第7章 帰る場所は、一つでなくてもよいのです
せとうち各駅停車は小豆島醤油蔵の香りをまだ車内のどこかに残したまま走っていた。
深い香りはほとんど薄れていたが、服の袖や髪の先、胸の奥にはまだ残っている気がする。
俺は手元にある白い切符を見た。
『小豆島醤油蔵――醸成中』
相談済ではなく――醸成中。
終わってはいないが、何もなかったわけでもない。途中のまま、ちゃんと次へ向かっている証なのかもしれない。
ただ、車内は静かだった。
向かいの席では凪が窓の外を見ている。
いつもと変わらない横顔に見えたが、メモ帳を持つ指には力が入っていた。
――答えを待っている間に、どちらかだけ先に違う場所へ行ってしまうことも……あるのかなって。
小豆島醤油蔵を出る前、凪はそう言った。
俺はうまく返すことができなかった。
――待つとは、育つ時間を引き受けること。
神様の言葉もまだ胸に残っている。
自分の答えを待つことはできても、その間に隣の人まで同じ速さで待ってくれるとは限らない。
俺が迷っている間にも凪は変わり、凪が迷っている間にも俺は変わっていく。同じ場所にいるつもりでも、同じ速さで進んでいるとは限らない。
そんなことを俺はこれまでちゃんと考えていなかった。
『次は、尾道石段』
表示が変わると、凪が顔を上げた。
「尾道の石段って有名?」
「行ったことがないからわからないが、景色がきれいなのはどこかで見たことがある。あと、足が疲れそうな感じ?」
「晴路くん、まだ降りてもないよ」
「予防線を張っておこうと思って」
いつもの調子で返したつもりだった。
凪は笑ったものの、その先の言葉は続かなかった。俺も無理に話題をつなげる気にはなれない。
窓の外には海の向こうから斜面へ家々が重なる町が近づいていた。
細い道が家と家の間を縫いながら上へ伸び、海辺の町なのに全体が空へ向かっているように見える。
列車は海沿いを走っていたはずなのに、いつの間にか石段の途中へ吸い込まれていくようだった。
「次の駅でございます。尾道石段。途中で止まる人の足音が残る場所でございます」
「途中で止まる人……」
凪が繰り返すと、車掌は切符鋏を鳴らした。
「上り切る前にも下り切る前にも……人は自分の場所を確かめることがございます」
意味を考えているうちに列車が速度を落としていた。
ホームは石段の途中にあった。
海から上がってきた階段はその先も斜面へ続き、途中からは細い路地が家々の間へ伸びている。
ホームの端にある古い手すりは何度も人の手に触れられてきたのか、表面がなめらかだった。
昼でも夜でもない時間だった。
夕方に近づいているのに空にはまだ明るさが残り、石段の日なたの色だけがやわらいでいる。
駅名標には素朴な黒い文字で『尾道石段』と書かれていた。
扉が開くと、潮の匂いに日なたで温められた石の匂いが混じって入ってきた。
どこかで猫が鳴いた気がしたが、姿は見えない。
俺と凪はホームへ降りた。
足元の石は長い年月をかけて人に踏まれ、角が丸くなっている。上には古い家の影、振り返ればその向こうに海が見えた。
ホームの先には小さな踊り場があり、古い手すりのそばに一人の神様が立っていた。
年老いているわけでも、若いと言い切れるわけでもない。
学生のようにも、町を歩き慣れた案内人のようにも見える。色あせた白いシャツに深い紺の上着を羽織り、片手を手すりへ添えていた。
自分の足元に目を落としている。
俺たちが近づくと、その顔が上がった。
「……香りのする蔵から来たのですね」
澄んだ声だった。
古めかしい話し方ではないのに、長い時間を知っているような響きがあった。
「小豆島醤油蔵の神様に会ってきました」
「なら、待つことの難しさを知ったのでしょう」
手すりに添えられていた指が動く。
「私は尾道の石段に残った……ひと息の記憶です」
「ひと息の記憶……?」
「上り切る前に息を整えた人も、下り切る前に振り返った人もいました。途中で泣いた人やもう一度歩き出すために手すりへつかまった人もいる。そういう時間が長い年月をかけて、私の形になりました」
神様の視線が、俺たちの後ろにある踊り場へ向いた。
「昔、ここで休む子がいました」
石段の上に薄い景色が重なる。
