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第6章 待つとは、育つ時間を引き受けることです

 

 せとうち各駅停車は、『宇野みなとあかり』の港を離れていった。


 窓の外に残っていた小さな灯りは、海の向こうでゆっくり小さくなる。

 でも、消えたわけではない。

 遠くなっても、まだそこにある。


 俺はカメラの画面を見ていた。


 宇野で撮った凪の足元の写真が、まだ表示されている。

 古い石畳と新しい白い道の境目に、凪が立っていた。

 灯りは小さく写っているだけなのに、その一枚を見ると、昔の時間が今の足元を照らしている気がした。


 変わることは昔を消すことじゃない。


 凪がメモ帳に書いた言葉を、俺も何度か心の中で繰り返した。

 分かったつもりでいた。

 けれど、分かったからといって、すぐに進路希望調査票の空白が埋まるわけではない。


 向かいの席で、凪もメモ帳を開いていた。

 でも、さっきから何も書いていない。

 ペン先だけが、白い余白の上で止まっている。


「書かないのか」


「うん。今書いたら、違う言葉にしてしまいそうで」


 凪は窓の外を見た。


「少し待ちたい。でも、待つって言うと、何もしない言い訳にも聞こえるよね」


 その言葉に、俺はすぐ返せなかった。


 俺も似たようなことを思っていた。

 未定は空っぽじゃない。

 そう言われたら、少し救われる。

 でも、空っぽじゃないと信じたいだけで、本当は何も見に行っていないのだとしたら。


 それはただ逃げているだけなのかもしれない。


 車内の古い表示板が、ぱたんと音を立てた。


『次は、小豆島醤油蔵しょうどしましょうゆぐら


 その文字が出た瞬間、列車の中に、ふっと濃い香りが入ってきた。


 潮の匂いではない。

 甘いわけでもない。

 けれど、どこか懐かしくて、深い。

 古い木の奥に、長い時間がしみ込んでいるような香りだった。


「醤油蔵……」


 凪がつぶやく。


「発酵の場所だよね」


「つまり、時間がいい匂いになってる場所か」


 凪が少しだけこちらを見た。


「その言い方、今日は少し分かるかも」


「仮採用?」


「仮採用」


「また仮か」


 凪は小さく笑った。

 けれど、その笑いはすぐに消えた。


 車掌が通路の奥に立っていた。

 顔はいつものように帽子の影に隠れている。


「次の駅でございます」


 車掌は切符鋏を小さく鳴らした。


「小豆島醤油蔵。香りは急かすと逃げます」


 それだけ言って、車掌は黙った。


 急かすと逃げる。


 短い言葉なのに、胸に引っかかった。

 俺の答えも、凪の言葉も、急いで外へ出したら逃げてしまうのだろうか。

 でも、だからといって、いつまでも蓋をしたままでいいのだろうか。


 列車が速度を落とす。


 窓の外に、島影が近づいてきた。

 海の向こうに、古い蔵の黒っぽい壁が見える。

 家並みの間に、細い道が入り込み、その奥からさっきの香りが流れてくるようだった。


 ホームは古い蔵の並ぶ通りの手前にあった。


 駅名標には茶色がかった文字で、こう書かれている。


小豆島醤油蔵しょうどしましょうゆぐら


 扉が開くと、香りが一気に濃くなった。

 潮風と混じっているのに、海よりも蔵の匂いの方が強い。

 俺たちはホームへ降りた。


 足元の石畳は少し湿っているように見えた。

 石の隙間に小さな草が生えていて、蔵の黒い板壁が道の両側に続いている。

 板壁は古く、近づくと、潮風にさらされた木と、長い年月しみ込んだ香りが重なっていた。


 観光写真で見た小豆島とは、少し違っていた。

 青い海や明るい島の景色よりも、ここでは蔵の暗さと、木桶の影と、目に見えない香りの方が強い。

 けれど、その奥に海があることは分かる。

 風が吹くたび、香りの底に、かすかに潮の匂いが混じった。


