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第2章 寂しいとだけは、言ってもよいのか

 

 牛窓夕凪の神様は、そう言ってから海の方を見た。

 俺たちはすぐに答えられなかった。

 さっきまで岡山駅にいたはずなのに、目の前には牛窓の瀬戸内海に似た海が広がっている。


 現実の地図にない駅。

 鉄道駅なんてないはずの牛窓に現れた、古びた短いホーム。

 そこに立つ白い着物に薄い青の羽織をまとった神様。


 何もかも普通ではない。

 それなのに、その問いだけは現実のものとして胸に落ちてきた。


 ――出ていく子たちに、寂しいと言ってもよいのか。


 それは神様の言葉なのに、その土地の親や祖父母、そこに住み続ける誰かの声のようにも聞こえた。


 凪はすぐには口を開かなかった。


 風が止まっている。

 波はある。遠くの水面は光っている。

 けれど、ホームに立つ俺たちの周りだけ、空気がぴたりとも動かない。


 夕凪という名前の通り、海も空も、何かを待っているみたいに静かだった。


「……それは」


 同じ「凪」の字を名前に持つ彼女は、少しだけ慎重に言葉を選んだ。


「私たちがすぐに答えていいことなんでしょうか……」


 神様はゆっくり振り向いた。


「すぐに答えをくれとは言わぬ。歩きながらでよい」


「……歩きながら?」


「ここは牛窓そのものではない。じゃが、牛窓の港や夕凪に残ったものは、ここにも流れ着く。それを見てくれ」


 そう言ってから、神様はホームの端へ歩き出した。

 白い着物の裾が古い木の床をかすかに擦る。俺と凪は顔を見合わせ、それから神様の後を追った。


 ホームの先には小さな石段があった。

 だが、駅の出口らしい改札などはない。石段を下りると、そのまま海沿いの道につながっていた。


 すぐに潮の匂いが濃くなった。


 道の片側には低い石垣があり、その向こうに港が見えた。

 小さな船が何艘か揺れている。網を干す木の枠、古い家並み、白い壁、坂の上に続く細い道。


 どこかで見たことがあるようで、現実の牛窓そのものではない。

 観光写真の中の町と誰かの記憶の中の町が、静かに重なった場所みたいだった。


「綺麗だな」


 思わずそう言うと、神様が小さく笑った。


「そう言われるのは嫌いではない。牛窓の海は綺麗じゃ。島影も夕焼けも、古い家並みも。外から来た者が目を細めてくれるのは、嬉しいものじゃな」


 神様は港の方を見た。


「ただ、綺麗だと言われるたび、そこで続いてきた暮らしの重さまでは見えにくくなることがある」


 俺は何も言えなくなった。

 写真部のくせに、俺は今まで海を見ればまず「綺麗だ」と思っていた。


 青い海。白い道。古い港。夏の光。

 シャッターを押せば、きっとそれなりに見栄えのする写真になるだろう。総合探究の資料にも、写真部の自由課題にも使える。


 でも、それだけでは足りないのだと、今は分かった。


 この海のそばには毎朝起きて、船を見て、洗濯物を干して、誰かを送り出してきた人たちがいる。

 帰ってくるのを待っていた人もいる。

 帰ってこないことに何とか慣れようとした人もいる。

 綺麗な景色の中にはそういう暮らしの時間が、見えない潮みたいに染み込んでいる。


 俺の写真には、それを全部写すことはできない。

 けれど、ただ「綺麗だった」で終わらせたくないとも思った。


 この場所に誰かの毎日があり、誰かの別れがあり、誰かの待つ時間があったことを、せめて忘れないように撮りたかった。


 ここは現実の牛窓そのものではないと言っていた。

 もし土地の記憶が形になったような場所なら、今見ている景色は写真にそのまま残るとは限らない。

 そう思うと、カメラを構える手が少しだけ重くなった。


