第8章 帰る場所
せとうち各駅停車は海の光をほどきながら走っていた。
尾道石段の町はもう窓の向こうに見えない。
『旅に出る前の岡山じゃなくて、今の私たちが帰る岡山を歩きたい』
凪の言葉がまだ耳に残っていた。
列車の揺れが次第に変わり、海の上を走っていたような感覚が薄れていく。
レールの音も現実の電車に近づき、窓の外では海が細くなった。その向こうに見慣れた街の明かりが混じり始める。
車内の表示板が最後にぱたんと音を立てた。
『岡山 帰着』
今までの駅名よりも静かな文字だった。
神様の名前も土地の記憶もついていない。ただ、岡山へ帰ってきたということだけが書かれている。
凪が息を大きく吸った。
「本当に戻ってきたんだね」
「信用できない列車だったけど、最後だけはちゃんと帰してくれたな」
「最後だけって言うと失礼かも」
「じゃあ、最後まで変な列車だったけど、いろいろ楽しかった」
「それなら……まあ」
凪が笑った。
その声を聞いて、俺もようやく肩の力を抜けた気がした。
通路の奥には車掌が立っている。
顔はやっぱり帽子の影に隠れていた。
「まもなく、岡山でございます。お忘れ物がないように」
「……忘れ物?」
聞き返すと、車掌は首を傾けた。
「旅先に置いてきたつもりのものほど、案外手元に残っているものです」
凪が切符を見る。
「じゃあ、忘れ物じゃなくて、持ち帰るものですね」
「なるほど。おっしゃる通りでございます」
切符鋏が小さく鳴った。
「この旅で見たものや聞いたもの、言えなかったもの……ようやく言えたもの。その扱いにはどうぞお気をつけください」
列車がゆっくり止まる。
扉の向こうには見慣れた駅の光があった。
ホームの案内放送に人の足音、電車のブレーキ音が重なっている。スマホを見ながら歩く人も、改札へ急ぐ制服姿の学生も多かった。
――現実の岡山駅。
出発前と何一つ変わっていないはずなのに、同じ景色には見えなかった。
扉が開くと、パンの匂いと夕方の街の乾いた空気が一緒に流れ込んでくる。
知っている場所へ戻ってきただけなのに、胸の奥が詰まった。
俺と凪はホームへ降りた。
振り返れば、せとうち各駅停車はまだそこにある。
銀色の車体に古めの窓枠、行き先の分からない表示板。ホームを歩く人たちは誰も気に留めず、そこに普通の電車しかないように通り過ぎていた。
「……晴路くん」
「まだ見えてるよな……?」
「うん。私だけじゃなくてよかった」
「俺も。俺だけ見えてたら、いよいよ進路より先に相談先を探すところだった」
「それはちょっと困るね……」
互いに見えている。
それだけでやけに安心していた。
扉の横では車掌がこちらを待っていた。
「本日はここまででございます」
「え、また乗れるんですか?」
「必要になれば列車は参ります。ただし、いつも同じ場所からとは限りません」
「……でしょうね」
凪が笑う。
車掌の視線が俺たちの切符へ落ちた。
「切符はお持ちください。相談済の印も、醸成中の印も……すぐには消えませんので」
「消えないんですか」
「お二人が消したくなければ」
少し意地悪な言い方だった。
見たものをなかったことにするのか、持って帰るのか。
そこから先は俺たち次第なのだろう。
凪は切符を鞄へしまった。
俺も折れないよう、カメラケースの内側に入れる。
「行こう」
「うん。ちゃんと持って帰らないとね」
ホームを歩き出したところで、後ろから扉の閉まる音がした。
俺たちは振り向いたとき、動き出した列車の窓に、旅先で見た光や影が一瞬ずつ重なっていった。
白く滲んだ牛窓の風。
名前の薄れた木札。
鳴門の二つの潮。
宇野の灯りのあたたかさ。
開きかけた木桶と匂い。
途中に残された尾道の踊り場。
どれも一瞬だったかもしれない。
列車はそのまま夕方のホームの奥へ入り込み、気づけば姿を消していた。
残っているのはいつもの岡山駅だけだった。
俺たちはしばらくその場に立っていた。
道を急ぐ人や誰かを待つ人、改札へ向かう人。
電光掲示板の文字が変わり、改札の電子音が絶え間なく続いている。
何度も来た駅だ。
今は出ていく場所であり、帰ってくる場所でもあるように見える。
まだ行き先を決められない人がその途中で立っている場所にも見えた。
