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第3章 知らないと知ることも、名の始まりです

  

 牛窓夕凪を出た列車は、次の駅へ向けて進んでいた。


 窓の外に広がる海は、さっきまでの夕凪をまだ少しだけ残している。けれど、風はもう止まっていなかった。

 水面には細い光の筋が伸び、その向こうに、小さな島影がいくつも重なって見える。


 俺は膝の上でカメラを抱えていた。

 画面には海と祠が写っているが、白い着物の神様は写っていない。

 ただ、神様が立っていた場所にだけ、風が白くにじんでいる。


「まだ見てるの?」


 向かいの席で、凪が小さく聞いてきた。


「神様がここにいたってことだけは、写真の中に残ってる気がしてな」


「……写ってないのに?」


「写ってないからこそ……かもしれない」


 俺は画面の中の海を見つめた。


「俺たちがあそこで見たものは写っていないけど、あのときの光や海の色、吹いていた風はちゃんと残ってる気がする」


 自分で言って、少し変な答えだと思った。

 でも、凪は笑わなかった。


「晴路くん、さっきからちょっと写真部っぽい」


「普段は何に見えてるんだ」


「大都会岡山を背負った人」


「……重いな。あと、背負うならもう少し具体的なものがいい」


「じゃあ進路希望調査票とか?」


「それはもっと重い」


 凪の笑い方はいつも通りに近かったけれど、牛窓夕凪の神様の前で少し赤くなっていた目元を、俺はまだ覚えていた。


 寂しい。

 でも、行け。


 神様がこぼした言葉は、俺の中にも残っている。

 誰かに言われたわけではないのに、いつか自分が言われるかもしれない言葉として、胸の奥に沈んでいた。


 凪もまだ何かを考えているようだった。

 メモ帳を開いてはいない。

 けれど、その表紙を指でそっと押さえている。


 車掌が通路の向こうに立っていた。


 顔は相変わらず帽子の影でよく見えない。

 ただ、切符鋏だけが窓から入る光を受けて、かすかに光っていた。


「次の駅でございます」


 車掌が静かに言った。


「播磨島影」


「播磨って、兵庫の方ですよね」


 凪が聞くと、車掌はわずかにうなずいた。


「この列車では、海に残った島の名残をたどります」


「名残?」


「通り過ぎたあとに、それでも残っているもののことです」


 車掌はそう言って、切符鋏を小さく鳴らした。

 窓の外の島影が近づいてくる。


 島は一つではなかった。

 小さな影がいくつもある。

 丸いもの、細長いもの、低く平たいもの。

 海の上に浮かんでいるというより、誰かが遠い記憶の中に置いた石みたいに見えた。


 凪が窓に近づく。


「現実の地図にも、兵庫県の瀬戸内側には島がたくさんあるよね」


「あるな。名前まではほとんど知らないけど」


 言ってから、俺は少し黙った。


 名前まではほとんど知らない島々。


 それは何気ない言葉だった。

 けれど、次の駅名が『播磨島影』だったせいか、少しだけ引っかかった。


 列車の速度が落ちる。


 海の上に、短い桟橋のようなホームが見えてきた。

 板張りのホームは細く、片側には古びた杭が並んでいる。杭には切れかけたロープが巻かれ、乾いた海藻が風に揺れていた。


