第5章 昔の灯は、今の足元も照らします
せとうち各駅停車は鳴門うず潮をあとにして走っていた。
窓の外ではいくつにも分かれていた潮の筋が次第にやわらいでいく。
遠くから見れば一つの瀬戸内海にしか見えないのに、その中には違う流れがいくつもあるのだと――今の俺には分かっていた。
俺はカメラに保存された写真を見ていた。
鳴門で撮った一枚には小さな渦と潮の色が分かれる境目が写っている。
なんだかぶれているし、海の色も一枚の中で揺れていて、綺麗に整った写真とは言い難い。
ただ、その揺れまで含めてあの場所で見たものなのだと思えた。
――迷いをぶれた写真として捨てないで。
鳴門うず潮の神様の言葉がまだ耳の奥に残っている。
俺はその写真を消さず、牛窓の白い風や播磨の木札、島影を撮った写真の隣に残した。
向かいでは凪が黙って窓の外を見ている。
メモ帳は閉じたままだが、その指先は表紙の上を何か確かめるようになぞっていた。
列車はもう次の駅へ向かっている。
それでも俺たちの中には鳴門で見た潮のように、違う方向を向いた気持ちがまだ残っているのだろう。
外を見てみたい。
その一方で、岡山も大事にしたい。
鳴門でそう口にしてから、凪は少し口数が減っていた。
二つの気持ちをどちらか一つにしなくていいと分かったからといって、すぐに楽になれるわけではないのだと思う。
俺も同じだった。
県外へ出たい気持ちと岡山に残りたい気持ちはどちらもある。
それを認めても進路希望調査票の空欄が埋まるわけではないが、あの空欄を前にして感じていた苦しさには前より輪郭が見えてきた気がした。
『次は、宇野みなと灯』
表示を見上げた凪が呟く。
「……宇野ってことは岡山側の海だね。……本当に戻るんだ」
窓の外も鳴門を離れるにつれて変わっていった。
張り詰めていた潮は穏やかになり、遠くには港の輪郭が見え始めている。
海沿いの建物の向こうで白い船が揺れ、岸に立つ細い灯りは昼の光の中でも誰かを待っているようだった。
列車はいつの間にか海の上を離れ、港へ向かう古い線路を走っている。
普通の線路とは違い、錆びたレールに見えたものが次の瞬間には海の光でできた細い道へ変わった。
古いものと新しいものが一つの場所で重なっている。
速度が落ち、港の端にホームが見えてきた。
駅というより、小さな桟橋に屋根をつけたような場所だった。足元には古い石畳が残り、その隣には新しい白い地面が続いている。
柱にかかった古い行き先表示の横では今の案内板が淡く光り、その間の駅名標には柔らかな黄色で『宇野みなと灯』と書かれていた。
列車が止まり、扉が開く。
流れ込んできた潮の匂いには油のような匂いも混じっていて、これまでのどの駅とも違っていた。
人や船、荷物が長い間、行き来してきた港の匂いだった。
俺と凪はホームへ降りた。
港の向こうに見える船影が現実のものなのか、この場所に残った記憶なのかは分からない。
船の窓にはいくつもの灯りがともり、昼なのに出港前の夜を見ているようでもあった。
「知ってる岡山のはずなのに……なんだか知らない場所みたい」
凪の言葉に、俺も同じことを考えていた。
岡山へ戻ってきたと聞けば安心すると思っていたのに、目の前の港は出発前に思い浮かべていた岡山とは違って見える。
場所そのものも違うのだろうが、それ以上に俺たちの見方が変わっているのかもしれない。
ホームの先には港へ下りる短い階段があり、その途中に一つの灯りが置かれていた。
灯台ほど大きくはなく、提灯ほど小さくもない。 古いランプのような形をした器の中で、白く澄んだ光が揺れている。
その光は古い石畳にも新しい白い地面にも届いていたが、どちらへ向けばいいのか迷っているように、風が吹くたび向きを変えていた。
近づくにつれ、その隣に立つ人影が見えてくる。
若い女性のようだった。
短めの髪を後ろで結び、薄い灰色の上着を羽織っている。袖口は長く潮風にさらされてきたように白み、その目には出ていく船も帰ってくる船も長い間見送ってきたような静けさがあった。
「お帰りなさい」
