#6
黒く石畳が敷かれた洗い場は、奥にこじんまりとした浴槽があった。木枠で囲まれた浴槽からは檜の香ばしい香りと湯の硫黄の香りが一体になっている。ここで焦ってはいけない。まずは洗体からだ。椅子に掛けられた桶をずらす。ソープの容器はオレンジ色のリンスインシャンプー、グリーンのボディーソープの二つだ。旅館にはラグジュアリーな体験を多くの人は求めるだろう、中にはリンスインシャンプーに難色を示す人だっているかもしれない。しかし、このチープさにはれっきとした理由があるのだ。この旅館は日帰り温泉としても利用されている。このリンスインシャンプーは現地の人間に繰り返し使われた、現地の知恵が生きた状態なのだ。チープさと片付けるには、あまりに巨大で、ここに生きる人が使っているままにある。オレンジ色に違わぬ、柑橘の香りが心地いい。もちろん馬油には勝てないが、そんなことなんて気にならないほどの生活を感じる。グリーンのボディーソープも青リンゴの香りが爽やかにする。
湯につかりながら、考える。湯口から流れる源泉かけ流しの音が、滴り落ちる結露の音が、湯から上る蒸気が私の雑念を流していく。最後に足が伸ばせる浴槽に浸かったのは、16、17の頃だろう。それから考えると、体もでかくなった。これだけ多くの湯に囲まれていると、自分と湯の境などなくなって一つの湯の塊になるような気を覚える。腕を動かせば、湯をまとうように水面が揺れる。タヒチにまで行かずとも、幸せはこんなにも近くにあったのか。
一度風呂を出て、露天へ行く。アルミだろうか、内外を隔てる金属の扉があった。ノブの茶色の塗装は、年季が入っているのかところどころ剥げていた。だがそれが良かった。昼間の暑さとは打って変わり、夜の外気は少し肌寒い。しかし、先ほどまで浸かっていた湯のおかげで体は湯気が出るほど温まっていた。露天風呂は岩が固められたつくりをしており、屋外にいるのだという解放感が感じられる。竹で組まれた柵の向こうには、裏山の森が広がっているがあいにくの暗闇だ。しかし、この暗闇がかえって落ち着く。
組まれた岩を背もたれにし、空を見上げる。星が点々と光るなかに、赤や緑の点滅がある。ここにも飛行機は通っているのか。私はあらゆることから距離を置くためにここへ来た。どうしようもない事実や変わり映えのない日常を脱することを求め。だが、こんなとこにも飛行機が飛ぶ。私の求めるところにさえ、日常は息をひそめているだけなのかもしれない。そんなことを考えるうちに、のぼせるのが怖くなったため、浴場を後にした。




