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第4話:退職願は命よりも重い

時は夕刻…王都の空が、ねっとりとした死の色の雲に覆われた。

大地を割り、数千年の封印から這い出してきたのは、神話に語られる「終末の巨獣・ベヒーモス」。

山のごとき巨躯(きょく)が動くたびに、王都の堅牢な城壁が飴細工のように砕け散る。

「ヒッ…あ、あああ……!」

王宮のテラスでは、ゼノス課長が腰を抜かして震えていた。

先ほどまで贅を尽くした会食を楽しんでいた大臣たちも、今はただ、迫り来る死の影に怯え、祈る言葉すら忘れている。

最強を誇る近衛騎士団は、リナを先頭に、王宮へ迫りくる魔獣に対して必死の抵抗を試みていた。

「総員、退くな! 王都を…民を守るのだ!」

リナが叫び、聖剣を振りかざす。

だが、ベヒーモスが放つ絶望の咆哮により、騎士たちの鎧は砕け、精神は恐怖に塗りつぶされた。

もはや、この世界にこの怪物を止められる存在などいないかに思われた…その時だった。

王宮の地下、最も深い場所にある「遺物整理課」の扉が内側からゆっくりと開いた。

現れたのは、よれよれのシャツの襟を正し、耳に事務用の羽根ペンを引っかけた一人の青年。

サトシは崩落した瓦礫の山を「おっと、危ない」と軽やかに避けながら、地上へと歩を進めていた。

彼の右手には、この日のために温めてきた「退職願」が握られていた。

「ったく、ようやく、一日のタスクが終わったっていうのに」

サトシは頭上のベヒーモスを見上げた。

あまりに巨大すぎて、その足首しか視界に入らない。

だが、サトシにとっては、それが「何という名前の怪物か」など、どうでもよかった。

彼にとっての問題は、ただ一つ。

「僕のデスクに砂埃が落ちたんだよ。三日かけて仕分けた、超重要資料の上に…」

サトシは静かに、だが確実に憤っていた。

理不尽な上司の業務に耐え、呪いの遺物に耐え、三年間一度も有給を取らずに働いてきた彼の精神は、今や「仕事の邪魔をされること」に対してのみ、神をも凌駕する殺意を抱くようになっていた。

『ドォォォォォン!!』

ベヒーモスの巨大な足が、サトシの数メートル横に着地する。

凄まじい衝撃波が走り、周囲の建物が粉砕された。

リナたちが吹き飛ばされ、地面に叩きつけられる。

しかし、サトシだけは微動だにしていなかった。

「おい、でかいの。聞いてるか?」

サトシの声は小さかったが、不思議と戦場全体に響き渡った。

ベヒーモスが、その不気味な複眼で足元の小さな「点」を見下ろす。

虫ケラを潰すような気軽さで、ベヒーモスは尾を振り下ろした。

その一撃は小国一つを更地にするほどの質量と魔力を孕んでいる。

「危ない、逃げろ!!」

リナの悲鳴が響く。

だが、サトシは逃げなかった。

彼は耳にかけていた「事務用羽根ペン」をおもむろに抜き取った。

「今日は…僕の三年間を締めくくる大事な日なんだ…」

サトシがペンを構えた瞬間、彼の体から凝縮された「社畜の恨み」…もとい、神域に達した魔力が溢れ出した。

スキル常時万能回復が、サトシの筋肉と魔力回路を最適化し、その出力を限界まで引き上げる。

「僕の邪魔をするな!!」

サトシがペンを一閃させた。

それは魔法ですらなかった。

ただの、あまりに速すぎる、物理的な投擲。

放たれた羽根ペンは、空気を摩擦熱でプラズマ化させ、光の筋となってベヒーモスの胸部を貫いた。

それだけではない。

無意識のうちにペンに込められた「万能の神(オーバードライヴ)」の能力が、ベヒーモスの体内にある膨大な生命力を「不要なデータ」として瞬時に分析し、消去(デリート)した。

「グギ…ッ?」

ベヒーモスの咆哮が止まり、山のような巨体が内側から灰となって崩れ落ちていく。

かつて世界を滅ぼしたとも呼ばれた伝説の怪物は、サトシが投げた一本のペンによって、瞬く間に処理された。

静まり返る王宮と降り注ぐ灰の中で、サトシはペンが飛んでいった方向をぼんやりと眺めていた。

「あ、しまった。あのペン、予備は無かったのに…まぁ、今日で終わりだからいっか」

サトシは灰の山から這い出してきたリナや、腰を抜かしたままのゼノス課長には目もくれず、落ちていた退職願をパシパシと叩いて汚れを落とした。

「よし。これで、最後の仕事を邪魔する障害はなくなったな」

彼は呆然自失としているゼノス課長の元へ、一歩一歩近づいていく。

その背後では、ベヒーモスが消滅したことで、雲一つない夕焼け空が広がっていた。

「課長。これ、受け取ってください」

サトシは血と灰に汚れた退職願をゼノスの鼻先に突きつけた。

その瞳は、もはや人間のそれではなく、あらゆる理不尽を飲み込んできた「深淵」そのものを宿していた。

「あ、あ…サトシ、君…?」

ゼノスは喉を鳴らすことしかできなかった。

目の前の青年が、この国を救った勇者のような存在とは、到底思えない。

ただ、もしここで、この書類を拒否すれば、自分の存在そのものが「不要な存在」として、あの怪物のように叩き伏せられるだろうことだけは、本能が理解していた。

「今日の残業代はもういいです。その代わり、今、この瞬間にコレを受理してください。一秒でも遅れたら、この王宮を更地にしてでも、僕は帰りますからね」

サトシの言葉は、その場にいる誰もが、決して冗談のようには聞こえなかった。

最強の社畜が、異世界人生で初めて「自分のため」に力を行使した瞬間だった。

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