第8章 帰る場所
せとうち各駅停車は海の光をほどきながら走っていた。
尾道石段の町はもう窓の向こうに見えない。
石段も踊り場も古い手すりも、そこに立っていた神様の姿も遠ざかってしまった。
けれど、そこで見たものは俺たちの中に残っていた。
向かいの席で凪は窓の外を見ていた。
さっきまで泣いていた目元は少しだけ赤い。
でも、もう泣きそうな顔ではなかった。
尾道の石段で凪は言っていた。
『帰ったら、少しだけ歩かない? 岡山を。旅に出る前の岡山じゃなくて、今の私たちが帰る岡山を歩きたい』
その言葉がずっと俺の胸に残っていた。
岡山なんて、これまでずっと歩いてきた。
駅前も学校へ向かう道も家の近くの通りも、何度も見てきた。
でも、今の凪が言った岡山は、俺の知っている岡山と少し違って聞こえた。
出ていくかもしれない場所で、残るかもしれない場所で、いつか帰ってくるかもしれない場所。
そして、今の俺たちがもう一度見つめ直したい場所。
列車の揺れが少しずつ変わった。
海の上を走っていたような感覚が薄れ、レールの音が現実に近づいていく。
窓の外の海が細くなり、その向こうに見慣れた街の明かりが混じり始めた。
車内の表示板が最後にぱたんと音を立てた。
『岡山 帰着』
その文字は今までの駅名よりも静かだった。
神様の名前も土地の記憶もついていない。
ただ、岡山へ帰ってきたことだけが、そこに書かれている。
凪は小さく息を吸った。
「本当に戻ってきたんだね」
「信用できない列車だったけど、最後だけはちゃんと帰してくれたな」
「最後だけって言うと少し失礼かも」
「じゃあ、最後まで変な列車だったけど、いろいろ楽しかった」
凪が少し笑った。
その笑いを聞いて、俺もようやく息ができた気がした。
車掌が通路の奥に立っていた。
顔はやっぱり帽子の影に隠れている。
「まもなく、岡山に帰着でございます」
切符鋏が小さく鳴る。
「お忘れ物のないように」
「忘れ物?」
車掌は少しだけ首を傾けた。
「旅先に置いてきたつもりのものほど、案外、手元に残っているものです」
凪は切符を見た。
「じゃあ、忘れ物じゃなくて、持ち帰るものですね」
「なるほど、おっしゃる通りでございます」
「見たもの、聞いたもの、言えなかったもの、ようやく言えたもの。その扱いにはどうぞお気をつけください」
列車がゆっくり止まった。
扉の向こうに、見慣れた駅の光が見える。
ホームの案内放送と人の足音、電車のブレーキ音が重なっていた。
スマホを見ながら歩く人や、改札へ急ぐ制服姿の学生もいる。
現実の岡山駅だった。
でも、出発前と同じ景色には見えなかった。
列車の扉が開く。
潮の匂いも醤油蔵の香りも石段の日なたの匂いも、駅の空気の中へいつの間にか薄れていた。
急にパンの匂い、人の服の匂い、夕方の街の少し乾いた匂いが混じってくる。
知っている場所に戻ってきただけのはずなのに、胸が少し詰まった感じがした。
俺と凪はホームへ降りる。
振り返ると、せとうち各駅停車はまだそこにあった。
銀色の車体と少し古い窓枠。
行き先の分からない表示板。
でも、ホームの人たちは誰もそれを見ていない。
普通の電車が停まっているだけのように通り過ぎていく。
「晴路くん」
凪が小さく呼んだ。
「まだ見えてるよね」
「見えてる。……俺だけじゃなくて、ちょっと安心した」
「私も。ひとりだけ見えてたら、どうしようかと思った」
その一言に、俺も同じ気持ちになった。
列車は俺たちにだけ見えているのかもしれない。
それでも、ふたりが見えているならそれでよかった。
車掌が扉の横に立っていた。
「本日はここまででございます」
「また乗れるんですか」
車掌は帽子の影の下で、少しだけ笑ったように見えた。
「必要になれば、列車は参ります。ただし、いつも同じ場所からとは限りません」
「でしょうね」
凪が小さく笑った。
車掌は俺たちの切符を見た。
「切符はお持ちください。相談済の印も醸成中の印も……すぐには消えませんので」
