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第一話 隣人が死んでいること以外、だいたい普通。

梶ヶ谷伊吹、二十四歳。

職業、フリーター。貯金、ほぼなし。恋人、なし。将来の展望、絶賛行方不明。


そんな男が人生で初めて幽霊に遭遇したとき、最初に口にした言葉は悲鳴でも念仏でもなかった。


「……誰やねん、お前」


「おはようさん! 朝飯できたで!」


台所に、知らない男がいた。


銀灰色の髪に、妙に整った顔立ち。白いシャツの袖を肘まで捲り、鼻歌交じりに卵焼きを皿へ移している。


しかも裸足だった。


いや、正確には足がなかった。

膝から下が、うっすら透けている。


「……お前、足」


「ん?」


「足、透けとる」


「ああ、これ?」


男は自分の足元を見下ろし、あっけらかんと笑った。


「幽霊やからな!」


「帰れぇぇぇぇ!」


伊吹が投げた枕は、男の胸をすり抜けて冷蔵庫に激突した。


冷蔵庫の上から昨日買ったカップ麺が落ちてくる。

男はそれを空中で受け止めた。


「危なっ。食べ物粗末にしたらあかんで」


「なんで枕はすり抜けてカップ麺は持てるねん!」


「気合いや!」


「物理法則に謝れ!」


男は愉快そうに笑った。


「ええツッコミするなあ、お前」


その一言に、伊吹の表情がほんのわずかに強張った。

けれど男は気づかず、湯気の立つ味噌汁を食卓へ並べる。


「俺、鳴海千暁。隣の四〇四号室に住んどる。よろしくな、伊吹!」


「なんで俺の名前知っとんねん」


「郵便受け見た!」


「個人情報!」


「安心せえ。悪用せんから」


「存在そのものが不法侵入やろ!」


千暁は笑いながら椅子を引いた。


「ほら、冷めるで。卵焼き甘めにしといたから」


伊吹は警戒した。


当然だ。

知らない幽霊が勝手に部屋へ入り、勝手に料理を作り、勝手に自分の名前を呼んでいる。


しかも顔がいい。

腹立たしいことに、ものすごく顔がいい。


伏せた睫毛が長く、笑うと目尻が柔らかく下がる。生きていたら、さぞ人をたらし込んだことだろう。


「……毒とか入ってへんやろな」


「幽霊が毒盛ってどうすんねん」


「仲間増やすとか」


「そんな寂しい理由で殺さんわ!」


伊吹は恐る恐る卵焼きを口に運んだ。


甘い。

ふんわりしていて、出汁の香りがする。


昨夜、コンビニの廃棄寸前のおにぎりで夕食を済ませた胃袋に、温かな食事が染み込んだ。


「……うま」


思わず漏れた本音に、千暁が嬉しそうに笑う。


「せやろ? いっぱい食べや」


その顔を見て、伊吹はなぜか胸の奥がむず痒くなった。


誰かに朝食を作ってもらうなんて、いつ以来だろう。


「……いや、待て。なんで普通に食うてんねん、俺」


「おかわりあるで!」


「会話しろ!」


こうして、梶ヶ谷伊吹の人生に、非常識な同居人が加わった。


正確には隣人だが、壁を抜けてくるため境界線が存在しない。


最悪だった。

生活環境だけは、劇的に改善した。


*


千暁の過保護は、伊吹の想像を軽々と超えてきた。


「伊吹! 弁当持った?」


「持った!」


「ハンカチは?」


「持った!」


「替えのパンツは?」


「なんでバイトに替えのパンツ要んねん!」


「人生、何があるかわからんやろ!」


「パンツが必要な人生の危機って何や!」


玄関先で騒いでいると、千暁が伊吹の襟元へ手を伸ばした。

ひんやりした指先が首筋に触れる。


「ほら、曲がっとる」


妙に近い距離でネクタイを直され、伊吹は思わず息を止めた。


端正な顔が目の前にある。


生きた人間とは違う冷たい指先なのに、触れ方だけがやけに優しい。


「……近いわ」


「照れとる?」


「殺すぞ」


「もう死んどる!」


「便利な返しやな!」


千暁は満足げに襟を整えると、伊吹の頭をぽんぽんと撫でた。


「今日も頑張っておいで」


「子供扱いすんな!」