「じゃあ、歩こうか。今すぐ帰ったら何か取りこぼしそうだ」
「どうする?」
「家の方向には向かうとして、とりあえず駅から歩くか」
「うん。私も……いつも見てきた景色を見たい」
俺たちは改札を出て、西口へ向かった。
東口ほど人の流れは多くないが、バスを待つ高齢者や部活帰りらしい生徒、駅へ急ぐ社会人が行き交っている。
白い駅舎の壁に夕方の光が落ちていた。
ついさっきまで神様の相談を聞きながら瀬戸内を走っていたことが、急に遠い出来事みたいに思える。
「何か変だな」
「何が?」
「いつもの駅前なのに違って見える」
「……それ、私も」
凪が西口を振り返った。
「ここって今までは電車に乗るための駅とか、どこかへ行く途中の場所だった。でも、今は出ていく人も帰ってくる人もいて……まだ決められないまま立ってる人もいた場所なんだろうなって思う」
「神様みたいなこと言うな」
「今日、一日中相談を聞いたからかな。それに私たちも聞いてもらったし」
「……かなり影響されてる」
「晴路くんもでしょ。顔がちょっと神様寄り」
「え、待て。……それ、どんな顔だ」
「分かったような、まだ分かってないような顔」
「……ああ。それなら確かにいつもの俺だな」
凪が今度こそ大きく笑った。
俺はカメラを取り出す。
「え、何を撮るの?」
「今の岡山……かな?」
「急に大きいね」
「一枚目は西口の信号だけどな」
「急に現実的」
「大都会岡山の第一歩だから」
また笑った凪が今度は少し真面目な声で言った。
「それ、昔の晴路くんの一部だもんね」
胸の奥が熱くなる。
――大都会岡山。
進路希望調査票にふざけて書いた言葉。
逃げるために使った言葉だった。
同時に決められない自分を守ってくれた言葉でもある。
全部なかったことにする必要はない。
そのまま逃げ道にしておく必要もない。
俺は西口を出た横断歩道の前から、駅へ向けてカメラを構えた。
奥に白い駅舎。手前に信号と横断歩道がある。
制服姿の生徒が駅へ向かい、バス乗り場では誰かが立ち止まっている。
俺はそこでシャッターを押した。
何でもない西口から撮った岡山駅の写真だった。
駅と横断歩道、夕方の空――。
それだけなのに、どこかへ出ていく前の時間と帰ってきた後の時間が同じ画面に残っているように見える。
「どう?」
凪が画面をのぞき込む。
「普通に撮ったんだよね?」
「そのつもり」
「なんか、すごくいい」
凪はしばらく画面を見ていた。
「ここから出て、ここに戻ってきたんだね」
「正確には変な列車に乗った」
「そこは間違ってない。変な列車に乗って、ちゃんと戻ってきた写真」
それから駅の方を振り返る。
「戻ってきたのに、出る前と同じ場所には戻ってない感じがする」
「俺たちの見方が変わったんだろうな」
「たぶん。写真も」
もう一度画面を見る。
今までは気にも留めなかった人の流れまで目に入った。
駅へ向かう人。そこから離れていく人。
同じ場所を撮ったとしても、旅に出る前の俺なら、こんなふうには見ていなかったと思う。
俺たちは西口から歩き始めた。
大きな道を外れると、建物の間に住宅が混じってくる。
駐輪場の前を通り、学校帰りの生徒とすれ違ううちに、駅前のざわめきは次第に生活の音へ変わっていった。
途中、小さな公園の前で凪が立ち止まった。
ベンチには買い物袋を足元に置いた女性が座り、そのそばで子どもが水筒を振り回している。少し離れたところでは、仕事帰りらしい男性が自転車を止めてスマホを見ていた。
「ここも何回も通ってる」
「俺もだな」
「見たことあるのに、覚えてないね」
「毎日ちゃんと覚えてたら容量が足りないだろ」
「晴路くんの頭、写真より先に整理した方がいい?」
「……けっこうひどい」
凪は笑ってから、公園へもう一度目を向けた。
「でも、覚えてないから大事じゃないってことでもないんだね」
その言葉で播磨名残島の木札を思い出した。
名前を知らなかった島。
忘れたことに気づかれないまま薄くなっていくもの。
「そうかもな。毎日見てるから、いちいち名前をつけないだけで」
「うん。帰ってくる場所って、そういうものがたくさんあるのかも」
俺は公園を撮らなかった。
撮りたいと思わなかったわけではない。
今日は写真にしないで、そのまま見ておきたいと思った。