 そのとき、凪が鞄から小さなメモ帳を出した。


「書いてもいいですか」


「構わぬ」


 神様は頷いた。

 凪は歩きながら、少しずつ言葉を拾っていく。こういう時の凪は、やっぱり聞くのがうまい。

 相手の話を急かさない。自分の考えを先に押しつけない。ちゃんと待つ。


「ここは昔、潮を待つ場所でもあった」


 神様が言った。


「船は風や潮に合わせて動く。行きたいと思っただけでは進めぬ。待つことも、見送ることも、ここでは珍しいことではなかった」


「風や潮がよくなるまで、船が待つ港だったってことですか?」


「そうじゃな。人も荷も話も、皆、海を渡った。その中で戻ってくる者もおれば、戻らぬ者もおる。わしは、そのたびに見送ってきた」


 細い道の先には小さな祠があった。

 海に背を向けず、町にも背を向けず、ちょうどその間に立っているような古い祠だ。


 木は黒ずみ、屋根の端には潮らしい白い跡がついている。誰かが置いたらしい小さな花が、風のない中で静かに揺れていた。


 神様はその祠の前で足を止めた。


「あなたは牛窓の神社かどこかにいらっしゃる神様なんですか?」


 俺は聞いてから、少し失礼だったかもしれないと思った。

 しかし、神様は怒らなかった。むしろ、困ったように笑った。


「わしは大きな社に名を持つ神ではない。もっと小さなものじゃ」


 神様は風の止まった海を見た。


「牛窓の港で誰かを待った者、見送った者、帰ってきた者。夕方に風が止まるたび、その胸に残った寂しさや願いが、長い年月をかけて少しずつ形になった」


 白い袖がかすかに揺れた。


「そういう、夕凪の神じゃ」


「この海辺に残った、この土地や人の……記憶みたいな存在ですか?」


 凪が尋ねると、神様は少しだけ目を細めた。


「そうじゃな。人が誰かを待ち続けたこと。我慢して見送ったこと。帰ってきた者を見て、ほっと息をついたこと。そういう気持ちは、すぐには消えぬ」


 風の止まった海が静かに光っていた。


「長い年月のうちに、わしのようなものになることもある」


 神様は祠の屋根にそっと手を置いた。


「わしはいつも見送る側におった」


 その声は風の止まった海みたいに静かだった。


「昔はな、出ていく子にも声をかけたものじゃ」


「どんな感じにですか?」


「気をつけて行け。体を大事に。海を忘れるな。たまには帰ってこい。そういう、人間の年寄りが言うような言葉をな」


 神様は少し照れたように笑った。


「じゃが、あるときから言えなくなった」


「どうしてですか」


「わしが寂しさに呑まれると、風が止まる」


 凪のペンが止まった。

 俺も神様を見た。


「……風が、止まる?」


「そうじゃ。わしは夕凪の神。もちろん大きな力ではない。ただ、ひととき海を静かにするだけの古い神じゃ。昔は船を休ませるための凪だった。疲れた者が港に入り、潮を待ち、飯を食い、眠る。そのための静けさだった」


 神様は祠の屋根から手を離した。


「だが、見送るときの寂しさまで凪にしてしまうことがあった。寂しい、行かないでくれ。そう心の奥で願ってしまうと、風が止まる。船は出にくくなる。足は重くなる。出ていく子の心も、少しだけ重くなる」


 その言葉がやけに胸の奥に落ちて来た。

 たぶん、神様の力がどうとかではない。

 残る側の「寂しさ」は、出る側に重さを渡す。


 言われた方は、知らないふりができなくなる。


 自分が出ていくことで、誰かが寂しがる。誰かの暮らしに穴が空く。そう分かった瞬間、その行き先は急に遠くなる。


「だから言わなくなったんですか」


 俺が聞くと、神様は頷いた。


「残れと言いたいわけではない。若い者が出ていくのは悪いことではない。広い場所を見たいと思うのも、別の土地で学びたいと思うのも、当たり前じゃ。港は、船を閉じ込めるためにあるのではない」


