第4章 迷いは消すものではなく、読むもの
せとうち各駅停車は島影の間を抜けていった。
窓の外に浮かんでいた島々が遠ざかるにつれ、さっきまでただの「島影」に見えていたものが、一つ一つ違う輪郭を持っていたことに気づく。
俺はポケットの中の貝殻に指で触れた。
播磨島影の神様にもらった小さな貝殻は驚くほど軽い。それでも、知らないまま通り過ぎかけたものをもう一度思い出すための重さがそこにはある気がした。
向かいに座る凪も、自分の貝殻を手のひらに乗せて眺めている。内側だけが淡く光っていた。
「ねえ、晴路くん」
「うん」
「大きなくくりの言葉って便利だけど怖いね」
「瀬戸内とか?」
「それもあるけど、例えば……若者とか。……しっかり者、とか」
最後の言葉だけ声が落ちた。
「間違ってるわけじゃないんだと思う。私もそういう言葉に助けられることはあるし」
「うん」
「……それだけになると……苦しくなるんだね」
凪は静かに話していたが、その言葉は少しずつ自分自身へ向かっているように聞こえた。
牛窓では出ていく人と残る人の話を聞いた。
播磨名残島では名前を知らないまま通り過ぎてしまうものの話を聞いた。
旅を続けるたび、俺たちは自分を包んでいた言葉にも気づかされている。
しっかり者や地元を考えている子、そしてそこに残る人。
言葉は人を分かりやすくしてくれる一方で、その人の中にある別のものを見えなくしてしまうこともあるのかもしれない。
俺はカメラを膝の上に置いた。
播磨名残島で撮った写真には読めない木札とその向こうの島影が写っている。
名前そのものは残っていないのに、そこにかつて名前があったことだけは伝わってくる気がした。
旅に出る前とは自分の写真で残したいものが変わり始めていた。
車内の表示板には次の駅名が出ている。
『鳴門うず潮』
それを見上げた凪が言った。
「うず潮……実際に見たことないかも」
「なんかテレビで見た映像だと……ぐるぐるしてるやつだよな」
「説明が雑すぎるよ……」
「じゃあ、海が本気で混乱してる場所」
「それなら、ちょっとだけ合ってる気もするけど……」
困ったように笑う凪につられて、俺も笑った。
ふと見ると、車掌が立っている。
顔は相変わらず帽子の影に隠れていた。
「次の駅は鳴門うず潮でございます。潮が変わりますので、足元にお気をつけください」
切符鋏が小さく鳴った直後、列車が速度を落とし始めた。
窓の外から島影が途切れ、線路はいつの間にか海の上へ出ている。
波のすぐ上には細い銀色のレールと古い枕木が続いていたが、現実の線路のように固くそこにあるわけではない。
列車が近づくたびに海面から浮かび上がり、通り過ぎたところから潮の光へほどけて消えていく。
その下では海の色まで変わり始めていた。
列車が大きく揺れた。
いつものごとん、という車輪の揺れではなく、足元の海そのものが別の方向へ動いたような感覚だった。
穏やかだった水面にはいくつもの流れが筋になって現れていた。青く光る水と濃い色の水がそれぞれ違う方向から流れ込み、海の中でぶつかっている。
凪が窓へ身を寄せた見ている。
「すごい……」
まるで綺麗なものでと見つけたときのような明るさだった。
ただ、少し怖いものを前にしたような緊張も声に混じっている。
水面の一部がゆっくりと丸く歪み、まだ大きな渦にはなっていないものの、確かに海が回ろうとしている。
さらに速度が落ちると、桟橋とも岩場の足場ともつかない細いホームが見えてきた。
左右を流れる潮は色まで違う。
片側には深い青が流れ、もう片側には光を含んだ白っぽい水がぶつかって泡の筋を作っていた。
駅名標には濃い藍色で『鳴門うず潮』と書かれている。
列車が止まり、扉が開いた途端、潮の匂いが一気に流れ込んできた。
牛窓の穏やかな潮とも、播磨名残島の乾いた潮とも違う。ここでは潮そのものが動いているような匂いがした。
俺と凪はホームへ降りた。
足元の板が揺れているように感じたが、実際に動いているのは周囲の海だ。絶えず流れ続ける渦を見ているうちに、自分の体までどこかへ持っていかれそうになる。
「足元、変な感じがする」
「分かる。止まってるのに動いてる感じ」
ホームの先にある低い石段を降りると、岩場と砂浜の間のような場所へ出た。
そこに一人の神様が立っていた。
人の形はしているのに、輪郭が水面の反射のように揺れている。
髪に見えるものは右へ流れた次の瞬間には左へほどけ、青と白が混じった衣も、裾だけが泡のように消えては戻る。