静かな声に、俺たちは顔を見合わせた。
「帰ってきた……でいいんですか?」
凪が尋ねる。
「この港から見れば、岡山へ戻ってきたのでしょう。戻ってきた場所を出発前と同じ目で見る必要はありませんよ」
凪の指がメモ帳の表紙に触れた。
夕凪の風や島影の名残、うず潮で抱えた迷いまで見えているのだろうか――。
俺たちの中では、もうこの人をただの人だとは思えなくなっていた。
「分かるんですか」
俺が聞くと、その視線が灯りへ向いた。
「港には入ってくるものが見えることがあります。船も人も、荷も言葉も。……全部ではありませんが」
白い光が風に揺れる。
「ついてきてください」
神様は名乗らないまま港へ歩き出し、俺と凪もその後を追った。
道には古い石畳と新しい白い地面が並んでいる。
どちらかがもう一方を塗り替えたわけではなく、古い石はそのまま残り、その隣を今ここを歩く人のための道が続いていた。
違う時間が同じ場所に重なっている。
港の端まで来ると、神様が足を止めた。
「今の足元を照らすたび、昔の港が遠くなる気がするのです」
「昔の港……」
「船を待つ人がいました。荷を抱えて急ぐ人も、帰ってきてこの灯りを見つけ、ようやく息をつく人もいました」
その言葉とともに港の空気が変わり、俺たちの前をいくつもの影が横切った。
大きな荷物を抱えた人。
子どもの手を引く人。
仕事道具を持った人や学生服姿の人。
声は聞こえないが、石畳には足音が残っている。
急いで通り過ぎる者もいれば、名残惜しそうに振り返る者もいて、それぞれの影はやがて港の光へ溶けていった。
「昔、この灯りは遠くへ行く人の足元を照らし、帰ってくる人にはここが港だと知らせていました。今はこの場所に残った時間を見ようとする人たちの足元も照らしています」
「それが嫌なんですか?」
俺が尋ねると、神様は首を横に振った。
「見てもらえることは嬉しいのです。ただ、新しい足元を照らすたびに、昔の足音が遠くなる気がするのです」
灯りが白い地面を照らしている。
「今の港を照らすことは、昔の港を終わったものにしてしまうのでしょうか?」
神様の相談というより、灯りそのものが迷っているような問いだった。
凪はメモ帳を開かず、まず目の前のものを見ていた。俺もすぐには答えられなかった。
子どもの頃の自分と高校生になった今の自分。
ただの幼なじみだった頃の俺たちと……いつの間にかその距離が分からなくなってきた今。
――変わることは昔の自分を裏切ることになるのだろうか。
「……私、分かる気がします」
凪がゆっくり話し始めた。
「今まで自分はこういう人だと思ってきたものが変わるかもしれないって、怖いんです。しっかりしてるとか、地元のことを考えてるとか、岡山に残る人だとか。……違う自分になったら、そういう言葉の中にいた自分を裏切るみたいで」
凪はメモ帳を胸元へ寄せて顔を上げた。
「外を見たいって思ったら、今まで大事にしてきたものを捨てることになるのかなって、考えたこともありました」
港の灯りが凪の横顔を照らしていた。
声はまだ小さい。
それでも、鳴門で初めて口にしたときより、自分の気持ちを確かめながら話せているように聞こえる。
「今はたぶん違うんだと思いたいです」
「……違う?」
「外を見たいからって、岡山を嫌いになったわけじゃない。ここを大事に思うことと違う場所を見たいと思うことは……一緒にあっていいって分かったから」
灯りが少し明るく見えた。
「だから、この港も昔と今が一緒にあっていいんじゃないでしょうか」
神様はすぐには答えなかった。
港の先から古い船の汽笛のような音が届く。
振り向いても船は見えず、そこには灯りだけが残っている。
俺は港を見渡した。
古い石畳と新しい白い地面。その向こうに海がある。
昔だけを撮れば今の港が邪魔になり、今だけを撮れば昔の港は背景になる。
どちらかを消して撮る場所ではないように思えた。
「……俺なら、重なってるところを撮ると思います」
「重なってるところ?」