小さな子どもが途中で座り込み、膝を抱えて息を切らしていた。
上の方に立つ大人たちが何かを呼びかけている。
――早くおいで。
声は聞こえなくても、そう言っているのだと分かった。
「その子のために私はこの踊り場を広くしました。ここで休めばいい。息を整えればいい。途中にもちゃんと今がある。そう伝えたかったのです」
神様は手すりへ目を落とした。
「大人たちは休める場所があるからあの子は休んでしまうのだと言いました。甘やかすから上まで行けないのだ――と」
凪の表情が少し強張ったように見えた。
「途中でひと息つける場所は……あの子を止めてしまうのかもしれない。そう考えて、一度だけ踊り場を狭くしたこともあります」
重なっていた景色の中で、踊り場が細くなった。
座る場所を失った子どもはしばらく立ち尽くし、やがて泣きそうな顔で手すりにつかまった。
そのままふらつきながら上へ進んでいく。
「その子は上まで行きました」
神様の声が低くなった。
「けれど、二度とこの石段を好きだとは言いませんでした」
遠ざかっていく子どもの背中が薄れていく。
「のぼっていく途中で見た海や踊り場を抜ける気持ちの良い風。手すりの温かさも……その子にとっては苦しい記憶になったのかもしれません」
そこで初めて、神様はこちらをまっすぐ見た。
「途中で休める場所を残すことは、歩く人を助けるのでしょうか。それとも……前へ進む力を奪うのでしょうか」
問いが石段の途中へ静かに落ちた。
凪は答えず、メモ帳を握った手が震えていた。
「……内海?」
呼ぶと、凪は我に返ったように顔を上げる。
「大丈夫」
声が硬かった。
――大丈夫。
その一言を聞いた途端、なぜか胸がざらついた。
凪はよくそう言う。昔からだ。
まだ俺たちがよく遊んでいた頃。
何か分からないことがあっても、つらそうなときでも、最初に凪の口から出るのは「大丈夫」だった。
俺は今までその言葉をそのまま受け止め、信じていたのかもしれない。
でも、今ならよくわかった。
さっきの声は本当に平気な人が出すような声ではなかった。
誰かを安心させるためかもしれない。
自分を先へ急がせるための「大丈夫」という言い聞かせる言葉かもしれない。
「もう少し歩きましょう。答えはここに立ったままでは見えません」
神様が上を示す。
俺が後を追おうとしたときには凪の方が先に歩き出していた。
普段なら旅程を確認し、足元を見ながら進む。
俺が遅れれば待ってくれる。
今は何かを振り切るように、どんどん石段を上っていった。
「内海、速いな」
一度だけ振り返った凪が答える。
「ごめん。……でも、もう少し上りたいから」
落ち着いているように聞こえても息は乱れ始めていた。
階段は少しずつ急になっていく。
俺もその後を急いで追った。
次の踊り場を前にして凪の足が緩んだ。
そのまま立ち止まるかと思ったのに、視線をそらしてからもう一段上へ進もうとする。
「……内海?」
名前を呼ぶと、肩が一瞬揺れた。
「分かってるの……。休んだ方がいいのは……分かってるんだけど」
手すりに触れたまま、凪は上を見た。
「今止まったら、なぜか戻れなくなりそうで……」
まるで自分自身を急かしているような声だった。
神様は何も言わずこちらを見ている。
凪は立ち止まることなく、踊り場を通り過ぎた。
そこへ立てば海や家々の屋根、列車が停まっているホームまで見渡せたはずなのに、一度も振り返ろうとしない。
さらに上へと進もうとしていた。
――その姿を見て、俺はようやく気がついた。
凪は止まることそのものを怖がっているのかもしれない。
途中で止まれば遅れてしまう。
誰かに置いていかれると焦っている。
だから、神様が見せようとしている踊り場で立ち止まらず、目をそらしている。
「内海、止まろう」
「もう少しだけ……」
「いや。一度止まろう」
今度は強く言った。
凪の足が石段の途中で止まった。
肩が大きく上下している。
俺は追いついてその隣に立つ。
前の俺なら、ここで何かを茶化していたと思う。
大都会岡山の登山隊だなとか、凪隊長はペース配分が雑だとか――。
今はそんな言葉は口から出なかった。
代わりに言うべきことが頭に浮かぶ。
「……内海。今は止まっていいと思う」
「……止まったら」
凪の肩が震え、声が小さく落ちる。