「なんか……濃いな」


 俺は思わず言った。


「香り?」


「香りも、時間も」


 自分で言ってから、少し照れた。

 でも、凪は笑わなかった。


「うん。分かる」


 俺たちは蔵の入口へ向かった。


 蔵へ近づくほど、香りは濃くなった。

 最初は風に混じっていたものが、だんだん空気そのものになっていく。

 息を吸うたび、胸の奥に古い木の色が沈んでいくようだった。


 道の脇には、使い込まれた桶の板や古い蓋のようなものが立てかけられていた。

 どれも黒く深い色をしている。

 ただ古いのではない。

 何かを長いあいだ受け止めてきたものの色だった。


 凪がその前で足を止めた。


「これ、捨てられてるのかな」


「さあ。でも、ただの廃材には見えないな」


「うん」


 凪は少しだけ身をかがめた。


 古い板の表面には小さな傷がいくつもついていた。

 乾いているところもある。

 まだ湿り気を帯びているように見えるところもある。


「使い終わったものにも、匂いが残ってる」


「時間が染みついてるんだろうな」


「時間って、残るんだね」


 凪はそう言ってから、自分の言葉に少し驚いたように黙った。


 宇野の灯りもそうだった。

 昔のものは消えたわけではなく、今の足元を照らしていた。

 ここでは昔から重ねられた時間が、香りになって残っている。


 目に見えないのに、逃げ場がないくらい確かだった。


 蔵の入口は薄暗かった。

 外の海の明るさが、そこで一度止まっている。

 中には大きな木桶がいくつも並んでいた。

 人の背丈よりずっと高いものもある。

 丸い桶の側面には太いたががかかり、木の肌には黒く深い色がしみ込んでいた。


 その木桶たちはただ、置かれているだけではなかった。

 黙っているのに、息をしているように見えた。

 中で何かが育っている。

 外からは見えないけれど、確かに何かが動いている。

 そう思わせる静けさがあった。


 蔵の入口で、一人の神様が大きな木桶の前に立っていた。


 年齢は分からない。

 白髪にも見える髪を後ろでゆるく結び、藍色の作業着を着ている。

 手には長い木の棒がある。

 木桶の中をかき混ぜるためのものだろうか。


 その神様は俺たちを見るより先に、桶の重い蓋へ手をかけた。


 けれど、開けなかった。


 指先が蓋に触れたまま止まり、やがて静かに離れる。


「……今日ではないのかもしれません」


 神様は誰に言うでもなくつぶやいた。


 凪が足を止める。

 俺も、自然と声を出せなかった。


 神様は蓋の上に手を置いたまま、しばらく耳を澄ませていた。

 その姿か何かを聞いているようにも、何かに許しをもらおうとしているようにも見えた。


 やがて、神様はゆっくりこちらを見た。


「来ましたね。香りの薄い人たち」


「香りの薄い?」


 俺が聞くと、神様は少しだけ笑った。


「まだ、答えになっていない香りです。けれど、空ではありません」


 その言葉に、凪の指がメモ帳を押さえた。


「どうぞ、中へ。まだ答えになっていない香りは、入口で立ち止まるものではありません」


 神様はそう言って、薄暗い蔵の奥へ歩き出した。


 蔵の中は外から見たよりも広かった。

 高い天井の下に、大きな木桶が静かに並んでいる。

 光は少なく、香りだけが深い。

 天井近くの小さな窓から細い光が入り、その光の中を、見えない香りが流れているようだった。


 床は少し湿っていた。

 足音が大きく響かない。

 俺たちの足音も、木桶の間に吸い込まれるように小さくなった。


 神様は入口に近い木桶を指した。


「これは急ぎすぎた桶です」


 桶の蓋は少しだけずれていた。

 けれど、そこから立ち上がる香りは弱い。

 浅く、どこか頼りない。


「早く答えにしようとしました。まだ浅いのに、蓋を開けました。開ければ中身が分かると思ったからです」


