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第4章 迷いは消すものではなく、読むもの

  

 せとうち各駅停車は島影の間を抜けていった。


 窓の外に浮かんでいた小さな島々は、少しずつ遠ざかっていく。

 さっきまでただの「島影」に見えていたものが、今は一つ一つ違う輪郭を持っていた。


 俺はポケットの中の貝殻に指で触れた。


 播磨島影の神様にもらった、小さな貝殻。

 軽い。

 でも、ただの軽さではなかった。


 知らないまま通り過ぎかけたものを、もう一度思い出すための重さだ。


 向かいに座る凪も、自分の貝殻をそっと見ていた。

 手のひらに乗せると、白い内側だけが淡く光っている。


「ねえ、晴路くん」


「うん」


「大きなくくりの言葉って、便利だけど怖いね」


「瀬戸内、とか?」


「それもあるけど、例えば、若者とか。……しっかり者、とか」


 最後の言葉だけ、少しだけ声が小さくなった。


「間違ってるわけじゃないんだと思う。私も、そういう言葉に助けられることはあるし」


「うん」


「でも、それだけになると、苦しくなる」


 凪の言葉は静かだった。

 けれど、少しずつ自分の方を向いている気がした。


 牛窓では出ていく人と残る人の話を聞いた。

 播磨島影では名前を知らないまま通り過ぎてしまうものの話を聞いた。


 俺たちはそのたびに、自分を包んでいた言葉に気づいていく。


 しっかり者。

 地元を考えている子。

 残る人。

 すぐ茶化すやつ。


 言葉は便利だ。人を見やすくする。

 でも、見やすくした瞬間に、見えなくなるものもあるのかもしれない。


 俺はカメラを膝の上に置いた。

 播磨島影で撮った写真には、読めない木札とその向こうの島影が写っている。

 名前は写っていない。

 けれど、そこに名前があったことだけは写っていた。


 写真で残せるものが、少しずつ変わってきている気がした。


 車内の表示板には次の駅名が出ていた。


『鳴門うず潮』


 凪がそれを見上げた。


「うず潮……実際に見たことないかも」


「なんかテレビで見た映像だと、ぐるぐるしてるやつだよな」


「説明が雑すぎるよ……」


「じゃあ、海が本気で混乱してる場所」


「少しだけ合ってる気もするけど……」


 凪が困ったように笑った。

 俺もつられて笑った。


 そのとき、車掌が通路の奥に立っているのに気づいた。

 顔は相変わらず帽子の影で見えない。


「次の駅は、鳴門うず潮でございます」


 車掌は笑わず、切符鋏を小さく鳴らした。


「潮が変わります。足元にお気をつけください」


 その言葉のあと、列車が速度を落とした。


 窓の外の島影が途切れると、線路はいつの間にか海の上へ出ていた。


 空を飛んでいるわけではない。

 波のすぐ上に、細い銀色のレールと古い枕木が続いている。けれど、それは現実の線路みたいに固くそこにあるものではなく、列車が近づくたびに海面から浮かび上がり、通り過ぎると潮の光にほどけて消えていく。


