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第四話 死んでも、笑わせたかった。

「伊吹。俺、もしかしたら人殺しなんかもしれへん」


朝七時。

味噌汁の湯気が漂う食卓で、鳴海千暁は唐突にそう言った。


梶ヶ谷伊吹は箸を止めた。


「……は?」


「百人分の怨念、抱えとったんやろ? 俺、何したんやろな」


昨夜の戦い。


黒い腕。砕けた街灯。自分を守ろうとして暴走した千暁。


あのとき、千暁は確かに怯えていた。

自分の力ではなく、自分が誰かを傷つけることに。


伊吹は黙って味噌汁を啜った。


「……千暁」


「ん?」


「人殺しが毎朝、俺の味噌汁の塩分気にするか?」


「高血圧怖いやん」


「幽霊のくせに健康意識高すぎんねん」


「伊吹には長生きしてほしいし」


さらりと言われ、伊吹は危うく味噌汁を噴きそうになった。


「……お前、ほんまそういうとこやぞ」


「どこ?」


「無自覚で口説くな!」


千暁はきょとんとしたあと、悪戯っぽく笑った。


「ほな、意識して口説いたらええ?」


「除霊すんぞ!」


「照れ隠しが物騒!」


いつもの掛け合い。


けれど千暁の笑顔には、薄い影が残っていた。

伊吹はそれに気づかないふりをした。


*


その日の午後、夕凪荘に黒い車が停まった。


降りてきたのは、霊務局執行官・鉄輪厳十郎。


手には分厚い資料。

顔には、人生で一度も冗談を言ったことがなさそうな皺。


「鳴海千暁。貴様の過去について話がある」


「おっちゃん、また来たん?」


「おっちゃんではない!」


「ほな、厳ちゃん?」


「距離を縮めるな!」


伊吹は玄関から顔を出した。


「……また回収しに来たんか」


「今日は事情説明だ」


「ほんまに?」


「信用がないな」


「昨日、刀振り回しとった人間を信用できるか!」


厳十郎は反論しかけ、口を閉じた。


「……もっともだ」


その素直な返答に、伊吹は少しだけ驚いた。


三人は食卓を囲んだ。

千暁は当然のように厳十郎にも茶を出す。


「お茶菓子いる?」


「不要だ」


「羊羹あるで」


「……一切れだけもらおう」


「食うんかい!」


厳十郎は咳払いし、古い写真を机に置いた。


十五年前の劇場。

舞台の中央で笑う若い男。


鳴海千暁だった。


「……俺や」


千暁が写真に触れる。


指先が震えていた。

厳十郎は静かに語り始めた。


*


十五年前。


千暁は売れない漫才師だった。


テレビ出演はゼロ。賞レースは予選落ち。財布には小銭しか入っていなかった。


それでも彼は、病院や児童施設で慰問公演を続けていた。


「なんでそんなことしてたんや?」


伊吹が尋ねる。

千暁は写真を見つめたまま、小さく笑った。


「……笑ってくれる人がおったから、ちゃうかな」


厳十郎が頷く。


「その日も、児童施設の子供たちを招いた公演だった」


古い劇場の地下には、長年封印されていた怨霊が眠っていた。


火災によって封印が損傷し、百の怨念が解き放たれた。


客席は混乱した。

逃げ遅れた子供たちが泣き叫ぶ。


そして千暁は、舞台へ戻った。


『みんなー! 怖い顔してどないしたん!』


炎の向こうで、千暁は笑った。


『お兄ちゃん、今日のネタめっちゃ滑ったけど、床まで滑らんでええねんで!』


子供たちが泣きながら笑う。


千暁は最後まで冗談を言い続けた。


逃げ道を示し、子供たちを外へ送り出し、自分だけが劇場に残った。


「……そこで、怨念を自らの魂に封じた」


厳十郎の声が低くなる。


「本来、人間には不可能な行為だ。だが、貴様は成し遂げた」


千暁は黙っていた。

記憶の断片が、胸の奥で弾ける。


炎の熱。

焦げた幕の匂い。

泣きながら自分の袖を掴む、小さな手。


そして。


『怖いときは笑っとき』


自分の声が聞こえた。


『笑うんは、誰にも取り上げられへんからな』


千暁は両手で顔を覆った。


「……思い出した」


伊吹が息を呑む。


「俺、最後……子供らが全員逃げたん、見届けたんや」


千暁の声が震える。


「ほんで、安心して……」


笑った。


