第三話 うちの相方に触るな。死ぬぞ。もう死んでるけど。
「鳴海千暁。貴様を特級危険霊として回収する」
夜の商店街に、鉄輪厳十郎の低い声が響いた。
黒いスーツ。鋭い眼光。手には不気味な文字が刻まれた封印札。
どう見ても堅気ではない。
梶ヶ谷伊吹は、隣に立つ幽霊を見た。
「……千暁」
「なんや、伊吹」
「お前、何したん?」
「今日の晩飯、鶏肉安かったから買いすぎた」
「国家機関が鶏肉で動くか!」
千暁は困ったように笑った。
その笑顔がほんの少しだけ強張っていることに、伊吹は気づいた。
厳十郎が封印札を掲げる。
「十五年前、百人分の怨念を自らの魂に封じ込めた危険霊。貴様の存在そのものが災厄を招く」
「……百人?」
伊吹が聞き返す。
千暁は首を傾げた。
「俺、そんな大層なことしたん?」
「記憶がないのか」
「死んだときのこと、よう覚えてへんねん」
厳十郎の眉間に皺が寄った。
「ならばなおさら放置できん」
「ちょっと待てや」
伊吹が一歩前に出る。
「こいつ、毎朝俺に卵焼き作ってくれるんやぞ」
「それがどうした」
「唐揚げも作る」
「関係ない」
「パンツの穴まで心配してくれる」
「最後の情報は不要だ!」
千暁が胸を張った。
「ちなみに新しいパンツ、もう買うたで!」
「今ここで報告すんな!」
厳十郎は額を押さえた。
「……貴様ら、危機感というものがないのか」
その指先で、封印札が赤く燃えた。
*
最初に砕けたのは、街灯だった。
乾いた破裂音とともにガラスが降り注ぎ、アスファルトに黒い亀裂が走る。
「伊吹、下がれ!」
千暁の声が変わった。
いつもの甘ったるい調子ではない。
鋭く、低く、命令するような響き。
伊吹の腰を抱き寄せた腕が、落下するガラスから彼を庇う。
冷たい胸元に頬が触れた。
「……お前、触れるんか」
「今それ気にするとこ!?」
千暁は伊吹を抱えたまま跳躍した。
人間離れした高さから屋根へ着地する。
「ぎゃあああ! 高い高い高い!」
「安心せえ! 絶対落とさん!」
「お前に命預けるほうが怖いわ!」
「ひどない!?」
眼下では、黒い腕が次々と地面から生えていた。
厳十郎が霊刀を抜く。
銀色の刃が夜を裂き、迫る腕を一閃した。
「鳴海! 貴様の怨念が封印に反応している!」
「俺のせいなん!?」
「貴様以外に誰がいる!」
「伊吹、俺のせいやって!」
「実況すんな! 聞こえとる!」
千暁は伊吹を屋根の安全な場所へ下ろした。
その指が離れかけた瞬間、伊吹は思わず袖を掴む。
「……死ぬなよ」
千暁が目を丸くした。
「俺、もう死んどるで?」
「知っとるわ!」
伊吹の声が震える。
「……もう、目の前で誰かがおらんようになるんは嫌やねん」
千暁の笑顔が消えた。
伊吹がなぜ漫才をやめたのか。
あの古いネタ帳を、どうしてあんな顔で隠したのか。
全部を知らなくても、その言葉の重さは伝わった。
「……わかった」
千暁は伊吹の髪をそっと撫でた。
「ちゃんと帰ってくる」
*
千暁が屋根から飛び降りた。
白いシャツが夜風にはためく。
その背後に、巨大な霊力の拳が現れた。
「ほな、いくで!」
轟音。
黒い腕がまとめて吹き飛び、商店街の看板が三枚ほど犠牲になった。
「看板まで壊すなぁぁぁ!」
屋根の上から伊吹が叫ぶ。
「不可抗力や!」
「弁償どうすんねん!」
「俺、無職や!」
「知っとるわ!」
厳十郎が霊刀を振るいながら怒鳴った。
「戦闘中に家計の話をするな!」
「生活かかっとるんや!」
「貴様は幽霊だろう!」
「伊吹の生活が!」
「保護者か!」
「そうやけど!?」
「相方やろが!」
伊吹のツッコミが夜空に響く。
その瞬間、千暁の霊力がわずかに澄んだ。
厳十郎は目を見開いた。
だが、次の瞬間。
千暁の足元から、黒い影が噴き上がった。
無数の声が重なる。
――守れ。
――失うな。
――誰も、死なせるな。
千暁の瞳が暗く染まった。
「……伊吹に、触んな」
低い声とともに、霊力が暴走する。
巨大な拳が周囲の建物を砕き、道路が陥没した。
伊吹は屋根から飛び降り、積まれた段ボールを踏み台に着地する。
「千暁!」
返事はない。
千暁の周囲で、黒い腕が獲物を探すように蠢いている。
厳十郎が伊吹を制した。
「近づくな! 今の奴は貴様を守ろうとして、逆に殺しかねん!」
「……せやから何や」
「何?」
「危ないからって、相方置いて逃げられるか!」
伊吹は地面に落ちていたハリセンを拾った。
先ほどの舞台で千暁が使ったものだった。
「千暁ぃぃぃ!」
思いきり振り抜く。
ぱぁん!