 そのレールの下で、海の色が変わり始めていた。


 列車が大きく揺れた。


 ごとん、という音ではない。

 足元の海そのものが、別の向きへ動いたような揺れだった。


 さっきまで穏やかだった水面に、いくつもの筋が走っている。

 青い水と少し濃い水。

 光っているところと、影になっているところ。

 それぞれが別の向きへ動いているのに、同じ海の中でぶつかっている。


 凪が窓に近づいた。


「すごい……」


 その声には、ただ綺麗なものを見た時の明るさだけではない、少し怖いものを見たときのような緊張感も混じっていた。


 水面の一部がゆっくり丸く歪んでいく。

 渦というほど大きくはない。

 けれど、確かに海が回ろうとしていた。


 列車がさらに速度を落とす。


 海の上に、細いホームが見えてきた。

 桟橋のようでもあり、岩場の上に置かれた足場のようでもある。

 ホームの左右では潮の色が違っていた。


 片側は青く深い。

 もう片側は光を含んで少し白い。

 その二つがホームの先でぶつかり、泡の筋を作っている。


 駅名標には濃い藍色の文字でこう書かれていた。


『鳴門うず潮』


 列車が止まる。


 扉が開くと、潮の匂いが一気に入り込んできた。

 牛窓の穏やかな潮とも、播磨島影の乾いた潮とも違う。

 ここは潮そのものが動いている匂いがした。


 俺と凪はホームに降りた。


 足元の板がかすかに揺れている。

 いや、板が揺れているのではない。

 周りの海が動き続けているせいで、自分の体まで流されそうに感じるのだ。


「足元、変な感じがする」


 凪が小さく言った。


「分かる。止まってるのに、動いてる感じ」


 ホームの先には低い石段があった。

 その石段を降りると、岩場と砂浜のあいだのような場所に出る。

 そこに、一人の神様が立っていた。


 人の形はしている。

 けれど、輪郭は水面の反射みたいに少し揺れていた。


 髪のように見えるものは、右へ流れたかと思うと、次の瞬間には左へほどける。

 衣は青と白が混ざった色で、裾のあたりだけ泡のように消えたり戻ったりしていた。

 少女のようにも、青年のようにも見える。

 近くにいるのに、潮の向こう側に立っているようにも見えた。


 その神様は海を見ていた。


 俺たちを見ずに、静かに言う。


「名を持つ島から来たんだね」


 俺は思わず凪と顔を見合わせた。


「播磨島影のことですか」


「そう呼んでいたね。あちらの潮が少しだけ名を含んで流れてきた」


 神様はそこで、ゆっくりこちらを見た。


「その前には夕凪の匂いもあった。寂しいが、行けと送り出した風の名残」


 凪が静かにうなずく。


「はい。牛窓夕凪の神様にも、播磨島影の神様にも会いました」


「そう」


 神様は水面へ視線を戻した。


「なら、あなたたちは流れが一つでないことを少しは知っているのかもしれない」


「流れが一つではない……?」


 凪が聞き返す。


 神様は自分の前に広がる海を指した。


「見て」


 俺たちは岩場の端に立った。


 すぐ下で、潮がぶつかっている。

 海は一面につながっているはずなのに、そこには確かに境目があった。


 右から来る流れ。

 左から来る流れ。

 沖へ向かう流れ。

 岸へ戻る流れ。


 どれも水なのに、どれも同じではない。


「ここでは流れがよくぶつかる」


 神様が言った。


「人はそれを見て、怖いと言う。美しいと言う。珍しいと言う。力があると言う。でも、私にはずっと分からなかった」


「何がですか」


「ぶつかる流れは、ほどいた方がいいのか」


 潮の音が急に近くなった気がした。


「ほどく?」


「そう。二つの流れがぶつかれば、海は荒れる。渦ができる。舟は待たなければならない。人は不安になる」


 神様の声は静かなのに、どこか少し苦しそうだった。


「なら、ぶつからないようにしてあげればいいのか。どちらか一つの流れに揃えてあげれば、海は穏やかになるのか」


 凪の指がメモ帳の表紙を押さえた。


 でも、まだ開かない。


 神様は俺たちに向き直った。