「消えないんですか」
「お二人が消したくなければ」
その言い方は少しだけ意地悪だった。
でも、今は分かる気がした。
見たものをなかったことにするか。それを持ち帰るか。
俺たちの側にもかかっていることだ。
凪は切符を大事そうに鞄へしまった。
俺も折れないように、カメラケースの内側へ入れた。
顔を上げた時には、列車の扉が閉まりかけていた。
「行こう」
「ちゃんと持って帰らないとね」
俺たちはホームを歩き出した。
後ろで扉の閉まる音がした。
振り返ると、せとうち各駅停車はゆっくり動き出していた。
窓の向こうで、旅で見た光や影が一瞬ずつ重なっていく。
白い風も木札の影も渦の筋も、小さな灯りや少しだけ開いた木桶や途中の踊り場も、すぐに薄れていった。
列車は夕方のホームの奥へ消えた。
残ったのはいつもの岡山駅のホームだった。
俺たちはしばらく何も言わずに立っていた。
行き交う人や急ぐ人、誰かを待つ人がいる。
電光掲示板の文字が変わり、改札の音が続いている。
いつもの駅。
でも、もうただの駅とは思えなくなっていた。
ここは出ていく場所でもあり、帰ってくる場所でもある。
迷ったまま立っていていい場所にも見えた。
「ねえ、晴路くん。少し歩かない?」
凪はホームの先を見たまま言った。
「歩こう。今すぐ帰ったら、何か取りこぼしそうだ」
「だね……どうする?」
「とりあえず家の方向に向かって、岡山駅から歩くか」
「わかった。私も、いつも見てきた景色を見たいかも」
凪の声は少し柔らかかった。
俺たちは改札を出て、西口の方へ向かった。
西口は東口ほど人の流れは多くない。
それでも、バスを待つ人や、制服のまま信号を渡る生徒、駅へ急ぐ人々の姿があった。
駅舎の白い壁が夕方の光を受けている。
さっきまで不思議な列車に乗っていたことが、急に遠い出来事みたいに思えた。
「何か変だな」
「何が?」
「いつもの駅前なのに、違って見える」
「……それ、私も」
凪は少しだけ西口の方を振り返った。
「この駅っていつもは乗るための駅とか、通過する場所だった。でも、今は誰かが出ていく場所で、誰かが帰ってくる場所で……誰かがまだ決められないまま、ここに立ち続けてきた場所でもある」
「……神様みたいなこと言うな」
「ふふ、たぶん、今日たくさん相談ごとを聞いたからかな」
「かなり影響されてる」
「晴路くんもでしょ。さっきから、顔が少し神様寄り」
「待て、どんな顔だよ」
「分かったような、まだ分かってないような顔」
「あぁ、それなら確かにいつもの俺だな」
凪が少し笑う。
その笑いを見て、俺はカメラを取り出した。
「何を撮るの?」
「今の岡山……かな」
凪は少しだけ驚いた顔をした。
「すごく大きいテーマ」
「とりあえず一枚目は西口の信号で」
「急に現実的」
「大都会岡山の第一歩だからな」
凪は少し笑うと、でも少しだけ真面目な声で言った。
「それ、昔の晴路くんの一部だもんね」
胸が少し熱くなる。
大都会岡山。
進路希望調査票にふざけて書いた言葉。
逃げるための言葉。
でも、俺を守ってくれた言葉でもあった。
全部なかったことにしなくてもいい。
ただ、そのままにしておかなくてもいい。
俺は西口を出た先の横断歩道の前から、駅に向かってカメラを構えた。
画面の奥に岡山駅の白い駅舎を入れ、手前には信号と横断歩道を少し収める。
制服姿の生徒が駅へ向かい、バス乗り場の方では誰かが立ち止まっていた。
シャッターを押す。
なんでもない写真だった。
駅と横断歩道と夕方の空。
それだけなのに、画面の中にはどこかへ出ていく前の時間と、帰ってきた後の時間が重なって残っているような感覚がした。
「どう?」
凪が画面をのぞき込む。
「普通に撮ったんだよね? 何かすごくいい写真」
凪は写真を見つめた。
「ここから出て、ここに戻ってきたんだね」
「正確には変な列車に乗せられた」
「そこは間違ってないね。変な列車に乗せられて、ちゃんと戻ってきた写真」
