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第一回 宛名のない配達

 海沿いの町には、もう使われていない灯台があった。


 岬の先に立つ、白く細長い建物である。かつては夜ごと海を照らしていたというが、港の設備が新しくなってからは役目を失い、今では観光案内の地図にも小さく記されているだけだった。


 それでも町の人々は、その灯台を完全には見捨てていなかった。


 月に一度、満月に近い夜になると、灯台へ手紙を置きにいく者がいる。


 誰に宛てたものでもない。


 生きている人には言えなかったこと、死んだ人へ伝えそびれたこと、あるいは自分でも誰へ向けているのか分からない言葉を書く。


 ありがとう。


 ごめんなさい。


 もう一度会いたい。


 手紙は灯台の入口にある古い郵便受けへ入れられる。翌朝には一通残らず消えているといわれていた。


 町ではそれを「灯台便」と呼んでいた。


 柏木遼は、その風習を信じていなかった。


 郵便配達員として働き始めて六年になる。宛名があり、住所があり、切手が貼られたものを、決められた場所へ届ける。それが手紙だった。


 誰にも宛てられていないものを、誰も住んでいない建物へ置くことは、配達とは呼べない。


 それでも、郵便局の窓口には年に何度か、灯台への手紙を出したいという者が現れた。


 そのたび局員は、郵便としては扱えないことを説明する。


 すると多くの人は恥ずかしそうに手紙を引っ込め、自分で岬まで持っていった。


 なかには怒り出す人もいた。


「昔は郵便屋さんが届けてくれた」


 そう主張する老人がいたが、記録にそのような業務は残っていなかった。


「昔というのは、都合よく作られるものですよ」


 先輩の配達員はそう言って笑った。


 遼も、だいたい同じように考えていた。


 昔からあったと皆が言っているだけで、本当にいつから始まったのかを知る者はいない。手紙が消えるのも、管理している誰かが処分しているのだろう。


 ただ、誰が灯台を管理しているのかは分からなかった。


 市役所の所有ではあるらしいが、建物は長く閉鎖されている。立入禁止の札があるわけでもなく、入口の郵便受けだけが、錆びながら今も残されている。


 町には、その程度の曖昧なものがいくつかあった。


 名前のない坂。


 誰も鐘を鳴らさない小さな教会。


 海へ続いているのに、満潮の時だけ途中で消える石段。


 暮らしている者にとっては、それらは不思議ではなかった。


 意味を考えなくても、そこにある。


 灯台もその一つだった。


 六月の終わり、昼前から雨が降り始めた。


 海の近くでは、雨は上から落ちてくるとは限らない。風に押され、横から顔へ吹きつけてくる。


 遼は濡れた帽子のつばを指で押さえながら、配達用の車を細い路地へ止めた。


 その日最後の一帯だった。


 古い住宅が並び、玄関の位置も表札の場所も家ごとに違う。道は途中から坂になり、その先には海が見えた。


 遼は束ねた郵便物を確認し、一軒ずつ配っていった。


 雨の日は嫌いではなかった。


 配達は面倒になるが、町から音が少なくなる。車も人も減り、郵便受けへ封筒が落ちる音だけが妙にはっきり聞こえる。


 最後の一通を届け、車へ戻ろうとした時だった。


「郵便屋さん」


 後ろから呼ばれた。


 振り返ると、赤い傘を持った少女が立っていた。


 年齢は十二、三歳ほどだろうか。白い半袖のシャツに紺色のスカートを履き、雨の中には少し薄着に見えた。


 少女は傘を差していたが、肩まで濡れていた。


「どうしました」


 遼が尋ねると、少女は一通の封筒を差し出した。


 白い、何の飾りもない封筒だった。


「これを届けてください」


 遼は受け取らず、封筒の表を見た。


 切手は貼られていない。


 住所もなかった。


 宛名だけが、青いインクで書かれていた。


 ――まだ会っていないあなたへ。


「これでは郵便としては出せません」


 遼はできるだけ穏やかに言った。


「住所が必要です。切手も貼らないといけません」


「住所は灯台です」


 少女は言った。


 声は小さかったが、雨音の中でも不思議とはっきり聞こえた。


「灯台便ですか」


 遼は少し息を吐いた。


「それは郵便局では扱っていないんです。自分で持っていってください」


「私は行けません」


「ご家族に頼むとか」


「家族はいません」


 少女は迷わず答えた。


 遼はようやく彼女の顔をよく見た。


 雨に濡れた黒髪が頬へ張りついている。泣いているようには見えなかった。困っているというより、決めたことを伝えに来た顔だった。


「どこに住んでいるんですか」


 少女は坂の上を指差した。


 そちらには古い家が何軒かある。だが、どの家を示したのかは分からなかった。


「名前は?」


 今度は少女は答えなかった。


 遼は封筒へ目を戻した。


 まだ会っていないあなたへ。


 奇妙な宛名だった。


 死んだ人や、別れた人へ書くなら分かる。だが、まだ会っていない相手へ何を伝えるというのだろう。


「中に何を書いたんですか」


「郵便屋さんは、手紙の中を聞くんですか」


 少女にそう言われ、遼は口を閉じた。


 正しい指摘だった。


 だが、これはまだ郵便ではない。


「灯台には届けられません」


 遼はもう一度言った。


 少女は少し考えるように首を傾けた。


「届けるのは、郵便屋さんじゃありません」


「では、誰が届けるんです」


「手紙が決めます」


 少女は封筒を遼の胸元へ押しつけた。


 反射的に受け取る。


 紙は濡れていなかった。


 雨の中でずっと持っていたはずなのに、封筒は乾いていて、わずかに温かかった。


「待ってください」


 遼が顔を上げた時には、少女はもう坂を上り始めていた。


 赤い傘が雨の向こうで小さくなっていく。


「これ、受け取れませんから」


 声をかけても振り向かない。


 遼は追いかけようとしたが、配達用の鞄を車へ置いたままだったことを思い出し、足を止めた。


 少女は坂の角を曲がった。


 赤い傘が見えなくなる。


 遼は手元の封筒を見た。


 差出人の名もない。


 住所もない。


 郵便局へ持ち帰れば、遺失物として扱われるのだろうか。それとも、その場で処分しても問題はないのだろうか。


 封筒を裏返す。


 封は青い蝋のようなもので閉じられていた。


 印章は灯台の形をしていた。


 遼は雨の中で、しばらくそれを眺めた。


 遠くで海鳴りが聞こえた。


 その音に紛れるように、岬の方角から鐘が一度だけ鳴った。


 あの灯台に、鐘などなかったはずだった。

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