 駅名標には掠れた青い文字でこう書かれている。


『播磨島影』


 現実の地図にある駅の名前ではないことは分かる。

 瀬戸内の海を渡る途中で、窓の外に一瞬見えて、誰にも確かめられないまま通り過ぎてしまうような島。


 列車が止まった。


 扉が開くと、潮の匂いが入ってきた。

 牛窓の潮とは少し違う。もっと乾いていて、石と木が混じっている。


 俺と凪は顔を見合わせ、ホームへ降りた。


 足元の板が、きし、と小さく鳴る。


 ホームの先には小さな坂道があった。

 坂道の上には低い石垣と、古びた標識がある。

 ただし、標識に書かれた文字はところどころ消えていて、島の名前なのか、道案内なのか、読めなかった。


「ここが、播磨……島影……?」


 凪がつぶやいた。


 その声に答えるように、坂の上から小さな音がした。


 ――からん、からん。


 貝殻が石に当たったような音だった。


 見ると、坂の途中に誰かが立っている。


 年齢は分からない。

 子どもにも見えるし、大人にも見える。

 細い体に、海で色の抜けたような青灰色の外套をまとい、短い髪には小さな貝殻がいくつも編み込まれていた。


 手には古い木箱を抱えていた。


 その木箱の中で、貝殻や小石や、古い木札のようなものが揺れている。

 歩くたび、からん、ころん、と小さく鳴る。

 まるで、忘れられかけた名前が箱の中で身じろぎしているみたいだった。


「夕凪の匂いがする」


 その人影が言った。


 声は若い。

 けれど、遠い潮の奥から届くような響きがあった。

 男とも女とも決めにくい声だった。


「牛窓の神のところから来たのですね」


「は、はい」


 凪が静かに答えた。


「牛窓夕凪の神様に、見送ってもらいました」


「そう」


 人影は木箱を抱え直した。


「あの方が見送る言葉を取り戻したのなら、よかった」


 俺は思わず聞いた。


「知り合いなんですか?」


「同じ海に残ったもの同士です。風や潮が知らせてくれます」


 その神様らしき存在は、そこで初めて俺たちをまっすぐ見た。


「あなたたちの名前を、聞いてもいいですか」


「瀬戸晴路です」


「内海凪です」


 俺と凪が名乗ると、神様は少しだけ目を細めた。


「瀬戸さんに、内海さん。海に近い名前ですね」


「よく言われます」


 俺がそう返すと、神様が小さく笑った気がした。


「では、少し聞いていってください。名前のある人たち」


 名前のある人たち。


 その言い方は少し不思議だった。

 俺にも凪にも名前はある。

 当たり前だ。

 けれど、この神様にそう言われると、名前があること自体がなぜか少し重く感じられた。


 神様は坂道を上り始めた。


「私は⋯⋯このあたりでは島影の神と呼ばれています」


「島影の神様?」


 凪がメモ帳を取り出しかける。


 神様は首を横に振った。


「先に見てほしいのです」


 その言い方が牛窓夕凪の神様とは違っていた。

 牛窓の神様は話を聞いてほしそうだった。

 この神様は、見てほしそうだった。


 俺たちは坂を上った。


 坂の脇には石垣が続いている。

 その上に、古い雨戸の閉まった家のようなものが見えた。けれど、近づくと輪郭が少し揺らぐ。実在の家というより、誰かの記憶の中に残っている家の形だけが、ここに置かれているみたいだった。