少女にも青年にも見えた。
すぐ近くにいるはずなのに、潮を一枚隔てた向こう側に立っているようでもある。
神様は海を見たまま言った。
「名を持つ島々から来たんだね」
俺と凪は思わず顔を見合わせた。
「播磨島影のことですか?」
「そう呼んでいたかもしれないね。あちらの潮が名を含んで流れてきた」
そこで初めてこちらへ顔を向ける。
「その前には夕凪の匂いもあった。寂しいが、行けと送り出した風の名残」
「はい。牛窓夕凪の神様にも、播磨島影の神様にも会いました」
凪の返事を聞くと、神様は再び水面へ目を向けた。
「なら、あなたたちは流れが一つではないことを知り始めているのかもしれない」
「流れが一つではない……?」
「……見て」
示された海へ近づく。
岩場のすぐ下では確かに潮同士がぶつかっていた。
一面に繋がった同じ海のはずなのに、右から来る流れ、左から来る流れ、沖へ向かうものや岸へ戻ってくるものがある。
その境目がはっきりと見えた。
「ここでは流れがよくぶつかる」
潮を見ながら神様は続けた。
「人はそれを怖いと言う。美しい、珍しい、力があるとも言う。でも、私にはずっと分からなかった。ぶつかる流れは、ほどいた方がいいのか」
「ほどく?」
「二つの流れがぶつかれば海は荒れ、渦ができる。舟は待たなければならないし、人も不安になる。なら、ぶつからないようにしてあげればいいのか。どちらか一つに揃えてしまえば、海は穏やかになるのか」
凪の指がメモ帳の表紙を押さえたものの、まだ開こうとはしない。
神様は俺たちに向き直った。
「私の相談はそれ。二つの流れがぶつかっていることは、悪いことなの?」
すぐには答えられなかった。
神様は海について聞いているはずなのに、俺には進路希望調査票の話をされているように聞こえる。
県外へ出てみたい気持ちはある。
でも、岡山を離れたいだけなのかと言われれば分からないし、ここに残りたい気持ちもある。
それが安心を求めているだけなのか、怖くて動けないだけなのかも自分ではまだ区別できていない。
どちらか一つを選ばなければならないと思っていた。
でも、本当は最初から俺の中には二つ以上の流れがあったのかもしれない。
「晴路くん」
凪が俺の名前を呼んだ。
「顔に何か書いてある?」
「うん」
「また大都会岡山?」
「さすがに今日は違う」
一度海へ目をやってから、凪はこちらを見た。
「迷ってるって書いてあるね」
「……それはだいぶ正解だな」
そのやり取りを聞いていた神様が尋ねる。
「あなたは迷っているの?」
「……はい」
今度は茶化すより先に口から答えが出ていた。
「俺、県外に出たい気がします。でも、岡山に残りたい気も確かにあるんです。前はどっちかが本当で、どっちかが嘘なのかと何となく思ってました」
「違うの?」
「まだ分かりません。ただ、どっちの気持ちもあることだけは……本当だと思います」
渦巻く海を見ながら口にすると、胸の奥が痛んだ。
県外へ出たい。
岡山に残りたい。
二つを並べただけで、自分が中途半端な人間になったような気がしてしまう。それでも片方を消してしまえば、たぶんそちらの方が嘘になる。
「気持ちが二つあることは嘘ではない」
「はい、たぶん……」
「人はよく聞く。結局どちらなのか、と」
「ですね。先生にも親にもこの先何度も聞かれるのだと思います。県外か県内か、進学か就職か、何をしたいのか、したくないのか……」
「それで答えられない」
「はい」
「答えられないからふざける?」
淡々と言われ、横から凪の視線まで飛んできた。
「そうなんですが……そこまでばれてましたか?」
「あなたは分かりやすい」
「ふふ、神様にも言われた」
凪が笑い、張っていた空気も少し緩んだ。
潮の音は変わらず続いている。
しばらく海を見ていた凪が口を開いた。
「私は……自分は残る側だと思っていました」
牛窓でも聞いた言葉だったが、今はその響きが違っていた。
「今も残りたい気持ちはあります。親も祖母もいるし家もあるし、地域のことも好きです。岡山も瀬戸内のことも、もっと知りたいと思っています」
一度そこで言葉を止める。
「その一方で……外を見てみたい気持ちも……たぶんあります」
波の音に紛れそうな声だったが、俺にははっきり届いた。
――凪が外を見てみたいと思っている。
勝手に岡山へ残るものだと思い込んでいた俺は、そのことより先に自分が凪を決めつけていたことへ気づいていた。
