第七回 書かれなかった始まり
数日後、遼は図書館を再び訪れた。
調べたいことは一つだけだった。
灯台便は、いつから始まったのか。
郷土資料室では、前に会った司書が窓を開けていた。
海風が古い紙の匂いを運んでくる。
「また灯台ですか。」
司書は笑った。
「ええ。」
遼も笑い返す。
「今度は、始まりを知りたくて。」
司書は少し考え込み、
「始まりですか。」
と小さく繰り返した。
「実は、それが一番分からないんです。」
◇
棚の奥から、何冊かの郷土誌が運ばれてきた。
開港史。
町制施行五十周年記念誌。
漁業百年史。
灯台そのものについては、それなりに記録が残っている。
いつ建てられたか。
誰が灯守だったか。
いつ役目を終えたか。
しかし、「手紙」の話になると急に曖昧になった。
一冊だけ、町史の余白に近い小さな欄へ、数行の文章が載っている。
岬の灯台には手紙を置く者があったという。
いつ頃から始まったものかは定かではない。
灯守が預かったとも、預からなかったとも伝えられる。
それだけだった。
引用元もない。
証言者の名もない。
「これだけですか。」
「ええ。」
司書は静かに頷く。
「この町史を書いた先生は、とても几帳面な人だったそうです。」
「そうなんですか。」
「確かな資料がないものは、ほとんど載せませんでした。」
「では、これは。」
「載せるかどうか最後まで迷ったそうです。」
遼はその短い文章をもう一度読んだ。
事実を伝えたいというより、
『こういう話も残っている』
とだけ記しているようだった。
◇
「一つだけ、面白いものがあります。」
司書は立ち上がり、別の棚から薄い冊子を持ってきた。
町役場が二十年ほど前に作った報告書だった。
内容は、古い公共施設の保存について。
灯台もその中に含まれていた。
遼はページをめくる。
建物の老朽化。
補修費用。
安全対策。
どれも事務的な文章が続く。
最後のページ近くに、一行だけ手書きの書き込みがあった。
コピーの段階で薄くなっている。
郵便受けは現状維持。
理由は書かれていない。
誰が書いたのかも分からない。
「郵便受けだけ?」
遼が呟く。
「ええ。」
司書も首を傾げる。
「報告書には撤去案もあったようですが、結局そのままになっています。」
「どうしてでしょう。」
「そこまでは分かりません。」
司書は苦笑した。
「古い町は、理由がなく残っているものも多いですから。」
◇
図書館を出る頃には、雲が増えていた。
遼は歩きながら思う。
誰も始まりを知らない。
誰も理由を知らない。
けれど、郵便受けだけは残っている。
それは誰か一人の意思ではなく、
何十年もの間に、
「そのままでいい」
と思った人が何人もいたということなのかもしれない。
◇
帰り道、岬へ続く道を通った。
灯台へは向かわない。
今日はそのつもりではなかった。
坂の途中で、若い女性が封筒を手に歩いてくるのが見えた。
二十代くらいだろうか。
会社帰りらしく、小さな鞄を肩に掛けている。
遼とすれ違う時、女性は軽く頭を下げた。
遼も会釈を返す。
それだけだった。
数歩進んでから、遼は何となく振り返る。
女性は岬の方へ歩いている。
灯台へ向かうのか。
海を見に行くだけなのか。
それは分からない。
遼は、そのまま帰ることにした。
知りたいとは思わなかった。
人には、人の届け方がある。
そんな考えが、いつの間にか心へ馴染んでいた。
歩きながら、遼は初めて思う。
灯台は、手紙を届ける場所ではないのかもしれない。
手紙を手放す場所なのだ、と。
その考えが正しいのかどうかは分からない。
ただ、その日の夕暮れの町には、よく似合っているような気がした。