「私の相談はそれ」


 今度の相談はもっと中の方に入ってくるものだった。


「二つの流れがぶつかっている時、それは悪いことなの?」


 俺は何も言えなかった。


 神様の声は海の話をしている。

 けれど、俺には進路希望調査票の話に聞こえていた。


 県外へ出たい気がする。

 でも、岡山を離れたいだけなのかは分からない。

 岡山に残りたい気もする。

 でも、それが安心なのか、ただ怖いだけなのかも分からない。


 どちらか一つに決めなければいけない。

 そう思っていた。


 でも本当は、俺の中には最初から二つ以上の流れがあったのかもしれない。


「晴路くん」


 凪が小さく俺の名前を呼んだ。


「顔に、何か書いてある?」


「うん」


「また大都会岡山?」


「今日は違う」


 凪は少しだけ海を見てから、俺を見た。


「迷ってるって書いてある」


「それはだいぶ正解だな」


 俺がそう言うと、神様が目を細めた。


「あなたは迷っているの?」


「はい」


 俺は正直に答えた。


 もう、茶化す前に言葉が出ていた。


「県外に出たい気もします。でも、岡山に残りたい気もあります。どっちかが本当で、どっちかが嘘なのかと思ってました」


「違うの?」


「まだ、分かりません」


 俺は海を見た。


「でも、どっちもあるのは本当なんだと思います」


 言葉にした瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。


 県外に出たい。

 岡山に残りたい。


 その二つを並べると、自分が中途半端な人間みたいで嫌だった。

 でも、どちらかを消したら、それはたぶん嘘になる。


 神様は海を見ていた。


「二つあることは嘘ではない」


「たぶん」


「でも、人はよく聞く。結局どちらなのか、と」


「聞かれます」


 俺は少し笑った。


「先生にも、親にも、たぶんこれから何回も聞かれると思います。県外か県内か。進学か就職か。何をしたいのか。どっちなのか」


「それで、あなたは答えられない」


「はい」


「答えられないから、ふざける」


 神様が淡々と言った。


 凪が少しだけこっちを見る。


「……そこまで分かります?」


「潮を見ていれば分かるよ」


「潮、すごいな」


 神様はほんの少し笑った。


「潮ではなくて、あなたが分かりやすい」


「神様にも言われた」


 凪が小さく笑った。

 少しだけ空気がゆるんだ。けれど、潮の音は止まらない。


 凪はしばらく海を見ていた。

 それから、ゆっくり口を開いた。


「私は残る側だと思っていました」


 牛窓でも聞いた言葉だった。

 でも、今の凪の声は少し違っていた。


「でも、今は……それだけじゃない気がしています」


 神様が凪を見る。


「どう違うの?」


「残りたい気持ちはあります。祖母もいるし、家もあるし、地域のことも好きです。岡山も、瀬戸内も、知りたいと思っています」


 凪はそこで一度言葉を切った。


「でも、外を見てみたい気持ちも、たぶんあります」


 その言葉は、波の音に紛れそうなくらい小さかった。

 でも、俺にははっきり聞こえた。


 凪が外を見てみたい。


 俺は少し驚いた。

 勝手に、凪は岡山に残るのだと思っていたからだ。


 そして、その勝手さに気づいて、少しだけ恥ずかしくなった。

 俺も、凪をひとまとめにしていたのかもしれない。


 しっかり者。

 地元のことを考える子。

 残る側。


 そういう言葉で、凪を分かったことにしていた。


「でも、そう思うと」


 凪は続けた。


「今まで大事にしてきたものを、裏切るみたいで怖いんです」


「裏切る?」


 神様が聞く。


「はい。家のことも、地域のことも、祖母のことも、岡山に残るって思ってきた自分のことも。外を見たいって思った瞬間に、それを置いていく準備をしているみたいで」


 凪はメモ帳を胸に抱えた。


「だから、残りたいって言えば安心するんです。外へ行きたいって言えば、少し怖くなる。でも、どっちかだけが本当なのかはまだ分かりません」