 神様はその木桶を見つめる。


「けれど、香りは逃げました。育っていたものは、育ちきる前に外へ出され、何になるはずだったのか分からなくなりました」


 凪が小さく息をのむ。


 俺も、桶の中を見ようとして、見えないことに気づいた。

 薄暗い中に、ただ弱い香りだけが残っている。

 それは失敗の匂いではないのかもしれない。

 でも、もう少し待てば深くなったはずのものが、途中でほどけてしまったような寂しさがあった。


 神様は木の棒の先で、桶の縁をそっとなぞった。


「毎日、見に来ていました。初めのうちは、音も香りも変わっていくのが分かりました。けれど、ある日、早く形にしたくなったのです」


「早く」


 凪が小さく繰り返す。


「はい。まだです、と言い続けるのが怖くなりました。何もできていないように見えるのが怖くなりました」


 その言葉に、胸の奥が少し痛んだ。


 まだです。

 決まっていません。

 分かりません。


 その言葉を言い続けるのは、たしかに怖い。


 何も考えていないと思われるかもしれない。

 何も進んでいないと思われるかもしれない。

 だから、浅くても何かを出したくなる。


 俺の進路希望調査票も、きっとそれと同じだった。


「急いで出した答えは」


 凪が静かに言った。


「戻せないんですか」


 神様はすぐには答えなかった。


「戻せるものもあります。けれど、同じにはなりません。一度外へ逃げた香りは同じ場所へは戻りません」


 その言葉が、やけに痛かった。


 一度言葉にしたら、それが本当の答えみたいに扱われる。

 たとえあとで違ったと気づいても、言った時の言葉は残る。

 凪が「今書いたら、違う言葉にしてしまいそう」と言った意味が、少し分かった気がした。


 神様は次に、蔵の奥にある木桶を指した。


「これは、待ちすぎた桶です」


 その桶にはしっかり蓋がされていた。

 けれど、近づくと香りが重すぎた。

 深いというより、行き場をなくしたものが奥で沈んでいるようだった。


「今ではない。まだ早い。そう言い続けました。けれど、見に来なかった。音も聞かなかった。香りも確かめなかった。ただ、開けるのが怖かっただけです」


 神様の声は静かだった。


「待つふりをして、逃げていました」


 胸の奥が痛くなった。


 急ぎすぎること。

 待ちすぎること。


 どちらも、俺には関係のない話ではなかった。


 進路希望調査票に何か書かなければならない。

 でも、書いた瞬間に、それが本当の答えになってしまう気がする。

 だから冗談でごまかして、空欄を空欄のままにしている。


 俺は待っているのか。

 それとも、見ないようにしているだけなのか。


 神様は待ちすぎた桶の前で、しばらく黙っていた。

 それから蓋に手を置く。


「この桶は、最初から重かったわけではありません」


 神様は低い声で言った。


「変わっていく音はありました。香りが深くなる日もありました。けれど、いつか開ける日を考えるのが怖くなって、私は聞きに来る回数を減らしました」


 木桶の奥で、低い音がしたような気がした。


「見に来なければ、まだ途中だと言える。確かめなければ、間違えずに済む。そう思いました」


 凪が唇を結んだ。


 その表情を見て、俺は凪も同じ痛みを感じているのだと分かった。

 外を見たい。

 岡山も大事。

 どちらも嘘ではない。


 だからこそ、確かめるのが怖い時がある。


 神様は木の棒を自分の掌に軽く当てた。


「だから、分からなくなったのです」


 凪が静かに聞いた。


「何が、ですか」


「開けるべき時と、待つべき時の違いです」


 神様は蔵の奥を見た。


「早く開ければ、逃げてしまう。待ちすぎれば、閉じ込めてしまう。では、どうやって分かればよいのでしょう。今なのか、まだなのか。その境目が、私には見えなくなりました」