 軒先には割れた貝殻が並んでいる。

 干された網のようなものが風に揺れている。


 道の端には小さな祠があった。

 そこに書かれた文字は読めなかった。


 見えるものはある。

 でも、どれも名前が薄い。

 そんな場所だった。


「ここは、現実の島なんですか」


 凪が聞いた。

 神様は坂の途中で振り向いた。


「現実そのものではありません。ここは播磨灘に浮かぶ島々を、遠くから見ていた人たちの記憶が流れ着いた場所です」


「遠くから見ていた人たちの?」


「船から、列車から、港から。ああ、島がある。きれいだ。いくつも浮かんでいる。そう言って通り過ぎた人たちの記憶です」


 神様は木箱を開けた。


 中には白い貝殻や小さな石に混じって、古びた木札がいくつも入っていた。

 木札には文字が書かれている。

 けれど、ほとんどがかすれていて読めない。


「かつては、それぞれに名がありました。今もあります。けれど、遠くから見る人には、ただの島影になります」


 神様は一枚の木札を指で撫でた。


「多島美。瀬戸内の美しい風景。そう呼ばれるのは嫌いではありません。美しいと言われるのは悪いことではないから」


 その言葉は、牛窓の神様の言葉と少し似ていた。

 綺麗だと言われるのは嫌いではない。


 けれど、続く言葉は違った。


「でも、ひとまとめにされるたび、ひとつずつの名が薄くなる気がするのです」


 風が少し止まった。

 神様は海の方を見た。


「私の相談はそれです」


「ひとまとめにされること、ですか」


 凪が聞く。


「はい」


 神様は小さくうなずいた。


「ひとまとめに呼ばれるものは、そのままでいいのでしょうか。名前を知られない場所は、ただ背景になっていくしかないのでしょうか」


 俺は何も言えなかった。


 さっき、俺は窓の外の島影を見て、名前までは知らないと思った。

 それは正直な感想だった。

 悪気もない。


 でも、世の中には悪気がないまま通り過ぎることは多い。


 綺麗だと思う。

 写真に撮りたいと思う。

 でも、その場所の名前も知らない。

 そこに誰かの時間があったことも知らない。


 それは、本当に見ることになるのだろうか。


 凪も黙っていた。

 神様は俺たちを見た。


「あなたたちは、瀬戸内を調べに来たのですね」


「はい」


 凪が少しだけ背筋を伸ばした。


「学校の総合探究で、瀬戸内の町と若者について調べています」


「瀬戸内の町と若者」


 神様はその言葉をゆっくり繰り返した。

 凪の指がメモ帳の表紙を押さえた。


「……大きすぎますよね」


「大きい言葉は便利です」


 神様は怒らなかった。


「便利な言葉ほど、たくさんのものを入れられる。海も、島も、町も、港も、出ていく人も、残る人も。けれど、入れすぎると、中に何があったか見えなくなります」


 凪は黙っていた。

 俺は凪の横顔を見た。


 凪は真面目だ。

 だからこそ、きっと今の言葉は刺さっている。


 瀬戸内の町と若者。

 出ること、残ること、帰ること。


 それは良いテーマだと思う。

 けれど、ひとまとめにしてしまう怖さもある。


 若者。

 地域。

 瀬戸内。


 調べていけばいくほど、その言葉の中にある誰かの名前が埋もれてしまうことがあるかもしれない。


「俺も、たぶん同じです」


 気づくと、声が出ていた。

 凪と神様がこちらを見る。


「写真を撮る時、景色としてまとめて見てました。海とか、島とか、港とか。そこに名前があることを、あんまり考えてなかった」


 言いながら、自分でも少し恥ずかしくなった。


「綺麗だなと思って撮るのは、悪いことではないと思います。でも、それだけだと、全部が同じような写真になる気がします」


「同じような写真?」


「はい。瀬戸内に浮かぶ島っぽい写真、でしょうか」


 口にした瞬間、さらに刺さった。


 便利な言葉だ。

 でも、その便利さで、俺は何を見落としているのだろう。


「晴路くん」


 凪が小さく言った。


「それ、私の記事も同じかもしれない」


「記事?」


「うん。瀬戸内の若者、って書けばまとまる。でも、本当は一人ひとりが違うはずだよね。出たい理由も、残る理由も、帰る理由も」


 凪はメモ帳を見た。


「私はまとめるのが得意だと思ってた。でも、まとめすぎると、誰かの名前を薄くしてしまうのかもしれない」


 神様は少しだけ目を細めた。


「あなたは聞く人なのですね」


「聞いて、それをきちんと書ける人になりたいと思っています。でも、今はまだ、ちゃんとできているか分かりません」


「それなら、ちょうどいいです」


 神様は坂の上を指した。


「上まで来てください。名の薄くなったものを見てください」


 坂道は細かった。

 石垣の間を抜けると、急に視界が開けた。


 そこには小さな広場があった。


 広場の真ん中に、何本もの木札が立っている。

 墓標のようにも、道しるべのようにも見えた。

 それぞれに文字が書かれているが、読めるものは少ない。


 風に削られた名前。