凪は駅の方を振り返った。
「戻ってきたけど、今までと同じ場所には戻ってない感じがする」
「確かに」
「見る目が違うんだと思う。たぶん、写真も」
俺もそう思った。
旅で見たものは今の岡山を少しだけ照らしている。
だから、同じ場所なのに違って見える。
俺たちは西口から少し歩いた。
駅前の大きな道を外れると、建物の間に住宅が混じり始める。
駐輪場の前を通り、学校帰りの生徒とすれ違いながら、俺たちは昔から何度も歩いてきた道へ入った。
駅のすぐ近くなのに、少し進むだけで空気が変わる。
さっきまでの旅の余韻が、駅前のざわめきから、いつもの生活の中の音へゆっくり戻っていく感じがした。
凪はときどき立ち止まり、メモ帳を開いた。
でも、すぐには書かない。
しばらく見てから、短い言葉だけを書き留めていた。
「何書いてるんだ?」
「今の岡山について、今この瞬間に思ったこと」
「また大きいな」
「晴路くんの写真と同じだよ」
「俺の写真は普通だったけど」
「普通の中に何が見えるか、でしょ?」
凪はそう言って、メモ帳を少しだけ見せた。
駅を出る人と、駅へ向かう人が同じ夕方の中を歩いていること。
見慣れた道なのに、今日は帰る場所にも出ていく場所にも見えること。
そんな言葉が小さな字で書かれていた。
凪も同じように見直している。
この場所の自分たちを。
それが分かって、何も言えなくなった。
少し歩くと、学校へ向かう時によく通る道へ出た。
「ここ、いつもの道だな」
「旅感、なくなった?」
「だいぶ」
「でも、今日の目的地です」
「いつもの通学路が?」
「いつもの通学路だから、かな」
凪は足を止めた。
夕方の通学路にはもう生徒の姿は少ない。
住宅の窓に明かりがつき始めていて、自転車が一台、ゆっくり通り過ぎていく。
「私、ここを何回も歩いてるのに、ここから出るか残るかって考えた時、急に大きな話になってた」
「県外とか、進路とか?」
「うん。でも、たぶん本当はこういう道のことなんだと思う」
凪は足元を見た。
「朝、急いで歩く道。帰りに少し遠回りする道。誰かと話しながら歩いた道。そういうものを持ったまま、外をしっかりと見ることができるかどうか……なんだと思う」
俺は黙って聞いていた。
「岡山を大事にするって、言葉にすると大きすぎるけど――」
凪は少しだけ笑った。
「――たぶん、こういう道を忘れたくないってことなのかもしれない」
その言葉はすっと胸に入ってきた。
岡山を大事にする。
地元を大事にする。
そう言うと、急に立派なことみたいになる。
でも、実際は駅から家へ帰る道や学校へ向かう朝の空、誰かと並んで歩いた夕方を雑に扱いたくないということなのかもしれない。
「内海」
「何?」
「俺も、ここ撮っていいか」
「この道?」
「うん。今の話を聞いたあとだと、撮らない方が不自然だ」
「じゃあ、変に写っても消さないでね」
「それは写り方による」
「さっきまで良いこと言いそうな顔だったのに」
「まだ言ってないからセーフ」
凪は少しだけ脇へ寄った。
俺はカメラを構えた。
ただの道だ。
特別なものは何もない。
でも、今日の俺にはその何もなさが少しだけ眩しかった。
シャッターを押す。
画面には夕方の通学路が写っていた。
少し先に、凪の後ろ姿も小さく入っている。
顔は写っていない。
ただ、同じ道を歩いている人として、そこにいた。
「入った?」
「少し」
「消す?」
「消さない。今回はそこにいてほしかったから」
言ってから、自分で少し恥ずかしくなった。
凪はすぐには何も言わなかった。
でも、少しして小さくうなずいた。
「そっか」
それだけで、夕方の道が少し静かになった気がした。
空が少し暗くなり始めた。
「よし、そろそろ帰ろうか」
俺たちはいつもの道を戻り始めた。
家の方向は途中まで同じだ。
昔からそうだった。
小さい頃はそれが当たり前だった。
途中の角で別れることも、明日また会えることも、何も考えずに受け入れていた。
