第7章 帰る場所は、ひとつでなくてもよいのです
せとうち各駅停車は、小豆島醤油蔵の香りを、まだ車内のどこかに残したまま走っていた。
深い香りはもうほとんど薄れている。それでも完全に消えたわけではなく、服の袖や髪の先、胸の奥に、ほんの少しだけ残っている気がした。
俺は白い切符を見た。
『小豆島醤油蔵――醸成中』
相談済ではなく、醸成中。終わってはいないけれど、何もなかったわけでもない。途中のまま、ちゃんと次へ向かっている。
そう思えたら少し救われるはずなのに、車内は静かだった。
向かいの席で凪は窓の外を見ている。横顔はいつも通り静かに見えるのに、メモ帳を持つ指先に少しだけ力が入っていた。
――答えを待っているあいだに、どちらかだけ先に違う場所へ行ってしまうことも、あるのかなって。
小豆島醤油蔵を出る前、凪はそう言った。
俺はうまく返せなかった。
茶化すこともできなかった。
――待つとは、育つ時間を引き受けることです。
小豆島醤油蔵の神様の声はまだ胸に残っている。でも、待っているあいだ、隣にいる人も同じ速さで待ってくれるとは限らない。
俺が自分の答えを待っているあいだに、凪は凪で変わっていく。凪が自分の答えを待っているあいだに、俺も俺で変わっていく。
同じ場所にいるつもりでも、同じ速さで変わっていくとは限らない。
俺はそれをちゃんと考えていなかった。
車内の古い表示板が、ぱたんと音を立てて変わる。
『次は、尾道石段』
凪が顔を上げた。
「尾道……」
「広島だな」
「石段って、尾道らしいね」
「上る前から足が疲れそうな名前だな」
「晴路くん、まだ降りてもないよ」
「予防線を張っておこうと思って」
いつもの調子で返したつもりだった。
でも、凪は少しだけ笑って、それ以上は続けなかった。俺も、そこから先をうまくつなげられなかった。
窓の外の景色が変わった。
海の向こうに、斜面へ家々が重なる町が見えてくる。細い道が家と家のあいだを縫うように上へ伸びていて、海に近いのに、町全体が空へ向かっているように見えた。
列車は海沿いを走っているはずなのに、いつの間にか石段の途中へ吸い込まれていくようだった。
車掌が通路の奥に立っていた。
顔は帽子の影に隠れている。
「次の駅でございます」
車掌は切符鋏を鳴らした。
「尾道石段。途中で止まる人の足音が残る場所でございます」
「途中で止まる人……」
凪が小さく繰り返す。
「上り切る前にも、下り切る前にも、人は自分の場所を確かめることがございます」
その言葉の意味を考える前に、列車は速度を落とした。
ホームは石段の途中にあった。
海から少し上がったその場所には、さらに上へ続く石段と、細い路地へ抜ける道があった。ホームの端には古い手すりが伸びていて、何度も人の手に触れられたのか、木の表面がなめらかになっていた。
昼でも夜でもない時間だった。夕方に近いのに空はまだ明るく、石段に残った日なたの色だけが、少しずつやわらかくなっている。
素朴な黒い文字でこう書かれていた。
『尾道石段』
列車が止まる。
扉が開くと、潮の匂いと、石段に残った日なたの匂いが入ってきた。どこかで猫が鳴いたような気がしたが、姿は見えなかった。
俺と凪はホームへ降りた。
足元の石は角が丸くなっていた。長い時間、人の足がここを上り下りしてきたのだと分かる。石段の上には古い家の影があり、下には海が見えた。
ホームの先には小さな踊り場があった。
その手すりのそばに、一人の神様が立っている。
年老いてはいないが、若いとも言い切れない。学生のようにも、町を歩き慣れた案内人のようにも見える神様は、日なたで少し色あせた白いシャツに、深い紺の上着を羽織っていた。
片手は古い手すりにそっと添えられている。その指先は、ここで息を整えてきた人たちの時間を静かに覚えているようだった。
神様は石段の途中に立ち、上も下も見ていなかった。ただ、自分の足元を見ている。
俺たちが近づくと、神様は顔を上げた。
「香りのする蔵から来たのですね」
声は澄んでいた。
古い言葉ではない。
けれど、長い時間を知っている声だった。
「はい」
凪が答える。
「小豆島醤油蔵の神様に会ってきました」
「なら、待つことの難しさを少し知ったのでしょう」
神様は手すりに添えた指先を、ほんの少しだけ動かした。