死ぬのが怖くなかったわけではない。

本当は、生きたかった。

もっと漫才をしたかった。

もっと誰かを笑わせたかった。


けれど、あの子たちが生きてくれるならそれでいいと思ってしまった。


「……アホやな、俺」


千暁が呟く。

伊吹は俯いた。


「……ほんまにな」


その声は、少しだけ掠れていた。


*


厳十郎が帰ったあと。


伊吹は押し入れから古いネタ帳を取り出した。


高校時代の相方と書いた台本。

ページの端には、二人分の落書きが残っている。


「……俺な」


千暁が顔を上げる。


「昔、相方がおってん」


伊吹はゆっくり話し始めた。


高校二年の冬。

一緒に漫才をしていた相方が、事故で亡くなった。


前日まで、くだらないことで笑い合っていた。

次のライブのネタも考えていた。


それなのに、突然いなくなった。


「……そっから、笑うん怖なってん」


誰かと笑えば、また失うかもしれない。

舞台に立てば、隣が空いていることを思い知らされる。


だから逃げた。

夢を諦めたふりをして。


「でもな、あいつが死んだあと、一回だけ笑うたことあんねん」


伊吹はスマートフォンを取り出した。


古い動画。

病院の待合室で偶然見た、慰問公演の記録。


画面には、若い千暁が映っていた。


『どうもー! 今日も元気に滑りに来ましたー!』


子供たちの笑い声。

伊吹は震える指で画面を止めた。


「……お前やったんやな」


千暁が目を見開く。


「俺、あの日……この動画見て、初めて笑うたんや」


涙が頬を伝った。


「相方死んでから、ずっと笑われへんかったのに」


千暁は何も言わなかった。

伊吹は笑おうとして、失敗した。


「……お前、昔から人の人生に勝手に入ってくるんやな」


千暁がそっと近づく。


「伊吹」


「ほんま、迷惑な男や」


冷たい指が頬に触れた。

伊吹はその手を掴む。


「……ありがとう」


千暁の表情が崩れた。


「……あかんわ」


「何が」


「そんな顔されたら、俺まで泣いてまう」


「幽霊も泣くんか」


「知らん。初めてや」


千暁は笑いながら涙を零した。

伊吹はその額に、自分の額をそっと重ねる。


冷たい。

けれど、確かにそこにいる。


「……もう勝手に消えんなよ」


「約束する」


「破ったら許さん」


「怖いなあ」


千暁は伊吹の背中に腕を回した。


「ほな、ずっと一緒におろか」


伊吹は少しだけ笑った。


「……調子乗んな」


けれど、その腕を振りほどかなかった。


*


翌朝。

伊吹が目を覚ますと、千暁が枕元に座っていた。


「……何しとんねん」


「寝顔見とった」


「怖いわ!」


「かわいかったで♡」


「幽霊が寝込み襲うな!」


「襲ってへん! 見守っとっただけ!」


「余計怖い!」


千暁は笑いながら朝食の盆を差し出した。


「今日は特別メニューや!」


「……何や」


「ハート形の卵焼き!」


伊吹は無言でそれを見つめた。

そして、深々とため息をつく。


「……お前、ほんまに成仏する気あるんか」


千暁は少しだけ考えた。

それから、いつもの笑顔を浮かべる。


「まだええかな」


「なんでや」


「お前の笑う顔、もっと見たいし」


伊吹は顔を赤くした。


「……アホ」


「好きやで、伊吹」


「朝から口説くな!」


「ほな夜にする?」


「時間帯の問題ちゃうわ!」


二人の笑い声が、夕凪荘の朝に響いた。


※


その頃、霊務局本部。

厳十郎は新たな報告書を見つめていた。


《鳴海千暁・残存怨念数、九十九》

《特記事項:生者との強い感情的結びつきにより、霊力が安定》


厳十郎は静かに目を閉じた。


「……あの男を救うのは、封印ではないのかもしれんな」


そして、報告書の最後に一文を書き加えた。


《監視継続。ただし、強制回収は保留》


彼の机には、千暁が帰り際に押しつけた羊羹が置かれていた。


《厳ちゃんへ♡》


「……誰が厳ちゃんだ」


そう呟きながら、厳十郎は二切れ目の羊羹を口に運んだ。




第四話・了。

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