「昔の港と今の港が同じ画面に入るところ。古いものを懐かしいだけのものにしないで、今の港の中にちゃんと残ってるように撮りたいです」
俺は神様の方を見て続けた。
「昔だけでも今だけでもなくて、昔があるから今の港に見える場所を撮りたい」
口にすると、胸の奥で何かが通った気がした。
牛窓では写らなかったものを残そうとした。
播磨では知らないまま通り過ぎかけたものを撮った。
鳴門では迷っている流れを残した。
そしてここでは――違う時間が重なっている場所を撮ろうとしている。
写真は景色を切り取るだけではなく、どの時間を見て、何を消さずに残すかを選ぶものでもあるのかもしれない。
神様は手元の灯りを見つめた。
「昔の灯と……今の足元……」
やがて、顔を上げる。
「昔の灯は……今の足元も照らせるのでしょうか」
凪が一歩、灯りへ近づいた。
古いランプの光が白い地面と石畳の境目に立つ靴先へ落ちる。
俺は思わず息を止めた。
凪はまだ外へ行くのか残るのかを決めていない。それでも今、その足は港の灯りの中にある。
昔から残る光がこれから進む場所を探している凪の足元を照らしていた。
「……内海」
「え?」
「ごめん。その足元、撮っていいか」
一瞬きょとんとした凪が自分の靴へ目を落とす。
昔と今の境目に灯りが重なっていることに気づくと、少し緊張した声を出しながらもその場を離れなかった。
「……うん。いいよ」
ファインダーを覗く。
顔は入れず、凪の足元と灯り、港の石畳だけを収めた。
昔からある光が今からどこかへ歩き出そうとしている足元を照らしている。
その一瞬を残したかった。
シャッターの音が港へ落ちた。
画面には古い石畳と新しい白い地面、その境目に立つ凪の足元が写っている。神様の姿はないが、そこへ落ちる灯りははっきり残っていた。
「撮れた?」
「うん」
「変な写真?」
「……たぶん。でも、大事な写真になったと思う」
凪が画面をのぞき込み、そのまましばらく靴先を見ていた。
「私、立ってるんだね」
「立ってるだろ」
「そうじゃなくて」
画面を見つめたまま続ける。
「まだ何も決めてないけど、どこかへ行く前の場所には、自分の足はもう立ってるんだなって」
それを聞いて、胸の奥が静かに熱くなった。
進路希望調査票の空白も――行き先未定の切符も――。出ることや残ること、そして帰ってくることも、これまではどこかで遠い話のように感じている部分があった。
凪はまだ歩き出していない。
それでも、今立っている場所なら見える。
それは以前とは違っていた。
写真を見ていた神様がゆっくり息を吐いた。
「見えました」
「何がですか?」
「……昔の灯は……昔だけを照らすものではないのですね」
古いランプのような灯りを持ち上げる。
「今ここに立つ人の足元も照らしてよいのですね」
光が強まり、古い石畳から今の白い地面へ淡く伸びていった。
すると、港の景色がゆっくり重なり始める。
大きな荷物を抱えた人。
船を待つ学生。
地図を確かめながら立ち止まる人。
新しい行き先表示を見上げる人や、島へ渡る船を待つ人。
帰ってきて、ようやく安心したように港を見る人。
違う時代を歩く人たちが同じ灯りの下にいた。
「なんだか綺麗……」
凪の言葉はただ景色を褒めているのとは違った。
時間が重なって見えたことへの言葉なのだと思う。
そこで初めて、神様は自分の名を告げた。
「私は宇野みなと灯。この港に残った灯りの記憶から生まれたものです」
名前を聞いた瞬間、駅名標の文字まで明るくなったように見えた。
「港は戻る場所であると同時に……出ていく場所でもあります。どちらかだけではありません」
俺は鳴門の潮を思い出した。
出ていく流れと、戻ってくる流れ。
ここにも二つの流れがある。
鳴門のようにぶつかるのではなく、同じ灯りの下で重なっているだけだ。
凪がメモ帳を開いた。
「私、探究の文章に書きたいことが分かってきた気がします」
「どんなこと?」
「若者が出るとか残るとか。そういう言葉だけで分けるんじゃなくて、昔からあるものとこれから変わるものがどう重なっているかを書きたい」