 潮ににじんだ名前。

 途中で折れてしまった名前。


 その向こうには海が広がっていた。

 いくつもの島影が浮かんでいる。


 ひとつずつ、形が違う。


 さっき列車の窓から見た時には、ただ「いくつも島がある」と思っただけだった。

 でも、こうして高い場所から見ると、丸い島、細い島、低い島、少しだけ山のある島。それぞれが違う輪郭を持っている。


 俺はカメラを構えた。

 けれど、すぐにはシャッターを押せなかった。


 神様が聞く。


「どうしましたか」


「名前が分からないまま撮っていいのか、迷いました」


 そう言うと、神様は少し笑った。


「名を知らなければ撮ってはいけない、なんてことではありません」


「……でも」


「知らないと分かって撮るのと、知らないことにも気づかず撮るのでは違います」


 その言葉に、俺はカメラを下ろした。

 凪が静かにうなずく。


「記事でも同じですね」


「そうですね」


 神様は木箱の中から、一枚の小さな木札を取り出した。

 文字はかすれている。

 かろうじて、最初の一文字だけが読めた。


「これが何の名か、私にももう分かりません」


「神様にも?」


「はい。分かりません。私のように長く残るものであっても、分からなくなることがあります」


 神様はその木札を、両手で持った。


「昔、ここへ来た島育ちの子がいました。その子はあたりの島の名前を、ひとつずつ覚えているような子でした」


 風景が広場の上に重なった。


 小さな子どもが海を指さしている。

 隣には大人がいる。

 子どもは得意そうに、島の名前を一つずつ言っていた。


 声は聞こえない。

 けれど、口の形だけは分かる。

 楽しそうだった。


 大人が笑って、何かを言う。


 そんなに覚えなくても、全部まとめて島でいいだろう。


 たぶん、そんな感じのことだった。


 子どもは少しだけ口を閉じた。

 それから、海を見た。


 景色は一瞬で消えた。


「その子は大人になって島を出ました」


 神様は言った。


「出たことが悪いわけではありません。牛窓の神も言っていたでしょう。若い人が広い場所を見たいと思うのは、当たり前のことです」


「はい」


「でも、その子は後に戻ってきたとき、昔覚えていた名をいくつか忘れていました」


 神様の声は責めるものではなかった。


「忘れるのは、悪いことですか」


 凪が聞いた。


「いいえ、悪いことではありません」


 神様はすぐに言った。


「人は忘れます。私も忘れます。土地は変わります。名前も、呼ばれ方も、暮らしも変わっていきます。全部覚えておくのは難しいでしょう」


「……では、何が苦しいんですか」


 俺が聞くと、神様は木札を箱に戻した。


「忘れたことに、誰も気づかないことです」


 風が止んだ。


「名前を忘れたまま、何も失っていない顔をされることです。ひとまとめにされても、仕方ないと笑われることです」


 その言葉がやけに重かった。


 名前を忘れる。

 それは人にもある。


 俺は凪のことを、ずっと「内海」と呼んでいる。

 昔は違った呼び方をしていた。

 でも、いつからかそれをやめた。


 恥ずかしいから。

 距離が分からなくなったから。

 幼なじみという言葉が便利だったから。


 呼び方を変えたことに、俺はあまり向き合っていなかった。


 神様は俺たちの顔を見て、少しだけ口元をゆるめた。


「名前とは不便なものです。知らなくても生きていける。呼ばなくても通り過ぎられる。けれど、呼ばれたものは、自分がそこにあると少し思える」


「神様も、名前を呼ばれたいんですか」


 俺が聞くと、神様は木箱を抱え直した。


「私の名はもう何でもかまいません。ただ、ここに流れ着いたものを全部『島影』だけにはしたくないのです」


 その声は静かだった。


「私の相談は覚えておいてほしい、忘れないでほしい、ということとは少し違います」


 神様は海の方を見た。


「ただ、ひとまとめにされることに、どう向き合えばいいのか、ということです。まとめられなければ人には届かない。けれど、まとめられるほど、ひとつずつの名は薄くなる」


 凪はゆっくりとメモ帳を開いた。


「少し書いてもいいですか」


 今度は神様は止めなかった。


「はい、もちろんです。でも、私の言葉を綺麗にまとめすぎないでください」


「はい」


 凪はしっかりうなずいた。


「たぶん、まとめないと伝わらないことはあります。でも、まとめた後に、ひとつずつ違うって分かるように書くことはできると思います」


「ひとつずつ、違うと」


「はい」


 凪は海を見た。


「瀬戸内の島、だけではなくて。今日見た島。名前を知らないまま通り過ぎかけた島。あとで名前を調べたいと思った島。そういったことをきちんと書くことなら、できます」


 神様は黙っていた。

 凪は続けた。


「私はあったこと全てを代わりに話すことはできません。島の人の気持ちを勝手に分かったことにもできません。でも、分からないまま通り過ぎなかったことは書けると思います」