カメラを持っていても、全部を撮らなくていい。
それも旅に出る前とは違う気がした。
さらに歩くと、学校へ向かうときによく通る道へ出た。
凪はときどきメモ帳を開いたが、すぐには書かない。
辺りを見てから、短い言葉だけを残していた。
「何書いてるんだ?」
「今の岡山について、今思ったこと」
「また大きいテーマだな」
「晴路くんの写真と同じだよ」
「俺の写真、普通だったぞ」
「普通の中に何が見えるか、でしょ?」
凪がメモ帳を見せる。
駅を出る人と駅へ向かう人が同じ夕方の中にいること。
見慣れた道が今日は帰る場所にも出ていく場所にも見えること。
小さな字でそんな言葉が並んでいた。
俺だけではない。
凪も自分たちが暮らしてきた場所を見直している。
それが分かると、何も言う必要がない気がした。
「ここ、いつもの道だな」
「旅感、なくなった?」
「だいぶんな」
「でも、今日の目的地でもあります」
「……いつもの通学路が?」
「いつもの通学路だから、かな」
夕方の道にはもう生徒の姿が少ない。
住宅の窓に明かりがつき始め、自転車が一台ゆっくり通り過ぎた。
「私、ここを何回も歩いてるのに、ここから出るとか残るとか考えた瞬間、急に全部が大きな話になったんだよね」
「県外とか進路とか?」
「うん。でも、本当はこういう何気ない道から続いていく先の話なんだと思う」
凪が足元を見る。
「朝、急いで歩く道とか帰りに遠回りした道とか。誰かと話しながら歩いた道とかね。そういうものを持ったまま、外を――先をちゃんと見られるかどうかなんだと思う」
俺は黙って聞いた。
「岡山を大事にするって言うと大きすぎるけど……たぶん、こういう道を忘れたくないってことなのかもしれない」
その言葉はすっと入ってきた。
何度歩いたかなんて覚えていない。
遅刻しそうになって走った朝もあるし、帰りに凪とくだらない話をしながら歩いた日もある。
こういうものが大切だったと気づくのは、たいていなくなった後なのかもしれない。
今、凪が言葉にしたことを覚えておきたいと思った。
「内海」
「何?」
「ここ、撮っていいか」
「この道?」
「うん。今の話を聞いたあとで撮らない方が不自然な気がする」
「じゃあ、変に写っても消さないでね」
「それは写り方による」
「さっきまで良いこと言いそうな顔だったのに」
「まだ言ってないからセーフ」
凪が脇へ寄る。
俺はカメラを構えた。
ただの道だった。
特別なものは何もない。
今日の俺にはその何もなさが眩しく見える。
シャッターを押した。
画面には夕方の通学路が写り、その少し先に凪の後ろ姿も入っていた。
顔は見えない。同じ道を歩いている人として、そこにいるだけだった。
「入った?」
「ちょっとだけ」
「消す?」
「消さない。今回はそこにいてほしかったから」
言った瞬間、自分でも恥ずかしくなった。
凪は返事をせず、少ししてから小さく頷いた。
「そっか」
それだけで十分だった。
空が暗くなり始める。
「そろそろ帰ろうか」
俺たちは家へ向かった。
途中までは同じ道だ。
子どもの頃はずっとそうだった。
昔は途中の角で別れることも、翌日また会えることも何も考えずに受け入れていた。
今はその当たり前が違って見える。
別れる角が近づいたところで、凪が立ち止まった。
「晴路くん。明日、進路希望調査票を書く?」
「ちゃんと書くか。書けたら学校へ持ってこいって言われてるし。答えってほどじゃなくても、空欄のままにはしない」
「私も書く。今、学びたいことを。外からも見てみたいってことを」
「もうそこまで決まってるのか」
「決まってるってほどじゃないよ。岡山に残るのか、外へ出るのかもまだ分からない。でも、どっちを選んでも、ここを大事に思ってることまで消したくない」
夕方の色は薄くなり、住宅の窓にはぽつぽつと明かりがついていた。
「決めきれないって、前なら恥ずかしかったんだと思う」
「今は?」
「恥ずかしくないわけじゃない。でも、途中なら途中って書いてもいいと思える。ちゃんと見に行くつもりなら」
「……醸成中ってやつか」
「確かに。逃げるためじゃない……醸成中」
凪が照れたように笑った。
「今、岡山を歩けてよかった」
「旅の後すぐに?」