「止まったら……置いていかれる気がする」
石段の途中にその言葉だけが残った。
「……誰に」
聞いたときにはもう分かっていた。
「……晴路くんに」
凪は手すりを持ち、顔を上げないまま続ける。
「晴路くんが外へ行きたいって言ったとき、ほっとしたの。ああ、やっぱり晴路くんは外を見たい人なんだって……。私も外を見たいって言えたのは晴路くんが先にそういう流れを表明してくれからかもしれない」
凪の声が震える。
「でも、同時に怖くなった」
「怖い?」
「うん。晴路くんが先に答えを出して、先に外へ行って……でも、私はまだ途中で止まったまま、残るのか出るのかも決められず、結局動けないままここにいるような気がしたから」
そこでようやく凪がこちらを見上げた。
「小豆島で……待っている間に誰かが先に答えを出してしまったらどうするんだろうって言ったけど、たぶん私……晴路くんのことを考えてた」
「俺のこと……?」
「……止まっていたら晴路くんだけ先に行く気がした。だから、私が先に行けば……」
その先は続かなかった。
俺もしばらく何も言えなかった。
嬉しいとか悲しいとか、そんな簡単な気持ちではない。
凪がそんなことを考えていたことへの驚きと自分の中にも似た怖さがあったのだという気づきが同時に押し寄せてきた。
「……俺も」
俺の声に凪が顔を上げた。
「俺も内海に置いていかれる気がしてた」
「……え、なんで私に?」
「内海は総合探究のテーマもしっかり作れて、予定も立てられて。人の話もちゃんと聞ける。俺が大都会岡山とか言ってごまかしてる間にも、自分の答えを出していくんだろうなって思ってた」
自分の心の声が溢れていた。
「そんなこと……ない」
「――あるんだ。俺だけ何も決められないまま残る気がしてた。内海が岡山に残るって決めても、外へ行くって決めても、どっちにしても俺よりちゃんと前に進んでいく気がしてた」
言葉にすると情けなかったが、止める気にはなれなかった。
「だから、内海が外を見たいって自分の言葉で言ったときは驚いたよ。勝手に残る側だと思ってたから。それと……内海も迷ってるって分かって、安心したのも本当」
「安心……?」
「ひどい言い方だけどな」
凪は首を横に振った。
「ひどくないよ。私も晴路くんが迷ってるって分かると自分だけじゃないって安心してたし」
俺たちは石段の途中で向かい合った。
下には海があり、上にはまだ長い石段が続いている。
どこにもたどり着いていない場所で、初めて同じ怖さを見せ合った気がした。
置いていかれるのが怖いのは凪だけではない。
――俺も同じだった。
どちらかだけが先に答えを出すこと。
昔の距離が変わり、そのまま戻れなくなること。
神様が静かに近づいてきた。
「……言えましたね」
俺も凪もすぐには返せなかった。
「途中でひと息つける場所があるのは歩けない人を甘やかすためではありません」
神様の視線の先にいくつもの踊り場があった。
海を見下ろせる場所。
手すりにつかまって息を整えられる場所。
誰かが腰を下ろしてきたのか、石の表面がなめらかになった場所。
「自分が今どこに立っているのかを……自分と相手で見つめるためです」
海から吹く風が足元を抜けていった。
「止まることは置いていかれることだけではありません。隣にいる人と自分の足元を確かめる時間にもなります」
「隣にいる人と……」
「途中で止まったから言える言葉もあります。急いで上り切れば聞こえない声もある」
神様は凪が通り過ぎた踊り場を見た。
「ここで何が苦しいのか。誰と歩きたいのか。どこへ行きたいのか。それを確かめるために途中の場所があるのです」
凪の目から涙が一筋こぼれた。
本人も驚いたように、指先がすぐ目元へ向かう。
俺は何も言わなかった。
たぶん、ここで「大丈夫か」と聞けば、凪はいつものように「大丈夫」と答える。
まだ苦しくても、気持ちがまとまっていなくても――その一言を口にして立ち上がろうとするだろう。
今はそれを言わせたくなかった。
せっかく石段の途中で立ち止まったのだから、泣いている時間まで急いで終わらせなくていい。
「内海」
「……うん」
「ここで、一度止まろうか」
凪は目元を押さえていた手をゆっくり下ろした。
