エピローグ
長く過酷な残暑がようやく終りを迎え、涼しさと金木犀の香りが気持ちを落ち着けてくれる十月の夕方。
駅前に立つ阿部聖愛はソワソワとしていた。
デニムのポケットから何度もスマホを取り出して時間を確認し、駅の出入り口を見つめていた。
今日はシュバルシャーフこと、黒柳羊子との初デートの日だったから。
しかもおうちデート。
部屋の掃除はこれでもかとした。イマジナリー姑にチェックをされてもほめられるくらいに。
お布団は太陽光で干物になるんじゃないかというくらい干しに干して、シーツと枕カバーも新品の洗いたてを用意した。
何があってもいいように。
大学終わりの羊子がマンションの最寄り駅に降臨するのを、聖愛は今か今かと一日千秋の思いで待ちわびていた。
どこからか六時を告げるチャイムが聞こえてきて、駅前には制服やスーツ姿が増えていく。行き交う制服とスーツをぼんやり見つめる聖愛の胸に、苦い思いが広がっていった。
ああ、私はいったい何ヶ月もの間、ああゆう社会的に胸を張れる格好をしていないのだろう。いい加減にちゃんとしたところに再就職しなきゃと思うのに、どうしていつまでもバカみたいに魔法少女なんてしているのだろう。
九月の連休にあった親戚の集まりにうっかり顔を出してしまったときの、あの気まずさ。
「えっ、聖愛ちゃん新卒で入った会社もうやめちゃったの!?」
デリカシーのないことでおなじみの、声の大きなおじさんの言葉が耳にこびりついて離れない。
「それはヤバいでしょ、いくら資格はあっても前歴がそれじゃあさあ。えっ、それで今は何やってるの?」
堂々と胸を張って「魔法少女です!」なんて言えるわけもなく、小声でボソボソと「就活中です…」と答えたときの両親の渋い顔。気遣い屋のおばさんがとりなしてくれたときの空笑い。触れちゃいけない感がひしひしと伝わってくる気まずい空気。
ああもう、消えてなくなりたい。魔法で私という存在をなかったことにしたい。私がいた痕跡すべて、アカシックレコード的なものを跡形もなく消し去ってしまいたい。
今度ブランさんにそういう魔法がないか聞いてみよう。
そんな魔界みたいなことを考えていると、羊子からのLINEが届いて嫌な記憶をすべてぶん投げた。
とりあえず今は羊子との時間を全力で楽しもうと満面の笑みを浮かべた。秒で現実逃避ができるのも魔法少女の大事な資質だ。
『もうちょいで着く』
絵文字もスタンプも何もないそっけない文章。でもそれが不器用な感じがして愛しい。
聖愛はハートの絵文字満載の返事をして羊子が来るのを待った。
さっきまでは一刻も早く会いたいと思っていたのに、いざ会えるとなると緊張してくる。
どうしよう、なんて声をかけよう。呼び方は羊子ちゃん、でいいんだよね。魔法少女状態じゃないんだし、うん、羊子ちゃんだ。
羊子ちゃんは私のことなんて呼んでくれるんだろう。
聖愛ちゃん、はなさそうだな。だって羊子ちゃんだし。いやでもわかんないな。元カノのことは麻友ちゃんって呼んでたし。ワンチャン聖愛ちゃんの可能性もあるのでは。
いやでも待って、そもそも私たちの関係ってなんなの。友だち?恋人?友だち以上恋人未満?
