第2話:狂気の業務習慣
配属から1ヶ月が経った。
王都魔導省の地下、遺物整理課の空気は、もはや酸素よりも瘴気の方が多い。
だが、サトシはその中で軽やかにモップを動かしていた。
「よし、今日の分の『絶望を呼ぶ亡者の粘液』は拭き取り完了っと。次は呪印付き魔導書のラベリングだな」
サトシの目は完全に座っていた。
いわゆる「ランナーズハイ」ならぬ「社畜ハイ」の状態だ。
前世で締め切り3日前に大幅な仕様変更を食らった時の絶望に比べれば、物理的に部屋を侵食してくる呪いの霧(亡者の粘液)など、夏場のエアコンの冷気のようなものだった。
部屋の外から階段を降りてくる足音が響くのが聞こえる。
ヒールが石床を叩く、硬く迷いのない音。
この部署には似合わない凛とした気配だ。
「失礼する。遺物整理課はここか?」
サトシの前に現れたのは、白銀の鎧に身を包んだ美しい騎士だった。
ポニーテールに結い上げた金髪が、澱んだ地下の空気の中で不自然なほど輝いている。
近衛騎士団の若き精鋭「リナ」だ。
「ああ、リナさん。お疲れ様です。あ、そこの床…まだ呪いが乾いてないから滑りますよ」
「なっ…!?」
リナは絶句した。
彼女の視線の先には、本来なら「触れるだけで精神が崩壊する」と言われるS級遺物『魔王の抜け殻』を、ただの粗大ゴミのように台車に積んでいるサトシの姿があった。
「貴様、正気か? その遺物は昨日、我々騎士団が五人がかりで封印し、命からがら運び込んだ代物だぞ。なぜ素手で触れている!」
「え? ああ、これ…触ると『死ね、死ね、死ね』って脳内に直接語りかけてくるんですけど、前世の部長の説教に比べたら大した音量でもないので、あんまり気にならないんですよ。あと、素手の方が滑らなくて効率いいんですよね」
サトシは事もなきに言い放ち、マジックペンで遺物の四隅に『廃棄予定』と書き込んだ。
その様子を見ていたリナは頬をひきつらせた。
彼女は今日、この恐ろしい遺物の管理状況を確認しに来たのだが、そこには恐怖も荘厳さもなかった。
あるのは、ただの「終わらない作業場」の風景だけだった。
「狂っている…。この部屋の魔力濃度は、普通の人間なら三分と保たないはずだぞ」
「まぁ、これも慣れですよ。あ、それよりリナさん。ちょうどよかった」
サトシは机の上の山のように積み上げられた書類の中から、1枚を取り出してリナに差し出した。
「これ、騎士団から回ってきた『汚れた剣の浄化申請書』なんですけど、フォーマットが古いですよ。最新の様式に変えてもらわないと受理できません。あと、ここ、騎士団長の判子が一個足りません。修正して再提出をお願いします」
「な、何だと…? 私はたった今、戦場から戻ったばかりだぞ!」
「戦場だろうが地獄だろうがルールはルールです。やり直さないとその申請書、受理しませんよ?」
サトシの【感情殺し】のスキルは、美人の怒鳴り声すら「エラー通知」としてしか認識していなかった。
リナは魔王軍を前にしても震えなかった拳を、一介の事務職員であるサトシの前で震わせていた。
「…貴様、名は?」
「サトシです」
「サトシ…覚えておけ。次に会う時は、貴様の無礼を騎士道に基づいて…」
「はいはい。お帰りはあちらの階段です。呪いの霧で足元見えにくいんで、気をつけてくださいね。転んで怪我しても労災は降りませんから」
リナが怒りに震えながら何かを言おうとしたところを、出口はこちらと言わんばかりにサトシが遮る。
その後、嵐のように去っていったリナを見送り、サトシは深く溜息をついた。
「…ったく。現場の連中は、事務の手間を考えないから困る」
彼は再び、孤独な作業に戻る。
ふと、自分の視界の端で「ピコン」と通知が鳴った。
『通知:【毒耐性】がLv.50に上昇しました。特典として【自動回復】を獲得』
『通知:【精神耐性】が限界突破。スキル【虚無の境地】に進化しました』
「んー。なんか最近、肩こりがすぐ治るようになった気がするな」
サトシは自分の腕が呪いのオーラに触れるたび、肌が一瞬で腐敗し、それ以上の速度で再生を繰り返していることに気づいていない。
彼にとって、それは「なんとなく調子がいい」程度の認識だった。
時は少し経ち、深夜。
ゼノス課長が酔っ払った様子で、サトシの様子を見に来た。
「おーい、サトシくん。生きてるか? 代わりはまだ見つかってないから、勝手に死なれると困るんだよね~」
「ああ、ゼノス課長。ちょうどいいところに。この『暴走する魔導炉』どうします?今にも 爆発しそうなんですけど」
「ああ、それね。適当に叩けば治るんじゃない? あ、そうそう、明日の朝までに報告書100枚ね。よろしく~」
ゼノスはサトシの返事も待たず、さっさと上の階の「人間が住む場所」へ消えていった。
暗い地下室で、爆発寸前の魔導炉が「ヴォォォォン」と不気味な音を立てて熱を帯びる。
普通なら王都が半分吹き飛ぶような危機的状況だ。
サトシは、その熱を帯びた魔導炉に手を置いた。
「うるさいな…。今、集中してるんだよ」
彼が少しだけ「イラッ」としながら魔力を込めると、暴走していた魔力はサトシという「巨大な虚無」に吸い込まれるようにして鎮火した。
暴発寸前の魔導炉は、借りてきた猫のようにおとなしくなり、サトシの体温調整にちょうどいい温度で安定した。
「よし。これで仕事が進む」
サトシは、暗闇の中でペンを走らせ続ける。
王都の平和は、このブラックな職場の一人の麻痺した職員によって人知れず守られていた。
三年の月日のまだ一ヶ月目。
サトシのステータス合計値は、すでに伝説の勇者のそれを上回っていたが、本人は「今月の残業代つくのかな…」ということしか考えていなかった。