 俺は凪を見た。


 それは凪らしい言葉だった。

 真面目で、慎重で、でも逃げていない。


「晴路くんは?」


 急に凪が俺を見る。


「俺?」


「写真なら⋯⋯どうする?」


 俺はカメラを持ち直した。


 海を見る。

 島影を見る。

 読めない木札を見る。


 全部を一枚に入れようとすると、ただの風景になる。でも、どれか一つだけを切り取ると、他の島はまた背景になる。


 俺は少し迷ってから、木札の列にピントを合わせた。その向こうに、海と島影がぼんやり入るようにする。


 シャッターを押す。

 画面には読めない木札と、遠くの島が写っていた。


「名前は写ってないな」


 俺はつぶやいた。


「でも、名前が消えかけてることは写った」


 凪がそう言った。


 俺は画面を見直した。

 たしかに、そこに名前は読めない。

 でも、かつて名前があったらしいことは分かる。

 読めないからこそ、気になる。


「……これなら、あとで調べたくなるかもしれない」


「うん」


 凪がうなずいた。


「知らないものを、知らないまま終わらせない写真だね」


 その言葉に、胸の奥が少し熱くなった。


 知らないものを、知らないまま終わらせない写真。


 そんな写真を撮りたいと思ったのも、初めてかもしれない。


 神様は俺たちのやり取りを聞いていた。

 そして、少しだけ笑った。


「名を全部覚えることはできません」


 神様は言った。


「でも、知らないままにしない人がいるなら、その名はすぐには消えないのかもしれませんね」


 その瞬間、広場に立っていた木札がかすかに揺れた。


 風ではない。

 木札の中に残っていたものが、少しだけ息をしたように見えた。


 読めなかった文字のうち、いくつかが淡く光る。


 完全には読めない。

 でも、そこに名があったことだけは、さっきよりはっきり分かった。


 凪が息をのむ。


「見えた?」


「うん」


 俺も頷いた。


 神様は海の方を向いた。


「私はひとまとめにされることを恐れていました。けれど、まとめる言葉がなければ、遠くの人には届かないこともある」


 神様は木箱を閉じた。


「大きな言葉で呼ばれることと、ひとつずつを忘れられることは、同じではないのですね」


「たぶん」


 凪が言った。


「大きな言葉で入口を作って、そのあとに、ひとつずつ名前を探しに行ければいいのだと思います」


「入口」


 神様は目を細めた。


「瀬戸内、という言葉も入口になるのでしょうか」


「はい」


 凪ははっきりうなずいた。


「でも、入口で終わらせないようにしたいです」


 神様はしばらく黙っていた。

 それから、俺を見た。


「瀬戸さん」


「はい」


「あなたはこれから島を撮るとき、何を撮りますか」


 俺はカメラを見た。

 まだ分からない。

 きっと、すぐには分からない。

 でも、少なくとも、今までとは違う。


「名前を知ってから撮りたいです。知らないなら、知らないって分かるように撮りたい」


「はい」


「きれいな島影じゃなくて、俺が知らないまま通り過ぎかけた島として撮ると思います」


 神様は少しだけ満足そうに笑った。


「知らないと知ることも、名の始まりです」


 その言葉と同時に、遠くから汽笛が聞こえた。


 振り向くと、細い桟橋のホームに、せとうち各駅停車が戻ってきていた。

 銀色の車体の窓に、島影がいくつも映っている。

 まるで列車そのものが、小さな島々の名前を抱えているみたいだった。


 車掌が扉の横に立っていた。


「相談は済みましたか」


 神様は木箱を抱えたまま、少し考えた。


「済んだ、とは言えません。名はすぐに戻るものではないから」