 神様は長く黙っていた。

 潮の音だけがある。


 右から左へ。

 左から右へ。

 海はいくつもの向きで動いている。


「人の中にも、潮境はあるんだね」


 神様がぽつりと言った。

 その言葉が、胸の中で静かに沈んでいく。


 人の中にも、潮境はある。

 俺の中にも。

 凪の中にも。


 進みたい流れと、戻りたい流れ。

 外へ向かう流れと、ここに残る流れ。

 言いたい言葉と、飲み込んだ言葉。


 それらがぶつかるから、苦しい。

 でも、ぶつかるということは、どちらもそこにあるということでもある。


 神様は岩場の奥へ歩き出した。


「こっちへ来て」


 俺たちはその後を追った。


 岩場の先には小さな入り江があった。

 水面はさっきよりも近い。

 足元の岩に波が当たり、白い泡を作っては消えていく。


 入り江の真ん中で、潮がゆっくり回っていた。


 大きな渦ではない。

 小さな、迷いの形のような渦だった。

 神様はその渦の前で足を止めた。


「昔、私はこれをほどこうとした」


「渦をですか」


「そう。二つの流れがぶつかるから、人は怖がる。なら、一つにしてあげればいいと思った」


 神様の声が低くなる。


「片方の流れを弱め、片方の流れを強めた。そうすれば、渦は消える。水面は穏やかになる」


「それで、どうなったんですか」


 凪が聞く。

 神様は水面を見た。


「確かに、静かになった」


 その言葉はよかったと言う声ではなかった。


「でも、静かになりすぎた。海の下で、もう片方の流れが行き場を失った。見えないところで強く戻り、あとから大きく荒れた」


 凪の表情が少し硬くなる。


「消したように見えただけだったんですね」


「そう。流れは消えない。見えなくしただけだった」


 神様は俺たちを見た。


「人の迷いも、そうなのではない?」


 俺は息をのんだ。


 迷いを消す。

 決めたことにする。

 平気なことにする。

 笑ってごまかす。

 しっかりしているふりをする。


 それは流れを一つにしたように見せること、なのかもしれない。

 でも、消したはずのもう片方は胸の下の方でずっと動いている。


「俺、たぶん」


 声が出ていた。


「迷うのが嫌だったんだと思います」


 凪がこちらを見る。


「進路決まってないのが嫌で、でも真面目に未定って書くのも嫌で、大都会岡山って書いたんです。冗談にしたら、自分でもそこまで向き合わなくて済むから」


 言いながら、情けなかった。

 でも、不思議と逃げたい気持ちはなかった。


「笑ってれば、まだ大丈夫そうに見える。何も決められないんじゃなくて、ふざけてるだけに見える。そうしてた方が楽だったんだと思います」


 凪は静かに聞いていた。

 神様は水面を見たまま言う。


「ふざけることが、すべて悪いわけではないよ」


「はい」


「でも、もう片方の流れを隠すためだけに笑うと、あとで荒れる」


「……はい」


 胸の奥に、言葉が落ちた。

 凪が少しだけ息を吐いた。


「私も、同じかもしれません」


 声は小さかった。

 でも、逃げる声ではなかった。


「しっかりしてるって言われると、そのままでいればいい気がしていました。迷ってない顔をしていれば、周りも安心するし、私も安心できるから」


 凪の指がメモ帳の角を押さえる。


「でも、本当は迷ってる。残りたいのも本当で、外を見たいのも本当で、どちらかを消したらたぶん苦しくなる」


 神様は頷いた。


「なら、どうすればいい?」


 その問いに、俺と凪はすぐには答えられなかった。


 潮は回り続けている。


 二つの流れがぶつかる。

 泡が生まれる。

 丸くなり、ほどけ、また形を作る。


 渦は進んでいないように見えた。

 同じところをぐるぐる回っているだけにも見えた。


 でも、よく見ると違う。


 水は止まっていない。

 回りながら、少しずつ形を変え、流れている。


「迷ってることを、消さなくていいんじゃないですか」


 俺は言った。


 凪と神様がこちらを見る。


