第三十話 うちはどんな麻友ちゃんでも、麻友ちゃんが大好きだから
ジジッと廊下の電灯が鳴る音だけが大きく聞こえる、気まずい沈黙。
うつむきがちになった羊子は、飼い主のご機嫌を伺う犬のように上目遣いに麻友の顔を見た。
そして気がついた。
化粧を落とした麻友の顔が、死人のように青ざめている。
会えなかった二週間ばかりの間に頬がこけてニキビができ、目の下に真っ黒なクマが浮かんでいる。
白い肌からはツヤが失われて、まるでしなびた果実のような質感。
瞳は何かに怯えるように忙しなく動いている。
会わないうちに十歳くらい年を取ってしまったかのような、そんな印象を受けた。
「あの、麻友ちゃん、だいじょぶ…?」
声をかけて目が合うと、麻友の瞳に涙が盛り上がっていった。
親を見つけた迷子みたいに羊子にしがみつき、麻友はポタポタと涙を流した。
「ううぅぅ…羊子ちゃん…羊子ちゃん……」
「おおー、よしよし」
いきなり嗚咽する麻友に戸惑いつつも、羊子は背中をぽんぽんとたたいて落ち着かせて、一緒に部屋に入った。
部屋に入って、絶句した。力が抜けて床に置ちたエコバッグから、赤ワインのボトルが床に当たる硬質な音がやけに大きく響く。
「えっ、なんで…」
綺麗に片付いていた麻友の部屋が、別の部屋に入ってしまったかと思うくらい様変わりしていた。
食べ残しが入ったままの弁当の容器、ペットボトルとチューハイの空き缶、雑に破かれたお菓子のパッケージ、脱ぎ散らかした衣類などがところかまわず散らばり、足の踏み場にも困るゴミ屋敷のような状態。
「ご、ごめんなさい…!すぐに片付けるから、嫌いにならないで…!」
「あっ、ちょっと麻友ちゃん、そんな慌てなくても」
慌てた麻友は床に散乱するゴミに足を引っ掛けたのか、勢いよく転んで顔にパスタとトマトソースを貼り付けて半べそをかいた。
「うぅ…」
脱ぎ散らかした衣類の上にぺたんと座り込んだ麻友の背中を、羊子はやさしく撫でた。
「だいじょぶだって、うちはこんなことで麻友ちゃんを嫌いになったりなんかしないから。お風呂に入って落ち着きなよ。その間にうちが掃除しとくからさ」
「うう、羊子ちゃあん…」
子どものように泣きついてくる麻友の頭を撫でて玄関の側の浴室に向かうと、やはりそこも汚れていた。
新品みたいに真っ白だった床にピンク色の汚れや水あかが浮かび、排水口には髪の毛が詰まっている。
羊子は大きく息をついて腕まくりした。
まさかこんなことになっているとは思ってもみなかったが、大好きな人のために何かできるのが羊子は嬉しくてたまらなかった。
♡
「ごめんね、羊子ちゃん。せっかく来てくれたのに、お掃除してご飯まで作ってもらっちゃって、ほんとごめんね…」
お風呂を掃除してお湯を溜めて麻友に温まってもらっている間に、羊子は手際よく部屋の掃除をした。
生ゴミをまとめて蓋付きのゴミ箱に入れて、散乱するゴミの類も片っ端からゴミ袋に突っ込んでまとめて部屋の隅に置き、脱ぎ散らかされた衣類を洗濯機に放り込んで回した。
台所もやはり洗い物が溜まっており、怪しくぬめるそれらを洗い上げて、顔を出した水盤をクレンザーでゴシゴシと磨いた。
そうこうしている間に麻友が風呂から上がったので残りの細々した掃除を任せて、羊子はナポリタンを作り、片付けたばかりの居間で一緒に食べ終えたところだった。
ひと仕事終えて大好きな人と食べるナポリタンは、急いで作ったので納得のいかない部分はあったものの格別な味だった。
「気にしないでよ、麻友ちゃん。うちって案外尽くすタイプなんかな。麻友ちゃんのために何かできるの、すっごく嬉しかったし」
食事を終えた二人は小さなテーブルの前に並んで座り、手をぎゅっと握りあっている。肩と肩はもたれ合い、頭と頭はコツンとくっつき、それだけで満ち足りた気持ちになった。
触れ合って伝わる体温が落ち着き、心臓の鼓動を心地よく早めている。
「ううー、羊子ちゃんにはこんなダメダメなところ見られたくなかったのに…。ちゃんとしたお姉さんなあたしだけ見せたかったのに…」
「いいっていいって、そんなの気にしないで。でもどうしてこんなにグチャグチャになっちゃってたの?」
「新らしく入った子がバックレて忙しかったところに、生理が重なっちゃって…」
「ああ、それはしんどい…」
「あたしけっこう重い方で、ほんとしんどくなっちゃうんだよね。身体もメンタルも。仕事終えて家に帰ってきたら抜け殻になっちゃうくらい疲れちゃって。無理しないと笑えなくて…。そんな弱ったあたしを見せたくなくて、羊子ちゃんにはすっごく会いたかったけど、ガマンしてた…」