 蔵の中に、深い沈黙が落ちた。


 この神様は、答えを持って待っているわけではなかった。

 答えを急がせる声と、答えを先延ばしにする怖さの間で、動けなくなっていた。


 それは、俺たちの前に置かれた進路希望調査票そのものみたいだった。


「……私は」


 凪が言った。


「今すぐ言葉にしたら、違う言葉にしてしまいそうです」


 神様が凪を見る。


 凪はメモ帳を胸に抱えるように持っていた。


「残りたい気持ちも、外を見たい気持ちも、まだどちらも浅くて。でも、どちらも嘘じゃない気がします。だから、今すぐ一つに決めて出したら、きっと違う言葉にしてしまう」


 声は小さかった。

 けれど、ちゃんと蔵の奥まで届いた。


「でも、黙っていたら、何も考えていないみたいになる気もします。ちゃんと決められない自分が、遅れているみたいで」


 凪は少しだけ息を吸った。


「待つって言って、見ないままでいるのも怖いです」


 神様は静かにうなずいた。


「待つことと、放っておくことは違います」


 凪は顔を上げた。


「違うんですか」


「違います。待つ者は、見に来ます。放っておく者は、忘れます。急がないことと、逃げることは似ていますが、同じではありません」


 神様は、蓋の閉じた木桶に手を置いた。


「待つとは、育つ時間のそばにいることです」


 その言葉は、強くはなかった。

 でも、ゆっくり胸の奥へ沈んでいった。


 俺は、自分の手元にあるカメラを見た。


「俺は」


 気づくと、口を開いていた。


「待ってることを見られるのが嫌なのかもしれません」


 凪がこちらを見る。


「まだ決まってないって思われるのが嫌です。未定って書くと、本当に何もないみたいで。でも、ちゃんとした答えもないから、冗談にしてました」


 大都会岡山。


 今なら、あの言葉の軽さが分かる。

 でも、あの軽さに助けられていた自分もいる。


「空っぽだと思われるのが嫌で、こっちから先に笑いにしたんです。そうすれば、誰かに見られる前にごまかせるから」


 言ってから、顔が熱くなった。


 こんなことを言うつもりはなかった。

 でも、蔵の中に漂う香りのせいか、蓋を押さえていたものが少しだけ外へ出てしまった。


 神様は、俺をじっと見た。


「香りが出る前の桶は、不安です」


「はい」


「けれど、見に来ているのなら、空ではありません」


 その言葉に、胸の奥が少し熱くなった。


 空ではない。


 未定。

 空白。

 何も決まっていない。


 そう思っていた場所に、小さな香りが差したような気がした。


 神様は、さっき開けかけてやめた木桶の前に戻った。


「これは、今日開けるべきか、まだ待つべきか。私には分かりませんでした」


 木の棒が、蓋の上にそっと置かれる。


「でも、あなたたちが来て、少しだけ音が変わりました」


「音?」


 凪が聞く。


「はい。中で育つものの音です」


 神様は蓋に耳を寄せた。


 蔵の中が、さらに静かになる。


 俺には何も聞こえない。

 けれど、神様は長いあいだ耳を澄ませていた。


 そのあいだ、俺は木桶の表面を見ていた。


 黒く深い色になった木。

 何度も触れられた跡。

 乾いたところと、湿り気を帯びたところ。

 そこに、見えないものを育ててきた時間があった。


 誰かが毎日見に来たのだろう。

 蓋を開けずに、でも放っておかずに。

 音を聞き、香りを確かめ、木の様子を見て、まだだと思えば待ち、今だと思えば少しだけ手を入れる。


 それは、何もしないこととはまったく違っていた。


 待つという言葉は、思っていたよりずっと手間のかかる言葉だった。


 神様は耳を離すと、今度は蓋の縁に指を滑らせた。

 それから木桶の側面に手を置き、目を閉じる。


「木の肌が少し温かい」


 神様がつぶやいた。


「温かいんですか」


 凪が聞く。


「はい。中で生きているものがあります。急がせても、止めても、こちらの思い通りにはなりません。けれど、見に来れば、少しは分かる」