「どっちかだけが本当って決めなくてもいいというか。県外に出たい気持ちも、岡山に残りたい気持ちも、どっちもあるなら、どっちも見ておいた方がいいんだと思います」


「どちらも、見る」


「はい。片方を消して決めたふりをしても、たぶんあとで戻ってくるから」


 自分で言いながら、自分に言っているようだった。


 凪が続ける。


「でも、ずっと渦の中にいるだけでは、苦しいと思います」


 その言葉に、神様が少し目を細めた。


「では、迷いはどうすればいい?」


「消すんじゃなくて、読むんだと思います」


 凪は水面を見つめた。


「潮を読むみたいに。今、自分の中にどんな流れがあるのか。どちらが強いのか。どこでぶつかっているのか。それを見ないまま決めると、あとで苦しくなる」


 神様は黙っていた。


 凪の言葉はゆっくり続く。


「だから、迷っていることを責めるんじゃなくて、何がぶつかっているのかを見ればいいんじゃないでしょうか」


 俺は凪を見た。


 凪はもうメモを取っていなかった。

 今は誰かの言葉を記録しているのではなく、自分の言葉を探している。


 その横顔が、少しだけまぶしく見えた。


 神様は小さな渦の前にしゃがんだ。


 衣の裾が泡のように揺れる。


「迷いは消すものではなく、読むもの」


 神様が繰り返した。


 その瞬間、水面の渦が少しだけ大きくなった。

 けれど、怖くはなかった。


 渦は荒れているのではなく、形を見せているように見えた。

 二つの流れがここで出会っている。

 どちらも消えていない。

 どちらも、海の一部だった。


 神様は立ち上がった。


「私は⋯⋯間違えていたのかもしれない」


 声は静かだった。


「流れがぶつかることを、悪いものだと思いすぎていた。ほどけば穏やかになると思っていた。でも、ほどいたのではなく、隠していただけだった」


 潮の音が少しずつ変わっていく。


 さっきまで重なり合っていた音が、今は複数の音として聞こえた。

 低い流れ。

 高い泡の音。

 岩に当たる波の音。

 沖へ引く水の音。


 全部が違う。

 でも、全てが集まって海に、渦になっている。


「迷いは止まっていることではないのね」


 神様が言った。


「違う流れが出会っている証でもある」


 その言葉に、胸の奥が熱くなった。


 迷っている。

 それは何もしていないことだと思っていた。

 進んでいないことだと思っていた。

 情けないことだと思っていた。


 でも、違う流れが出会っている証だと言われると、少しだけ見え方が変わる。


  迷っている自分の中にも、動いているものがある。


 俺はカメラを構えた。


 凪が何も言わずに少しだけ身を引いた。

 俺が何を撮ろうとしているのか、たぶん分かったのだと思う。


 ファインダーの中で、海の色が二つに分かれていた。


 水面の真ん中には小さな渦がある。

 でも、そこだけを切り取れば、ただの珍しい模様になってしまう気がした。


 俺が残したいのは渦そのものではなかった。


 そこへ流れ込む水。

 そこからほどけていく水。

 ぶつかって、回って、それでも消えずに次の方へ向かっていく境目。


 少し引いて、二つの潮の色が違うところを入れる。

 泡の筋。

 岩の影。

 小さな渦。


 全部を一枚に入れる。


 シャッターを押した。


 画面には海の境目が写っていた。

 渦は小さい。

 でも、そこに二つの流れがぶつかっていることは分かる。


「……今度の写真、綺麗っていうより変だな」


 俺が言うと、凪がのぞき込んだ。


「でも、見てると気になる」


「うん」


「晴路くんが迷って撮った感じがする」


「それは褒めてるのか」


「……褒めてる」


 凪は小さく笑った。


「迷ったことが写ってる写真って、たぶんそれ含めて大事だと思うよ」


 その言葉に、俺は少し黙った。

 迷ったことが写っている写真。


 牛窓夕凪では、写らなかったものを残した。

 播磨島影では、知らないまま通り過ぎかけたものを残した。

 ここ鳴門うず潮では、迷っていることそのものを撮った。


 写真によって少しずつ変わっている。

 