ペン先が紙の上を走る。
「残るって昔のままでいることじゃない。出ていくこともここを捨てることではない。帰ってくることは元に戻ることだけでもない」
そこで一度息を整えた。
「たぶん、どれも重なっていくことなんだと思う」
宇野みなと灯は静かに聞いた後、穏やかに笑った。
「凪さんは灯りの下で言葉を拾うのが上手ですね」
「まだ上手かどうかは分かりません」
「分からないまま拾うから、届く言葉もあります」
灯りがこちらへ向けられ、優しい光が足元を照らした。
「瀬戸さん」
「はい」
「昔の自分を置き去りにしないでください。でも、昔の自分だけを守るために、今の道を暗くしないでください」
「……はい」
「あなたの写真は足元を照らし始めています」
思ってもみなかった言葉にすぐには返せなかった。
写真が足元を照らすなんて、考えたこともない。
神様は凪へ向き直った。
「内海さん。あなたが外を見たいと思ったことは、ここを大事にしてきた時間を裏切ることではありません」
凪の指がメモ帳を強く押さえる。
「昔から大事にしてきたものがあるからこそ、外で何を見るのかも変わります。ここで育った目をそのまま遠くへ持っていけばいいのです」
凪は唇を結び、少し間を置いてから答えた。
「……はい」
小さくてもまっすぐな声だった。
遠くから汽笛が聞こえた。
せとうち各駅停車が宇野みなと灯のホームへ戻ってきている。
銀色の車体の窓には港の灯りがいくつも映り、まるで小さな光を連れてきたように見えた。
扉の横では車掌が待っている。
「灯りは定まりましたか」
神様は手元の光を見た。
「はい。昔の港だけでなく、今ここに立つ人の足元も照らします」
「それは何よりでございます」
切符鋏が小さく鳴った。
俺たちは神様へ頭を下げ、列車に乗った。
扉の前でもう一度振り返る。
宇野みなと灯は港に立ち、手を振る代わりに灯りをこちらへ向けていた。
淡い光がホームを伸びていく。
古い石畳も新しい白い地面も、分け隔てなく照らされていた。
車掌が俺たちの切符を確認し、白い端へ新しい印を押す。
『宇野みなと灯――相談済』
古いランプにも新しい標識の光にも見える、不思議な形の印だった。
列車が動き出し、宇野の港が窓の外で遠ざかっていく。
灯りは次第に小さくなったが、消えてしまったようには感じなかった。
俺はカメラを開く。
古い石畳と新しい白い地面。
その境目に落ちる灯りとそこに立つ凪の足元。
神様は写っていなくても、あの場所にあった光は残っている。
写真を見ていると、昔のものが終わったものではなく、今を照らすものとしてそこにあるのだと思えた。
窓の外を見ていた凪が口を開いた。
「晴路くん。外を見たいって思うの……まだ怖いけど……見たいって思ったことは消さないでおこうと思う」
「うん」
「岡山を大事に思ってることも消さない。両方持ってたら荷物が増えるかな」
「そりゃ増えるかもな」
「……重い?」
「灯りがあれば、足元は見えるんじゃないか」
凪がこちらを向いた。
「今の、ちょっと良かった」
「だろ」
「自分で言うと半分くらいに良さが減るよ」
「……じゃあ今のなしで」
「もう聞いたから、なしにはできない」
凪が笑い、俺もつられて笑った。
鳴門へ向かう前より、その笑い声は軽く聞こえた。
外へ行きたいと言ったことも、岡山を大事に思っていることも、どちらもさっきまでと変わっていない。
それなのに、今の凪は鳴門を出た直後より少しだけ肩の力が抜けて見えた。
答えが出たわけではない。
ただ、自分が立っている場所を一度確かめられたのだと思う。
カメラの中の足元の写真を見る。
まだ歩き出していなくても、立っている場所なら残せる。
次へ進む前にはこれで十分なのかもしれなかった。
車内の古い表示板がぱたんと音を立てた。
『次は、小豆島醤油蔵』
海の向こうには新しい島影が見え始めていた。
そこからまだ知らない香りまで流れてくるような気がした。
せとうち各駅停車は港の灯りをあとにして、時間をかけて変わる島へ向かっていった。