「うん。自分が戻ってきた場所があるって、前より分かった気がする」
「俺も分かったことがある」
「何?」
「……また、こんな感じで歩くか」
「え、岡山を?」
「岡山もだな。瀬戸内の旅でまだ見てないところ、いくらでもあるだろ?」
凪はすぐには返事をしなかった。
視線を落とし、道路の白い線の端を靴先でなぞる。
「それ、約束にすると重いか……?」
「どうかな。重くはない、けど……」
「じゃあ、歩きたくなったときに声をかけるくらいでどうだ」
顔が上がる。
「それなら、私からも声をかけていい?」
「もちろん」
「じゃあ、そうする」
今度は素直に笑った。
尾道で感じたような――どちらかが先に行ってしまう怖さはなかった。
次にどこを歩くのかも、いつになるのかも分からない。
その頃には今と違うことを考えているかもしれない。
歩きたくなれば声をかけられる。
凪からも声をかけてくれる。
今の俺たちにはそのくらいがちょうど良いのかもしれない。
凪が角の向こうへ一歩進んだ。
「じゃあ、また明日ね」
「また明日。調査票、書くの忘れるなよ」
「晴路くんこそ。結局、大都会岡山って書き直さないでね」
「それは写真フォルダ名にするから大丈夫」
「え……それ、大丈夫なのかな」
「それくらい許して……」
呆れたように笑い、小さく手を上げる。
大きく振るほどではない。
今日の別れにはそれで十分だった。
俺も同じくらい手を上げて、それぞれの家へ向かった。
途中、小さな川に架かる橋で一度足を止めた。
水面には住宅の明かりが細く伸び、遠くでは車の音が流れている。
いつもなら立ち止まるような場所ではない。
カメラを出しかけて、やめた。
代わりに欄干へ手を置く。
牛窓の神様は寂しいけれど行けと言った。
播磨では、知らないものを知らないままにしないことを考えた。
鳴門では二つの流れを消さずに読むことを知った。
宇野では昔の灯りが今の足元を照らした。
小豆島ではまだ答えになっていない時間にも育っているものがあると分かった。
尾道では途中で立ち止まることにも意味があった。
どれも進路そのものの答えではない。
それなのに旅の前より空欄が怖くなくなっている。
欄干の向こうを流れる水を見ながら、ようやくその違いが分かった気がした。
俺は何も決めていないのではない。
決めるために見たいものが増えた。
それなら、今はそれでいい。
家へ帰る道でカメラの画面を開いた。
旅先の写真の後に、岡山駅西口の信号と夕方の通学路が並んでいる。
不思議な場所と見慣れた景色が同じ一覧に並ぶと、どちらが特別でどちらが普通なのか、すぐには分からなくなった。
その最後が岡山駅の信号といつもの通学路だった。
今日の俺にはどちらかだけが特別には見えない。
むしろ旅の写真の続きに、何でもない道があることが嬉しかった。
家へ着くと、玄関を開けた途端に母さんの声が飛んできた。
「遅かったね。牛窓はどうだった?」
一瞬、答えに詰まった。
いろいろな瀬戸内を巡った。
でも、普通の意味としてなら、どこにも行っていない気もする。
「……いろいろは……見た」
「なんなん、その感想」
台所から顔を出した母さんが笑う。
「写真は撮れた?」
「撮った」
「じゃあ後で見せて」
それだけ言って、また台所へ戻っていった。
拍子抜けするくらい、いつもの家だった。
写真の中には母さんには説明できないものがいくつもあるだろう。
全部を説明する必要はない。
見せられるものを見せればいい。
話せるところまで話せばいい。
それも小豆島の木桶と同じなのかもしれない。
部屋へ入ると、机の上には進路希望調査票が置いたままだった。
朝見たときより用紙が薄く見える。
白い空欄そのものは何も変わっていない。
変わったのはそれを見る俺の方だった。
椅子へ座ってペンを持つ。
しばらく紙を見つめた。
――大都会岡山。
その言葉を思い出して笑う。
笑った後、ゆっくり息を吸った。
空欄は空っぽではない。
空っぽではないと信じたいなら、見に行かなければならない。
俺は一行目へ少しぎこちない字で書いた。
『写真を通して地元と外の風景を見てみたい』
完成した答えではない。
立派な進路とも言えない。
先生が見れば、もっと具体的にと赤を入れるかもしれない。