「私は尾道の石段に残った、ひと息の記憶です」
「ひと息の記憶……」
凪が繰り返した。
「上り切る前に息を整えた人も、下り切る前に振り返った人も、途中で泣いた人も、もう一度歩き出すために手すりへつかまった人もいました。そういう時間が長い年月をかけて、私の形になりました」
神様は俺たちの後ろにある踊り場を見た。
「昔、ここで休む子がいました」
石段の上に、薄い景色が重なる。
小さな子どもが石段の途中で座り込んでいる。膝を抱え、息を切らしているその子へ、上の方から大人たちが呼びかけていた。
早くおいで。
声そのものは聞こえない。
けれど、そう言っているのが分かった。
「その子のために、私はこの踊り場を少し広くしました。ここで休めばいい。息を整えればいい。途中にも、ちゃんと今がある。そう伝えたかったのです」
神様は手すりを見た。
「でも、大人たちは言いました。休める場所があるから、あの子は休んでしまうのだと。甘やかすから、上まで行けないのだと」
凪の顔が少しこわばった。
「私は迷いました。途中でひと息つける場所は、その子を止めてしまうのかもしれない。そう思って、一度だけ、この踊り場を狭くしました」
重なった景色の中で、踊り場がすっと細くなる。
子どもは座る場所を失って、しばらく立ち尽くしていた。やがて泣きそうな顔で手すりにつかまり、ふらつきながら上へ進んでいった。
「その子は上まで行きました」
神様の声は低かった。
「けれど、二度とこの石段を好きだとは言いませんでした」
景色の中で、子どもの背中が遠ざかる。
「上まで行けた。けれど、途中で見た海も、踊り場の風も、手すりの温かさも、全部ただ苦しいだけのものになってしまった」
神様は俺たちを見る。
「途中で休める場所を残すことは、歩く人を助けることなのでしょうか。それとも、歩く力を奪うことなのでしょうか」
その問いは石段の途中に静かに落ちた。
凪は黙っていた。
でも、その手はメモ帳を握ったまま、少し震えていた。
「内海?」
俺が小さく呼ぶと、凪ははっとしたように顔を上げた。
「大丈夫」
そう言った声が少しだけ硬かった。
大丈夫。
その言葉を聞いた瞬間、なぜか胸がざらついた。
凪はいつもそう言う。分からないことがあっても、少しつらそうでも、最初に出る言葉はたいてい「大丈夫」だった。俺は今まで、それを本当に大丈夫なのだと思っていたのかもしれない。
でも、さっきの声は違った。
誰かに聞かせるための大丈夫ではなく、自分を急がせるための大丈夫に聞こえた。
神様はさらに上を指した。
「もう少し歩きましょう。答えはここに立ったままでは見えません」
俺は神様についていこうとした。
けれど、凪が先に歩き出していた。
いつもなら、旅程を確認しながら歩く。足元を見て、俺が遅れれば少し待つ。でも、その時の凪は何かを振り切るように石段を上がっていった。
「内海、少し速い」
凪は一度だけ振り返った。
「ごめん。……でも、もう少しだけ上りたい」
声は落ち着いているようで、息が少し乱れていた。
石段はさらに急になる。
俺もあとを追う。
凪は次の踊り場の前で足を緩めかけた。
けれど、そこに立つ前に視線をそらし、もう一段上へ進もうとする。
「内海」
呼ぶと、凪の肩が小さく揺れた。
「分かってる。休んだ方がいいのは、分かってるんだけど」
凪は手すりに触れたまま、石段の上を見た。
「今止まったら、戻れなくなりそうで」
その声は自分を急がせているような声だった。
神様は何も言わず、少し後ろから見ている。
凪は踊り場をひとつ通り過ぎた。
そこに立てば海の色も、家々の屋根も、列車が停まった石段のホームも見えたはずだった。でも、そちらを凪は見なかった。
さらに上へ進んでいく。
メモ帳を握っている凪の指先が白くなっていた。
それでも凪は歩く速さを落とさない。
俺はそこで、ようやく気づいた。
凪は止まるのを怖がっているのかもしれない。
途中で止まったら遅れる。置いていかれる。だから、神様が途中の踊り場を見せているのに、凪はそこを見ないようにしている。
「内海、止まろう」
凪は止まらない。
「もう少しだけ⋯⋯」
「いや、一度止まろう」
今度は少し強く言った。
凪の足が石段の途中で止まった。
肩が上下している。