でも、今日はその当たり前が少しだけ違って見えた。
別れる角が近づいてくる。
俺たちはいつもなら、そこで「じゃあ」と言って分かれる。
たぶん、今日もそうなる。
それでも、今日の「じゃあ」は昔と同じではない。
角の手前で、凪が立ち止まった。
「晴路くん、明日、進路希望調査票を書く?」
「書く。書けたら学校へ持ってこいって言われてるしな。答えってほどじゃないけど、空欄のままにはしない」
凪は少しだけ笑った。
「私も書く。地域のことを学びたいって。外の視点からも見てみたいって」
「もうそこまで決まってるのか」
「決まってるってほどじゃないよ。岡山に残るか、外へ出るかもまだ分からない。でも、どっちを選ぶにしても、ここを大事に思ってることは消したくない」
凪の声は穏やかだった。
夕方の色はもう薄くなり、住宅の窓にぽつぽつと明かりがつき始めている。
「まだ決めきれないって、前なら少し恥ずかしかったんだと思う」
「今は?」
「恥ずかしくないわけじゃない。でも、途中なら途中って書いても大丈夫。ちゃんと見に行くつもりなら」
「醸成中ってやつか」
「そう。逃げるためじゃない。醸成中」
凪は少し照れたように笑った。
「今、岡山を歩けてよかった」
「旅の後、すぐにってこと?」
「うん。自分が戻ってきた場所がちゃんとあるって、今までより分かった気がする」
「俺も少し分かった。内海」
「え、何?」
「また歩くか」
「……岡山を?」
「岡山も。それ以外も。まだ見てないところ、たぶんいくらでもある」
凪はすぐには答えなかった。
少しだけ視線を落として、靴先で道路の白い線の端をなぞる。
「それ、約束にすると重いか?」
「え、どうかな。重くはない、けど」
「じゃあ、また歩きたくなった時に声をかけるくらいでどうだ」
凪は顔を上げた。
「それなら、私からも声をかけていい?」
「もちろん」
「じゃあ、そうする」
告白ではない。
約束と呼ぶにはまだ少し曖昧だ。
でも、今日の俺たちにはそれで十分だった。
同じ道をずっと歩けるとは限らない。いつか別の場所へ向かう日が来るかもしれない。それでも今は、また歩きたくなった時に声をかけてもいい相手が目の前にいる。
そのことだけで、今日の旅はちゃんとここへ帰ってきた気がした。
凪は一歩、角の向こうへ進んだ。
「じゃあ、また明日」
「また明日。調査票、忘れるなよ」
「晴路くんこそ。大都会岡山って書き直さないでね」
「写真フォルダの名前にするから大丈夫」
「それは大丈夫なのかな」
「半分くらいは」
凪は呆れたように笑って、それから小さく手を上げた。
大きく振るほどではない。
けれど、今日の別れにはそれで十分だった。
俺も同じくらい小さく手を上げて、それぞれの家へ向かって歩き出した。
家へ帰る道で、もう一度カメラの画面を開いた。
旅先で撮った写真のあとに、岡山駅西口の信号と夕方の通学路が続いている。
不思議な場所と見慣れた場所が同じ画面の中に並ぶと、どれが特別でどれが普通なのか、すぐには分からなくなった。
たぶん、それでいい。
特別な場所へ行ったから、日常が消えるわけではない。
日常に戻ったから、旅がなかったことになるわけでもない。
分からないまま持って帰ってきたものもある。
分からないものをそのまま置いておかず、もう一度見に行こうと思えた旅だった。
家に帰ると、机の上に進路希望調査票が置いたままだった。
朝見た時より、紙が少しだけ薄く見えた。
なぜか、今はただの白い空欄には見えなくなっていた。
椅子に座り、ペンを持つ。
しばらく紙を見つめる。
大都会岡山。
その言葉を思い出して少し笑った。
笑った後、ゆっくり息を吸った。
空欄は空っぽではない。
でも、空っぽではないと信じたいなら、見に行かなければならない。
俺は一行目に、まだ下手な字で書いた。
写真を通して、地元と外の風景を見てみたい。
完成した答えではなかった。
立派な進路でもない。