それでも今の俺が立っている場所だった。
次の行には県外も含めて、写真や地域、観光や歴史に関わる進路を調べたいと書いておいた。
そこでペンを止める。
――醸成中。
紙の端に書きかけてやめる。
提出用には茶化しすぎだ。
代わりにスマホを開き、新しい写真フォルダを作った。
タイトルは『大都会岡山 一枚目』にした。
今日撮った岡山駅西口の写真を入れ、その隣に帰り道の通学路を並べる。
画面の中に岡山の夕方が二枚続いた。
何度も見てきた景色なのに、今日から違うものに見える。
窓の外には夜の岡山があった。
遠くにいくつもの明かりが浮かんでいる。
その一つ一つに、誰かの帰る場所や出ていく場所、途中で立ち止まっている時間があるのかもしれない。
ふと白い切符を思い出し、カメラケースから取り出した。
牛窓夕凪から尾道石段まで、俺たちが見て聞いて、迷いながら通ってきた場所の印が並んでいる。
最後に残っていた余白へ、見慣れない文字が浮かんでいた。
『岡山 帰着』
息が止まった。
いつ押されたのかは分からない。
ここへ帰ってきたという印だった。
スマホの通知は凪からだった。
『進路希望調査票、書き始めたよ』
続けて届く。
『まだ醸成中だけど、逃げてはいません』
俺は笑った。
『俺も書いた。大都会岡山は写真フォルダの名前になった』
すぐに既読がついた。
『それなら先生もぎりぎり許して――くれない』
また笑う。
直後にもう一つ届いた。
『あと、晴路くん』
『なに』
『総合探究』
指が止まった。
――総合探究。
瀬戸内の地域と若者の行き先。
実際に土地へ行き、そこで暮らす人の話を聞く。
そこまで思い出したところで、スマホを持ったまま固まった。
『……あ』
すぐ既読になる。
『私たち、瀬戸内は回ったけど』
『うん』
『予定してた取材、一件もしてないよね』
確かに。
いろいろなところへ行った。
ただし普通の方法ではなく――。
『神様への聞き取り内容は?』
『先生にきちんと説明できるなら』
『……無理だな』
『うん、無理だね』
そこだけは完全に意見が一致した。
少しして、またメッセージが届く。
『なので、夏休み後半』
『はい』
『今度こそ本当に瀬戸内を回ります』
『また牛窓から?』
『全部やり直す必要はないけど、何か所かはちゃんと行きたい』
『普通の電車で?』
『普通の電車と船で』
『変な列車なし?』
『できれば』
今日一日でずいぶん遠くまで行ったつもりだった。
夏休みの課題だけを見れば、俺たちはまだほとんど出発していない。
『じゃあ今度はちゃんと写真部として行くか』
『私はちゃんと取材します』
『俺は?』
『教材兼記録係』
『それ、まだ有効なのかよ』
少し間が空いた。
『でも、今度は今日よりちゃんと見られる気がする』
その一文を見て、指が止まった。
たぶん、そうだ。
旅に出る前なら見落としていたものがある。
出る人と残る人。
帰ってくる人。
途中で止まっている人。
何を見て何に迷って、どんな言葉を飲み込んできたのか。
今なら前とは違う聞き方ができるかもしれない。
『また歩きたくなったら言って。私からも言うから』
『わかった。また一緒に歩こう』
送信すると既読がついた。
もう返事は来なかった。
窓を少し開ける。
入ってきたのは旅先の潮でも醤油蔵の香りでもない。
ただの岡山の夜の風だった。
俺は写真フォルダを開く。
『大都会岡山 一枚目』
西口の信号と夕方の通学路が並び、その前には牛窓から始まった旅の写真が続いている。
何度も見てきた岡山の景色が、旅の続きとしてそこに混ざっていた。
旅は一旦ここで終わった。
俺が何者になりたいのかも、どこへ進むのかもまだ決まっていない。
岡山に残るのか、外へ出るのかも分からない。
机の上には文字の増えた進路希望調査票がある。
最初に「大都会岡山」と書いたときとは違う。
分からないことを笑って隠すだけの空欄ではなくなった。
決めるために見たいものがある。
明日の朝、俺はこの調査票を持って、いつもの道を歩く。
凪も同じ岡山の朝を歩いているはずだ。
今日の旅が終わっても明日は来る。
その明日にまた会いたいと思える相手がいる。
『大都会岡山 一枚目』
まだ一枚目だった。