何か言おうとした唇が一度だけ動く。
結局、言葉にはならなかった。
その代わり、泣きそうな顔のまま息を吐く。
「……うん」
いつもの「大丈夫」より、ずっと凪自身の声に聞こえた。
俺たちは数段下りて、さっき通り過ぎた踊り場へ戻った。
手すりのそばに腰を下ろす。
神様は離れたところに立ったまま、何も言わなかった。答えを求めることも、今の話をまとめることもせず、俺たちがそこに座るのを見ている。
下には海があった。
上を向けば石段はまだ続いている。
どちらにも行かず、俺たちはその真ん中にいた。
さっきまで耳のすぐそばにあった自分たちの荒い息が、だんだん石段を抜ける風の音に混ざっていく。
遠くでは鳥の声がして、家々の屋根の向こうで夕方の海が光を細かく返していた。
凪は膝の上にメモ帳を置いた。
開こうとはしなかった。
俺もカメラには触れなかった。
今は何かを残すより、ここにいる方がいい気がした。
しばらくして、凪が鼻をすすった。
「……ごめん」
「何が?」
「急に泣いて」
「別に謝ることじゃないだろ」
「でも、晴路くん困るかなって」
「まあ、どうすればいいかは……分からん」
正直に言うと、凪が一瞬だけこちらを見た。
「そこは分からないんだ」
「分かったふりするよりいいだろ」
凪は目元に涙を残したまま、ほんの少し笑った。
「……そうかも」
それだけのやり取りだった。
励ましたわけでも何かが解決したわけでもない。
それなのに、張りつめていたものがわずかにほどけたように見えた。
凪は手すりへ手を伸ばした。
何人もの人がここで握ってきた木は角が取れてなめらかになっている。
俺も少し離れたところに手を置いた。
触れている場所は違う。同じ一本の手すりだった。
「……変だね」
「何が?」
「止まったら置いていかれるって思ってたのに」
そこで、凪は海の方を見下ろした。
「……こうして止まったら、さっきよりちゃんと晴路くんが隣にいるって分かる」
すぐには返事が出なかった。
さっきまで俺たちは互いに先へ行かれるのが怖いと話していた。
止まれば離されると思っていたのに、実際に足を止めたことで、ようやく隣を見る余裕ができている。
凪はそれ以上何も言わなかったが、肩や指から力が抜けているのが分かった。
そのとき、石段の上から誰かの足音が聞こえた。
一段ずつ下りてきた音は踊り場の少し手前で横の路地へ曲がり、やがて聞こえなくなる。
名前も顔も知らない誰かが、俺たちとは違う場所へ向かっていったらしい。
その足音を聞いても、さっきまでのように焦る感じはしなかった。
誰かが先へ行くことと自分たちがここで止まっていることは同じ話ではない。
石段にはいくつもの道があって、歩く速さも休む場所もそれぞれ違う。
そんな当たり前のことを俺は今になって初めてちゃんと考えた気がした。
遠くで猫が一度鳴いた。
凪が目元を拭って小さく息を吐く。
「……さっきより海、ちゃんと見える」
俺も下を見た。
さっき上っていたときには見えていたはずなのに、ほとんど覚えていない。
止まった今の方が海の色や尾道の屋根の並びも、その向こうへ続く空もよく見えた。
「止まった方が見えるものもあるんだな」
「……神様が聞いたら喜びそう」
「だから今は聞こえないくらいの声で言っとく」
凪が小さく笑った。
また沈黙が落ちる。
今度は気まずくなかった。
何かを言わなければ終わってしまう沈黙ではなく、言葉にしたものをそのまま二人の間に置いておくための時間だった。
「昔は……もっと普通に話せてたね」
凪がぽつりと言った。
「たしかにな」
「こういうことも言えてたのかな」
「いや。昔は進路のことなんか考えてなかっただろ」
「……それもそうだね」
今度の笑いは涙を隠すためのものには見えなかった。
「昔に戻る途中ではないんだよね」
「たぶん」
「でも、離れて終わる途中でもないといいな」
胸の奥がやけに痛んだ。
簡単に「終わらない」と言い切るのは違う気がする。
俺が県外へ行くかもしれないし、凪が岡山に残るかもしれない。これから俺たちの距離が変わることだってある。
それでも今なら言えることがあった。
「俺、終わらせたくないとは思ってる」
凪がこちらを見る。
俺は海へ目を向けたまま続けた。