 神様は桶の縁をもう一度なぞった。


「昨日より軽い香り。昨日より深い音。昨日より少しだけ変わった木の湿り気。そういうものを、一つずつ見るしかありません」


 待つとは、ただ日にちを空けることではない。

 毎日見に来ること。

 変わっていないように見えるものの前で、変わっているかもしれないものを探すこと。

 分からないまま、そばにいること。


 それは、思っていたよりずっと面倒で、ずっと誠実なことだった。


 やがて、神様は顔を上げた。


「全部は、まだ開けません」


 その声は、今度は迷っていなかった。


「けれど、何も育っていないのではないと、確かめることはできます」


 神様は、木桶の蓋をほんの少しだけずらした。


 指一本分にも満たない隙間だった。

 それだけで、深い香りが蔵の中へ広がった。


 強すぎない。

 甘すぎない。

 けれど、長い時間がそこにあることだけは分かる香りだった。


 海の匂い。

 木の匂い。

 土の匂い。

 夏の熱と、冬の静けさ。

 誰かが毎日見に来た時間。


 それらがひとつになって、静かに立ち上がる。


 凪の目元が、少し赤くなった。


「……すごい」


 それだけ言って、黙った。


 俺も何も言えなかった。


 木桶の中身は、ほとんど見えない。

 蓋は全部開いていない。

 完成したものとして差し出されたわけでもない。


 でも、そこに何かが育っていることだけは分かった。


「待ちすぎていたのではないかと、怖かったのです」


 神様が言った。


「早く開けてまた駄目にするのも、怖かった」


 凪が、静かに言う。


「でも、ちゃんと育っていたんですね」


 神様はうなずいた。


「はい。まだ途中です。けれど、育っていました」


 その言葉と同時に、蔵に並んだ木桶の奥から、小さな音が返ってきた。


 こつん。


 一つだけだった。


 でも、その一つの音が、蔵全体にゆっくり広がっていく。


 俺はカメラを構えた。


 大きな木桶を撮る。

 でも、桶だけではない。


 開ききっていない蓋。

 そこから立ち上がる見えない香り。

 蔵の入口から差し込む、海に近い光。

 その光を受けて、黒い木桶の縁が、ほんの少しだけ明るくなっている。


 シャッターを押す。


 画面には、木桶と、少しだけずれた蓋と、蔵の入口の光が写っていた。

 神様の姿はない。

 香りも写らない。

 けれど、桶の上の空気だけが、わずかに揺れているように見えた。


「匂いは写らないな」


 俺が言うと、凪が画面をのぞいた。


「でも、開けたばかりって分かる」


「ほんの少しだけだけどな」


「うん。だから、いいのかも」


 凪は画面を見たまま言った。


「全部開けなくても、育っているって分かることもあるんだね」


 その言葉に、俺は何も返せなかった。


 全部決めなくてもいい。

 でも、見に来なければならない。

 全部言葉にしなくてもいい。

 でも、何もないことにしてはいけない。


 それが、少しだけ分かった気がした。


 凪はメモ帳を開いた。

 しばらく白いページを見つめてから、ゆっくり書いた。


「答えがまだ出ていないことは、何も育っていないことではない」


 その文字を見て、胸が少し痛くなる。


「それ、いいな」


「うん」


「でも、ちょっと刺さる」


「私にも刺さってる」


 凪はそう言って、少しだけ笑った。


 遠くから汽笛が聞こえた。


 せとうち各駅停車が、蔵の前のホームへ戻ってきていた。

 銀色の車体の窓に、古い蔵と海の光が映っている。


 車掌が扉の横に立っている。


「答えは、出ましたか」


 神様は、木桶の蓋を元に戻した。


「出てはいません。明日もまた迷うでしょう」


「ええ」


 車掌は静かにうなずいた。


「けれど、迷いながら見に来ることは、お分かりになられたようですね」


 神様は俺たちを見た。