しっかり者で……地元のことを考えていて……岡山に残る側。
そんな言葉だけで凪を分かったつもりになっていたのかもしれない。
「外を見たいって思うと……今まで大事にしてきたものを裏切るみたいで怖いんです」
「裏切る?」
「家のことも祖母のことも、岡山に残るって思ってきた自分のこともです。外を見たいと思った瞬間、それを置いていく準備を始めているみたいで」
凪はメモ帳を胸に抱えた。
「だから、残りたいって言えば安心するんです。外へ行きたいって言うと怖くなる。でも、どちらかだけが本当なのかは、私にもまだ分かりません」
潮の音だけがしばらく続いた。
右から来る流れと左から来る流れが同じ場所でぶつかりながら、海は止まることなく動いている。
「人の中にも潮境はあるんだね」
ぽつりと落ちた神様の言葉が、胸の中へ深く沈んだ気がした。
――人の中にも潮境がある。
俺にも凪にも……進みたい気持ちと戻りたい気持ち、外へ向かうものとここに残ろうとするもの、言いたいことや飲み込んだことが――心にはしっかりある。
ぶつかるから苦しい。
けれど、ぶつかっているということはどちらの流れも――気持ちもそこにあるということでもあった。
「……こっちへ来て」
神様が岩場の奥へ歩き出し、俺たちもその後を追った。
先には小さな入り江があり、水面がさっきより近い。足元の岩へ波が当たり、白い泡を作っては消えている。
入り江の真ん中では潮がゆっくり回っていた。
大きな渦ではなく、小さな迷いがそのまま形になったような渦だ。
「昔、私はこれをほどこうとした」
「渦をですか」
「そう。二つの流れがぶつかるから人は怖がる。なら、一つにしてあげればいいと思った」
神様の声が低くなった。
「片方を弱め、もう片方を強くすれば渦は消え、水面は穏やかになる。実際、海は静かになった」
そこで言葉が止まった。
「……たぶん、うまくいかなかったんですね?」
凪が先を読むように尋ねる。
「うん、静かになりすぎた。海の下でもう片方の流れが行き場を失い、見えないところで強く戻ってきた。あとになって、前より大きく荒れたんだ」
「消えたように見えただけだったんですか……」
「そう。流れを消したのではなく、ただ隠して見えなくしただけだった」
神様はこちらへ振り向いた。
「人の迷いも…私と同じなのかな?」
迷いを消して、決めたことにする。
平気な顔をして笑い、しっかりしているふりをする。
そうやって一つの流れしかないように見せても、消したつもりのもう片方は胸の底で動き続ける。
「俺、たぶん迷うのが嫌だったんだと思います」
気づけば声が出ていた。
「進路が決まってないのが嫌で、かといって真面目に未定って書くのも嫌だった。それで大都会岡山って書いたんです。冗談にしておけば、自分でもそこまで向き合わなくて済むから……」
言葉にすると情けなかったが、逃げたい気持ちは不思議となかった。
「笑ってれば、何も決められないんじゃなくて、ふざけてるだけに見える。そっちの方が楽だったんだと思います」
「ふざけることが悪いわけではないよ」
神様は海から目を離さずに続けた。
「もう片方の流れを隠すためだけに笑えば、いつか見えないところで荒れる」
「……はい」
胸の奥にその言葉が落ちた。
「……私も同じかもしれません」
凪の声は小さいながらも、逃げるような響きではなかった。
「しっかりしてるって言われると、そのままでいればいい気がしていました。迷ってない顔をしていれば周りも安心するし、私自身も安心できるから。でも、本当は迷ってる。残りたいのも外を見たいのも本当で……どちらかを消したらたぶん苦しくなるんだろうなって」
「なら、どうすればいい?」
神様の問いに、俺も凪もすぐには答えられなかった。
入り江では二つの流れがぶつかり、泡を生みながら丸く回っている。
一見すると同じところをぐるぐるしているだけなのに、よく見れば水は止まっていない。
回りながら形を変え、その先へ流れ続けていた。
「迷ってることを消さなくていいんじゃないですか?」
俺はその流れを見ながら言った。
「どっちかだけが本当だって決めなくてもいいというか。県外に出たい気持ちも、岡山に残りたい気持ちも、両方あるなら両方見ておいた方がいいんだと思います。片方を消して決めたふりをしても、たぶんあとで戻ってくるから」
自分へ言い聞かせているようでもあった。
「ずっと渦の中にいるだけでは苦しいと思います」
