第六回 知っている人、知らない人
少女の残した紙片は、机の引き出しへしまった。
遼は何度か取り出して眺めたが、それ以上のことは分からなかった。
書かれていたのは、
「最初の一通をありがとうございます。」
ただ、それだけだった。
手紙は灯台へ置いてきた。
それなら、この紙片はどこから来たのだろう。
考え始めると、答えよりも疑問の方が増えていく。
遼はひとまず考えることをやめた。
郵便配達は、今日もある。
◇
昼過ぎ。
配達を終えた帰り道、遼は古い文具店へ立ち寄った。
切手を集めるのが趣味の店主なら、昔の郵便の話を知っているかもしれないと思ったのである。
「灯台へ手紙を置く話ですか?」
店主は首をかしげた。
「初めて聞きました。」
次にクリーニング店で尋ねた。
「灯台?」
「いやあ、登ったこともありません。」
花屋の主人も、
「そんな話があるんですか。」
と笑った。
八百屋でも、魚屋でも、喫茶店でも同じだった。
遼は少し安心した。
灯台便は町中が知っている秘密ではない。
むしろ、多くの人にとっては存在しない話だった。
◇
夕方近く。
最後の配達を終え、港へ向かう坂を歩いていると、小さな漁具店の前で老人に呼び止められた。
「郵便屋さん。」
見覚えのない老人だった。
「灯台のことを聞いて歩いているそうだね。」
遼は驚いた。
「どうしてご存じなんですか。」
「文具屋の親父から聞いた。」
町は思っていたより狭い。
老人は店先の椅子へ腰掛けるよう勧めた。
「灯台へ行ったことがありますか。」
遼が尋ねる。
老人はしばらく海を見ていた。
「一度だけ。」
「いつですか。」
「四十年くらい前かな。」
「何度も行く場所では。」
老人は静かに首を振る。
「一度で十分だった。」
「何かお願い事を。」
「違う。」
老人は笑う。
「もう会えない友達に、手紙を書いた。」
それ以上は話さなかった。
遼も聞かなかった。
沈黙が気まずくならない時間だった。
やがて老人は立ち上がる。
「君は何を届けた。」
「……まだ分かりません。」
「そうか。」
老人はそれだけ言って店の奥へ入っていった。
◇
その帰り道だった。
岬へ続く道の途中で、一人の高校生が歩いているのが見えた。
制服姿の少年は、茶色い封筒を片手に持っている。
遼は何となく立ち止まった。
少年は灯台の方へ歩いていく。
声を掛けようとは思わなかった。
配達中でもない。
知り合いでもない。
十分ほど海を眺めてから帰ろうとすると、今度は少年が戻ってきた。
手にはもう封筒はない。
すれ違う時、少年は軽く会釈をした。
遼も会釈を返す。
それだけだった。
何も話さない。
灯台の話もしない。
けれど、遼は不思議と安心した。
自分だけではない。
それでも、町中の誰もが知っているわけでもない。
それぞれの人生の中で、一度だけ思い出す場所がある。
灯台は、そんな場所なのかもしれない。
◇
岬を下りる途中、赤い傘が見えた。
今日は晴れている。
少女は傘を閉じたまま持って歩いていた。
「こんにちは。」
遼が声を掛けると、少女は立ち止まった。
「こんにちは。」
まるで昨日も会った友達のような自然さだった。
「君に聞きたいことがある。」
「うん。」
「どうして、あの日、僕に手紙を渡したの。」
少女は少し考えた。
「郵便屋さんだったから。」
「他の人じゃだめだった?」
「だめじゃないよ。」
少女は首を横へ振る。
「でも、一番届けてくれそうだった。」
遼は笑った。
「結局、自分では届けなかったじゃないか。」
「うん。」
少女も笑う。
「だからお願いしたの。」
少しだけ風が吹いた。
少女の髪が揺れる。
「届いたと思う?」
遼が尋ねる。
少女は灯台の方を見た。
「まだ。」
その一言だけだった。
「まだ?」
「うん。」
「じゃあ、いつ届くの。」
少女は困ったように笑う。
「それは私も知らない。」
そう言って歩き出した。
「待って。」
遼は呼び止める。
「名前くらい教えてくれないかな。」
少女は振り返る。
夕日を背に、小さく笑った。
「今度ね。」
そう言って坂を下りていく。
遼は追いかけなかった。
少女の姿が角を曲がって見えなくなっても、不思議と焦る気持ちはなかった。
灯台は、まだそこにある。
そして、自分もまだ、この町にいる。
それだけで十分な気がした。




