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第五話 成仏するには、まだ早い。

「梶ヶ谷伊吹。鳴海千暁。貴様らに、霊務局から正式な通達がある」


夕凪荘の食卓に、鉄輪厳十郎の重々しい声が響いた。


黒いスーツ。険しい顔。机に置かれた分厚い書類。


どう考えても、楽しい話ではない。


「……千暁」


「なんや、伊吹」


「お前、また何かやらかしたんか」


「昨日、伊吹のパンツ全部新品に替えた」


「それはもう聞いた!」


「柄も選んだで♡」


「誰が頼んだ!」


厳十郎が机を叩いた。


「パンツの話をやめろ!」


「厳ちゃん、朝から元気やなあ」


「誰が厳ちゃんだ!」


千暁は笑いながら茶を差し出した。

厳十郎は受け取りかけ、慌てて手を引っ込める。


「……今日は仕事で来た」


「羊羹もあるで」


「……一切れだけだ」


「食うんかい!」


伊吹のツッコミが響く。

厳十郎は咳払いし、書類を広げた。


「鳴海千暁。貴様の強制回収処分は、正式に撤回された」


沈黙。

伊吹が目を瞬かせる。


「……ほんまに?」


「ああ。ただし、条件がある」


厳十郎は二人を見据えた。


「霊務局の協力者として、各地の怪異鎮圧任務に参加してもらう」


「……つまり?」


「働けということだ」


千暁が胸を張った。


「俺、就職決まったん!?」


「そういう解釈もできる」


「伊吹! 俺、無職卒業や!」


「死んでから就職する奴、初めて見たわ!」


「社会保険入れるかな!」


「死亡届出とるやろ!」


厳十郎はこめかみを押さえた。


「……それと、もう一つ」


彼は小さな銀色の札を取り出した。


「一定時間、人間と同じように実体化できる許可証だ」


千暁の笑顔が止まった。


「……え?」


「監督下での使用に限るが、一般人にも姿が見えるようになる」


伊吹は息を呑んだ。


それはつまり。

千暁と、普通に並んで歩ける。

誰かに紹介できる。


そして。


「……舞台、立てるやん」


思わず零れた言葉に、千暁が振り向いた。

伊吹は少しだけ俯く。


「俺……もう一回、漫才やりたい」


千暁は黙って聞いていた。


「お前と。ちゃんと二人で」


その瞬間、千暁の顔がくしゃりと歪んだ。


「……伊吹」


「なんや」


「抱きついてええ?」


「嫌や」


「もう抱きついとる!」


「聞く意味!」


千暁は伊吹を力いっぱい抱き締めた。

冷たいはずの身体が、今日は妙に温かく感じられた。


*


初めての正式な舞台は、商店街の小劇場に決まった。


前回の心霊漫才が話題になり、《成仏待ち》には思いがけず出演依頼が届いていた。


ただし、問題が一つ。


「伊吹! 衣装どうする!?」


「普通のスーツでええやろ」


「ペアルック?」


「コンビ衣装や!」


「結婚式みたいやな♡」


「違うわ!」


千暁は楽しそうに伊吹のネクタイを結ぶ。


実体化の許可証を使った千暁の指先は、もう冷たくなかった。

温かな手が首筋を掠める。


伊吹は思わず肩を揺らした。


「……くすぐったい」


「ん?」


「近いねん」


千暁は悪戯っぽく笑った。


「顔、赤いで」


「照明のせいや!」


「まだ楽屋やけど?」


「うるさい!」


千暁は伊吹の顎に指を添えた。


「なあ、伊吹」


「……なんや」


「俺、お前に会えてよかった」


不意に真剣な声だった。

伊吹は目を逸らせなくなる。

千暁の瞳は、いつもよりずっと穏やかだった。


「死んでから、ずっと何か忘れとる気がしてた。けど今は、ここにおってええんやって思える」


伊吹は唇を噛んだ。


「……俺もや」


千暁の手を掴む。


「お前がおらんかったら、もう舞台には戻られへんかった」


千暁が微笑む。


「ほな、これからも一緒やな」


「……せやな」


伊吹は少し背伸びして、千暁の頬に唇を寄せた。


ほんの一瞬。


千暁が固まった。


「…………」


「……なんや」


「伊吹」


「なんやねん」


「今、ちゅーした?」


「してへん!」


「したやん!」


「気のせいや!」


「幽霊の勘、鋭いで!」


「実体化しとるやろ!」


千暁は満面の笑みを浮かべた。


「もう一回して?」


「調子乗んな!」


そのとき、楽屋の扉が開いた。


「おい、そろそろ出番――」


厳十郎だった。

三人の視線が交錯する。


沈黙。


千暁は伊吹の腰を抱いたまま。

伊吹は顔を真っ赤にしたまま。


