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峡谷にも似た坂を下る、古めかしい旅館の瓦が暖色に照らされるのが見えた。博物館に展示される甲冑の艶やかさ、甲虫にも似た無骨さは伝統の底力を感じさせる。この温泉街も生きたままそこにある。繰り返される無秩序な改革、新しさという欺瞞にかられることもなく、自分の強さに誇りを持ち今日まで営業してきたのだ。私たちも社会では常に新しさを求める。ブルーオーシャンだとか新規開拓だの挑戦という言葉にかまけて自分の持ち味を忘れ、スキルという手札を増やし続けるのだ。そんなことに何の意味があるというのだろう。私はそう言った世論に踊らされることなく、私を営業していきたい。
温泉街を縦断するこの川でさえそうだ。川岸は掘り下げられており、積み上げられた石には苔が生している。苔のむすまでとはよく言ったもので、それほどの時間をかけてこの空間は醸成されているのだ。何事も最短距離が大事なわけではない。王道をそれる、そんなことがあってもいいではないか。ここでは時間が引き延ばされている。ここにいる私はその中に息をしている。
朱色の手すりを感じながら、橋を渡る。川の流れに沿う木目が美しい。この一体感。改めて私はここにいるのだ。漆喰と木材のコントラストが表すモノクロの色合い。古めかしい佇まいの苔来屋、ここが私が今回泊まる宿だ。入口は自動で開かない。手をかけて横へスライドさせるのだ。この木の手触り、質感は人工的には決して作ることのできない、時間による人間の積み重ねを感じさせる。ある人は旅行で訪れたのかもしれない、もしくは仕事で数百年前に来た人だっているはずだ。それをこの手で感じれることが、ただただ嬉しいのだ。
戸を開くと、柔らかな光が私を受け入れた。2メートルにも達しそうな靴箱が、私を挟む。年季を感じさせる濃い素材の色、金剛力士像のような圧迫感。一体何人の異郷人を迎え入れてきたのだろうか。この上がり框もいい、体重の移動によって自然に擦り減り、私の足にもしっかりフィットしながら優れたグリップ感がある。私はその足でフロントへ向かった。