小気味よい音が響いた。
千暁の頭が横へ揺れる。
「……いったぁ!?」
「目ぇ覚めたか、アホ!」
「伊吹!? なんでここに!」
「迎えに来たんや!」
千暁は自分の手を見た。
黒い霊力が指先から溢れている。
「……あかん」
初めて、千暁の声に恐怖が混じった。
「俺、お前を傷つけるかもしれへん」
「せやな」
「……え?」
「でも、お前は傷つけたくないんやろ?」
千暁は唇を噛んだ。
「当たり前や」
「ほな、それでええ」
伊吹は千暁の胸ぐらを掴んだ。
霊力が暴れているせいか、その身体は驚くほどはっきりしていた。
鼻先が触れそうな距離。
千暁の冷たい指が、伊吹の腰へ回る。
「……伊吹、近い」
「お前がいつもやっとることやろ」
「いや、でも、今の俺は……」
「怖いんか?」
千暁は答えなかった。
伊吹は額を寄せる。
「俺も怖いわ。けどな」
声が震えた。
「お前がおらんようになるほうが、もっと怖い」
千暁の目が揺れた。
「……相方」
「そうや。お前、俺の相方やろ」
伊吹は笑った。
「ボケ担当が勝手に退場すんな。ツッコむ相手おらんようになるやんけ」
千暁は泣きそうな顔で笑った。
「……ほんま、ええ男やな」
「惚れんなよ」
「もう手遅れかもしれへん」
「冗談にしては重いわ!」
そのツッコミと同時に、千暁の霊力が白く輝いた。
*
「鉄輪のおっちゃん!」
「おっちゃんではない!」
「その刀、怨霊だけ斬れるんやろ!」
「当然だ!」
「ほな、俺らが引きつける!」
厳十郎は絶句した。
「素人が何を――」
「千暁!」
「任しとき!」
千暁が巨大な霊力のハリセンを作り出す。
伊吹がそれを掴んだ。
「なんで武器がハリセンやねん!」
「俺ら漫才コンビやろ!」
「もっと格好ええ武器にせえ!」
「ほな、巨大しゃもじ!」
「格好ええを辞書で引け!!」
二人の掛け合いに合わせ、白い霊力が黒い怨念を包み込んでいく。
怨霊の動きが鈍った。
厳十郎は息を呑む。
恐怖によって増幅するはずの怨念が、笑いによって鎮まっている。
「……馬鹿な」
「おっちゃん! 今や!」
「だからおっちゃんでは――!」
厳十郎が霊刀を振り下ろした。
銀光が黒い塊を貫く。
悲鳴のような音が響き、怨念は光の粒となって消えていった。
静寂。
崩れた看板が、からんと音を立てる。
伊吹は肩で息をしながら、千暁を見た。
「……終わった?」
「たぶんな」
「よかった……」
安堵した途端、膝から力が抜けた。
千暁が慌てて抱き止める。
「伊吹!」
「……大丈夫や」
「怪我してへん? 痛いとこない? 息できる?」
「できとるわ!」
「人工呼吸いる!?」
「お前がしたら霊気吸い込むやろ!」
「愛の力で!」
「それ万能すぎるわ!」
厳十郎は二人を見下ろし、深々とため息をついた。
「……貴様ら、本当に何者だ」
千暁が満面の笑みを浮かべる。
「漫才コンビ《成仏待ち》です!」
「聞いていない!」
*
帰り道、千暁は伊吹の手を握ったまま離さなかった。
「……もう離してええで」
「嫌や」
「子供か」
「怖かったんやもん」
伊吹は横目で千暁を見た。
いつも笑っている幽霊が、今は少しだけ頼りなく見える。
伊吹は小さく息を吐き、握られた手を握り返した。
「……今日だけやぞ」
千暁が笑う。
「明日もええ?」
「調子乗んな」
「明後日は?」
「成仏させるぞ」
「ひどい!」
二人の笑い声が、夜道に溶けていく。
その背中を、厳十郎は遠くから見つめていた。
手元の封印札には、奇妙な変化が起きている。
百あった怨念の印。
そのうち一つが、完全に消えていた。
「……浄化したのか」
厳十郎は眉を寄せる。
「討伐でも封印でもなく、笑いで……?」
そして、古い事件記録を思い出す。
十五年前の劇場火災。
最後まで子供たちを笑わせ続けた、一人の若い芸人。
厳十郎は静かに呟いた。
「鳴海千暁……貴様は、あのときも……」
その先の言葉は、夜風に消えた。
※
一方、夕凪荘では。
「伊吹! 今日頑張ったから、夜食作ったで!」
「今何時やと思っとんねん!」
「唐揚げ五人前!」
「またか!」
「育ち盛りやろ!」
「二十四歳や言うとるやろ!」
世界を救った幽霊の最重要任務は、今日も相方の胃袋を満たすことだった。
第三話・了。