厳十郎は静かに扉を閉めた。

そして廊下から叫んだ。


「職場で何をしている貴様らぁぁぁ!」


*


舞台袖。

客席から、ざわめきが聞こえていた。


伊吹の手が震える。

千暁はそれに気づき、そっと手を握った。


「……怖いか?」


「……ちょっとな」


「大丈夫や」


千暁は笑った。


「失敗しても俺がおる」


伊吹はその顔を見つめた。


かつて失った相方。

もう戻らない日々。

その記憶は、今も胸の奥に残っている。


けれど、失ったものを忘れなくても、新しい誰かと笑っていい。


伊吹はようやくそう思えるようになっていた。


「……千暁」


「ん?」


「今日は、絶対笑わせるで」


「もちろんや!」


二人は顔を見合わせた。

そして、舞台へ踏み出す。


「どうもー! 《成仏待ち》でーす!」


拍手が起こった。

千暁が笑う。


「生きてるほうの梶ヶ谷伊吹です!」


「死んでるほうの鳴海千暁です!」


「自己紹介が事故物件や!」


客席が沸いた。


「いやあ、最近健康に気ぃ遣ってまして」


「お前もう死んどるやろ!」


「毎朝、散歩してるんですよ」


「足ないやろ!」


「でも今日は足あるで!」


「許可制の足やろ!」


笑い声が広がる。

千暁は舞台の中央で、大きく手を広げた。


「皆さん! 人生、何が起こるかわかりません!」


伊吹が首を傾げる。


「急に真面目やな」


「せやから、笑えるうちに笑っときましょう!」


伊吹は少しだけ目を細めた。


十五年前、炎の中で子供たちを笑わせ続けた男。

その言葉は今も変わらない。


「……せやな」


伊吹は笑った。


「でもお前は、もうちょい反省して生きろ!」


「死んどるって!」


「知っとるわ!」


劇場が、今日一番の笑いに包まれた。


*


公演終了後。

楽屋には、千暁特製の五段重ね弁当が置かれていた。


「伊吹! 頑張ったご褒美や!」


「多いわ!」


「育ち盛りやろ!」


「二十四歳や!」


「俺からしたら赤ちゃんみたいなもんや!」


「享年二十七のくせに!」


千暁は笑いながら伊吹を抱き寄せた。


「なあ、伊吹」


「……なんや」


「俺、まだ成仏したないわ」


伊吹は箸を止めた。

千暁の声は、冗談ではなかった。


「もっとお前と漫才したい。もっと笑わせたい。もっと……一緒におりたい」


伊吹はしばらく黙っていた。

それから、千暁の胸元に額を押しつける。


「……当たり前やろ」


「伊吹?」


「勝手に成仏したら、絶対許さんからな」


千暁の腕に力がこもった。


「……約束する」


二人はしばらく、そのままでいた。

やがて伊吹が顔を上げる。


「……なあ、千暁」


「ん?」


「お前、幽霊やけど……恋愛とかできるん?」


千暁が目を瞬かせた。


そして、ゆっくり笑った。


「試してみる?」


「……アホ」


伊吹はそう言いながら、千暁の襟元を引き寄せた。


唇が重なる。

今度は、逃げなかった。


千暁の指が伊吹の髪に絡み、もう片方の手が腰を支える。


触れ合う唇は温かかった。


生きている人間と、死んだはずの幽霊。

それでも今、確かに同じ場所にいる。


唇を離すと、千暁が珍しく照れた顔をしていた。


「……伊吹」


「なんや」


「俺、心臓止まりそう」


「最初から止まっとるやろ!」


「ほんまや!」


二人は顔を見合わせ、声を上げて笑った。


そのとき、楽屋の扉が勢いよく開いた。


「貴様ら! 次の怪異討伐任務が――」


厳十郎が固まる。


千暁の腕の中にいる伊吹。


真っ赤な顔。

妙に甘い空気。


厳十郎は無言で扉を閉めた。


そして廊下から、魂の叫びが響いた。


「だから職場で何をしているぅぅぅ!」


千暁は笑いながら伊吹の額に口づけた。


「ほな、次の仕事も頑張ろか。相方」


伊吹は呆れたように笑う。


「……せやな」


死んでもなお、誰かを笑わせたい男。

もう一度、笑って生きたい男。


二人の漫才は、まだ始まったばかり。


そして今日も、夕凪荘の四〇四号室には、幽霊以外誰も住んでいない。


ただし隣の部屋には、過保護すぎる幽霊が毎朝勝手に朝食を作りに来る。


「伊吹! 明日の朝飯、何がええ?」


「……卵焼き」


「甘め?」


「……せやな」


「任しとき!」


そんな、少しだけ幸せな日常が続いていく。





『隣の幽霊、過保護につき。』本編完結。

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