#5
フロントは電球と思わしき黄金色に照らされていた。柔らかく暖かな光に包まれたフロントマンに鍵を渡され、私は部屋へと向かった。渡り廊下は、年季の入った木の匂いと温泉街特有の硫黄の香りが漂っていた。温泉街だ。宿の中にいるからわかる。外にいるときは単なる雑音として感じられたが、ひとたび宿に入れば温泉への伏線へと変わるのだ。
階段を上がったところで私の部屋に着いた。ゆったりとした和室で、窓からは先ほどの橋、温泉街を眺めることができる。ゆっくりと伸びをしながら、部屋の空気を吸う。畳の香ばしい匂いだ。私は畳など縁もゆかりもないが、なぜこれほどまでに郷愁を感じさせるのか。歩くたびに畳の目に靴下が擦れる。積み重なったイグサが柔らかい。大理石のような冷徹さではない、受け止め跳ね返す。このやさしさに包まれながら人は生きているのか。
荷物を寄せ、座椅子に腰掛ける。一息つくと、遠くからカエルの鳴き声が聞こえる。正確にはカエルかどうかなどわからないが、鳥以外の鳴き声が聞こえるなんてことは初めてのことだ。鳩やカラスなんかは何度もある。裏路地や駅の周りなんかで、捨てられたごみやよくわからない溶解液の塊をむさぼってる姿を見る。あれも生物の形でもあるが、遠くに聞こえるなんてことはなかった。改めて思う。私は今、異国にいるのだ。どうしようもなく未開に。駅名なんてない場所だ、このまま眠りについたっていい。
そんなことはもったいない。備え付けの手ぬぐいを片手に、私は浴場へと向かうこととした。軋む床板に思いを馳せながら進む。この床の軋みは、人々の期待の総決算だ。私が期待に胸を寄せ足早になるように、かつての客人もこの廊下を進んだに違いない。脱衣所の扉に手をかける。ここはビンテージの木が使われながらも、現代風にリノベーションされている。おそらく浴場の湿気がそうさせたのだろう。
脱衣所には、浴場の熱気がうっすらと漂っていた。夕食前ということもあり、個室サウナのような混雑具合はない。図書館にあるような給水器や体重計、木を編んだ籠などレトロチックさがたまらない。これは人が使っているものなのだなという安心感すら感じる。とにかく服を脱ぐ。風呂はいい。誰がいるだとか、どう振る舞わなければならないだとか、そういった猥雑さから逃れて存在のままでいられる。すべてを籠の中に入れ、私は浴場へと向かった。