告白、まではたぶんしてない。いや、私的にはひとりぼっちにさせない、っていうのは告白的なニュアンスもあると思っていたんだけど、羊子ちゃんはどう受け取ったんだろう。
いや待って、そもそも羊子ちゃんは私のことをどう思ってるの。
いつも私が押せ押せで、羊子ちゃんからのアプローチってほとんどない。この前ちょっとデレて甘えてくれたくらいで、連絡先を交換してから連絡するのはいつも私から。羊子ちゃんから連絡がきたことって一度もない。
通話していいか聞くと都合を合わせてくれるけど、羊子ちゃんからは私の声が聞きたいとは言ってくれない。おやすみを切り出すのもいつも羊子ちゃんだ。私はまだまだ羊子ちゃん成分が足りていないというのに。
あれっ、ちょっと待って。もしかして私、ひとりで舞い上がり過ぎていたのでは。
私のクソデカ感情を、羊子ちゃんは持て余しているのでは。いやでも、そう思っていたらおうちデートに応じてくれないだろうし。ほんとに嫌ならありもしない用事をでっち上げてでも断られそうだし。
ああ、でも、わからない。羊子ちゃんはタダメシ食えてラッキーくらいな感覚なのかもしれない。ご飯食べて即解散、とかもあり得るかもしれない。せっかく買っておいたバスボムを、ひとりさみしく湯船に浮かべることになってしまうのでは。
あっ、だめだ。そんなことになったら孤独過ぎて、何かあったときにヒトカラで歌っている宙船を熱唱してしまうかもしれない。
「おい、そこの変なティーシャツ女」
「ひゃい…!?」
すぐ近くで聞こえた声に咄嗟に反応してから、聖愛は冷静になった。
変なティーシャツって、私のことじゃないよね。どうしよ、恥ずかしい。羊子ちゃんみたいな声だったからつい反応しちゃった。
「なんだよそのビッグフットみてえなの、そんなのどこで売ってんだよ」
「失礼な!これはビッグフットじゃなくてヒバゴンです!広島県の比婆山麓で1970年に発見されたUMAで、って羊子ちゃん!?」
ムッとして反論して、相手が待ち人だったことに気がついて、聖愛は一瞬で推しのUMAをディスられた怒りを収めた。
「な、なんだよ。じろじろ見やがって。ヘンタイかオマエは」
パンツ丸出しの闇魔法少女姿のイメージが定着していた羊子が、ちゃんと下着が隠れる服を着ている。それだけでもう聖愛はクララが立ったくらいの感動をしていたのに、その装いに目を奪われた。
エレガントな黒のリボンタイブラウスと、肩口に花のようなフリルがあしらわれたグレーのジャンパースカート。
シックで可憐なその装いは、闇魔法少女のときとは違って控えめなメイクをした羊子によく似合っていた。
「かわいい…。かわいい国宝にしたい…」
「会って三秒でなにバカみてえなこと言ってんだよ。いいから早くオマエん家行こうぜ。荷物が重くてしょうがねえよ」
服装にばかり気を取られていたが、羊子はけっこうな量の荷物を持っていた。背中にはリュックに、肩には大型のトートバッグ。
まるで小旅行にでも行くような出で立ち。
「あっ、ほんとだ。すごい荷物ですね。最近の大学生はこんなに物入りなんですか?」
「ちげえよ、大半がお泊りセットだよ」
「おとまり…」
その四文字に聖愛は目を見開き、瞳を潤ませた。
ああ、よかった。今夜ひとりでバスボムを湯船に浮かべて、いい匂いと孤独に包まれて、宙船を熱唱することはないんだ。
「ほら、ムダに乳デケえんだからこれくらい持て」
重量感のあるトートバッグを押し付けられても聖愛はにっこり笑って軽々と受け取った。暇な聖愛は近ごろ筋トレを始めたから無駄に腕力が育っていた。
「はい!羊子ちゃん!」
「オマエ耳元で大きな声だすんじゃねえよ」
「もう、羊子ちゃんったらさっきからオマエオマエって。ちゃんと名前で呼んでください」
「阿部さん」
「距離が遠い」
「なんの距離だよ。じゃあ阿部」
「だから名前で呼んでくださいって」
「阿部聖愛」
「フルネームはやめてください。恥ずかしいんで」
「あっ、それは恥ずかしいって感覚あんだな」
「そりゃ少しはありますよ。ってそうじゃなくて、ちゃんと聖愛って呼んでください」
前に回り込んでじっと見つめると羊子は夕陽くらい茜色に頬を染めて、聖愛にだけ聞こえるくらいのちいさな声で言った。
「マ、マリア…」
「はい、羊子ちゃん」
抑えきれないくらいの幸福に溢れた笑顔を向けられた羊子は、潤んだ瞳を見られまいと聖愛のそばを足早に通り過ぎた。
渇望していたものをふいに与えられて、耐えることなんてできなかった。
「あっ、待ってください羊子ちゃん。歩くの早いですよ」
足早に歩く羊子の影に、追いついた聖愛の影が寄り添うように並んだ。
「腹減ってんだよ。早くメシ食わないと空腹過ぎてヒバンゴになっちまう」
「ヒバンゴではなくヒバゴンですし、空腹でヒバゴンにはなりませんよ。いいですか羊子ちゃん、ヒバゴンというのはですねえ…」
「UMAの話するときは早口だなオマエ」
「あっ、またオマエって言ったー!今度からオマエって言ったら罰金取りますからね!」
「はいはい、マリアマリア」
「もう、そんな投げやりに呼ばないでください!」
夕陽に照らされたふたりの影は長く伸び、じゃれ合うようにくっついたり離れたりして、そのままひとつに溶け合うように重なった。
手を繋いで歩くふたりを、秋のたおやかな風がやさしくなでていった。