「帰ったら好きなもん作ったるから」


「……唐揚げ」


「任しとき!」


「くそっ、餌付けされとる!」


※


その日、伊吹はアルバイト先で理不尽な客に絡まれた。

注文を間違えたのは客自身なのに、伊吹が謝罪を要求される。


「お前、客に向かってその態度は何だ!」


伊吹は奥歯を噛み締めた。

言い返せば面倒になる。

いつものように頭を下げようとした、そのとき。


客の背後に、巨大な般若の顔が浮かび上がった。


「…………」


般若は客の耳元で囁いた。


『オキャクサマァ……カミサマァ……?』


客は悲鳴を上げて逃げた。

伊吹は天井を仰いだ。


「……千暁」


『はーい♡』


「出てこい」


『今、天井裏やで!』


「なんでおんねん!」


『伊吹が心配で!』


「過保護にも限度があるやろ!」


『でも、泣かされんでよかったな』


その言葉に、伊吹は返事を失った。

千暁は天井から顔だけ出して、にこりと笑う。


『お前、よう頑張っとるよ』


誰にも言われなくなって久しい言葉だった。


だから余計に腹が立った。


「……帰ったら説教や」


『唐揚げ揚げとくな!』


「買収すんな!」


*


伊吹が帰宅すると、食卓には唐揚げが山盛りになっていた。


「おかえり、伊吹!」


「ただいま……って、なんで五人前ほどあんねん」


「育ち盛りやろ?」


「二十四歳や!」


「俺からしたら赤ちゃんみたいなもんや」


「お前、享年二十七やろ!」


千暁は笑いながら皿を置く。


その拍子に、押し入れの隙間から古びたノートが滑り落ちた。


表紙にはかすれた文字。

『漫才ネタ帳』


伊吹の手が止まる。


「……触んな」


いつもより低い声だった。

千暁も笑うのをやめた。


伊吹はノートを拾い、乱暴に押し入れへ戻す。


高校時代、二人で書いた台本。

もう一人の筆跡は今もそこに残っている。


あの日から、伊吹は舞台に立っていない。


笑わせたいと思うたび、隣に誰もいないことを思い知らされるから。


「……昔、やっとったん?」


千暁の声は静かだった。


「もうやめた」


「そっか」


それ以上、聞いてこなかった。

代わりに千暁は、唐揚げを一つ摘まむ。


「なあ伊吹。幽霊が一番苦手な食べ物、知っとる?」


「……知らん」


「生姜焼き」


「なんでやねん」


「しょうがないから!」


「しょうもなっ!」


思わずツッコんだ。

千暁が目を丸くする。


それから、嬉しそうに笑った。


「やっぱり、お前のツッコミ好きやわ」


伊吹は黙った。

その言い方が、妙に懐かしかった。


「……勝手に好きになんな」


「ええやん。減るもんちゃうし」


千暁は笑って、伊吹の皿へ唐揚げを一つ追加する。


「ほら、食べ。冷めるで」


伊吹は俯いたまま箸を動かした。


唐揚げは熱くて、うまかった。


少しだけ、目の奥が痛んだ。


*


夕凪荘から離れた霊務局本部で、一枚の報告書が机に置かれた。


《特級危険霊・鳴海千暁》

《十五年前、劇場火災にて死亡》

《封印怨念数、百》


鉄輪厳十郎は資料を読み終え、眉間に深い皺を刻んだ。


「……まだ現世に残っていたか」


添付された古い写真には、若い千暁が写っている。

舞台の上で笑う彼の周囲には子供たちの笑顔があった。


厳十郎は写真を伏せる。


「今度こそ、回収する」


※


そのころ当の危険霊は、伊吹の部屋で洗濯物を畳んでいた。


「伊吹ー! パンツに穴開いとるでー!」


「大声で報告すんなぁぁぁ!」


世界の平和を脅かす特級霊。


その現在の最重要任務は、二十四歳独身男性のパンツを新調することだった。


そして伊吹は、まだ知らない。

この騒がしい幽霊が、かつて自分の人生を一度だけ救っていたことを。


もう一度、誰かと笑うための物語が、ここから始まる。




第一話・了。

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