 凪がメモ帳を開いた。

 今度は神様に許可を取らなかった。

 たぶん、今書かなければすぐに流れてしまうと思ったのだろう。


 ペン先が紙の上を走る。


「何を書いてるんだ?」


 俺が聞くと、凪は少しだけ考えた。


「迷いを、消さないこと」


「それ、タイトルっぽいな」


「晴路くんがつけると、大都会岡山の渦になるでしょ」


「それ、採用してもいいかも。ちょっと強そう」


「だから私が書くね」


「はい」


 神様が俺たちのやり取りを聞いて笑った。


 潮の音の中で、その笑い声は泡みたいに軽かった。


「あなたたちは迷いながらもよく喋る」


「迷ってるから、喋るんだと思う」


 俺が言うと、凪がうなずいた。


「黙っていると、決まっているふりをしてしまうから」


 その言葉に、俺は凪を見た。

 決まっているふりをしない。

 迷っていることを、ちゃんと迷っていると言う。


 それは簡単そうで、たぶん難しい。


 神様は海へ向き直った。

 潮の境目に立ち、両手をゆっくり広げる。


「なら、私もほどくのをやめる」


 その声が水面に落ちる。


「ぶつかる流れを、すぐに悪いものと決めない。怖いものとだけ呼ばない。渦になりかける場所には流れがあるのだと見ることにする」


 海が少しだけ明るくなった気がした。


 渦が消えるのではない。

 むしろ、はっきり見える。


 けれど、それは荒れではなく、形だった。


 右から来る潮。

 左から来る潮。

 沖へ出る潮。

 岸へ戻る潮。


 違う流れが、同じ海の中でぶつかり、回り、ほどけ、また流れていく。

 凪がそっと息を吐いた。


「……綺麗」


 今度は素直にそう言った。


 神様が振り向く。


「怖くはない?」


「少し怖いです」


 凪は正直に答えた。


「でも、怖いだけじゃありません」


「そう」


 神様はうなずいた。


「それでいい」


 遠くから汽笛が聞こえた。


 せとうち各駅停車が、鳴門うず潮の細いホームに戻ってきていた。

 銀色の車体の窓に、潮の筋が映っている。

 列車そのものも、二つの流れのあいだに立っているように見えた。


 車掌が扉の横に立っている。


「相談は済みましたか」


 神様は少し考えた。


「済んではいない。流れは明日もぶつかるから」


「ええ」


 車掌は静かにうなずいた。


「けれど、ほどくばかりが役目ではないと、お分かりになったようでございます」


「うん」


 神様は俺たちを見た。


「ほどかず、読む。消さず、見る。あなたたちの言葉は、しばらくここに残ると思う」


 凪が頭を下げた。


「ありがとうございました」


「礼を言うのはこちらかもしれない」


 神様は潮の色を映したような目で凪を見た。


「凪。人の言葉を、一つにまとめすぎないで。迷いが混じっているなら、その混じり方ごと聞いて」


 凪はメモ帳を胸に抱いた。


「はい」


 神様は今度は俺を見る。


「晴路。迷いを、ぶれた写真として捨てないで。揺れたものにしか残らない形もある」


「……わかった」


 俺はカメラを持つ手に力を入れた。


 迷った写真。

 揺れた写真。

 これまでなら失敗だと思っていたものの中に、残るものがあるのかもしれない。


 神様は少しだけ笑った。


「そして、行き先未定の二人へ」


 俺と凪は同時に顔を上げた。


「二つの流れがあることを恥じないで。片方を消してしまえば、決めたように見える。でも、消した流れはいつか戻る」


 潮の音が深く響いた。


「よく迷って。でも、迷いを放っておかないで。先を読んで。どこから来て、どこへ行きたがっているのかを」


 その言葉は今までのどの言葉よりも、進路希望調査票に近かった。


 でも、学校の先生の言葉とは違う。

 神様は早く決めろとは言わなかった。