息が乱れている。
俺は追いつき、すぐ横に立った。
少し前なら、ここで何か茶化していたと思う。
大都会岡山の登山隊とか。凪隊長、ペース配分が雑ですとか。でも、今は言えなかった。
「⋯⋯内海」
息を整えながら、俺は声をかける。
「今は止まっていいと思う」
凪の肩が小さく震えた。
「……止まったら」
声が落ちた。
「止まったら、置いていかれる気がする」
その言葉は石段の途中に静かに落ちた。
「誰に」
聞いてから、もう分かっていた。
凪は手すりに触れた。
「晴路くんに」
俺は何も言えなくなった。
凪は顔を上げなかった。
「晴路くんが外へ行きたいって言った時、少しほっとしたの。ああ、やっぱり晴路くんは外を見る人なんだって。私も外を見たいって言えたのは、晴路くんが先にそういう流れを持っていたからかもしれない」
凪の声は震えていた。
「でも、怖くもなった」
「怖い?」
「うん。晴路くんが先に答えを出して、先に外へ行って、私はまだ途中で止まっていて。残るのか出るのかも決められないまま、ここに立っている気がした」
凪はやっと俺を見た。
目元が赤い。
「さっき、待っている間に誰かが先に答えを出してしまったらどうするんだろうって言ったけど、たぶん私、晴路くんのことを考えてた」
胸がぎゅっと痛んだ。凪は続けた。
「止まっていたら、晴路くんだけ先に行く気がした。だから、止まりたくなかった」
俺はしばらく何も言えなかった。
嬉しいとか、悲しいとか、そういう簡単な気持ちではなかった。凪がそんなふうに思っていたことに驚いて、同時に、自分も似たような怖さを持っていたことに気づいた。
「俺も」
声が出た。
凪がこちらを見る。
「俺も、内海に置いていかれる気がしてた」
凪の目が少し揺れる。
「私に?」
「うん」
俺は手すりに手を置いた。
「内海はちゃんとしてるから。総合探究のテーマも作れて、予定も立てられて……人の話もちゃんと聞けて。俺が大都会岡山とか言ってごまかしてる間に、内海はちゃんと自分の答えを出すんだろうなって思ってた」
「そんなこと……」
「――あるんだ。俺だけずっと何も決められないまま残る気がしてた。内海が岡山に残るって決めても、外へ行くって決めても、どっちにしても俺よりちゃんと進んでる気がした」
言いながら情けなくなる。
でも、言葉を止められなかった。
「だから、内海が外を見たいって言った時、驚いた。勝手に残る側だと思ってたから。でも、それだけじゃなくて……内海も迷ってるって分かって、少し安心したのも事実だった」
「安心?」
「ひどい言い方だけど」
凪は首を横に振った。
「ひどくない。私も、晴路くんが迷ってるって分かると、少し安心する」
俺たちは石段の途中で向かい合った。
下には海が見える。
上にはまだ続く石段がある。
どこにもたどり着いていない。でも、その途中で、初めてちゃんと同じ怖さを見た気がした。
置いていかれるのが怖い。
凪だけではない。俺自身も怖かった。
どちらかが先に答えを出して、どちらかが遅れるのではないか。昔の距離が変わって、そのまま戻れなくなるのではないか。それが怖かった。
神様が静かに近づいてきた。
「言えましたね」
俺も凪もすぐには答えられなかった。
神様は踊り場へ目を向けた。
「途中でひと息つける場所がいるのは、歩けない人を甘やかすためではありません」
海から吹く風が俺たちの足元を抜けていく。
「自分が今どこに立っているのか、見るためです」
石段のあちこちに踊り場が見え始めた。
少し広くなった段。
海を見下ろせる場所。
手すりに触れて、息を整えられる場所。
誰かが腰を下ろした跡のように、石の色が少しだけやわらかくなっている場所。
頂上だけが大事なのではなかった。
途中にもちゃんと場所があった。
「止まることは置いていかれることだけではありません。隣にいる人と、自分の足元を確かめる時間にもなります」
凪が静かに息を吸った。
「隣にいる人と……」
「そうです。途中で止まったから、言える言葉もある。急いで上り切ってしまえば、聞こえない声もある」
神様は俺たちが通り過ぎた踊り場を見た。
「ここで何が苦しいのか、誰と歩きたいのか、どこへ行きたいのか。それを見るために、途中の場所はあります」
石段全体が少しだけやわらかく見えた。
