15.音を立てるもの
指が、埋まる。
ルーベニスの五指が、するりと滑り込むように魔法陣の中へ埋まっていく。
ソフィがあんぐりと口を開けて見守るそれは、なんとも不思議な、奇妙な光景であった。
淡く輝く青い魔法陣は、ルーベニスが指を動かす度に歪み、パチッ、と小さく爆ぜるような音を立てる。
「このへんかな」
ルーベニスは、口の端を僅かに上げた。
笑ったのだろう。多分。にしちゃあ随分と顔つきがアレだが、もとからそうだと言われればそれまでか。
「はい、終わり」
ルーベニスは、何事も起きていぬかのように指を引き抜くと、魔法陣をぽんと手のひらで叩いた。
って。え? 終わり? もう?
魔法陣を、本人になりすまして書き換える。
そんな無茶苦茶な話が、ソフィの目の前で、もう完結してしまったのだという。嘘。だって、あっという間だった。
ソフィがぱちぱちと瞬くと、ルーベニスは「ふふん」と笑った。
「見る?」
「まあ!」
促されて魔法陣を覗き込んだソフィは、あまりの違和感のなさに声を上げた。
なんということでしょう。
子どもの手習いのような魔法陣が、高度な魔法陣にすっかり書き換えられているではありませんか!
子供の落書きにしか見えなかった歪な円は判を押したかのような美しい円形となり、描かれた術式は芸術品のよう。難解なのに、少なくとも「複数の魔法が絡み合っている」ということは一見してわかるそれは、時間をかければソフィにも読み解けるだろうシンプルな構造で、だからこそ美しく、術者のレベルが桁違いであることがわかる。
「……!!」
――あの、孤独の日々。
横たわる「当たり前」の言葉にすり減る日々の中、ソフィーリアがただ己のためだけに、己の好奇心を満たすためだけに。思考の海に身体を委ね、考えて考えて考えて、答えを手にする歓び教えてくれた本。
ソフィーリアを魔女にした、あの魔導書のような魔法陣が、ここにある。
「っ」
ソフィの胸に広がった、この気持ちを人はなんと呼ぶのだろうなあ。
どれほど高度な授業を受けても、どれほど高名な教師に学ぼうとも、自分の気持ちひとつ言葉にできない無力さにこそ、ソフィは高揚した。ああ、ああ。この世のなんと広く大きなこと。ソフィなんざ知らん顔で世界は誰かや誰かを乗せ回り続けている。ソフィはその一部に過ぎない。
だからソフィは、望むままに、好きな形の日常を歩んで行ける。
「さって、あのジジィんとこ行こかね」
ルーベニスはまさしくソフィなんぞ気にもとめずに立ち上がり、馬車を降りて行った。
「ソフィ?」
座り込んだままの自分を呼ぶ声に、ソフィは顔を上げる。
ソフィのつまらん日常を切り裂いてくれた美貌にめちゃくちゃキスしてやりたい気分になって、ソフィは笑った。
「リヴィオが大嫌いよ」
「ひん!」
なんともしまらん台詞であるが、ソフィよりもソフィを知るリヴィオも負けじと変な声を上げたのでよかろう。ね、ほら、あれ。お似合いのカップルじゃん?
