へ膝をつきかけた。
後ろの女性が素早く身体を支える。
「大丈夫ですかー?」
「問題ございません!」
女性は直立した。
「直接、歓迎のお言葉を賜り――」
隣の女性が肘で脇腹を突く。
「直接、歓迎のお言葉をいただけて感激した一般客です!」
「一般客だって、わざわざ言うか?」
トーマの疑いが深くなっている。
「開業したばかりで緊張してるんだねー」
「客まで緊張するのかよ」
最初の女性は、小さな丸パンを一つだけ籠へ入れた。
俺の担当する会計台へ向かってくる。
「お願いいたします」
「丸パン一つですねー」
「はい」
「銅貨二枚ですー」
女性は震える手で、銅貨を二枚差し出した。
俺は受け取り、会計機へ入れる。
「ありがとうございましたー」
「っ……!」
女性が両手で口元を押さえた。
「だ、大丈夫ですかー?」
「一生の宝にいたします!」
「パンは早めに食べた方がいいですよー」
「はい! 必ず!」
女性はパンを胸へ抱え、店を出ていった。
食べるつもりがあるようには見えない。
次の客も女性だった。
丸パン一つ。
その次の客も。
さらに次も。
全員が俺の会計台へ並び、一つだけ商品を買っていく。
「ありがとうございましたー」
「ありがとうございます!」
「ありがとうございましたー」
「こちらこそ!」
「ありがとうございましたー」
「子孫へ語り継ぎます!」
「パンを買っただけだよー」
列がなかなか進まない。
それでも、女性たちは誰一人不満を言わなかった。
むしろ自分の順番が近づくほど、緊張した顔になっている。
「アレンの列だけ、異様に長いな」
隣の会計台を担当するトーマが呟く。
トーマの前には、誰も並んでいない。
「新人だから珍しいんじゃないかなー」
「俺も新人だぞ」
「俺の方が失敗しそうに見えるとかー」
「客は失敗しそうな会計を選ばないだろ」
もっともだった。
◇
『アレン様より商品を受領した構成員、現在百八十七名』
『全員、購入したパンを保存しようとしています』
『食品です。食べるよう指示してください』
店の地下。
仮設された小規模指令室では、リゼットが報告を聞いていた。
『ですが、アレン様から直接手渡されたパンです』
「気持ちは理解できますが、腐敗させる方が失礼です」
『では、保存魔法を使用しても?』
「一般的な保存期間を超える魔法は禁止します」
『なぜですか!?』
「百年後にパンが発見され、聖遺物として扱われる事態を防ぐためです」
『すでに一部の者が、専用保管庫の建設を申請しています』
「却下してください」
リゼットは深く息を吐く。
「それと、同じ者が列へ並び直していないか確認を」
『すでに偽装を変更し、二度目の購入を試みた者が二十三名』
「退店させなさい」
『警護任務中だと主張しています』
「店外から警護できます」
『三度目を試みている者も――』
「正式構成員全員へ通達」
リゼットの声が低くなる。
「本日の購入は一人一回まで。一般のお客様を優先してください」
『承知しました』
「本当に承知したのでしょうね?」
『……善処いたします』
「即時退店させてください」
仕事の速さと忠誠心には自信がある組織だった。
平常心だけが不足していた。
◇
一時間ほど経つと、一般の客も増えてきた。
近所の住民。
学院の学生。
子どもを連れた家族。
正式構成員らしい女性たちは、リゼットから何らかの命令を受けたのか、少しずつ列から離れていった。
「ようやく普通の客が来たな」
トーマが安堵する。
「最初の人たちも普通のお客さんだったんじゃないかなー」
「同じ顔で同じパンを買い、同じ角度で頭を下げる集団が普通であってたまるか」
「仲がよかったんだねー」
「千人規模で?」
会計台へ、母親と小さな女の子がやってくる。
女の子は棚に並ぶ花の形をした菓子パンを見つめていた。
「欲しいの?」
母親が尋ねる。
女の子は小さく頷く。
しかし母親は値札を見たあと、困ったように財布を確認した。
「今日は普通のパンだけにしましょう」
「……うん」