「では、ぶつかり合った迷いはどうすればいい?」
「消すんじゃなくて、読むんだと思います」
水面を見つめたまま、凪はゆっくりと言葉を選んだ。
「潮を読むみたいに、今、自分の中にどんな流れがあって、どちらが強くて、どこでぶつかっているのかをちゃんと見る。迷っていることを責めるんじゃなくて、何がぶつかっているのか分からないまま決めないことが……大事なんじゃないでしょうか」
もうメモは取っていなかった。
誰かの言葉を記録するのではなく、今は自分自身の言葉を探している。
そんな凪の横顔がいつもより眩しく見えた。
神様は小さな渦の前にしゃがみ込み、泡のように揺れる衣の裾へ目を落とした。
「迷いは消すものではなく……読むもの……か」
その言葉に応えるように渦が大きくなった。
不思議と怖くはない。
二つの流れがここで出会っている。
どちらも消えず、どちらも海の一部として形を見せていた。
「私は……間違えていたのかもしれない」
立ち上がった神様の声は静かだった。
「流れがぶつかることを悪いものだと思いすぎていた。ほどけば穏やかになると思っていたけれど、実際にはほどいたのではなく、隠していただけだった」
潮の音が変わっていく。
重なって一つに聞こえていた音の中から、低い流れや高い泡、岩へ当たる波、沖へ引いていく水がそれぞれ聞こえるようになった。
違う音が集まって、今の海を作っている。
「迷いは止まっていることではないね。違う流れが出会っている証でもある」
その言葉で、迷うことへの見え方が変わった。
俺はこれまで、迷っているのは何も決められず、前へ進んでいない状態だと思っていた。
でも、自分の中で違う流れが動き、出会っているのだとすれば――そこにもちゃんと動きはある。
俺はカメラを構えた。
ファインダーの中では二つの潮の色が分かれ、その境目に小さな渦ができていた。
渦だけを切り取れば、ただの珍しい模様に見えてしまう。
残したいのはそこへ流れ込む水とぶつかって回ったあとに再びほどけ、次へ向かっていく流れだった。
俺は少し引き、色の異なる潮と泡の筋、岩の影まで入れてシャッターを押した。
画面の中で渦そのものは小さい。
それでも、二つの流れがここでぶつかっていることは分かった。
「……今度の写真、綺麗っていうより変だな」
凪が隣から画面をのぞき込む。
「でも、見てると気になる」
「うん」
「晴路くんが迷って撮った感じがする」
「それは褒めてるのか」
「……褒めてるよ。迷ったことが写ってる写真って、それも含めて大事だと思う」
迷ったことが写っている写真。
牛窓夕凪では写らなかったものを残した。
播磨名残島では知らないまま通り過ぎかけたものを撮った。
ここでは迷っていることそのものを残そうとしている。
撮るものだけでなく、撮り方まで少しずつ変わってきていた。
凪がメモ帳を開く。
書き留めているのはたぶん自分の中に生まれた言葉だからだ。
「何を書いてるんだ?」
「……迷いを消さないこと、かな」
「それ、なんかタイトルっぽいな」
「晴路くんがつけると、大都会岡山の渦になるでしょ」
「それ、採用してもいいかも。ちょっと強そうだし」
「……だから私が書くね」
「はい」
俺たちのやり取りを聞いていた神様が笑った。
潮の音の中でその声は泡みたいに軽いものに聞こえた。
「あなたたちは迷いながらもよく喋る」
「迷ってるから……喋るんだと思う」
そう答えると、凪も同意した。
「黙っていると、決まっているふりをしてしまうから」
決まっているふりをしない。
迷っているなら、迷っていると言葉にする。
――簡単そうでいて、たぶんそれが一番難しい。
神様は潮の境目へ向き直り、両手をゆっくり広げた。
「なら、私もほどくのをやめる」
その声が水面へ落ちる。
海が明るくなったように見えた。
渦は消えていない。
むしろ前よりはっきり見えるのに、それは荒れというより一つの形だった。
右から来る潮も左から来る潮も、沖へ出るものも岸へ戻るものも。同じ海の中でぶつかり、回り、ほどけながら次へ流れていく。
「……綺麗」
凪が素直に呟いた。
「怖くはない?」
「怖さはあります。でも、それだけじゃありません」
「そう。それでいい」
そのとき、遠くから汽笛が届いた。
せとうち各駅停車が細いホームへ戻ってきている。銀色の車体の窓には潮の筋が映り、列車そのものが二つの流れの間に立っているようだった。
扉の横で待っていた車掌が尋ねる。
「相談は済みましたか」