 決めなくていいとも言わなかった。


 ただ、迷いを読めと言った。

 俺は小さくうなずいた。


「はい」


 凪も隣でうなずく。


「はい」


 俺たちは神様に頭を下げ、列車へ戻った。


 扉の前で、俺はもう一度振り返る。

 鳴門うず潮の神様は潮の境目に立っていた。

 衣の裾が泡みたいに揺れている。

 その周りで、二つの流れがぶつかり、小さな渦を作っていた。


 神様は手を振らなかった。


 けれど、渦の一つがこちらへ小さく回って、すぐにほどけた。

 それが見送りの代わりみたいだった。


 列車に乗ると、車掌が俺たちの切符を確認した。

 白い切符の端に、新しい印が押されている。


『鳴門うず潮――相談済』


 印は丸い渦の形をしていた。

 でも、完全な丸ではない。

 途中で少しほどけて、次の流れへつながっている。


「相談済、三つ目」


 俺が言うと、凪が自分の切符を見た。


「この印、止まってないね」


「渦なのに?」


「うん。回ってる途中みたい」


「それ、今日の答えっぽいな」


「答えっていうより、まだ途中だけどね」


 凪はそう言って、少し笑った。

 つられて俺も笑った。


 道の途中。


 それは今までなら少し嫌な言葉だった。

 まだ決まっていない。

 まだ完成していない。

 まだ答えではない。


 でも、今日の潮を見たあとだと、少しだけ違って聞こえる。


 途中だから、流れている。

 途中だから、変わっている。

 途中だから、まだ読める。


 列車が動き出す。


 窓の外で、鳴門うず潮の海が少しずつ遠ざかっていく。

 潮の境目は遠くから見ると、一つの海に戻っていった。


 けれど、俺はもう知っている。

 一つに見える海の中にも、いくつもの流れがある。

 凪が窓の外を見ながら言った。


「晴路くん」


「うん」


「私、外を見てみたいって、思ってるみたい」


 その声はとても静かだった。

 でも、俺は聞き逃さなかった。


「でも、岡山を嫌いになったわけじゃない」


「うん」


「家のことも、祖母のことも、地域のことも、大事だと思ってる」


「うん」


「それなのに外を見たいって思うのは、悪いことじゃないのかな」


 俺は少し考えた。


 神様みたいな答えは出せない。

 きれいな言葉も、すぐには出ない。

 でも、今日なら、少しだけ言える気がした。


「悪くないと思う」


 凪がこちらを見る。


「俺も、岡山に残りたい気持ちがあるのに、県外を見たいって思ってる。たぶん、どっちかが嘘ってことじゃない」


「うん」


「どっちもあるから、今こんなに面倒なんだと思う」


 凪が小さく笑った。


「面倒なんだ」


「神様たちもだいたい面倒だし、人間も面倒でいいんじゃないか」


「それ、まとめとして大丈夫?」


「大都会岡山よりはましだろ」


「それは、まあ」


 凪が笑った。

 その笑い声はさっきより少し軽かった。

 俺は凪が「外を見てみたい」と言ったことを、心の中でもう一度繰り返した。

 今まで、凪は残る側だと思っていた。

 でも、その言葉だけで凪を見ていたら、きっと今の声を聞き逃していた。


 外を見たい。

 でも、地元も大切。


 凪の中には潮境がある。

 俺はそれを、ちゃんと覚えておきたいと思った。


 車内の古い表示板が、ぱたんと音を立てる。


『次は、宇野みなと灯』


 凪が表示を見上げた。


「宇野……岡山に戻るんだ」


「この列車の戻るは信用できないけどな」


「でも、岡山の海だね」


「うん」


 鳴門の潮が遠ざかり、海の色が少しずつやわらかくなっていく。

 せとうち各駅停車は潮の境目をあとにして、岡山の海へ戻るように走っていった。


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