「昔に戻れなくても同じままじゃなくても。今こうやって話せたことはなかったことにしたくないから」
返事はすぐにはなかった。
海から上がってきた風が俺たちの間を通り抜ける。
その風が行ってしまってから、隣で小さく頷く気配がした。
「……うん」
神様が踊り場の端から海を見ていた。
「途中は昔へ戻る場所でも、未来へ急ぐだけの場所でもありません」
声が静かに石段へ広がる。
「今いる場所です。途中にも『今』はあります」
その瞬間、目の前の景色が変わったように見えた。
古い家の窓が夕方の光を返し、手すりの木目や、踊り場の石に残る細かな傷まで目に入る。
誰かがここで足を止めた痕跡が、一つずつ浮かび上がってきたようだった。
頂上が見えたわけでも、道が楽になったわけでもない。
ただ、途中が通過するだけの場所ではなくなった。
「すごい……」
凪が息をのんだ。
綺麗だった。
息を整えた人や昔を思い出した人、次へ進む前に立ち止まった人。
そんな時間まで含めたひとつの場所に見えた。
俺はカメラを構えた。
頂上だけでも下の海だけでもない。
俺たちが座った踊り場を手前に置き、その先へ続く石段と、端に海が入るように画角を決める。
シャッターを押した。
画面に写っているのは石段の途中だった。
神様の姿はない。それでも手すりのそばには、誰かが立っていたような余白が残っている。
「私たちがここで止まったことが分かる写真だね」
凪が画面を見た。
「途中だったことは残せた」
「うん。残った」
遠くから汽笛が聞こえた。
石段の途中のホームへ、せとうち各駅停車が戻ってきている。
銀色の窓には海と石段が映っていた。
俺たちは頂上までは行かず、そのまま踊り場から下って元のホームへ戻った。
扉の横で神様に向かって車掌が尋ねる。
「答えは見えましたか?」
神様は石段を見上げた。
「見えました。けれど、明日も誰かがこの途中で立ち止まるでしょう」
「ええ。途中に場所を残す意味はそのたびに確かめるものでございます。たどり着いた人だけの道では足りません」
俺たちは神様へ頭を下げた。
「ありがとうございました」
「私、途中で止まることを怖がりすぎていたのかもしれません」
凪の言葉に神様は穏やかに答える。
「怖がってもいいのです。ただ、止まった場所にも目を向けてください。そこにしか見えないものがあります」
今度は俺を見る。
「途中を言い訳にしないでください。けれど、途中を恥じないでください。そこにも今のあなたが立っています」
痛いところへ届くのに、不思議と嫌ではない言葉だった。
「行き先未定の人たち。頂上が見えないときは足元を見てください。急いで上り切る必要はありません。ただ、座ったまま目を閉じないで」
風が古い手すりを撫でる。
「――今いる途中をしっかりと見てから、また前へ歩いてください」
俺と凪は一緒に頷いた。
「はい」
神様は石段の下に広がる海へ視線を移した。
「それから最後に――。帰る場所は一つでなくてもよいのです」
「帰る場所が……?」
「昔も今も、どんなところでも帰る場所になれます」
俺たちが座っていた踊り場へ目が向けられる。
「今日のあなたたちはこの途中の場所にも帰れるのです」
――帰る場所。
これまでは家や地元のことだと思っていた。
岡山へ帰る。実家へ帰る。
昔から知っている場所へ帰る。
神様が言っているのはそれだけではない。
石段の途中で置いていかれるのが怖いと言えた時間。
終わらせたくないと、ようやく口にできた場所。
そういう場所にもいつか帰ることができる。
列車へ乗る前に俺はもう一度振り返った。
尾道石段の神様は手を振らず、古い手すりに手を添えてこちらを見ている。
石段は上にも下にも続いていたが、俺の目には、さっきまで座っていた途中の踊り場が一番はっきり見えた。
列車に乗ると、車掌が白い切符の端へ新しい印を押した。
『尾道石段――相談済』
小さな石段をかたどった印には頂上が描かれていない。途中に広い踊り場があり、その先は余白が続いていた。
隣には『小豆島醤油蔵――醸成中』の木桶の印が並んでいる。
凪が二つの印へ指を触れた。
「相談済と醸成中が並んでる」
「……変な切符だな」
「でも今の私たちっぽいね。分かってきたこととまだ育ってることが両方あるというか……」
