第二十九話 来ちゃった
黒柳羊子の学生生活は薔薇色だった。
大学内に友人はおらず、相変わらず話せるのは学食のおばちゃんだけであったが、それでも羊子にとっては毎日が薔薇色だった。
ほとんどがグループで固まって受けている大教室での講義で、ひとりで前の方の隅っこに座っていても、羊子の胸は弾んでいた。
隣の座席に置いたバッグに入れたスマホが震えて、机の下でこっそり確認する。
届いたメッセージを読んで、ほほがだらしなくゆるむのを抑えられない。だって、初めて出来た恋人からのメッセージだったから。
麻友とはあの後、寝室に場所を移して、それはもう夢のように素敵な一夜を過ごした。
誰かに自分の全てを委ねる気持ちよさを、羊子は初めて知った。
何もかもがその人で満たされて、指も口も舌もされること全部が気持ちよくて、お返しに羊子がたどたどしく真似するのに麻友は敏感に反応してくれて、思い出すだけでニヤけてしまうほど幸福だった。
あの一夜だけでいったい何回、好きと大好きを言い合って唇を重ねただろう。
あんなことをして愛をささやき合ったのだからもう、麻友と自分は恋人同士になったのだと、羊子は思っていた。
次に会う予定はまだ立っていない。それなのに最後に会ったのはもう二週間以上も前のこと。
長期でのアルバイトを希望して入った子が一日でバックレてしまい、麻友はその穴を埋めるためにシフトをギュウギュウ詰めにされて、毎日ヘトヘトになっている。
羊子はその根性なしを恨み、心の中で五寸釘を滅多打ちにした。
麻友から届いたメッセージは日々の疲れと、羊子に会いたいという思いを訴えるものだった。
羊子は麻友が甘えてくれるのにキュンとして、でも同じくらいのさみしさを覚えた。
うちだってそんなの、麻友ちゃんに会いたいに決まってんじゃん。
切なく思っていると、羊子の耳に後ろの席に座った集団のこそこそと話す声が聞こえてきた。
「えっ、あんたマジでそんなドラマみたいなことしたの」
「しちゃったんですよお。いきなりピンポン押して、来ちゃったって」
「うひい、甘酸っぱい。で、どうだったの、お相手の反応は?」
「そりゃもう喜んでくれて、熱い一夜を過ごしましたとも」
きゃあきゃあとはしゃぐ集団の前で、羊子の頭上には電球が光っていた。
これだ、恋愛ドラマとかでもよく見るベタな手法、来ちゃった作戦。
古来より伝わる手垢にまみれた手法ではあるが、ずっと伝わり続けているとうことはそれだけの効果があるはず。
実際後ろで話している子はそれで熱い一夜を過ごせたみたいだし。
とは言え麻友はハードな毎日を過ごしているので、熱い一夜までは無理かもしれない。だとしても、食材を買っていって晩ご飯を作ってあげて、一緒に食べるくらいは許されるのではないか。
だってもう、二週間以上会えていなくてさみしすぎるし。麻友不足に喘ぐ羊子は限界寸前だった。
そうと決まれば善は急げ。今夜、麻友に来ちゃった攻撃を仕掛けることに決めた。
♡
スーパーで買った食材の入ったエコバッグを手に、羊子は弾むような足取りで麻友のアパートに向かっていた。
エコバッグはゲームセンターに行ったときに麻友が取ってくれた、二人が好きなゲームのキャラが描かれたもの。羊子はそれを使えるだけで楽しい気分になる。
エコバッグの中身は乾麺のパスタ、ブロックベーコン、玉ねぎ、ピーマン。それと咎められないかドキドキしながら買った赤ワイン。
この前、麻友の家で熱い一夜を過ごした翌日のブランチに、家にあった食材で羊子はちゃちゃっとナポリタンを作っていた。
大学生活が始まってから時間を持て余し気味だった羊子は、自分の理想のナポリタンを作ろうと何日も連続で作り続け、そしてとうとうたどり着いた完成形。
一晩水に漬けておいて、モチモチに茹であげたパスタ。ベーコンを弱火でじっくり焼いて出た油とオリーブオイルで香ばしく焼いた野菜。それらをケチャップと数々の調味料を混ぜたコクのあるソースで絡めたナポリタン。
自分にとっては理想のナポリタンであったものの、それが他人にも通じる味なのか不安だった。
だけど自信があるのはそれだけだったので、思い切って作ってみた。
『むっちゃうまい!なにこれ、羊子ちゃん天才じゃん!オレの嫁になれ!』
口の周りを赤くしながらパスタをすする麻友に、羊子の胸はいっぱいになった。ナポリタンとの激闘の日々が報われた瞬間だった。
だから今日も、それを食べさせて仕事で疲れた麻友を元気づけたかった。
赤ワインも買っちゃったと取り出したら、麻友はどんな顔をするだろう。
驚いてくれるかな。よく買えたねって、ほめてくれるかな。また飲ませてくれるかな。
歩きながらニヤついてしまい、不審者爆発だなと思うものの止められなかった。羊子は大好きな人に会いに行く幸福に酔いしれていた。
外灯の少ない住宅街を歩き、錆びついた遊具が物悲しい公園の前を通り過ぎる。
公園の隣に立つ、年輪の刻まれた佇まいをした二階建てのアパート。青い瓦屋根に白い壁が昭和レトロ感があってかわいい。
そこに大好きな人が暮らしているせいか、特別愛らしく見えるアパート。
外観も小綺麗な内装も羊子は気に入っていて、ここで麻友と同棲とかできないかなとちょっぴり夢見ていた。
階段を上がってすぐ、201号室が麻友の部屋。
気持ちを落ち着けるために羊子は階段の脇で一呼吸し、バッグから手鏡を取り出して前髪をチェックした。
大丈夫、乱れていない。メイクもばっちり。ちゃんとかわいい。麻友ちゃんに会える顔をしている。よし、行こう。来ちゃったするんだ。
なんてバカみたいな決意だと、自分にちょっと笑った。
天国への階段を昇るような浮ついた足取りで進み、弾む心音を心地よく感じながら、チャイムを鳴らした。
インターホンのついていない、ピンポーンと軽やかに鳴るどこか懐かしい響きのチャイム。
「はーい」
よそ行きの声が聞こえてきて、ガチャリと開けられた玄関の扉。
大好きな人に会える瞬間に羊子は自然と微笑んで、甘えるような口調で言った。
「来ちゃった」
「えっ、羊子ちゃん、なんで…?」
てっきり麻友も飛び跳ねるくらい喜んでくれて、玄関先で熱烈なハグをしてくれるかもと期待していた。
だけど麻友は明らかに浮かない、困ったような顔をしている。
見るからに歓迎されていない様子。