「ええ」


 車掌は静かにうなずいた。


「けれど、入口は見つかったようでございます」


「はい」


 神様は俺たちの方を見た。


「入口は見つかりました」


 それだけで、少し空気が軽くなった気がした。


 俺たちはホームへ戻った。

 神様は桟橋の手前で立ち止まり、木箱の中から小さな貝殻を二つ取り出した。

 白くて、薄くて、内側だけが淡く光っている。


「持っていってください」


「いいんですか」


「名残です。名前そのものではありません。でも、何かを思い出す手がかりにはなります」


 凪が両手で受け取った。


「ありがとうございます」


 俺も受け取る。


 貝殻は驚くほど軽かった。

 けれど、ただの貝殻には思えなかった。

 そこに名前が書かれているわけではない。

 でも、何かを忘れないための小さな重さがあった。


 神様は凪を見る。


「内海さん」


「はい」


「大きな言葉を使わないで、とは言いません。使わなければ届かないこともあります。でも、届いたあとに、ひとつずつ見に行ってください」


「はい」


「しっかり者、地元の子、残る側。あなた自身も、大きな言葉だけで自分を閉じ込めないでください」


 凪の指が貝殻をそっと包んだ。


「……はい」


 神様は今度は俺を見る。


「瀬戸さん」


「はい」


「茶化す人、進路未定の人、大都会岡山の人。あなたも、そう呼ばれて笑っているだけでは、自分の名を薄くします」


「う」


 変な声が出た。

 凪が少しだけ笑った。

 神様は真面目な顔のまま続けた。


「笑わないで、という意味ではありません。笑いも、あなたの名の中の一部です。でも、笑いだけにしないでください」


 その言葉は思っていたより深く刺さった。


 大都会岡山。

 進路未定。

 茶化しているやつ。


 そういう呼ばれ方に、自分で逃げ込んでいるところがあったのかもしれない。


「……はい」


 俺は小さくうなずいた。


 神様は満足したように木箱を抱え直した。


「次は潮が渦を巻く方です」


 凪が顔を上げた。


「徳島の方……?」


「そう呼ぶ人もいます」


 神様は少し笑った。


「気をつけて行ってください。流れは外から見るほど単純ではありません」


 俺たちは神様に頭を下げ、列車へ乗った。


 扉が閉まる前に、俺はもう一度振り返った。


 播磨島影の神様は、桟橋の先に立っていた。

 手は振らない。

 ただ、木箱を抱えて、こちらを見ている。


 その後ろに、名前の読めない木札が並んでいる。

 さらにその向こうに、いくつもの島影が浮かんでいる。


 ひとまとめにすれば、ただの美しい瀬戸内の風景だった。


 でも、もうそれだけでは見えなかった。


 列車が動き出す。

 車掌が俺たちの切符を確認した。

 白い切符の端に、新しい印が増えている。


『播磨島影――相談済』


「相談済、二つ目」


 俺が言うと、凪が切符をのぞき込んだ。


「今度の印、小さい貝みたい」


「本当だ」


 切符の端には、青とも白ともつかない小さな貝殻の印が押されていた。


 車内の古い表示板が、ぱたんと音を立てて変わる。


『次は、鳴門うず潮』


 凪が表示を見上げた。


「鳴門……」


「徳島側か」


「うず潮って、いくつもの流れがぶつかるところだよね」


「さっきの神様、流れは外から見るほど単純じゃないって言ってたな」


 窓の外で、海の色が少し変わっていく。


 せとうち各駅停車は、名前の薄れた島の記憶をあとにして、潮の流れがぶつかる方へ進んでいった。

 

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