確かにそうだった。
分かったことがあっても、まだ答えになっていないものは残っている。
その二つは同じ切符の上にあっていい。
列車が動き出した。
窓の外で尾道の石段が遠ざかっていく。
さっき座っていた踊り場も次第に小さくなった。
俺と凪の距離。
それはきっと今の石段と同じなのだと思う。
昔へ戻るのではなく、離れて終わると決まったわけでもない。形を変えながら、その先へ続いている途中にいる。
窓の外を見ていた凪が口を開いた。
「晴路くん。さっき終わらせたくないって言ってくれたでしょ」
「ああ」
改めて言われると恥ずかしい。
「私もそう思うよ」
凪はこちらを見なかった。
「昔に戻れなくても、同じままじゃなくても。今日ここで話したことはなかったことにしたくないから」
俺も窓の外へ目を向けた。
石段の町は海の向こうで小さくなっていたが、その言葉だけは胸の中に残った。
車内の表示板がぱたんと音を立てる。
『次は、岡山』
「え、帰る……の?」
「一旦ってことかな?」
切符鋏が鳴った。
「本日はここまででございます。今の場所を歩いてからの方がよろしいでしょう」
「今の場所……」
凪がその言葉を繰り返す。
岡山のことなのだろう。
そして、俺たち自身のことでもあるかもしれない。
神様たちの相談を聞くために始まった旅だったはずが、相談に向き合うたび俺たち自身の悩みまで形を持ち始めていた。
今いる場所を歩く。
家へ帰って進路希望調査票を見る。
列車は一度そうする時間が必要だと言っているのかもしれない。
俺はカメラをしまい、切符を見た。
醸成中の木桶と途中に踊り場のある石段。
どちらも今いる場所が空白ではないことを教えてくれている。
尾道の町はもう見えない。
ただ、あの踊り場で交わした言葉までは遠ざからない。
――止まったら、置いていかれる気がする。
凪の声を思い出した。
口にするのは思っていたより難しかった。
昔はもっと簡単だった気がする。
家の前で待ち合わせて、何も考えず歩き、川沿いでくだらない話をする。
夕方になればそれぞれの家へ帰り、明日も同じように会えることを疑ったこともなかった。
もう俺たちは――何も考えず同じ道を歩いていられる年齢ではない。
いつか本当に別々の場所へ向かう日が来るのだろう。
それでも今日、あの尾道石段で一度立ち止まって互いに怖いと言えた。
なかったことにはしたくないと伝えた。
その時間まで消えることはないと思える。
「……晴路くん」
凪が窓の外を見たまま呼んだ。
「帰ったら、少し歩かない?」
「どこを?」
「今の岡山を」
俺は凪の横顔を見る。
静かな横顔には尾道で泣いた後の柔らかさがまだ残っていた。
「旅に出る前の岡山じゃなくて」
一度言葉を探すように間を置く。
「今の私たちが帰る岡山を……歩きたいなって」
いつもの岡山の景色なんて毎日見てきた場所だ。
学校へ行く道、家へ帰る道、駅前の人混みも何でもない夕方の空も隅々まで知っている。
今の凪が言った岡山は――それとは違って聞こえた。
出ていくかもしれない場所であり、残るかもしれない場所。
いつか帰ってくるかもしれない場所。
そして、今の俺たちがもう一度見直す必要のある場所。
俺は茶化さずに答えた。
「分かった。歩こう」
凪がこちらを見る。
目元にはまだ赤みが残っていたが、泣きそうな顔ではない。
「うん」
その返事を聞いて、尾道の踊り場から見た海を思い出した。
上り切った場所でも下り切った場所でもない。
途中で息を整えたからこそ見えた景色だった。
今の俺たちもきっと同じだ。
せとうち各駅停車は尾道石段に残った途中の時間をあとにして、俺たちの岡山へ戻るように走っていく。
次の行き先はまだ決まっていない。
進路希望調査票の空白もすぐには埋まらないだろう。
それでも帰ってから見たい場所は一つ増えた。
隣には一緒に歩きたいと言ってくれた相手がいる。
窓の向こうで海の光がゆっくりほどけていった。
俺たちは同じ窓の外を見ながら、しばらく何も話さなかった。
言葉にできなかったものまで、同じ場所に置いておけるような静けさだった。
いつか別々の道を考える日が来たとしても、今日の俺たちが同じ途中にいたことだけは忘れない気がした。