「済んではいない。流れは明日もぶつかるから」
「ええ。けれど、ほどくばかりが役目ではないと、お分かりになったようでございます」
「うん」
神様は俺たちを見た。
「ほどかずに読む。消さずに見る。あなたたちの言葉は……しばらくここに残ると思う」
「……ありがとうございました」
頭を下げた凪へ、神様が言葉を返す。
「礼を言うのはこちらかもしれない。凪、人の言葉を一つにまとめすぎないで。迷いが混じっているなら、その混じり方ごと聞いて」
今度は俺の方を見る。
「晴路。迷いをぶれた写真として捨てないで。揺れたものにしか残らない形もある」
「……分かった」
カメラを持つ手に力を入れる。
迷った写真や揺れた写真はこれまでなら失敗だと思っていた。
そこにしか残らないものがあるのなら、これからは簡単に捨てたくなかった。
「そして、行き先未定の二人へ」
俺と凪は同時に顔を上げた。
「二つの流れがあることを恥じないで。片方を消せば決めたようには見える。でも、消した流れはいつか戻る」
潮の音が深く響いた。
「よく迷って。でも、迷いを放っておかないで。どこから来て、どこへ行きたがっているのか、自分の中の流れを読んで」
今まで聞いたどの言葉よりも進路希望調査票に近い話だった。
学校の先生とは違って、神様は早く決めろとも決めなくてもいいとも言わない。
ただ、迷いを読めと言ってくれた。
「はい」
俺が頷くと、凪も隣で同じように返事をした。
俺たちは神様へ頭を下げて列車へ戻った。
扉の前で振り返ると、鳴門うず潮の神様は潮の境目に立ち、泡のように衣の裾を揺らしていた。
周囲では二つの流れがぶつかり、小さな渦を作っている。
神様は手を振らなかった。
代わりに一つの渦がこちらへ小さく回り、すぐにほどけていった。
それが見送りの代わりに見えた。
列車へ乗ると、車掌が切符を確認し、白い端へ新しい印を押した。
『鳴門うず潮――相談済』
丸い渦の形をした印は完全には閉じず、途中から次の流れへほどけるように伸びている。
「相談済、三つ目」
「この印、止まってないね」
「渦なのに?」
「うん。回ってる途中みたい」
「それ、今日の答えっぽいな」
「答えっていうより、まだ途中だけどね」
凪が笑い、俺もつられて笑った。
道の途中という言葉はこれまでならあまり好きではなかった。
まだ決まっていない、完成していない、答えも出ていない――そんな意味に聞こえていたからだ。
今日の潮を見た後では同じ言葉が違って聞こえる。
途中だからこそ流れ、変わりながらその先をまだ読むことができる。
列車が動き出し、鳴門うず潮の海が窓の外で遠ざかっていく。
潮の境目も離れてしまえば一つの海にしか見えない。
でも、その中にいくつもの流れがあることを俺はもう知っていた。
窓の外を見ていた凪が不意に口を開いた。
「晴路くん。私、外を見てみたいって思ってるみたい」
とても静かな声だったが、聞き逃さなかった。
「岡山を嫌いになったわけじゃないんだよ。家のことも祖母のことも大事に思ってる。それなのに外を見たいって思うのは……悪いことじゃないのかな」
神様みたいな答えは出せないし、きれいな言葉もすぐには浮かばない。
それでも今なら言えることがあった。
「……悪くないと思う」
凪がこちらを見る。
「俺も岡山に残りたい気持ちがあるのに、県外を見たいと思ってる。たぶん、どっちかが嘘ってことじゃない」
「うん」
「両方あるから、こんなに面倒なんだと思う」
「面倒なんだ」
「神様たちもだいたい面倒だし、人間も面倒でいいんじゃないか」
「それ、まとめとして大丈夫?」
「大都会岡山よりは……ずいぶんましだろ」
「それは、まあ……」
そこで凪が笑った。
さっきより軽く聞こえるその声を聞きながら、俺は「外を見てみたい」という凪の言葉を心の中でもう一度繰り返した。
今までの俺は凪を残る側だと思っていた。
その言葉だけで見ていたら、きっと今日の声も聞き逃していただろう。
外を見たい気持ちも……地元を大切に思う気持ちもある。
凪の中にも潮境がある。
俺はそれを覚えておきたいと思った。
車内の古い表示板がぱたんと音を立てる。
『次は、宇野みなと灯』
「宇野……岡山に戻るんだ」
「この列車の戻るは信用できないけどな」
「でも、岡山の海だね」
鳴門の潮が遠ざかり、海の色が少しずつやわらかくなっていく。
せとうち各駅停車は潮の境目をあとにして、岡山の海へ戻るように走っていった。




