32魔女の片鱗
花畑の部屋でハヤは目を覚ました。酷く不快な目覚めだった。泥から這い出るような、重い身体に無理やり働きかける、そんな目覚めだった。そして、その視界にマツルの姿が無かった。ハヤは唇を噛んだ。知れず、瞳から零れたのは、涙だった。
「涙、出るのですね。この、身体は」
ハヤは両手で目を覆った。目覚めるとき、マツルは傍にいてくれる。それは、思い上がりに過ぎないのだろう。それでもなお。
「愛しています」
いつだって重い描くのは、あの空色の瞳だ。そして、美しい白竜の姿。竜の姿になった時の熟れた果実のような真っ赤な瞳。
「何故なのでしょうね?」
涙が溢れるのは。この気持ちが懐かしいのは、どうしてなのだろう。
「愛しています、あなたを」
熱い思いは、されど空虚に響く。どうしてこの思いは叶わないのだろうか。
「私は」
ハヤは呟いた。
「魔女……!」
はじめからわかっていたことだ。なのに、何故今さら悲しむ必要があるのだろう? ハヤは自力で起き上がった。身体は石のように重かった。
「はっ……」
自嘲染みた笑いがこぼれた。
「あ、ははっ、は」
なんと醜いのだろう。愛されることを望み、愛されぬこの身は、なんと滑稽で、なんと馬鹿げた存在なのか。ハヤはよろよろと立ち上がった。ふらつきながら、幽霊のようにハヤは花畑の部屋を出た。まず向かったのは、卵の部屋だ。六つの保育器に六つの卵が収まっている。そこにマツルの姿は無かった。ハヤは蔓の梯子を見た。外を見たところでマツルは見つからないと分かっていながら、ハヤは蔓の梯子を上った。そして、穴から外を眺めた。目下に広がるのは蔓性の植物が生い茂る森だ。その向こうには広大な海が広がっている。すべてマツルがその意思と意図をもって創り出したものだ。
「なら、私は? 私は何なのでしょう?」
マツルの意図しなかった正体不明の存在。それが今のハヤだ。
「私はこの世界には必要ないのでしょう」
言葉に出せば、虚しさが胸の内に押し寄せてくる。必要無いだけならまだいい。歓迎されない忌まわしき存在。それが魔女というものだ。それでもなおマツルのそばにいたい気持ちは変わらない。愚かしいことだ。ハヤは緩慢な動作で梯子を下りた。ハヤは、保育器の中の卵をぐるりと眺めた。彼らはマツルに望まれて生まれて来た。なんと羨ましいことなのだろう。ハヤは、影の島で見つけた黒い卵に目をとめた。闇を凝縮したような黒さだ。見ようによっては禍々しくすらあるその卵でさえ、マツルに、マツルの世界に望まれたものだ。ハヤは吸い寄せられるように手を伸ばした。あの表面に爪を立てたらどうなるだろう? 爪の先が触れようとした、すんでのところで手を止めた。自分が触っていい物ではない。卵に危害を加えれば、それこそハヤはマツルのそばにいられなくなる。ハヤは肩を落とした。マツルはどこにいるのだろう。外にいるのかもしれないが、しかし。ハヤは卵の部屋を出た。この大樹の部屋には三階の部屋がある。ハヤはマツルがその部屋に行くところを見たことがない。以前、マツルの外出中に探検した時は、何もない空っぽの部屋だった。何もないと分かったので、それからは足を踏み入れることはなかった。だが、今は? もしかしたら違うのかもしれない。ハヤの好奇心がうずいた。ハヤは少し元気を取り戻すと、そろりそろりと三階の部屋へと続く緩やかな階段を上った。
三階の部屋へ入るとそこにマツルがいた。ハヤに背を向けて立っている。マツルを見つけただけでハヤは嬉しくなった。駆け寄ろうと一歩踏み出したところで、動きを止めた。そこに広がる光景にハヤは目を見開いた。同時に、何故マツルが、各島に発生した竜の卵の場所を正確に把握できたのかが分かった。マツルの前には夥しい数の歯車が回っていた。マツルの足元からは真蔓が伸び、マツルの身体を覆っていた。そしてその蔓の先端は、幾重にも枝分かれし、夥しい歯車に伸ばされていた。真蔓の表面は金色の不思議な紋様が浮かび、その紋様は見開かれたマツルの空色の瞳にも浮かんでいた。ハヤはよろよろと後ずさり、壁に背を付けた。
「運命図!! ……これほど大規模なものは!! ……こんなことができるなんて!!」
ふと、遠いところから声が聞こえた。
これは、蜘蛛の子ではありませんよ。歯車です
紛れもない、ハヤ自身の声だった。これは一体いつの出来事だったのか。
私では運命図をほとんど理解出来ませんでした。気分が悪くなっただけです
そう、過去にハヤは運命図を読み解こうとした。そして、未来の一部を読み取った。そのせいで具合が悪くなったことを思い出した。どんな未来だったのか。それにしても一体自分は誰と話しているのだろう?
「っ!!」
激しい吐き気がした。ハヤは床に膝をつき、口元を手で覆った。しかし、吐きはしない。肉体は無いのだから。何も食べていないし、食べなくても平気な身体だ。吐き出せるものはない。ハヤは口から手を離すと大きく息をした。よみがえった声を忘れるように努めた。するとすぐに気分が良くなった。ハヤはゆっくりと立ち上がり、マツルを見た。マツルは微動だにしない。運命図を読み解こうとして、発狂した魔法使いは数知れない。マツルは大丈夫なのだろうか? だが、マツルは永久魔法だ。生き物ではない。ならば、情報の処理能力は人間のさらに上を行くのだろう。大魔法使いの印を持つハヤのさらに高みを行く存在。ちくりと胸が痛んだ。矜持に微かな傷がついた時の、そういう痛みだ。まさかこんな感情をマツル相手に抱くとは。ハヤは自分自身にあきれ返った。しかし、直後その感情は霧散することになる。
「う、わっ!」
マツルが声を漏らした。弾かれたように真蔓が歯車から離れ、マツルの足元に消えた。
「目が回った、気がする?」
そのままマツルは後ろ向きにひっくり返った。ハヤが慌ててその背中を支えた。もたれ掛かってくるマツルをなんとか支えながら、ハヤはその場に座った。
「ハヤ?」
視点が定まらないマツルがハヤを見上げた。空色の瞳が不安定に揺れている。ハヤは、ふふっと笑うと、両腕で支えているマツルの頭をゆっくりと自分の膝の上に乗せた。マツルはされるがままだった。目を閉じてぐったりとしていた。しばらくそのままだったので、眠ってしまったのかと思ったが、急にマツルは起き上がり、ハヤを驚かせた。
「急に動いて大丈夫なのですか?」
「大丈夫だよ。膝枕ありがとう。寝心地良かったよ」
照れて顔をそむけるハヤに対し、マツルはにこにこ笑っていた。彼には敵わないなと、ハヤは苦笑した。
「世界創造を運命図に頼って行うなんて、感心しませんね」
ハヤは気を取り直して言った。マツルは満足そうにハヤを見ている。マツルの様子をハヤは訝しんだ。
「きみならそう言うと思ったんだ」
マツルの声は楽しげだ。ハヤは、からかわれている気分になった。
「運命図にそう書かれていたのですか?」
少しトゲのある口調でハヤは尋ねた。しかし、マツルの表情は変わらない。むしろもっと楽しそうだ。
「運命図を読まなくてもわかることさ」
ああ、もう、これだから。
「そうでしょうね」
ふたりは顔を見合わせて、声を立てて笑った。