女の子は残念そうに花のパンから手を離す。
その様子を見ていた俺は、会計台の下にある籠へ目を向けた。
形が少し崩れた規格外品。
その中に、花びらの一部が欠けた同じ菓子パンが入っている。
「こちらなら、半分の値段ですよー」
俺は規格外品のパンを取り出した。
「味は同じみたいですー」
「よろしいのですか?」
「もちろんですよー。ちゃんと売り物ですからねー」
母親は少し迷ったあと、女の子へ視線を落とす。
「これにする?」
「うん!」
女の子は嬉しそうに頷いた。
会計を済ませ、俺はパンを紙袋へ入れる。
「はい、どうぞー」
「お兄ちゃん、ありがとう!」
「落とさないようにねー」
女の子は両手で袋を抱え、母親と一緒に店を出ていった。
それを見ていたマリナ店長が、静かに俺の横へ立つ。
「アレンさん」
「何ですかー?」
「規格外品を提案する際は、正規品を否定するような言い方をしてはいけません」
「あー、はいー」
「ですが、今の対応は問題ありませんでした」
「ありがとうございますー」
「お客様の事情を決めつけず、選択肢を提示しただけですから」
「なるほどー」
「……本当に、普通に指導を受けてくださるのですね」
「新人ですからねー」
マリナ店長は少しだけ笑った。
「では新人さん。次のお客様がお待ちです」
「はいー」
今度は、先ほどまでより自然な声で言われた。
◇
昼前。
店の入口に、新たな十人組が現れた。
全員、偽装魔法で姿を変えている。
けれど、俺にはすぐに分かった。
セレスとリゼット。
ラグナとカレン。
ミコトとシズク。
エルシアとノエル。
ヴィオラとクラリス。
「また視察かなー」
「ん?」
トーマが入口を見る。
「ずいぶん美人な客ばかりだな」
「そうだねー」
「お前、急に仕事が丁寧になってないか?」
「いつもどおりだよー」
「ならいいけど」
十人は店へ入った直後、誰が最初に俺の会計台へ向かうかで停止した。
「会長――ではなく、先ほど列の順番を確認したところ、私が最初でした」
金髪を茶色へ変えたセレスが告げる。
「我が先だ!」
角を隠したラグナが一歩前へ出る。
「並んでいませんでしたよね?」
カレンが袖を掴んで止める。
「アレンの前に立った者が最初だ!」
「一般店舗で独自の規則を作らないでください」
「情報によれば、空いている会計台を利用するのが効率的です」
ミコトが自然に俺の方へ進もうとする。
シズクが尻尾を隠したまま、肩を掴んだ。
「ほかの会計台も空いています」
「私はアレンさんの接客能力を調査します」
「私情です」
「情報部門の仕事です」
「私情です」
十人は声を抑えている。
それでも、店の入口を塞いでいることに変わりはない。
「お客様」
マリナ店長が近づいた。
「ほかのお客様のご迷惑になりますので、店内では一列にお並びください」
十人が動きを止めた。
世界最大企業の会長。
世界最強の将軍。
情報部門長。
魔導研究部門長。
金融・外交部門長。
その側近たち。
国家の王でさえ強く注意できない女性たちが、一人のパン店店長に叱られている。
「申し訳ありません」
最初にセレスが頭を下げた。
「以後、気をつけます」
ほかの九人も素直に一列へ並んだ。
マリナ店長は何事もなかったように仕事へ戻る。
「すごい店長だな」
トーマが感心している。
「そうだねー」
「なんか、あの客たちの方が店長より偉そうに見えたけど」
「人を見た目で判断したら駄目だよー」
「確かにな」
十人の先頭はセレスだった。
しかし、商品を選ぶ場面で再び争いが始まった。
「アレンが最初に陳列したパンは、どれですか?」
セレスが店員へ尋ねる。
「それなら、この丸パンです」
「すべていただきます」
「お一人様五個までとなっております」
「では五個を」
すぐ後ろからラグナが顔を出す。
「我は十個だ!」
「五個までです」
「二人分の身体がある!」
「お一人様です」
「ではカレンの分も買う!」
「私は自分で購入します」