先生が見たら、もっと具体的にと赤を入れるかもしれない。
でも、今の俺が見に来た場所だった。
次の行に、少し迷ってから書く。
県外も含めて、写真・地域・観光・記録に関わる進路を調べたい。
そこまで書いて、ペンを止めた。
まだ足りない。
まだ曖昧だ。
でも、何もないわけではなかった。
醸成中。
紙の端に小さくそう書きかけて、やめた。
提出用に書くには変すぎる。
代わりにスマホのメモを開き、新しいフォルダを作る。
タイトルは少し迷ってから決めた。
『大都会岡山 一枚目』
そこへ、今日撮った岡山駅西口の写真を入れた。
続けて、帰りに撮った通学路の写真も入れる。
画面の中に、岡山の夕焼けが並んだ。
今まで見ていた景色だった。
でも、今日から少しだけ違う。
カメラを机に置き、窓の外を見る。
夜の岡山がそこにあった。
遠くに街の灯りが見える。
その一つひとつにも、誰かの帰る場所や、出ていく場所や、途中の時間があるのかもしれない。
ふと、白い切符を思い出して、カメラケースから取り出した。
切符には牛窓夕凪から尾道石段まで、俺たちが見て、聞いて、迷いながら通ってきた場所の印が順に残っていた。
その最後に、見慣れない小さな余白があった。
何も押されていないと思っていた場所に、淡い文字が浮かび上がっている。
『岡山 帰着』
息を止めた。
いつ押されたのかは分からない。
車掌が押したのか。
列車が消える前に残したのか。
それとも、俺たちが岡山を歩いたから浮かんだのか。
分からない。
でも、白い切符の上にその文字は確かにあった。
相談済でも、醸成中でもない。
ここへ帰ってきたという印だった。
それが今日の旅の終わりにふさわしい気がした。
スマホが震えた。
凪からだった。
『進路希望調査票、少しだけ書いたよ』
続けてもう一つ届く。
『まだ醸成中だけど、逃げてはいません』
俺は笑った。
『俺も少し書いた。大都会岡山は写真フォルダになった』
すぐに既読がついた。
『それなら、少し良いと思う』
少し間が空いてから、もう一つ届いた。
『また、歩きたくなったら言って。私からも言うので』
画面を見つめたまま、胸の奥が静かに熱くなった。
『一緒に、また歩こう』
送信すると、画面の上で既読がついた。
返事はもう来なかった。
けれど、その沈黙まで凪らしくて、俺は少しだけ笑った。
夏休み中、またどこかで会うことになるだろう。
その時はたぶん、今日のことを全部言葉にはしないまま、いつも通りに話して、いつもより少しだけ景色を見ながら歩く。
少しだけ窓を開けた。
夜の風が入ってくる。
旅先の匂いはもうしない。
ただの岡山の夜だった。
俺は写真フォルダを開く。
『大都会岡山 一枚目』
西口の信号と夕方の通学路が並んでいる。
何度も見てきたはずの景色なのに、今日は少しだけまぶしく見えた。
旅はここで終わった。
でも、それは答えが全部決まったという意味ではなかった。
俺が何者になりたいのかも、どこへ進むのかも、まだはっきりしていない。
ただ、もう空欄のまま笑ってごまかす必要はなかった。
牛窓で見送られ、鳴門で迷いを見つめ、小豆島で待つ時間を知って、尾道の途中で凪の声を聞いた。
その全部が、岡山に帰ってきた俺の手元に残っている。
進路希望調査票の白さも、写真フォルダに入れた西口の信号も、明日また歩く道も、もう旅の前と同じには見えなかった。
この旅は、遠くのどこかで正解を見つけるためのものではなかったのだと思う。
帰ってきた場所を、もう一度見ること。
見慣れた道を、見慣れたままで終わらせないこと。
そして、空欄だった紙に、自分の足元から最初の一行を書くこと。
そこまで来てようやく、この旅は帰着したのだと思えた。
明日の朝、俺は進路希望調査票を持って、いつもの道を歩く。
きっと凪も、同じ岡山の朝の中にいるだろう。
今日の旅が終わっても、明日は来る。
その明日に、また会いたいと思える人がいる。
そう思えたことが、この旅の答えだった。




