第二話 幽霊と漫才コンビを組むな。
梶ヶ谷伊吹、二十四歳。
人生には、絶対に受け入れてはいけない提案がある。
借金の連帯保証人。 怪しい投資話。 そして、幽霊からの漫才コンビ結成の申し込み。
「伊吹! コンビ組もうや!」
「嫌や」
「まだ何も説明してへん!」
「説明聞いたら断りづらなるやろ!」
朝食の席で、鳴海千暁は一枚の紙を突きつけてきた。
《漫才コンビ結成届》
ご丁寧に、伊吹の署名欄まで用意されている。
「なんやこれ。婚姻届の親戚か?」
「似たようなもんや! 一生添い遂げような!」
「お前の一生もう終わっとるやろ!」
「死後も有効やで♡」
「重いわ!」
千暁は昨夜、伊吹の古い漫才台本を見つけて以来、妙に張り切っていた。
しかも勝手にコンビ名まで決めている。
《成仏待ち》。
「縁起悪すぎるやろ!」
「覚えやすいやん!」
「片方ほんまに成仏待ちやないか!」
「ちなみに俺がボケ、伊吹がツッコミな」
「客からお前見えへんやろ!」
「そこは愛で!」
「漫才を心霊現象で成立させようとすんな!」
伊吹は紙を突き返した。
もう舞台には立たない。
そう決めてから、何年も経っている。
押し入れの奥にしまったネタ帳も、今では開くことすら怖かった。
千暁はそんな伊吹をじっと見つめたあと、ふっと笑った。
「ほな、一回だけ。嫌やったらやめよ」
「……何を」
「俺と笑うん」
その言葉が、妙に胸に引っかかった。
*
商店街の掲示板に、一枚のチラシが貼られていた。
《夕凪お笑いライブ・出演者募集》
千暁はそれを見つけるなり、伊吹の手首を掴んだ。
冷たい。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
「これや!」
「何がや!」
「初舞台!」
「勝手に決めんな!」
「優勝賞品、商店街商品券三万円分!」
伊吹の足が止まった。
「……三万?」
「三万」
「現金?」
「商品券」
「換金性は?」
「夢ないなあ!」
結局、伊吹は申し込んだ。
生活苦は時として人間の尊厳を軽々と飛び越える。
ただし問題があった。
「出演者、二人って書いてあるぞ」
「二人おるやん」
「受付のおばちゃんには俺しか見えてへん!」
千暁は考え込んだ。
そして、伊吹の肩に両手を置いた。
「伊吹。俺を信じてくれ」
「……なんや急に」
「俺らなら、絶対できる」
真剣な顔だった。
端正な顔立ちが近づき、伊吹は思わず視線を逸らす。
「……近い」
「照れた?」
「除霊すんぞ」
「愛情表現が過激!」
結局、受付には「腹話術の相方」と説明した。
人形は持っていない。
受付のおばちゃんは、最後まで不審そうだった。
*
本番当日。
舞台袖で、伊吹は震える手を握り締めていた。
客席から笑い声が聞こえる。
照明の熱。 マイクの匂い。 床板の軋む音。
すべてが懐かしく、同時に恐ろしかった。
高校時代、隣にはいつも相方がいた。
「……無理や」
小さく呟くと、千暁が顔を覗き込んだ。
「伊吹」
「……なんや」
「失敗してもええねん」
「簡単に言うな」
「失敗したら俺がボケ倒す。お前は好きなだけツッコめ」
千暁はいつもの調子で笑った。
「一人にせえへんから」
その言葉に、伊吹の喉が詰まる。
かつて、同じようなことを言ってくれた人がいた。
けれど今隣にいるのは別の誰かだ。
冷たい手が、そっと伊吹の背中を押した。
「ほら、行こか。相方」
伊吹は深く息を吸った。
「……今回だけやぞ」
「もちろん!」
千暁は満面の笑みを浮かべた。
嘘をつく幽霊の顔だった。
*
「どうもー! 《成仏待ち》でーす!」
伊吹が舞台へ飛び出した。
隣には千暁。
ただし、観客には見えていない。
「いやあ、今日は皆さんに会えて嬉しいわ!」