ミコトは商品棚を観察し、俺の指紋が残っているパンを探そうとしていた。
シズクがその手を叩く。
エルシアは陳列棚の魔力反応から、俺が触れた商品を特定している。
ノエルは素直に一番大きな菓子パンを選んでいた。
ヴィオラは高級パンがないことに不満そうだったが、クラリスに勧められて規格外品を手に取った。
「ヴィオラ様。こちらはアレン様が始められた制度の商品です」
「では、これをいただくわ」
「普通の商品も買ってください」
「全部買うわ」
「五個までです」
一般店員から次々に制止されている。
世界を動かす最高幹部たちは、一般客のふりも下手だった。
◇
やがて、セレスが俺の会計台へやってくる。
「こちらをお願いします」
「丸パン五個ですねー」
「はい」
セレスは、何事もないような完璧な笑みを浮かべていた。
「今日はお休みですかー?」
「ええ。偶然、予定が空きましたので」
「世界企業の会長さんに似てますね」
トーマが隣から声をかける。
セレスの動きが一瞬止まった。
「よく、言われます」
「本人じゃないですよね?」
「もちろんです」
「声まで似てるな」
「世の中には似た人間がいるものです」
「どこかで聞いた言い訳だな」
トーマが俺を見る。
俺は会計を続けた。
「銅貨十枚ですー」
セレスは金貨を一枚、会計台へ置いた。
「お釣りが多くなりますよー」
「結構です」
「規則で受け取れないんですー」
「アレンからパンを手渡していただけるのであれば、金貨一枚でも安いのですが」
「何か言いました?」
トーマが聞き返す。
「パンの価値について独り言を」
「丸パン一個で国家予算みたいな金額を出すんですか?」
「私にとっては、それ以上の価値があります」
「変わった人ですね」
「よく、言われます」
セレスは素直に銅貨へ替えた。
俺は紙袋へ丸パンを五つ入れる。
「ありがとうございましたー」
「こちらこそ、ありがとうございます」
セレスは大切そうに紙袋を受け取った。
その後ろで、ラグナが早く代われと急かしている。
カレンは声量を下げるよう注意し。
ミコトは会計時の会話を記録し。
シズクはミコトの記録機を一度没収し。
エルシアは俺の手がパンの熱で傷ついていないか観察し。
ノエルは順番が待ちきれず身体を左右へ揺らし。
ヴィオラは一般店の会計へ慣れておらず、硬貨の種類をクラリスへ聞いていた。
普通の客に見せる気があるのだろうか。
◇
「ありがとうございましたー」
最後のクラリスへ商品を渡した直後。
店内の鐘が鳴った。
昼休憩の時間だ。
「アレン、交代だ」
トーマが声をかけてくる。
「店の奥で食べようぜ」
「うん」
会計台を次の従業員へ任せ、俺たちは休憩室へ入った。
従業員用の昼食は、売り場へ出せなかった形の崩れたパンと、温かいスープだった。
「うまいな!」
トーマがパンをちぎり、スープへ浸す。
「働いた後だから、余計においしいねー」
「お前、思ったより接客に向いてるな」
「そうかなー」
「変な客にも、ずっと同じ調子だったし」
「みんな普通のお客さんだよー」
「金貨で丸パンを買おうとする女が普通であってたまるか」
トーマはスープを飲みながら、俺を見る。
「でも、楽しいだろ?」
「うん。楽しいねー」
自分で働いて。
教えてもらい。
失敗しないよう気をつけて。
友人と同じ昼食を食べる。
特別なことは何もない。
だからこそ、俺には新鮮だった。
「午後も頑張ろうかー」
「当然だ!」
俺たちは残ったパンを食べ終えた。
◇
初日の勤務が終わったのは、夕方だった。
「二人とも、お疲れさまでした」
マリナ店長が、俺たちへ小さな革袋を渡す。
「本日は試験勤務でしたので、日払いとなります」
「もう給料をもらえるんですか?」
トーマが嬉しそうに袋を開く。
「募集要項どおりの金額です」
俺も中を確認した。
銀貨一枚。
銅貨四枚。
四百年以上生きてきた。
国王から財宝をもらったこともある。
古代遺跡で金銀を見つけたこともある。
秘密結社の創設者としてなら、世界最大企業の全財産さえ自由にできるらしい。
