第二回 町に残る記録
翌朝、柏木遼は昨日預かった封筒を鞄へ入れた。
郵便局へ届けるべきなのか、それとも遺失物として警察へ持っていくべきなのか。結論は出なかった。
勤務前、もう一度だけ少女が消えた坂へ向かうことにした。
昨日と違い、空はよく晴れていた。
雨が去ると、海の青さは町の色まで変えてしまう。昨日は灰色に沈んでいた家並みも、今日は古びた木の色が柔らかく見えた。
坂の上には相変わらず五軒の家が並んでいる。
昨日聞き込みをした家々は、どこもいつもの朝を迎えていた。
洗濯物を干す人。
庭を掃く人。
犬を散歩させる老人。
だが、赤い傘の少女を知る者は誰もいない。
唯一、坂の角を曲がった先にある空き家だけが、時間から取り残されたように静まり返っていた。
門柱の脇には古い郵便受け。
昨日見つけた封筒は、遼が持ち帰ったため中は空になっている。
郵便受けの内側を覗くと、底に紙片が一枚張り付いていた。
慎重に取り出す。
切れ端だった。
文字はほとんど読めない。
ただ、
――……台……
という二文字だけが残っている。
灯台なのか、展望台なのか、それすら分からない。
遼は紙片を封筒と一緒にしまい、郵便局へ向かった。
その日の配達を終えると、遼は倉庫の整理をしていた吉村へ声を掛けた。
「古い配達台帳って残っていますか。」
「年度によるな。」
「三十年くらい前です。」
「そんな昔か。」
吉村は棚の一番奥を指差した。
「処分しきれなかった箱ならある。」
埃をかぶった段ボールが何箱も積まれていた。
遼は一冊ずつ開いていく。
昔の住所。
転居届。
配達区域図。
町は少しずつ変わっているが、坂の上の住宅はほとんど変わっていない。
やがて一冊の古い住宅地図が見つかった。
空き家には確かに家族が住んでいた。
表札には、
「朝倉」
という姓だけが記されている。
家族構成までは残っていない。
転居先も分からない。
だが、不思議なことが一つあった。
住宅地図の余白に、誰かが鉛筆で小さく書き込んでいる。
「灯台便 配達外」
正式な記録ではない。
誰か局員の走り書きだろう。
しかも赤線で消されていた。
「吉村さん。」
遼は地図を見せた。
「これ、知っていますか。」
吉村はしばらく眺め、
「初めて見る。」
とだけ答えた。
「配達外って。」
「正式な業務じゃなかったんだろう。」
「じゃあ、どうして書いたんでしょう。」
「さあな。」
吉村は首を傾げた。
「郵便屋も昔はいろんな頼まれ事をしたらしいから。」
その答えは曖昧だった。
しかし、少なくとも「灯台便」という言葉を誰かが郵便局の中で知っていたことだけは確かだった。
夕方。
遼は仕事帰りに町立図書館へ立ち寄った。
海の見える小さな建物で、利用者も多くない。
郷土資料室には年配の司書が一人いた。
「灯台について調べたいんですが。」
「岬の灯台ですか。」
「ええ。」
「珍しいですね。」
司書は笑って奥の棚から数冊の町史を持ってきた。
町の開港。
港湾整備。
漁業の歴史。
灯台は何度か登場する。
しかし役目を終えた後については、ほとんど書かれていない。
ただ一冊だけ、古い新聞の縮刷版に小さな記事があった。
『最後の灯守、退職』
それだけである。
名前も写真も載っていない。
「これだけですか。」
「灯台は生活の一部でしたから。」
司書は言った。
「なくなった時より、あった頃の方が当たり前だったんでしょう。」
遼は頷いた。
記事を閉じようとした時、司書が思い出したように言う。
「そういえば。」
「はい。」
「昔、灯台へ手紙を置く人の話を聞いたことがあります。」
遼は顔を上げた。
「町史には載せませんでした。」
「どうしてですか。」
「事実か分からなかったからです。」
司書は少し申し訳なさそうに笑った。
「でも、不思議ですね。」
「何がですか。」
「そういう話は、十年に一度くらい誰かが調べに来るんです。」
「誰が。」
「皆さん違う人です。」
そこで話は終わった。
図書館を出る頃には、日が傾き始めていた。
海風は昼より少し冷たい。
坂道を歩いていると、遠くの交差点で赤い傘が揺れた。
昨日の少女だと思った。
遼は思わず歩幅を速める。
だが信号を渡って角を曲がると、そこには誰もいなかった。
残っていたのは、小さな花束だけだった。
白い野の花が三本。
道端の石垣に静かに置かれている。
供えられたばかりなのか、水滴がまだ花弁に残っていた。
遼はその花を見つめたまま、少女を探すことはしなかった。
代わりに、鞄の中の二通の封筒へ手を触れる。
町には記録が残っている。
けれど、記録にならなかったものも確かにある。
その境目が、少しだけ見え始めた気がした。