凪の目から、涙が一筋だけ落ちた。
凪はすぐに拭おうとした。
でも、俺は何も言わなかった。
大丈夫、と言わせたくなかった。
さっきまでの凪なら、きっとすぐに「大丈夫」と言った。牛窓でも、鳴門でも、何度もそう言った。
でも今は少しくらい大丈夫じゃなくてもいい気がした。
「内海」
「うん」
「ここで、少し止まろうか」
凪は泣きそうな顔で少し笑った。
「うん」
俺たちは踊り場の手すりのそばに腰を下ろした。
神様は少し離れた場所で立っている。
何も急かさない。
何もまとめない。
ただ、俺たちが息を整えるのを待っている。
下には海があった。
上にはまだ石段が続いている。
横には凪がいる。
たどり着いたわけではない。
答えが出たわけでもない。
でも、俺たちは同じ途中にいた。
しばらく、誰も話さなかった。
石段の上の方から、風だけが下りてくる。どこかの屋根の隙間で、小さな音が鳴った。遠くの海が夕方の光を細かくほどいている。
さっきまで息が苦しかった。
でも、座っているうちに、呼吸の速さが少しずつそろっていった。
俺の息と、凪の息。
同じではない。
けれど、同じ場所で少しずつ落ち着いていく。
置いていかれるのが怖い。
置いていかれたくない。
置いていきたくない。
言葉にしてしまえば短いのに、ここへ来るまで、ずいぶん時間がかかった。
「昔は――」
凪がぽつりと言った。
「――もっと普通に話せてたね」
「⋯⋯そうだな」
「こういうことも言えてたのかな」
「いや、昔は進路のことなんか考えてなかっただろ」
「⋯⋯それもそうだね」
凪が少し笑った。
その笑いは涙のあとで、少しだけ弱かった。
でも、ちゃんと凪の笑いだった。
「昔に戻る途中ではないんだよね」
「たぶん」
「でも、離れて終わる途中でもないといいな」
その言葉に、胸がまた痛くなる。
俺はすぐに答えられなかった。
簡単に「終わらない」と言うのは違う気がした。
県外へ行くかもしれない。
凪が岡山に残るかもしれない。
俺たちの距離はこれから変わるかもしれない。
でも、今なら言えることがあった。
「終わらせたくないとは思ってる」
凪がこちらを見る。
俺は海の方を見ながら続けた。
「昔に戻れなくても、同じままじゃなくても。今こうやって話せたことは、なかったことにしたくない」
凪は何も言わなかった。
でも、少しして、小さくうなずいた。
「うん」
神様が踊り場の端から海を見た。
「途中は昔へ戻る場所でも、未来へ急ぐだけの場所でもありません」
神様の声が石段に静かに響いた。
「今いる場所です。今の足で立っている場所です」
海からの風が石段を下りていく。
「忘れないでください。途中にも、今はあります」
その瞬間、石段の景色が変わった。
古い家の窓が夕方の光を受けて淡く光る。
手すりの木目がさっきよりもはっきり見える。踊り場の石に残った小さな傷まで、誰かがここで立ち止まったしるしのように思えた。
頂上が見えたわけではない。
道が楽になったわけでもない。
でも、途中がただの通過点ではなくなった。
凪が小さく息をのんだ。
「綺麗……」
俺も何も言えなかった。
綺麗だった。
でも、ただ綺麗なだけではなかった。
歩ききれない人や迷っている人。
息を整える人。昔を思い出す人。次に進む前に、少しだけ立ち止まる人。そういう人たちのための場所に見えた。
俺はカメラを構えた。
今度は頂上を撮ろうとは思わなかった。
下の海だけを撮るのでも違う。
手前に俺たちが座った踊り場。
真ん中にまだ続く石段。
奥には見えない頂上へ向かう道。
そして、少しだけ海が入る。
俺はシャッターを押した。
画面には石段の途中が写っていた。
神様は写っていない。
でも、手すりのそばに、誰かが立っていたような余白があった。
そこに神様がいたことを、写真だけが小さく覚えているようだった。
凪は画面を見て、少しだけ目を細めた。
「私たちがここで止まったことが⋯⋯分かる写真だね」
俺は写真を見た。
「途中であるってことは写真に残せた」
凪は小さくうなずいた。
「うん。残った」
その時、遠くから汽笛が聞こえた。
せとうち各駅停車が石段の途中のホームへ戻ってきていた。銀色の車体の窓に、石段と海が映っている。
車掌が扉の横に立っていた。