「――じゃが、寂しい」


 神様はためらわずにそう言った。

 その瞬間、遠くの水面が一瞬だけ静まりかけた。

 けれど、風は完全には止まらなかった。

 波の音が細く残る。

 俺の胸の奥まで、空気が触れてきたみたいだった。


「寂しいと言ったら、引き止めてしまう。言わなければ、平気だと思われる。平気だと思われれば、ここは忘れられる。そうなれば……忘れられるのは、やはり寂しい」


 神様は困ったように笑った。


「神とはいえ、面倒なものじゃろう」


「確かにかなり面倒ですね」


 思ったままの本音が出た。

 言ってから、神様相手に失礼だったと少し焦ったが、神様は声を立てて笑った。


「面白いやつじゃな。そうじゃな、かなり面倒じゃ」


 凪もつられて小さく笑った。

 張りつめていた空気が少しだけ緩む。


「晴路くんは、こういうときは正直だね」


「いつも正直だろ」


「いつもは、正直になる前に茶化してるっていうか……」


「正直になるための準備運動だな」


「準備が長いよ。正直になっていいんだからね」


 凪の言い方は柔らかいのに、ちゃんと刺さる。

 神様は俺たちのやり取りを見て、懐かしそうに目を細めた。


「お主らは幼なじみか?」


「まあ、そんな感じです」


 俺が答えると、凪が少しだけ視線を落とした。


「家が近いんです。昔から」


「近い者ほど、言えぬことがあるじゃろう」


 神様の言葉に、俺も凪も黙った。

 それは、さっきの相談より少し小さな声だったのに、俺たちの変なところまで届くものだった。


 ――近い者ほど、言えぬことがある。


 俺は凪に、県外へ出たい気がしていることをちゃんと言ったことがない。

 凪もたぶん、岡山に残るつもりなのか、それとも残らなきゃいけないと思っているだけなのか、まだ言葉にできていないのだろう。


 近すぎるから、ふざけることはできる。

 近すぎるから、大事なことは言えない。


 いつからだろうか。俺たちはそんな距離感だった。


「神様は――」


 凪がメモ帳を閉じた。


「――誰かに寂しいって言って、後悔したことはありますか?」


 神様はすぐには答えなかった。


 祠の前から、港へ向かって歩き出す。俺たちもその隣に並んだ。

 石垣の上に、古い写真のような景色が重なった。


 若い男が大きな鞄を背負っている。

 港の端で母親らしい人が手を振りかけたまま、泣いている。

 小さな妹が男の袖を握っている。


 船はまだ出ていない。

 風が止まっている。


 景色は一瞬だけ見えて、すぐに消えた。


「今のは……」


「後悔したことはこれまでに何度もあった」


 神様は海の方を向いたまま言った。


「昔のことじゃ。出ていきたいと嘆いた子がおった。町を嫌っていたわけではない。だが、ここではできぬことがあると言っていた。わしは、その子に寂しいと言った」


「その子は、どうしたんですか」


「出ていかなかった」


 凪が息をのむ。


「それは、神様のせいだったんですか」


「分からぬ」


 神様は首を横に振った。


「家の事情もあった。母親の涙もあった。お金もなかった。いくつもの理由が重なった。ただ、わしの言葉も、その一つになったのかもしれぬ」


 海が静かだった。


 静かすぎた。


「その子は後に、ここで家を持ち、子を育て、悪くない暮らしをした。笑う日もあった。酒を飲んで歌う日もあった。だが、年を取ってから一度だけ、海を見て言っていた」


 神様の声が少し低くなる。


「行った先の風を、知らずに終わった、と」


 俺は何も言えなかった。

 それは不幸な人生だったのか。

 そうではないと思う。


 ここに残って、家族を持って、笑う日があったのなら、それはちゃんとその人の人生だったはずだ。

 でも、行かなかった人生の中には、行ったかもしれない人生がずっと残る。


 選ばなかった方の道が、消えてなくなるわけではない。