けれど。
自分で決められた時間働き、その対価として給料を受け取ったのは、これが初めてだった。
「これが給料なんだねー」
「何だよ、その反応」
トーマが笑う。
「初めて働いたみたいじゃないか」
「こういう仕事は初めてだからねー」
「記念に何か買おうぜ」
「何がいいかなー」
「欲しいものはないのか?」
少し考える。
特に高価なものは必要ない。
それよりも。
「食堂のみんなに、パンでも買って帰ろうかなー」
「働いた店で、またパンを買うのかよ」
「おいしいからねー」
「本当にパンが好きだな」
俺は今日もらったばかりの銅貨を一枚、売り場へ持っていった。
規格外品の籠から、小さなパンがいくつか入った袋を選ぶ。
自分で稼いだ、最初の銅貨。
それを会計台へ置いた。
「こちらをお願いしますー」
会計を担当していた女性従業員が、銅貨を見た瞬間に固まった。
「こ、この銅貨は……」
「足りませんかー?」
「いえ! ちょうどです!」
女性従業員は、両手で銅貨を受け取った。
手が震えている。
「ありがとうございましたー」
「こちらこそー」
俺とトーマは、買ったパンを持って店を出た。
◇
数分後。
《麦の朝》の会計台は、最高位の防御結界で封鎖された。
「アレン様が初めて労働によって得られた給金」
セレスが、透明な保存箱へ入れられた銅貨を見つめる。
「その中から、最初に使用された一枚です」
「組織の歴史に残る品だ!」
ラグナが目を輝かせる。
「軍事部門の記念館へ収蔵すべきだ!」
「なぜ軍事部門なのですか?」
カレンが尋ねる。
「我が最初に提案したからだ!」
「理由になっていません」
「情報部門で保管します」
ミコトが保存箱へ手を伸ばす。
「本日の全記録と合わせ、永久保存します」
「一般の会計記録を永久保存しないでください」
シズクが止める。
「魔導研究部門で、銅貨に残されたアレンの魔力を調査します」
エルシアが淡々と告げる。
「調査後は返却します」
「いつ返すのです?」
「百年以内に」
「返す気がありませんね」
「私が購入するわ」
ヴィオラが小切手を取り出した。
「金貨一万枚でどうかしら」
「銅貨一枚ですよ?」
クラリスが微笑む。
「安すぎましたね。では、金貨十万枚で」
「金額の問題ではありません」
「ならば、世界銀行本店の永久金庫へ保管しましょう」
五人の最高幹部が、保存箱を囲む。
側近たちも譲る様子はない。
「このままでは決まりません」
リゼットが告げた。
「公平な方法で所有権を決定します」
「どんな方法だ?」
「入札です」
「金融部門が有利すぎませんか?」
「では決闘だ!」
「軍事部門が有利です」
「研究論文の審査」
「魔導研究部門が有利になります」
「情報量を競いましょう」
「情報部門が有利です」
「経営への貢献度で判断します」
「会長が有利です」
誰も譲らない。
会計を担当していた女性従業員が、恐る恐る手を上げた。
「あの……」
十人が一斉に振り返る。
「その銅貨は、店舗の売上金ですので……」
「……」
「会社の所有物になるのではないでしょうか」
会計室が静まり返った。
セレスがゆっくりと頷く。
「そのとおりです」
「では、世界企業の本社資産として登録します」
リゼットが書類へ記入する。
「誰の個人所有にもせず、地下本部の中央記念館へ保管しましょう」
十人は少し不満そうだった。
それでも、誰か一人のものになるよりは納得できたらしい。
こうして。
俺が初めての給料から使った、ただの銅貨一枚は。
古代の国宝を上回る警備体制のもと、《ノクス・アウローラ》地下本部へ運ばれることになった。
俺はその頃、学生寮の食堂で。
自分の給料で買ったパンをトーマやほかの学生たちへ配りながら、のんびり夕食を食べていた。
まさか銅貨一枚を巡って、世界最高の女性たちが所有権争いを始めていたとは知らなかった。
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