「答えは見えましたか」
神様は石段を見下ろし、少し考えた。
「見えました。けれど、明日も誰かがこの石段の途中で止まるでしょう」
「ええ」
車掌は静かにうなずいた。
「途中に場所を残す意味は、そのたびに確かめるものなのでございます」
「はい」
神様は踊り場を見た。
「たどり着いた人だけの道では足りません。途中で座り込む人にも、場所は必要です」
俺たちは神様に頭を下げた。
「ありがとうございました」
凪も丁寧に頭を下げる。
「ありがとうございました。私、途中で止まることを、怖がりすぎていたかもしれません」
「怖がってもいいのです。ただ、止まった場所にも目を向けてください。そこにしか見えないものがあります」
「はい」
神様は今度は俺を見る。
「途中を言い訳にしないでください。けれど、途中を恥じないでください。そこにも、今のあなたが立っています」
「……はい」
その言葉は少し痛くて、でも温かかった。
途中を言い訳にするな。
途中を恥じるな。
俺に必要な言葉だった。
神様は最後に俺たち二人を見た。
「行き先未定の人たち。頂上が見えない時は、足元を見てください。急いで上り切らなくてもいい。けれど、座ったまま目を閉じないでください」
手すりの木が静かに風を受けた。
「今いる途中を、ちゃんと見てから進んでください」
俺と凪は同時にうなずいた。
「はい」
神様はそれから、石段の下に見える海へ目を向けた。
「それから、もうひとつ。帰る場所は、ひとつでなくてもよいのです」
「帰る場所が……?」
「はい。昔へ戻る場所。今の自分を確かめる場所。これから歩くために、少し息を整える場所。どれも、帰る場所になり得ます」
神様は俺たちが座っていた踊り場を見た。
「今日のあなたたちは、この途中にも帰れるのです」
その言葉に、胸の奥が静かに熱くなった。
帰る場所。
俺はずっと、それは家や地元のことだと思っていた。岡山へ帰る。家へ帰る。昔の場所へ帰る。
でも、神様の言葉は少し違っていた。
今日、石段の途中で話した時間。置いていかれるのが怖いと言えた場所。終わらせたくないと、かろうじて言えた場所。
そこにも、帰れるのだと。
列車に乗る前、俺はもう一度振り返った。
尾道石段の神様は石段の途中に立っていた。手は振らない。ただ、古い手すりに手を添えて、俺たちが乗る列車を見ている。
石段は上にも下にも続いていた。
でも、一番はっきり見えたのは、俺たちが座った途中の踊り場だった。
列車に乗ると、車掌が俺たちの切符を確認した。
白い切符の端に、新しい印が押されている。
『尾道石段――相談済』
印は小さな石段の形をしていた。
頂上までは描かれていない。
途中に少し広い踊り場があり、その先は白い余白になっている。
その隣には小豆島醤油蔵の印がある。
『小豆島醤油蔵――醸成中』
醸成中の木桶と、相談済の石段。
終わっていないものと、今ようやく分かったもの。
ふたつの印が同じ切符の上に並んでいた。
凪は切符を見つめ、指先でそっと印に触れた。
「相談済と醸成中が並んでる」
「変な切符だな」
「でも、今の私たちっぽい」
「どこが」
「少し分かったことと、まだ育っていることが、どっちもあるところ」
俺は切符を見た。
確かにそうかもしれない。
少し分かったこともある。
まだ育っているだけのこともある。
どちらか一方だけではない。
列車が動き出す。
窓の外で、尾道石段が少しずつ遠ざかっていく。俺たちが座っていた踊り場は、小さくなってもまだ分かった。
昔みたいに何も考えずに話せるわけではない。
でも、話せなくなったわけでもない。
俺と凪の距離も、きっと途中にある。
昔へ戻る途中ではない。
離れて終わる途中でもない。
今は違う形へ変わっていく途中なのだと思う。
凪が窓の外を見ながら言った。
「晴路くん」
「うん」
「さっき、終わらせたくないって言ってくれたでしょ」
「ああ」
言われて、急に少し恥ずかしくなる。
「私も、そう思う」
凪はこちらを見なかった。
でも、その声はちゃんと届いた。
「昔に戻れなくても、同じままじゃなくても。今日ここで話したことは、なかったことにしたくない」
俺は窓の外を見た。
石段の町が海の向こうで小さくなっている。
それだけで、胸の奥に何かが残った気がした。