「それから、わしは言えなくなった。寂しいと言ってよいのか、分からなくなったんじゃ」


 神様は俺を見た。


「出たい者に、寂しいと言うのは重荷ではないのか」


 いきなり真正面から聞かれて、俺は言葉に詰まった。


 俺はまだ岡山から出ると決めたわけではない。

 でも、県外と書けない。県内とも書けない。未定とすら書けなかった。その程度の人間だ。


 それでも、神様は俺を「出たい者」として見ている。

 見透かされている気がした。


「……重いと思います」


 俺は正直に言った。

 凪が俺を見た。

 俺は海を見たまま続けた。


「たぶん、言われたら重いです。自分が出ていくことで誰かが寂しいなら、知らないふりはできないし、じゃあ残った方がいいのかって考えると思います」


「……そうじゃろうな」


「でも――」


 そこから先がうまく出てこない。


 茶化せない。


 神様も凪も、俺の言葉を待っている。

 俺は潮の匂いを吸い込んだ。喉の奥が少ししょっぱい気がした。


「でも、何も言われないのも、たぶん怖いです」


「怖い?」


「平気なんだって思うから」


 自分で言いながら、母親の顔が浮かんだ。


 俺が県外に出たいと言ったら、母さんはどうするだろう。たぶん、最初は冗談みたいに返してくる。

 「洗濯は自分でできるの」とか、「朝起きられるの」とか、「内海さんに相談したの」とか、そういうことを言う。


 でも、本当は寂しいかもしれない。


 それを何も言わずに笑って送り出されたら、俺はたぶん、楽になるふりをして、あとから怖くなる。

 自分はそんなに簡単に出ていける存在だったのかと、もしかするとそんな変なところで傷つくかもしれない。


「寂しいって言われたら重いです。でも、何も言われなかったら、それはそれで……自分がここにいたことまで軽くなる気がします」


 言ってから、自分でも少し驚いた。

 俺はそんなことを考えていたのか。

 凪が静かに俺を見ていた。


「晴路くん」


「何」


「今の、ちゃんと書いておきたい」


「やめろ。急に恥ずかしくなる」


「ううん、大事なことだと思うんだ」


 凪はそう言って、本当にメモ帳を開いた。

 その横顔は真面目だった。

 神様はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。


「重いが、軽くもない方がよい、か」


「たぶん」


「とても……難しいな」


「はい、難しいですね」


 神様相手に俺がそう返すと、凪が少しだけ笑った。

 海沿いの道をさらに歩くと、町の景色が少し変わった。


 坂の上に、明るい緑が見えた。

 オリーブの木だろうか。小さな葉が光を返している。

 観光で来たら、きっとそこを目指すのだろう。

 写真を撮って、景色が良かったと感想を書いて、アイスでも食べて帰る。そういう一日も悪くない。


 でも今は、その手前にある古い戸口や、軒先の影や、誰かの暮らしが続いている気配の方が目に入った。


「内海はどう思う?」


 俺が聞くと、凪は少し驚いた顔をした。


「私?」


「神様の相談。出ていく子に寂しいって言っていいのか」


 凪はメモ帳を胸に抱え、海を見た。

 しばらく歩いてから、ゆっくり口を開く。


「私は⋯⋯残る側だと思ってた」


 声は小さかった。


 でも、はっきり聞こえた。


「ずっと?」


「うん。家もあるし、祖母もいるし、地域の手伝いもしてるし。周りからも、凪ちゃんはしっかりしてるねって言われることが多かったから」


「それは褒め言葉でもあるな」


 凪は少し笑った。


「でも、褒め言葉ってずっと聞いていると役割みたいになることがある」


 凪は少し海の方を見る。


「しっかりしてる。地元のことをちゃんと考えてる。残ってくれたら安心。そう言われると、私もそういう人でいた方がいいのかなって思う。誰かに無理やり言われたわけじゃないのに、自分でそう決めたみたいになる」


