第3話:三年目の朝、覚醒の刻
「1095日目…か」
地下倉庫の隅、カビの生えたベッドで目を覚ましたサトシは、壁に刻んだ正の字を数えた。
異世界に転生し、王都魔導省・遺物整理課に配属されてからちょうど三年が経過した。
前世の日本では「石の上にも三年」「とりあえず三年は続けろ」という言葉が呪文のように唱えられていたが、サトシはその呪縛を異世界でも忠実に守り抜いていた。
壁につり下がっている、ひび割れた鏡を見る。
そこには、目の下に深い隈を刻み、肌は透き通るほど白く、どこか浮世離れした青年の姿があった。
しかし、その瞳にはかつての絶望も生気もない。
ただ、淡々とタスクをこなす機械のような凪いだ静けさだけが宿っている。
「さて、仕事に行くか。…いや、ここが職場だったな」
自嘲気味に呟き、サトシは起き上がる。
三年の間に地下倉庫の光景は一変していた。
かつて足の踏み場もなかった呪いの武具や危険な魔導具は、今や機能や種族ごとに厳密に分類され、棚には整然とラベルが貼られている。
「呪いの霧」はサトシの肺に吸い込まれて浄化され、今やこの部屋の空気は、王宮の庭園よりも澄み渡っていた。
皮肉なことにサトシの体が「巨大な空気清浄機兼魔力中和炉」と化していたのだ。
朝のルーティンとして、彼は棚の奥で唸っている『終焉の書』を手にとった。
開けば読んだ者の魂を食らうと言われる禁書だが、サトシにとってはちょうどいい手帳代わりだった。
「え~っと、今日の予定は…在庫の最終確認と退職願の提出…よし!」
サトシが今日の予定を確認したその時だった。
視界の端にこれまで見たこともないほど、巨大で黄金色に輝くシステムウィンドウが出現した。
それは視界全体を覆い尽くし、重厚な鐘の音のような効果音が脳内に響き渡る。
『通知:一定期間(3年)の継続的な極限苦行を達成』
『隠し条件:【不眠不休】【感情殺し】【環境適応】の同時発動時間をクリア』
『固有スキル:【神に抗う社畜】が【万能の神】に進化しました』
「…うるさいな。通知オフにしてるだろ、これ」
サトシは鬱陶しそうに表示されたウィンドウをスワイプして消した。
彼にとって、レベルアップのログは「PCの更新通知」程度の認識でしかない。
だが、その背後で彼の肉体には劇的な変化が起きていた。
三年間、呪いと毒と過重労働に晒され続けたことで、彼の細胞一つ一つが魔力回路を構築していた。
全ステータスは計測不能を超え、もはやこの世界の理では彼を縛ることすらできなくなっていた。
「サトシ君、いるか~?」
階段から聞き慣れた、そして朝っぱらからは、あまり聞きたくないゼノス課長の声が響く。
最近の彼は自分では一歩も地下に降りようとせず、入り口の扉から顔だけを出して指示を飛ばすのが習慣になっていた。
「おはようございます課長。ちょうどよかった。今日で契約満了ですので…」
「ああ、そんなことよりもこれ! 騎士団がさ、また無茶なもの持ってきたんだよ。北の最果てで見つけた『天界の禁域の鍵』だってさ。触れるだけで体が蒸発するらしいんだけど…まぁサトシ君なら大丈夫でしょ。適当に処理しといて」
ゼノスはサトシの話を遮り、まばゆい光を放つ金属の塊を放り投げた。
それは、存在自体が神話級のアーティファクトであり、周囲の物質を原子レベルで分解する高密度エネルギーの結晶体だった。
サトシはそれを飛んできた野球ボールでも捕るかのように片手でキャッチした。
ジュッと音がして、サトシの手のひらの皮が蒸発する。
しかし、次の瞬間。
『スキル【常時万能回復】発動』
蒸発したそばから新しい皮膚が再生し、さらにサトシの体が鍵のエネルギーを「給料前の空腹」を満たす程度の栄養として吸い取り始めた。
わずか数秒で、あれほど輝いていた伝説の鍵は、ただの「ちょっと光る重石」に成り下がった。
「あ、これ重いですね。漬物石にちょうどいいかも」
「ははは、相変わらず冗談が上手いね君は。じゃあ、よろしく。僕はこれから大臣と会食だから。あ、夜までに報告書よろしくね!」
ゼノスはサトシの異常に気づくことすらなく、鼻歌混じりに去っていった。
三年の間にゼノスの感覚も、また別の意味で麻痺していた。
「サトシなら何を投げても大丈夫だろう」という、ブラック企業の典型的な「優秀な部下への依存」である。
サトシは一人、静かになった地下室で退職願を見つめた。
三年前…あれほど求めた「安定」はここにはなかった。
だが、代わりに手に入れたものがある。
それは何者にも、どんな理不尽な命令にも決して壊されることのない「圧倒的な自分」だ。
「さて…」
サトシは漬物石になった伝説の鍵を机の端に置き、ペンを走らせた。
退職願の理由は、シンプルにこう記した。
『一身上の都合および世界が狭くなりすぎたため』
その時、王宮のさらに上層の王座の間がある方角から、かつてないほどの巨大な魔力の脈動が伝わってきた。
大地が鳴動し、地下倉庫の天井からパラパラと砂が落ちる。
どうやら、平和な朝はここで終わりのようだった。
「まったく。退職の手続きを邪魔するやつは、誰であっても許さないぞ」
サトシはゆっくりと立ち上がった。
彼が歩き出すたびに、石床には深々と足跡が刻まれる。
もはや、彼がただ歩くだけで、この地下室に施されていた「対魔王用」の防護結界がパリンパリンとガラス細工のように砕け散っていた。
サトシは無意識に事務用の羽根ペンを耳にかけた。
それが、世界を滅ぼす巨獣を屠る神の槍になることも知らずに。