車内の古い表示板が、ぱたんと音を立てて変わる。
『次は、岡山』
凪が表示を見上げた。
「……帰るの?」
「一旦ってことかな?」
車掌は切符鋏を鳴らした。
「本日はここまででございます。今の場所を少し歩いてからの方がよろしいでしょう」
「今の場所……」
凪が小さく繰り返す。
それは岡山のことだと思った。
そしてたぶん、俺たち自身のことでもあった。
次の神様に会う前に、今いる場所を歩く。家へ帰り、進路希望調査票を見る。それが必要なのだと、列車は言っているのかもしれない。
俺はカメラをしまい、切符の印をもう一度見た。
醸成中の木桶と途中の踊り場。
たどり着いたわけではない。
答えが全部出たわけでもない。
でも、今いる場所がただの空白ではないことだけは分かった。
窓の外で、尾道石段の町が少しずつ遠ざかっていく。
俺たちが座っていた踊り場はもう見えない。それでも、あの場所で話したことは、胸の奥に残っていた。
――止まったら、置いていかれる気がする。
凪の声を思い出す。
あの時、俺はうまく言えなかった。
置いていかないことも、置いていかれたくないことも、終わらせたくないことも、言葉にするのは思っていたよりずっと難しかった。
昔はもっと簡単だった気がする。
家の前で待ち合わせて、何も考えずに歩いて、川沿いでくだらない話をして、夕方になったらそれぞれの家へ帰った。明日も同じように会えると、疑ったこともなかった。
でも、もう俺たちは何も考えずに同じ道を歩ける年ではない。
進路希望調査票も、県外という言葉も、残るという言葉も、出るという言葉もある。
いつか、本当に別の場所へ向かう日が来るのかもしれない。
それでも、今日、尾道石段の途中で、俺たちは一度立ち止まった。
怖いと言った。
置いていかれる気がすると言った。
昔に戻れなくても、今話したことはなかったことにしたくないと言った。
そのことだけはもう消えない気がした。
「晴路くん」
凪が窓の外を見たまま呼んだ。
「帰ったら、少しだけ歩かない?」
「どこを?」
「岡山を」
俺は凪を見た。
凪はまだ窓の外を見ていた。
横顔は静かだったけれど、声の奥にはさっき尾道で泣いた後みたいな柔らかさが残っていた。
「旅に出る前の岡山じゃなくて」
凪はそこで少しだけ言葉を止めた。
「今の私たちが帰る岡山を……歩きたい」
胸の奥がぎゅっと詰まった。
岡山なんて、毎日見ている場所だった。学校へ行く道も、家へ帰る道も、駅前の人通りも、何でもない夕方の空も、何度も見てきた。
でも、今の凪が言った岡山は少し違って聞こえた。
出ていくかもしれない場所で、残るかもしれない場所で、帰ってくるかもしれない場所。そして、今の俺たちがもう一度見直す場所。
俺は茶化さなかった。
「歩こう」
凪がほんの少しだけこちらを見た。
目元はまだ赤い。
でも、泣きそうな顔ではなかった。
泣いたあとに、ちゃんと息を吸えた人の顔だった。
「うん」
凪は小さくうなずいた。
その声を聞いた瞬間、俺はなぜか、尾道の踊り場で見た海を思い出した。
上り切った景色ではなく、下り切った景色でもない。
途中で息を整えながら見た、あの場所でしか見えない海。
俺たちも、きっとそういう途中にいる。
昔へ戻る途中ではない。
離れて終わる途中でもない。
今は違う形へ変わっていく途中なのだと思う。
せとうち各駅停車は、尾道石段に残った途中の時間をあとにして、俺たちの岡山へ戻るように走っていく。
まだ行き先は決まっていない。
進路希望調査票の空白も、きっとすぐには埋まらない。
でも、帰ってから見る場所はひとつ増えた。
一緒に歩きたいと言える相手が隣にいた。
窓の向こうで、海の光がゆっくりほどけていく。
俺たちは黙ったまま、同じ窓の外を見ていた。
その沈黙はもう気まずいものではなかった。
言葉にできなかったものを、同じ場所に置いておくための静けさだった。
白い切符の端で、尾道石段の印が淡く光っている。その隣で、小豆島醤油蔵の木桶も、まだ静かに醸成中のままだった。
途中の踊り場と少しだけ開いた木桶。そこにあった俺たちの時間は、目的地でも答えでもなかった。
でも、いつか別々の道を考える日が来ても、今日の俺たちはあの途中に一緒にいた。
そのことだけは帰っても消えない気がした。