「それは⋯⋯」


 何か言おうとして、止まった。

 下手なことを言うと、凪の悩みまで軽くしてしまう気がした。


「だから、寂しいって言葉は残る人にも重いと思います」


 凪は神様を見た。


「出ていく人にとって重いだけじゃなくて、残る人にとっても、自分が受け止めなきゃいけないものになるから」


「残る者にも、か」


「はい」


 凪は頷いた。


「でも、言わないでほしいわけじゃありません。晴路くんが言ってたみたいに、言わないまま平気なふりをされるのも、たぶんつらいから」


 神様は目を細めた。


「では、どう言えばよいんじゃ」


 凪は困ったように眉を下げた。


「それが分かれば、私も進路希望調査票で困ってないと思います」


 神様が一瞬きょとんとして、それから笑った。

 俺もつられて笑った。

 凪が少しだけ頬を赤くする。


「今のはそんなに笑うところじゃないよ」


「いや、内海も困ってるんだなと思って」


「困ってるよ。晴路くんほど分かりやすく茶化してないだけで」


「俺の茶化し方、そんなに分かりやすい?」


「かなり」


 凪の言い方は静かなのに、やっぱり刺さる。

 でも、その刺さり方が嫌ではなかった。


 神様は祠の前に戻り、そこに腰を下ろした。

 俺と凪も、少し離れて石垣に腰をかける。目の前には、静かな海が広がっている。島影が低く浮かび、船の音が遠くでかすかに響いた。


 ずっと夕方みたいな光だった。

 けれど、不思議と暗くならない。


 ここはきっと、牛窓夕凪の神様が抱えている時間なのだろう。


 行く人を見送る直前。

 残る人が手を振る直前。

 寂しいと言うか、笑って黙るか、その一歩手前の時間。


「……私、思うんですけど」


 凪が言った。


「寂しいって言葉が重いのは、その後に何が続くかが分からないからだと思います」


「その後に?」


「はい。たとえば寂しい……だから行かないで。そう聞こえると重いですし、寂しい……だからあなたが悪い。そう聞こえても苦しいと思います」


 凪はメモ帳の角を指で押さえた。


「でも、寂しい……だから、あなたがここにいたことを忘れない。寂しい……だけど、元気に行ってきて。そしていつかまたここに帰ってきて。そういう言葉が後ろに続くのなら――違う気がします」


 神様の顔から、少しだけ力が抜けた。

 凪は続ける。


「たぶん、言葉を全部我慢するんじゃなくて、相手を縛らない形にすることが大事なんだと思います」


 俺は隣にいる凪を見た。

 凪は残る側だと思っていた。

 でも今の言葉は出ていく人を責めない言葉だった。

 

 自分が重くなるかもしれないのに、相手を縛らない言葉を選ぼうとしている。

 それが凪らしくて、なんだか少し苦しかった。


「俺も、たぶん同じです」


 俺は言った。

 神様と凪がこちらを見る。


「寂しいっていうことは、相手に言っていいと思います。でも、それだけで止めようとされたら、たぶん逃げたくなる。逆に、全然寂しくないみたいに笑われたら、ここに戻ってくる理由が消えていくかもしれません」


「戻ってくる理由……」


「はい」


 俺は海を見た。


「出ていくとしても、戻ってくるかどうかなんて分からないです。帰ってくるって約束しても、たぶん守れるか分からない。でも、誰かが寂しいって思ってくれてる場所は、心のなかで完全には消えないから」