「すぐに言葉にしない勇気を持ってください。けれど、言葉にする日を永遠に先へ逃がさないでください」


 凪は小さくうなずいて言った。


「はい」


 神様は次に俺を見る。


「完成したものだけを撮らないでください。まだ形にならないものも、旅の一部です」


「はい」


 神様は最後に木桶の蓋へ手を置いた。


「未定とは空っぽのことではありません。けれど、空っぽではないと信じたいのなら、見に来てください。耳を澄ませてください」


 蔵の奥で、また小さく音がした。


「待つとは、育つ時間を引き受けることです」


 その言葉が静かに胸へ残った。


 待つとは、育つ時間を引き受けること。


 それはただ楽になる言葉ではなかった。

 むしろ、逃げるよりずっと難しい。


 でも、今の俺たちには必要な言葉だった。


 俺たちは列車へ戻った。

 扉の前でもう一度振り返る。


 小豆島醤油蔵の神様は蔵の入口に立っていた。

 手は振らない。

 ただ、木の棒を持って、木桶の蓋に耳を澄ませている。


 その姿は少しも急いでいなかった。


 列車に乗ると、車掌が俺たちの切符を確認した。

 白い切符の端に、新しい印が押されている。


小豆島醤油蔵しょうどしましょうゆぐら――醸成中』


 印は小さな木桶の形をしていた。

 蓋はほんの少しだけ開いていて、その先は細い線のように白く空いている。


「相談済じゃないんだな」


 俺が言うと、凪が切符を見た。


「醸成中」


「まだ終わってないってことか」


「うん。相談はしたけど、まだ育ってる」


「それが今回の答えか」


「答えというより、途中の答えかな」


 途中の答え。

 その言葉は今までの俺なら変だと思ったかもしれない。でも、今は少し分かる気がした。


 最終的な答えではない。

 けれど、今の自分には必要な答え。

 そういうものがあってもいいのかもしれない。


 列車が動き出す。


 窓の外で、小豆島醤油蔵の古い蔵と木桶の影が遠ざかっていく。

 深い香りは少しずつ薄くなった。

 けれど、完全には消えなかった。


 凪がメモ帳を閉じる。


「晴路くん」


「うん」


「私、今すぐ進路を決められない自分のことを、少しだけ許せそう」


「うん」


「でも、許すだけじゃだめなんだよね」


 凪は窓の外を見た。


「見に行かないと。自分の中のことも」


「うん」


「晴路くんも?」


「俺も。写真のことも、進路のことも」


 まだ味にはなっていない。

 でも、空っぽではない。

 そう思えたことが、少しだけ救いだった。


 車内の古い表示板が、ぱたんと音を立てて変わる。


『次は、尾道石段』


 凪が表示を見上げた。


「尾道……」


「広島だな」


「石段って尾道では有名なの?」


「俺も詳しくはわからないけど、多分そういった場所につながる神様がいるのか」


「神様⋯⋯次は何を聞かれるんだろう」


 凪が小さく呟いて、もう一度窓の外を見る。


「歩いている途中に」


「うん?」


「誰かが先に答えを出してしまったら、どうするんだろう」


 その声はほとんど独り言みたいだった。


「誰かって、俺?」


 軽く返したつもりだった。

 でも、凪はすぐには笑わなかった。


「分からない。晴路くんかもしれないし、私かもしれない」


 俺は言葉を失った。

 列車の窓の外に、石段のある町の影が見え始めている。

 凪はそれを見つめたまま、少しだけ声を落とした。


「答えを待っているあいだに、どちらかだけ先に違う場所へ行ってしまうことも、あるのかなって」


 その言葉は深い香りの名残よりも長いあいだ、車内に残った。


 俺はすぐに何か言えなかった。


 違う場所へ行く。

 それは進路の話で、たぶん俺たちの話でもあった。

 列車は香りの残る蔵をあとにして、石段のある町へ向かって走っていった。



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