「麻友ちゃん…」
羊子はたまらなくなって麻友を抱きしめ、愛おしむように頭をなでた。
髪からお風呂上がりのいいにおいが立ち上り、羊子は胸いっぱいにそれを吸い込む。
久しぶりに嗅ぐ、麻友のあまいかおり。
「ごめんね、羊子ちゃん…。すぐいつもの明るいあたしに戻るから、戻れるようにがんばるから、嫌いにならないで…。そばにいて…」
麻友はすがるようにひしっとしがみつき、上目遣いに羊子の目を見つめた。
熱っぽく潤んだ瞳で見上げられ、羊子の脊椎は雷に貫かれたかのように甘く痺れた。
「だいじょうぶ。うちは麻友ちゃんのこと嫌いになったりなんかしないよ。うちはどんな麻友ちゃんでも、麻友ちゃんが大好きだから」
「うん…!うんっ…!」
麻友がぎゅっとしがみついて、自分の胸に顔をこすりつけて泣いている。
まだひとりでは生きられない子どもが、親にすがりつくみたいに。
そのことに羊子は、肉体の触れ合いとは違った種類の、どこか後ろ暗い快感を覚えていた。
麻友には自分が必要なんだなと思うとそれだけで、他の何もかもがどうでもよくなるくらいに満たされていく。
この感覚はいったい、何なのだろう。
この子には自分が必要なんだと思うと、それがゾクゾクするほど気持ちいい。涙に濡れる胸が、髪を撫でる指の先が、ピリピリと痺れるほどに。
深く探ろうとすると、なぜだかまったく別のものが頭に浮かんできた。
「あっ、そう言えば赤ワイン買ってきたんだった」
「へっ?」
唐突に言う羊子を麻友はキョトンとした顔で見上げた。
「えっ、ほんとに?羊子ちゃん買ってきたの、赤ワイン?」
身体を起こして聞いてくる麻友に、羊子は自慢げな顔を返す。
「うん。何食わぬ顔でカゴに入れときゃバレないだろって思って、買っちった」
ひょうひょうと言う羊子に麻友は小さく笑って、おでこを軽くたたいた。
「もう、わるい子だなあ羊子ちゃんは」
「へへっ、麻友ちゃんと楽しむためなら、うちはいくらでもわるい子になるよ」
いたずらっぽく笑う羊子が冷蔵庫から出してきた赤ワインを見て、麻友は渋い顔をした。
「ああ、これかあ。安旨で有名なやつ」
「検索するとトップに出てくるよね。飲んだことある?」
「うん、あるよ。飲めるけど…って感じだったなあ」
「ビターなリアクション。飲もう飲もう」
ワインの口はキャップタイプでひねるだけで簡単に開けられた。
鼻を近づけると甘さとはほど遠い、渋みのある果実臭がブワッと飛び込んでくる。
もうそれだけで頭がクラクラしてしまいそうになる、ワインの芳香。
いいにおいかどうかすら判別のつかない、未知の香りに胸が躍る。
「へえ、においからしてもうジュースと全然ちがう。オトナって感じ」
「味も全然違うよ」
コップに注ぐとバラの花弁のような紅が広がり、羊子はうっとりとした眼差しで見つめた。
ツィーゲ様がそうしていたようにコップを持ち上げて鼻を近づけ、しばし香りを楽しもうと試みてみる。
「うーん、渋みあるオトナの香り…」
「おっ、わかるんだ羊子ちゃん。さすがオトナの女」
「ごめん、テキトウ言った」
「なんだよ」
小さく笑いあって乾杯して、ワインを口にふくんだ。
口の中に広がるのは、香りと同じで甘さとは無縁の渋みと酸味。
喉を鳴らしてコクリと飲み干すと、果実味が鼻を通り抜けていく爽やかな感じがした。
「うーん、やっぱりあたしはよくわかんないな。羊子ちゃんはどう?初ワインのお味は」
「美味しい、かはわかんないけど、嫌いじゃないかも」
言いながら二口三口と飲んでいくうちに、段々と悪くないと思えてきた。
「これは前飲んだちょび酔いと違ってゆっくり飲むもんだね。ワインは対話しながら飲むものなのよ、睦言を交わすように」
「おっ、出た。ツィーゲ様の名言だ」
すぐに汲み取ってくれるのが嬉しくて、羊子はへへへと笑った。
心地よく酔いが回ってきている感じがする。
「でも、羊子ちゃんすご。もう赤ワインの美味しさわかるんだ。酒豪の才能あるよ」
「へへへ、うちはもう麻友ちゃんに酔ってるよ」
「もう…。でもあたしも悪くないって思えてきたかも。むしろちょっと美味しい、かな」
「いいねえ、じゃあ今度もうちょっといいやつ買ってみようぜ。そしたらもっとワイン好きになるかも」
「うん、一緒に飲もうね羊子ちゃん」
「うん、約束だからね麻友ちゃん」
微笑みあって濃厚な口づけを交わし、二人はもつれ合うようにクッションに倒れ込んでいった。