 言葉にしてみると、胸の奥が少し熱くなった。


「だから、寂しいって言ってもいいと思います。ただ、行くなじゃなくて。寂しいけど、行ってこいって。そう言われたら、たぶん……俺は絶対にこの場所を忘れない」


 神様は長いこと黙っていた。


 風のない海を見て、港を見て、祠を見て、それから俺たちを見た。


「寂しいは鎖ではなく、灯にもなるのか」


 ぽつりと、神様が言った。

 その言葉と同時に、止まっていた空気が少しだけ動いた。


 海面に細い皺が走る。

 オリーブの葉が小さく鳴る。

 凪の前髪が、ふわりと揺れた。

 神様はこちらを見た。


「わしは言葉を間違えたくなかった」


 その声はさっきまでより少し軽かった。


「言えば縛ると思った。言わねば忘れられると思った。どちらも怖かった。だから長い間、黙っておった」


「長い間って、どのくらいですか」


 俺が聞くと、神様は少し考える顔をした。


「人間の学校なら、だいぶ出席日数が足りぬくらいじゃな」


「急に分かりやすい」


「分かりやすさは大事じゃろう」


 神様が真面目に言うので、凪が小さく笑った。


 こういうところは、ちゃんと神様なのか疑わしくなる。

 でも、だからこそ近く感じた。


 神様は祠の前に立ち、海へ向かって深く息を吸った。

 俺と凪は自然と黙った。

 遠くの船が港の外へ向かっている。


 それが現実の船なのか、この場所に残った記憶なのかは分からない。小さな船影は夕凪の海の上でしばらく止まっているように見えた。

 神様はその船に向かって言った。


「寂しい」


 風が止まるかと思った。

 でも、止まらなかった。


 神様は続けた。


「寂しいぞ。忘れられたら、わしは悲しい。おまえがここにおったことを、わしは覚えておる」


 白い袖が風に揺れた。


「じゃが、行け。行きたい風があるなら行ってこい。帰ってこられぬ日が続いてもよい。帰り方を忘れてもよい。わしはそれでもここにおる」


 船影がゆっくり動き出した。

 止まっていた海に、細い風の道ができる。


 俺は胸の奥がぎゅっとなった。

 それは悲しい言葉ではなかった。

 寂しいと言っているのに、苦しいだけではなかった。


 誰かをしっかりと見送る言葉だった。

 引き止めるためではなく、ちゃんと送り出すための言葉。


 凪が隣で、静かに息を吐いた。

 見ると、目元が少し赤かった。


「内海⋯⋯」


「……大丈夫」


 凪はすぐにそう言った。

 でも、声は少しだけ揺れていた。


「大丈夫。ちゃんと……聞いてるだけ」


 俺はそれ以上言えなかった。

 代わりに、カメラを構えた。


 撮っていいのか分からなかった。でも、今は撮らないといけない気がした。

 綺麗な海だからではない。

 神様が言葉を取り戻した瞬間を、俺が忘れないために。


 シャッターを押す。

 画面には海と祠が写っていた。

 けれど、白い着物の神様の姿は映らなかった。


 神様が立っているはずの場所だけ、風が白くにじんでいた。

 誰かが最後までそこに残ろうとして、それでも写真には入れず、見送りの気配だけを置いていったみたいだった。


 寂しいと言って、それでも行けと送り出した声が、画面の白いにじみの奥で、まだ消えずに揺れている気がした。


「……写ってない」


 思わずつぶやくと、神様がこちらを振り向いた。


「⋯⋯わしらは、そういうものじゃ」


「でも、ここにいたのに」


「お主らが写らなかったものを、なかったことにせんでくれたらよい。それだけでよい」


 神様は少しだけ笑った。


「綺麗な写真にせんでもよい。ここに寂しい者がおったと⋯⋯お主たちが覚えておいてくれればよい」


 俺はもう一度画面を見た。

 海と、祠と、白くにじんだ風。

 そこに神様の姿は写っていない。


 それでも俺にはさっきまでの背中が目に焼き付いていた。寂しいと言って、でも送り出した後のあたたかい背中が。


「……分かりました」


 たぶん、初めてだった。

 写真を撮って、写らなかったものの方を残したいと思ったのは。


 凪がメモ帳を閉じる。


「私も、今日のことを書いておきます」


「それを、誰かに読ませるために残すのか」


 神様が少し不思議そうに聞く。


「いいえ、今を覚えておくためです。それに、そのままは書けないと思います。神様の話ですから」


「そうか」


「でも、牛窓で聞いたこととして、出ていく人と残る人の言葉についてはちゃんと書けます」


 神様は満足そうに頷いた。


「聞く者と写す者か。お主らに会えてよかった」


 さっきまで泣きそうだった顔が、いつもの静かな顔に戻っていく。

 その凪の変化に、俺は少しほっとした。


 そのとき、遠くから汽笛が聞こえた。

 振り向くと、乗ってきた短い列車が海沿いの線路に停まっていた。


 俺たちは列車の方へ戻ると、扉の横には車掌が立っていた。


「相談は済みましたか?」


 神様は俺たちではなく車掌に向かって頷いた。