「妖精とやらはわからんが、そういえば変な声を聞いたな?」
ソフィとリヴィオが馬車を降りると、ザスとルーベニスが話をしているところだった。魔法陣が安全なものになったことを聞いたのだろう。落ち着いた様子である。良かった。また喧嘩をしていたらそれこそ台無しである。
「低い声ですか?」
ソフィが問うと、ザスは「ああ」と顎を撫でた。
「昔、人気の旅芸人の歌を聞いたことがあるが、ああいう声だったな」
低くどこか甘い響きの声を思い浮かべながら、ソフィは頷く。
「人が良さそうな」
「というより、馬鹿っぽかったな」
「え」
馬鹿。
馬鹿とはまた……ストレートだなこりゃ。
「何があった、っていうかザスは何を言ったんです?」
笑うリヴィオに、ザスは眉を上げた。
「どういう意味だよ。俺はただ休憩してただけだ。急に声をかけられたんだよ。なんだったか、あ」
ザスは、口を開けて停止した。
そして、ゆっくりと再びリヴィオを見る。
「言った。言ったな。そうだ。早く帰りてえなあって独り言を言ったんだ。そうしたら、聞かれた」
「なんて?」
「どうしたら帰れるんですかって、だから……」
あらあら。ザスは、ぎゅうと眉を寄せると、あっちにこっち、視線を動かすではないか。「あ〜〜」なんて頭をかいて、わかりやすいなあ。つまりはこれ、当たっちまったんだな。心当たり、ってやつに。
「そしたら? 妖精はなんて?」
うっわあ。
ソフィは声に出さずに思った。
ルーベニスの意地の悪そうなニタニタ顔ったら、ザスにぶん殴られても文句が言えない酷さだ。逆ならルーベニスはきっと罵詈雑言を浴びせているに違いない。
人の嫌がることをしてはいけません。
大切なことを人は見失いがちであるとソフィは改めて自戒する。こうはなるまい。
ルーベニスに思うとことはあるだろうが、それを発することなく、ザスは歯を食いしばるようにして言った。
「……荷が、なくなりゃいいって答えた」
「あーっはっはっは!! それや! それやわ!! 『荷をなくす』ことだけが目的やからこうなったんやな!! ひー! 腹痛ぇ!!」
「……ぶん殴っていいか」
笑い転げるルーベニスに恩義を感じているのだろうか。『殴る』では済まなそうな暗い瞳で拳を握りながらも耐えている様子のザスに、ソフィは首を振った。気持ちはわかるけどね。
「だめですよ。素人がヤバイ奴に手ぇ出したら。僕が代わりに殴りましょう」
「駄目です」
気持ちはわかるんだけど、ね。生き生きと笑うリヴィオのお顔は可愛いんだけどね。
ソフィはリヴィオがぶんぶん振る拳に手を添えた。
「ザスさん、その声は他に何か言っていましたか?」
「いや、『そっか荷がなくなれば良いんですね!』つって、それっきりだった。化かされたにしちゃ間抜けな口調だしよ。なんだったんだと思いはしたが、俺には何も変わったことは起きてねぇように見えたし、馬に水やってたら」
つい、とザスは嫌そうな顔でルーベニスを指さした。
「これが来た」
「あぁん? これぇ? 失礼な奴やなぁ。だーれのおかげで馬車が爆発せんですんだと思ってんの」
腕を組むルーベニスに、また喧嘩か、とソフィは身構えたが、ザスはきまり悪そうに目を逸らした。
「そ、れは、まあ、その、悪かった。ありがとよ」
「おお」
ルーベニスの煽りに屈することなく礼を告げるザスに、リヴィオが感嘆の声を上げる。
馬車が爆発せずにすんだのはまさしくルーベニスのおかげであるが、話がややこしくなったのもルーベニスのおかげであるからして。ルーベニスの、いかにも怪しい風体と、遥か上空から人を見下ろしているかのような物言いを思えば、ザスの心中たるや。
「お礼を言う態度やないんやない? 人んことさんざん好き勝手言うてたしさあ、もうちょっと誠意を見せてほしいなあ! ねえ!」
「ルーベニス様!!」
「屑か」
「屑だな」
「一周回って清々しいぜ」
きらきらとした笑顔で叫ぶルーベニスを前に、頷きあう男三人。
ソフィは大きなため息をついた。もうなんか頭痛い。
「ルーベニス様、揉めている場合ではありません。妖精に悪意がなくとも、魔法を使ったいたずらが立て続けに2件も起きているのです。他にも被害者の方がいるかもしれません」
「あ、それはおもろいな」
おもろくない。なんもおもろくない。
ソフィはついに頭をおさえた。
いっそ、この男のようにただの愉快犯であれば良かったのだ。いや、良くはないが、動機は簡単だろ? 捕まえてお仕置きして、二度とやりませんって反省文でも書かせりゃ良い。それで終いにできるかどうかはさておいて、話が単純だ。
ところが、あの妖精にはきっといたずらをしている自覚がない。
悪意どころか、きっと純度百パーセントの善意で動いている。良かれと思って手伝おうと手を伸ばしてテーブルをひっくり返すような、そういう空回りをしているのだ。まあ、迷惑ではある。だってザスの馬車は爆発するところだったし。
けれど。
けれど、憎めないというか、憎みたくないというか。ソフィは妖精の行動に、どこか必死さを感じてしまうのだ。
──だって、あの妖精は消えかけていた。
ソフィにかけた魔法は、妖精のお礼の気持だったとしよう。では、なぜザスにも魔法をかけた? 消えかけていたほど、魔力をすり減らしていたのに、なぜ。
「妖精の目的はなんなのかしら」
からからと。からからと。大きな歯車を必死で回す音が聞こえる気がして、ソフィは左手の指輪を撫でた。





