第三十三話 一緒に切って、羊子ちゃん。同じ傷をつけよう
窓を打ち付ける雨の音とは正反対な、凪いだ湖面のような静けさを湛えた瞳で麻友は羊子を見上げた。
麻友は純白の、フリルがたっぷりついたお気に入りのネグリジェを着ている。
華奢な手首から流れ出る真紅の鮮やかさを引き立てる純白のネグリジェ。
間接照明の光に照らされた顔は人形のように白く、艶めくルージュの唇が目を引く。
左腕から流れ出た血は指先をつたい滴り落ちて、フローリングを濡らしてゆく。
ポタッ、ポタッ、と湿った音を立てて落ちて、静かに小さな血溜まりを広げてゆく。
羊子を見上げる瞳にはなんの感情も浮かんでおらず、二つのガラス玉が埋まっているかのように空っぽで、背筋が凍りついた。
そこには羊子が憧れていた、退廃的で、幻想的で、少女趣味な、理想の世界そのものが広がっていた。
恐怖によく似た感動。感動によく似た恐怖。
どちらも正しく、どちらも間違っているような、アンビバレントな感情の揺さぶり。
怖いけど、美しい。美しすぎて、目が離せない。
麻友は無感情な瞳を自分の手首に向けて、左手をゆっくりと持ち上げる。まるで羊子に見せつけるかのように。
流れ落ちた血が純白のネグリジェを犯し、広がる真紅。それを見つめる羊子は瞳を暗い悦びに輝かせた。
右手に持ったオモチャみたいなカッターナイフの刃が鈍く光り、新たな傷をやわな手首に刻んでゆく。
止めなきゃと思うのに、カッターナイフのちゃちな刃が薄い表皮を食い破り、血の玉を浮かび上がらせて、肉を裂いていく光景に魅入ってしまう。
新たに刻まれた傷から流れ出す、真紅の血液。
痛みに呻く麻友の声すらどこか官能的で、羊子は芯の部分が熱く疼くのを止められなかった。
麻友はそんな羊子に聖女のような慈愛に満ちた目を向けて、悪魔のような声でささやきかけた。
「一緒に切って、羊子ちゃん。同じ傷をつけよう」
花束を渡すかのように差し出されたカッターナイフの柄を、いつの間にか溜まっていたツバを呑み込んで凝視した。
麻友の血が滴り落ちる、どこにでもあるようなカッターナイフ。
受け取る手が震えているのは歓喜か恐怖か、羊子にはそれすら判別がつかない。
麻友はベッドに背をあずけたまま、陶酔したような眼差しを羊子に向けている。
これでうちも、手首を切る。麻友ちゃんと同じ傷をつける。
だけど、なんのために。
だって痛いよね、これ絶対。麻友ちゃんだって切るとき呻いてたし。
手首に押し当てた刃の冷たさと、予想していたよりも皮膚に食い込む鋭さに、羊子の手は震えて麻友の前にペタリとへたり込んだ。
これは恐怖だ。痛みの予感に怯える、紛れもない恐怖だ。
それを見て取ったのか、麻友があまやかな声音でささやく。
「切ったら赦してあげる。羊子ちゃんがあたしのことを裏切って、他の子とご飯に行ったこと、赦してあげるから、ね」
血で濡れた手でぬるりと頬を撫でられて背筋がぞわりとあわ立ち、手首から刃を離した。
「ちょ、ちょっと待ってよ。うちは麻友ちゃんのこと、裏切ってなんかいないよ」
「あたし以外の女の子とふたりだけでご飯に行くなんて、そんなの裏切り以外のなにものでもないよ。あたしのことを蔑ろにして、楽しい時間を過ごしていたなんて」
「違うって麻友ちゃん。話を聞いて。その子もゴスロリ好きで、でも昔のうちみたいに一歩を踏み出せなくて、悩んでて。だからうちもそれを応援したくなって今度、麻友ちゃんのお店で一緒に服を買いに行く約束もしたの。麻友ちゃんがうちを、応援してくれたみたいにしてあげたくて…」
「違う、違う違う違う!」
「ひっ…」
ヒステリックに叫ぶ麻友に、羊子はカッターを落として後ろに手をついた。
カチャリと軽い音を立てて床に落ちる、血で濡れた安っぽい刃物。
はっきりと怯えた態度を示す羊子に激昂したかのように、麻友は頭をかきむしる。
「羊子ちゃんにはあたしだけいればいいの!他の子なんていらない!あたしだけでいい!あたしと羊子ちゃんの二人だけでどうしてダメなの!あたしはこんなに羊子ちゃんが大好きで、愛しているのに!」
向けられた視線に宿る、自由を縛る鎖のような重圧に、羊子の胸に空虚な思いが広がっていった。
狭い鳥籠から引っ張り出してくれた人が、今度は別の鳥籠に自分を閉じ込めようとしている。
以前よりも狭い鳥籠に羊子を押し込めて、そこに二人で閉じ込もろうとしている。
こんなに麻友のことが大好きで、そばにいたいと思っているのに、どうしてこんなにもわかりあえない。
雨音が響く窮屈な鳥籠の中、麻友の腕からは真紅の血が滴り、羊子の瞳からは透明な雫が流れ落ちていた。
「うちは、麻友ちゃんと一緒なら、鳥籠から抜け出せると思ってた。ありのままのうちで、世界を広げていけるんだって、思ってた。だって麻友ちゃんがそばにいてくれるなら、怖いものはなにもないから。二人でならなんでもできるって、信じてた。だけど麻友ちゃんは、違ったんだね」
「あたしは羊子ちゃんとここにいられれば、それでいい。それだけでいい。でも、羊子ちゃんが望むならあたしもそれに合わせる。その子の服を一緒に選んで、仲良くだってする。だから一緒にいて。あたしのこと、嫌いにならないで」
「それは無理。無理だよ、麻友ちゃん…」
母親にすがる子どものような必死さで伸びてくる麻友の両腕を、羊子は大粒の涙を流しながら振りほどいた。
麻友の両目からも、降り注ぐ雨のように涙がこぼれ落ちている。
「そうしても麻友ちゃんがすり減るだけだし、無理させてると思うとうちも虚しくなる。そしてきっとまた、こんなことを繰り返す。うちらが一緒にいてもお互い疲れて、辛くなるだけだよ」
「やだ、やだよ羊子ちゃん。お願い、行かないで。離れないで。そばにいて」
一途に伸ばされる手を振り払い、羊子はすっと立ち上がって麻友に背を向けた。
繋がれていた鎖から逃れて飛び立つ、一羽の美しい鳥のように。
麻友は両手を床に突き、その下に落ちた血と涙が混じり合う。
「ごめんね、麻友ちゃん。さようなら。大好きだったよ」
「羊子ちゃん!」
すべてを奪われそうになるほど愛しい声を全身全霊で引き剥がし、羊子は狭い鳥籠から飛び出した。
飛び出した世界はアスファルトを叩きつける酷い雨で、けれどその中をひた走る羊子の顔は晴れやかだった。
何よりも大切で大好きな存在を失ったその分だけ、体が軽くなったような気がした。
今ならどこまでも走っていけそうで、夜の森を駆け抜けていたときのツィーゲ様もこんな気持ちだったのかと思う。
深い絶望を抜けた先にある、目眩がするような昂揚感。
降りしきる雨の中を高らかに笑いながら駆ける羊子の目からは滂沱の涙が溢れ、雨と混じり合って闇に消えてゆく。
すべてをまっさらに洗い流すような雨の中、それでも頬にこびりついた血は、呪いのように離れなかった。