「悩みは減った。言い方も少し分かった」


「それで十分でございます」


 車掌は切符鋏を鳴らした。

 神様は俺たちに向き直る。


「――お主たち」


 俺たちは背筋を伸ばした。


「お主たちの行き先は、まだ決まっておらぬか?」


「……はい」


「なら、決まらぬままでいい。しばらく歩いてみろ。急いで答えを出すと、答えの形をしただけの荷物を背負うことになる」


 凪が小さく頷いた。


「はい、ありがとうございます」


「出る者は残る者を置いていくわけではない。残る者は出る者に置いていかれるだけではない。見送ることも、帰る場所でいることも……どちらも力がいる」


 神様はそこで、凪を見た。


「内海凪、と言ったな」


「はい」


「凪とは止まることだけではない。荒れたものが静まり、次の風を待つ時間でもある」


 凪の指がメモ帳の表紙をぎゅっと押さえた。


「私は待っているだけなんでしょうか」


「それはこれからお主が決めることじゃ」


 神様は静かに言った。


「誰かのために静かでいるのか。自分の風を待っているのか。それを見分けぬまま残ると、心だけが遠くへ行くこともある」


 凪は何も言わなかった。

 けれど、その目が少しだけ揺れた。


「残ることは止まることではない。ここにいると自分で決めることも、遠くへ行くのと同じくらい力がいる」


「……はい」


 凪は小さく頷いた。

 神様は少し笑った。


「次の神も、お主らに面倒なことを聞くじゃろうなぁ。……道中、気をつけて行け」


「……神様の悩みって、みんな面倒なんですか」


 俺が聞くと、神様は真顔で答えた。


「長く同じ場所におる者は、だいたい面倒になる。わしのようにな」


「説得力がすごいです」


「はは、まぁそれだけ長く生きておるからな」


 凪が今度はちゃんと笑った。

 俺たちは神様に頭を下げ、列車へ戻った。


 扉の前で、俺はもう一度振り返る。


 牛窓夕凪の神様の白い着物の袖が風に揺れている。さっきまで止まっていた風は、もう止まっていない。

 神様は手を振らなかった。

 ただ、静かに見送っていた。


 それだけなのに、胸の奥がなんだか温かくなった。

 列車が進み始める前、車掌が俺たちの切符を確認した。

 白い切符の端に、いつの間にか青い印が押されている。


『牛窓夕凪――相談済』


「相談済って、課題提出みたいだな」


「ふふ、晴路くん、ちゃんと提出できたね」


「まだ一駅分くらいだろ、あとどれだけあるんだ」


「一駅分でも、大事だと思う」


 列車は進み、凪が窓の外を見た。

 牛窓夕凪の神様は祠のあたりに立っていた。


 その姿が少しずつ小さくなっていく。


 俺はふと、現実の牛窓にもし行ったときは、何を撮るのだろうと考えた。


 海。

 港。

 白い家並み。

 オリーブの木。

 観光地としての綺麗な牛窓。


 でも、たぶんそれだけでは足りない。


 そこにいる人が、誰を見送り、何を待ち、どんな言葉を飲み込んできたのか。

 それを全部写すことはできない。

 でも、写そうとすることはできるのかもしれない。


  車掌は何も聞かなかった。ただ、切符鋏を鳴らし、次の行き先表示を指した。

 車内の古い表示板が、ぱたんと音を立てて変わる。


『次は、播磨名残島』


 凪が表示を見上げる。


「播磨……兵庫の方だよね」


「牛窓の次が、いきなり兵庫側か」


「でも、海の上を走っているなら、つながってはいるのかもしれないね」


「距離感が普通の列車じゃないな」


「最初から普通じゃないよ」


 凪は窓の外を見た。


 牛窓の海が少しずつ遠ざかっていく。

 夕凪の静けさが朝の光にほどけ、その向こうで、小さな島影がいくつも重なった。


「……見てみたいね」


「内海は本当に真面目だな」


「晴路くんが不真面目すぎるだけだよ」


「それ、今日二回目じゃないか」


「たぶん、まだ増えると思う」


 凪の声は少しだけ軽くなっていた。

 俺はカメラの中の写真をもう一度見た。


 海と祠。

 そして、神様が立っていた場所にだけ残った、白くにじんだ風。


 そこに、白い着物の後ろ姿は写っていない。

 でも、俺には見えていた。


 寂しいと言って、それでも行けと送り出した場所。

 写らなかったものを忘れないために、俺はその一枚を旅の最初の写真として残すことにした。


 列車が走り出す。


 窓の外で、夕凪の海が朝の光にほどけていく。

 その向こうに、点のような島影がいくつも浮かんでいた。


 海に広がる島の影。


 次に待っている神様は、何を迷っているのだろう。

 俺はまだ、自分の行き先を決められない。

 凪もきっとまだ決められないでいる。


 でも、決められない俺たちだからこそ、届く言葉があるのかもしれない。


 せとうち各駅停車は海の上を走るように、次の駅へ向かっていった。


  

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