第五回 古い習慣
翌週の月曜日。
郵便局では朝礼が終わると、それぞれの配達区域へ散っていく。
遼も鞄を肩に掛けようとした時、吉村が思い出したように言った。
「そういえば、お前がこの前言っていた灯台の話だが。」
遼は足を止めた。
「一人だけ知っているかもしれない人がいる。」
「どなたですか。」
「去年退職した坂井さん。」
吉村は古い時計を見上げる。
「毎週月曜だけ局へ顔を出す。盆栽に水やるのが趣味なんだ。」
遼は局の裏庭へ回った。
植木鉢が並ぶ一角で、小柄な老人が如雨露を持っていた。
白髪は短く刈られ、郵便局の帽子だけが妙に新しい。
「坂井さんですか。」
「そうだけど。」
「柏木といいます。」
老人は穏やかに頷いた。
「吉村から聞いたよ。」
「灯台便をご存じですか。」
坂井は笑わなかった。
驚きもしなかった。
まるで、いつか誰かに聞かれると知っていたようだった。
「今でもあるんだな。」
「ご存じなんですね。」
「いや。」
老人は植木へ水をやりながら言う。
「知っているというより、教わった。」
「何をですか。」
「昔はな。」
如雨露を置く。
「宛名が読めない手紙や、どうしても届け先が分からない手紙があると、一晩だけ北向きの窓へ置くことがあった。」
「北向き。」
「灯台がある方角だ。」
遼は黙って聞いた。
「翌朝になると、不思議と差出人が見つかったり、届け先が判明したりすることが多かった。」
「本当ですか。」
「分からん。」
坂井は肩をすくめた。
「偶然かもしれん。」
「いつ頃まで。」
「私が新人の頃には、もう誰もやっていなかった。」
「それでも教わった。」
「そう。」
少し笑う。
「理由も知らずにな。」
遼は思い切って尋ねた。
「灯台へ持って行くことは。」
「なかった。」
即答だった。
「少なくとも郵便局としてはな。」
その言葉が妙に印象に残った。
郵便局としては。
では、それ以外では。
そう聞こうとした時、坂井は自分から話を変えた。
「柏木君。」
「はい。」
「配達していて思うことはないか。」
「思うこと。」
「手紙というのは、届く前から誰かのものなんだ。」
遼は意味を考えた。
坂井は続けない。
それだけ言うと、再び植木へ水をやり始めた。
◇
その日の配達は、どこか落ち着かなかった。
住宅街を歩きながら、遼は何度も灯台のある岬へ目を向ける。
町のどこからでも、あの白い塔は見えた。
見えているのに、近くない。
まるで町の景色の最後尾に立っているようだった。
◇
夕方。
仕事を終えた遼は、寄り道をせず岬へ向かった。
今日は二通とも持ってきている。
少女の封筒。
空き家の封筒。
灯台は昼間と変わらず静かだった。
郵便受けへ手を掛ける。
中は空だった。
前回見た「灯守さまへ」の封筒もない。
遼はしばらく考え、少女の封筒だけを取り出した。
空き家の封筒は鞄へ戻す。
理由は自分でも分からない。
ただ、今届けるべきなのは、こちらだと思った。
封筒を郵便受けへ入れる。
金属の底へ触れる、小さな音がした。
それだけだった。
何も起こらない。
風が草を揺らし、波が砕ける。
灯台は黙ったままだ。
遼は少し笑った。
「……そうですよね。」
自分でも何を期待していたのか分からない。
振り返り、石段を二、三段下りた時だった。
「ありがとう。」
誰かがそう言った気がした。
男とも女ともつかない。
年寄りにも子どもにも聞こえる。
あまりにも自然な声だった。
遼は振り返る。
灯台しかない。
郵便受けも閉じたまま。
人影はどこにもなかった。
しばらく立ち尽くしていたが、結局もう一度歩き出した。
帰り道、海は夕焼けに染まっていた。
◇
家へ戻ると、鞄の中を確かめた。
空き家から持ち帰った封筒はある。
紙片もある。
少女の封筒だけがなくなっていた。
灯台へ置いてきたのだから当然だ。
当然なのに、遼は妙な違和感を覚えた。
あの封筒は、確かに自分が灯台へ置いた。
それで終わったはずだった。
しかし、机へ鞄を置いた瞬間、小さな紙片が床へ落ちた。
拾い上げる。
便箋の切れ端だった。
そこには、少女の字によく似た筆跡で、ただ一行だけ書かれていた。
「最初の一通をありがとうございます。」
遼は静かに紙を裏返した。
裏は白紙だった。
それが少女の封筒から落ちたものだったのか。
それとも最初から鞄の中にあったのか。
どうしても思い出せなかった。




