番外編①:深夜残業と鏡の中の嘆き
サトシが入社して3日目の深夜での出来事を追加シナリオで描いてみました。
王都魔導省の地下、遺物整理課の第一倉庫。
そこは、地上の喧騒から切り離された負の遺産が集う墓場である。
入社して三日目の深夜2時。
サトシは、壁の松明がパチパチと爆ぜる音だけが響く静寂の中にいた。
そんなサトシの目の前にあるのは、高さ二メートルを超える古びた縦鏡だった。
鏡の縁には、のたうつ蛇のような不気味な彫刻が施され、鏡面は鈍く濁った銀色をしている。
特級呪物の1つ『嘆きの鏡』だ。
『決して覗き込むな。映った者は、己の過去の悲劇に囚われ、精神を蝕まれ、やがて鏡の中の住人と入れ替わるように消滅する』
その鏡の縁に貼り付けられた古紙には、前任者が書いたのであろう『鏡の取り扱い説明書』が、血文字で綴られていた。
「過去の悲劇…か」
サトシが、ふと前世のことを思い出しながら呟く。
前世の都内にある小さな中小企業に勤め、デスマーチの果てに迎えた終焉。
それを「悲劇」と呼ぶならば、確かにそうかもしれない。
だが、そんな過去の悲劇を今さら思い返したところで、サトシの手は止まらない。
彼はバケツに入った洗浄液に布を浸し、慣れた手つきで絞った。
「よし、まずはこの表面の曇りからだな」
サトシが鏡に手をかけた、その瞬間だった。
鏡面が水面のように揺らぎ始めた。
ドロリとした闇が広がり、その中から一人の絶世の美女が姿を現す。
絹のような銀髪と濡れた瞳に黒いドレスを身に纏った女性の姿。
彼女こそが鏡の中に潜む亡霊にして、数多の英雄を廃人へと追い込んできた「嘆きの美女・ミラ」である。
「ああ、哀れな迷い子…。見える、見えますよ。貴方の魂に刻まれた、深く、暗い『組織』の傷跡が…」
心地よいテノールのようなミラの声が、サトシの脳内に直接響く
ミラはサトシの記憶の断片を、まるで映画のスクリーンを広げるように鏡面に映し出した。
そこには、デスク横に詰まれた山積みのカップ麺、鳴り止まないクレームの電話、そしてサトシに向かって「やる気があるのか?」「お前の代わりなんていくらでもいるんだ!」と怒鳴り散らす、かつての上司の姿があった。
「さあ、思い出して。貴方がどれほど理不尽に踏みにじられ、誰にも理解されず、孤独に擦り切れていったかを…でも、もう恐れなくて大丈夫よ。これ以上、冷たい世界で石を積むような過酷な思いはしなくていい。私の胸の中で、永遠の眠りにつきましょう…」
ミラはサトシを鏡の中へ引きずり込もうと、優美な手を伸ばした。
普通の人間なら、この時点で涙を流して膝をつき、安らぎを求めて鏡に吸い込まれるだろう。
だが、サトシの反応は美女の予想を遥かに超えていた。
「あ、ちょっとストップ。顔、そっちの右側に寄せてもらえます?」
「…えっ?」
伸ばされたミラの手が空中で止まった。
「今ちょうど上から下に向かって拭いてるんですよ。あなたがそこにいると、拭きムラができるんです」
サトシは、ミラの鼻先数センチのところを、無表情で布を往復させた。
「あなた、私の話を聞いていたのかしら!? 絶望に孤独よ? このまま働き続けても、貴方に待っているのは虚無だけだと言っているのよ」
「絶望? 孤独? ああ、鏡の映像のことですか。確かに当時は辛かったですけどね、今思えば『指示出しが明確』なだけ、今と比べたら随分とマシな部類ですよ」
「な…何を言っているの?」
「だって、この上司、『やる気があるのか』って聞いてるじゃないですか。これ、クローズド・クエスチョンなんですよ。答えがはっきりしてる。一番キツいのって、ここのゼノス課長のように『よし、適当になにかやっといて』、『サトシ君なら何とかなるでしょ』って、曖昧な指示を出した後に『思ってたのと違うからやり直し!』って全部リテイクされることですから…それに比べれば、まだ可愛く見えるものですよ」
サトシは、ミラが映し出したトラウマを、まるで「他人が書いたコードのデバッグ」でもするかのように冷静に分析し始めた。
「あと、孤独と言いますけど、これのどこが悪いんですか? 誰にも話しかけられず、上司や顧客からのメールも来ない、会議も入らない。最高じゃないですか。今、まさに僕はその至高の時間を楽しんでるんです。あなたの『嘆き』はちょっとノイズに近いんで、少しボリュームを絞ってもらえると助かるんですが…」
「ノイズ…!? 私の魂を揺さぶる鎮魂歌を雑音ですって…!?」
ミラは屈辱に震えた。
これまでに強靭な肉体を持つ戦士も、英知に溢れる賢者も、皆この「孤独への恐怖」で堕としてきた。
このまま負けを認めるわけにはいかないと思った彼女は、最後の切り札としてサトシが最も恐れるであろう「終わらない労働の連鎖」を強調した。