千暁が手を振る。
伊吹がツッコむ。
「お前、客から見えてへんやろ!」
客席が静まり返った。
当然だった。
観客からすれば、若い男が誰もいない空間に怒鳴っている。
「最近、健康に気ぃ遣ってましてね!」
千暁が続ける。
「お前もう死んどるやろ!」
沈黙。
「毎朝、散歩してるんですよ!」
「足ないやろ!」
さらに沈黙。
伊吹の額に冷や汗が滲んだ。
終わった。
そう思った瞬間、千暁がマイクスタンドを浮かせた。
客席から悲鳴が上がる。
「お前! 何しとんねん!」
「いや、ちょっと演出を!」
「心霊現象を演出言うな!」
マイクが宙を舞い、椅子が勝手に回転する。
伊吹は必死に追いかけた。
「戻せ! 舞台壊すな!」
「盛り上がっとるやん!」
「悲鳴や!」
ところが、客席の一人が吹き出した。
続いて、別の客も笑う。
恐怖よりも、伊吹の必死すぎるツッコミが勝った。
千暁はそれを見て、悪戯っぽく笑った。
「伊吹、次いくで!」
「何を――」
ズボンのベルトが、ひとりでに緩んだ。
「お前ぇぇぇ!」
伊吹は慌てて腰を押さえる。
「下ネタに逃げるな!」
会場が爆笑に包まれた。
千暁は調子に乗り、舞台袖から巨大なハリセンを飛ばしてきた。
伊吹はそれを掴み、反射的に千暁の頭を叩く。
ぱぁん!
乾いた音が響いた。
「……え?」
伊吹は目を見開いた。
触れた。
幽霊のはずなのに。
千暁も驚いた顔をしていたが、すぐに笑う。
「ええ音したなあ!」
「なんで叩けんねん!」
「愛の力?」
「便利すぎるやろ、その理屈!」
客席は腹を抱えて笑っていた。
伊吹も、気づけば笑っていた。
怖かった舞台が、いつの間にか楽しくなっていた。
隣にいるのは、かつての相方ではない。
けれど、今ここにいる千暁とならもう一度、笑えるかもしれない。
*
結果発表。
優勝、《成仏待ち》。
「やったで伊吹!」
「ほんまに優勝してもうた……」
千暁は喜びのあまり伊吹に抱きついた。
冷たい身体が、ふわりと重なる。
「伊吹ぃ! 大好きやぁ!」
「やめろ! 人前や!」
「誰にも見えてへんから大丈夫!」
「俺が一人で悶えとる変態になるやろ!」
観客は最後まで大笑いだった。
その様子を、客席の最後列から一人の男が見つめていた。
黒いスーツ。 鋭い眼光。 胸元には、霊務局の銀色の徽章。
鉄輪厳十郎。
「……鳴海千暁」
男は低く呟いた。
十五年前、百人分の怨念を封じ込めた特級危険霊。
本来なら、物理的な干渉すら不可能なほど不安定な存在。
それが今、舞台上で人間と触れ合っていた。
しかも笑っている。
「……どういうことだ」
厳十郎は懐から封印札を取り出した。
その表面に刻まれた文字が、千暁の笑い声に反応して淡く光る。
「まさか、封印が……」
*
帰り道、伊吹は商品券の封筒を握り締めていた。
「……なあ、千暁」
「ん?」
「今日、楽しかったわ」
千暁が振り返る。
伊吹は照れくさそうに視線を逸らした。
「……ありがとな」
千暁は少しだけ目を細めた。
「どういたしまして、相方」
その呼び方に、伊吹は何も言い返さなかった。
ただ、口元が緩む。
そんな二人の前に、黒いスーツの男が立ちはだかった。
「鳴海千暁」
低い声が夜道に響く。
千暁が首を傾げた。
「……誰や、おっちゃん」
「霊務局、特級怪異対策課。鉄輪厳十郎だ」
厳十郎は封印札を掲げる。
「貴様を、特級危険霊として回収する」
伊吹は千暁を見た。
千暁も伊吹を見た。
そして、同時に口を開く。
「「……回収?」」
千暁が真顔で尋ねた。
「粗大ゴミの日、まだ先やで?」
「誰がゴミやねん!」
伊吹のツッコミが、夜の商店街に響き渡った。
厳十郎は、早くも頭痛を覚えていた。
第二話・了。




