最終回 配達の途中で
夏が終わりに近づいていた。
朝の風には、わずかに秋の匂いが混じるようになっている。
柏木遼は今日も郵便局で鞄を受け取り、配達区域へ向かった。
特別な一日ではない。
いつも通りの火曜日だった。
郵便受けへ封筒を入れ、判子をもらい、挨拶を交わす。
変わらない仕事だった。
それでも、灯台のある岬を見上げることだけは、以前より少し増えていた。
理由を考えることはない。
ただ目が向く。
それだけだった。
◇
昼前、新しい住人へ転居届を届けた。
若い夫婦だった。
玄関先にはまだ段ボールが積まれている。
「よろしくお願いします。」
そう言われ、遼も笑って頭を下げた。
町には毎年、誰かがやって来る。
誰かが去り、
誰かが住み始める。
郵便配達員は、その境目に立ち会う仕事なのだと、最近になって思うようになった。
◇
午後、港へ向かう坂を下る。
向こうから、一人の老人が歩いてきた。
胸ポケットには白い封筒が少しだけ見えている。
海へ散歩に行くのかもしれない。
病院の帰りかもしれない。
灯台へ向かうのかもしれない。
遼は考えなかった。
会釈だけ交わしてすれ違う。
老人も何も言わなかった。
◇
その日の最後の配達を終えた帰り道だった。
交差点の向こうで、赤い傘が見えた。
晴れているので、傘は閉じられていた。
少女だった。
初めて会った日と同じように、小さな白い封筒を抱えている。
遼は立ち止まる。
少女も一瞬だけこちらを見る。
二人は何も話さない。
少女は小さく会釈をした。
遼も同じように頭を下げる。
それだけだった。
信号が青に変わる。
少女は岬の方へ歩き、
遼は町の方へ歩く。
互いに振り返らなかった。
◇
数歩進んだところで、遼は空を見上げた。
雲がゆっくり海の方へ流れていく。
灯台は、その向こうに小さく立っている。
あの日から、灯台の秘密は一つも分からなかった。
誰が始めたのか。
誰が郵便受けを残したのか。
少女は誰だったのか。
灯守はいたのか。
答えは何も知らない。
知らないままでよかった。
配達をしていると、ときどき差出人の気持ちを想像することがある。
封筒の重さ。
筆跡。
貼り直された切手。
そこには、それぞれの時間が入っている。
けれど、その先でどのように受け取られたのかを知ることは、ほとんどない。
郵便配達員とは、届いたことだけを信じる仕事なのだ。
遼は、ふと笑った。
灯台も、同じなのかもしれない。
届いたかどうかではなく、
誰かが届けようとしたことを、
静かに受け取る場所。
そう思うと、あの郵便受けが何十年も残されてきた理由を、少しだけ理解できる気がした。
◇
翌朝も、遼はいつもと同じ時間に家を出た。
郵便局へ向かう途中、岬が朝日に照らされているのが見える。
灯台は白く光っていた。
灯りは、とっくの昔に消えている。
それでも町のどこからでも見えるその姿は、昔と変わらず海を見つめていた。
遼は歩みを止めなかった。
今日も届ける手紙がある。
それだけで、一日は始まる。
そして岬では、誰かがまた一通の封筒を、静かに手放すのかもしれない。
そのことを確かめるために振り返ることは、もうなかった。