「ならば、これを見ても正気でいられるかしら! 貴方はここで働いても、また同じ目に遭う! 課長は無能、責任だけを押し付けられ、死ぬまでこの地下室から出られない!」
サトシは、モップをバケツに置くと、鏡の中のミラを真っ向から見つめた。
その瞳には、彼女もたじろぐほどの、深淵よりも深い「虚無」が宿っていた。
「あなた、さっきから『死ぬまで出られない』とか『永遠の闇』とか言ってますけど…」
「そうよ! それこそが、あなたにとって究極の絶望…」
「『雇用の保証がある』って意味ですよね? それ」
「……は?」
「解雇の心配がない。急な転勤もない。しかも、ここは地下だから直射日光も当たらないし、冷暖房(亡者の残滓)も効いている。前世の劣悪なオフィス環境に比べれば、これも全然マシですよ。あなたもしかして、僕のモチベーションを上げようとしてくれてるんですか?」
「違うわよ!! 絶望させようとしてるのよ! なんで貴方は、私の話を福利厚生に変換するのよ!!」
ミラは、ついに鏡の中で発狂し、膝をついて泣き崩れた。
彼女の何千年の常識が、一人の元ブラック企業の社畜によって粉々に粉砕された。
サトシは泣き始めた美女を宥めるように、鏡の縁を優しく叩いた。
「まあ、そう怒らないで。あなたも大変なんでしょ。こんな暗い鏡の中で、毎回毎回、映る者の不幸を探して、挙句の果てに自分を追い込んでまで嘆きや絶望を演出して…これまでに残業代や手当って出てましたか?」
「えっ? あ…出ないわよ。私は呪物なんだから…」
「やっぱり…サービス残業ですよそれ。辛かったですね。わかりますよ、その気持ち…」
サトシの言葉には鏡の呪いよりも重い「共感」がこもっていた。
ミラは呆然とした。
これまで誰一人として、自分を「労働者」として扱った者などいなかったからだ。
彼女の目から、今度は呪いや嘆きではない、本物の涙が溢れ出した。
「う…うわあああああん! そうなのよ! 勇者が来たら来たで、変な聖水をかけられるし、誰も私の掃除なんてしてくれなかったわよ! 毎回毎回、絶望を演出するのだって、創造力が必要で大変なのに…その苦悩を誰からも理解されないのよ!」
唯一の理解者となったサトシに、ミラは思わず本音をこぼす。
「よしよし。じゃあ、こうしましょう。あなたはもう絶望を演出しなくていいです。その代わりに僕の仕事を手伝ってください」
「…あなたを手伝う?」
夜も更けて翌朝。
ゼノス課長がいつものように眠たい目を擦りながら地下倉庫を覗き込みに来た。
そこには三日前と変わらず、淡々と業務をこなすサトシの姿があった。
「おーい、サトシ君。生きてるかな? あの『嘆きの鏡』に魂を吸い取られて…」
サトシの生存確認を行ったゼノスは言葉を失った。
本来なら邪悪なオーラを放っているはずの鏡が、今は見たこともないほどピカピカに磨き上げられ、温かみのあるオレンジ色の光を放っている。
鏡の中ではミラが、サトシの横で、手に持った帳簿を読み上げていた。
「サトシさん。この『死霊騎士の籠手』、片方が見当たらないわ…仕訳前の呪物の山の中に埋もれているのかしら…後で探し出しておくわね! あと、さっき仕訳した『禁忌の壺』、あれは贋作だったから、廃棄リストに入れておくわ!」
「…サトシ君。こ、これは一体どういう状況なんだい?」
ゼノスが震える声で尋ねると、サトシは机の台帳から目を上げずに答えた。
「ああ、ゼノス課長、おはようございます。この鏡、案外話せるやつなんですよ。『音声入力機能付きのスマート鏡』として、僕と契約してもらいました。お互いにホワイトな環境を作ろうって、利害が一致したんですよね」
「リガイ…? ホワイト…?」
鏡の中のミラは、サトシに向かって親指を立て、かつての犠牲者たちに見せていた「死の誘惑」のような笑みではなく、完全に「頼れる同僚」の顔で微笑んでいた。
「あ、課長。ついでに彼女が言ってたんですけど、この部署、換気設備が最悪らしいですね。今後も改善されないなら、彼女が課長を鏡の前に立たせてほしいと言っています…まぁ、魂が吸い取られないうちに正しい判断をよろしくお願いします」
「サ、サトシ君…君は、本当に三日目の新人なのか…?」
サトシの脅しに、ゼノスは冷汗を流しながら、そそくさと階段を駆け上がっていった。
こうして、遺物整理課の地下には、この世界で最も有能な相棒となる「嘆きの鏡」が常駐することになった。
最終話を更新した直後、皆様からのリアクションや評価を頂き、まさか日間のランキングに乗るとは思ってもいませんでした(汗)
これも読んで下さった皆様のおかげです。改めて感謝を申し上げます。
本篇は終了しましたが、せっかくなので番外編も少しずつ更新しようと思います。
もうしばらく、番外編にもお付き合いをいただけましたら幸いです。




