第1章 行き先未定の切符
「瀬戸。おまえの進路希望先、大都会岡山って何だ」
担任の声が教室に落ちた瞬間、後ろの席で誰かが吹き出した。
夏休み直前の六時間目。
窓の外では、部活に向かう下級生の声がもう聞こえている。
教室の中だけが、進路希望調査票という白い紙に縛られていた。
俺――瀬戸晴路は、担任の手元にある用紙を見た。
進路希望先――大都会岡山。
自分で書いたくせに、こうして読み上げられると、思っていたより馬鹿みたいだった。
「で、なんで大都会岡山なんだ」
「岡山の可能性だからです」
「可能性で進路指導はできんな」
担任のペンがそこで止まった。
「瀬戸がちゃんと行きたいところを書け」
行きたいところ、か。
その言葉は自分には重かった。
県外のどこかを書くには行きたい場所がなかった。
県内と書くには、残る理由が思いつかなかった。
未定と書くには、何も決められない自分をそのまま出すみたいで嫌だった。
だから、冗談にしてしまえば、まだ何も決めていないことを少しだけ隠せる気がした。
七月の教室は冷房が効いているのに、どこか熱が残っている。
窓の外ではグラウンドの白線が昼の光にぼやけていた。
教室には夏休み前の浮ついた空気と進路の話が少しずつ本格化していく重さが、変な具合に混じり合っている。
周りの用紙を盗み見ると、それなりに書いている人が多かった。
県内の大学に行きたい。
関西方面も考えている。
情報系の専門学校が気になる。
県内で公務員を目指す。
まだ未定です。
そこまで具体的でなくても、みんな何かしら、自分の欄を埋めていた。
俺は未定、とすら書けなかった。
「瀬戸晴路」
担任は今度はフルネームで呼んだ。こういう時にフルネームで呼ばれると、逃げ道をふさがれた気がする。
「決まっていないなら未定でいい。今の時期に未定なのは悪い答えじゃない。ただ、大都会岡山では面談にならん」
「面談不可ですか」
「そうだ、不可だ」
また後ろで笑いが起きた。
担任はため息をつき、新しい調査票を一枚、俺の机に置いた。
「今日中に書き直せよー」
「はい。すみません」
先生の持つペン先が机を叩いた音がした。
「あー、それとお前は夏休みの総合探究の計画案が白紙だったな」
「白紙ではありません。まだ構想段階なんです」
「それが白紙ということだ。計画書の締め切りまであと三日しかないぞ」
担任は教卓の上から別の紙を取り上げた。
夏休みの総合探究活動の大きなテーマは『地域』だ。
どこかの『地域』に焦点を当てて、調べたい具体的なこと、調査したい内容、班員のメンバー、予定している日程などを書いて出すことになっている。
俺の用紙は綺麗なものだった。
綺麗すぎて、提出物というより印刷したてのプリントだった。
「構想段階ということなら、ちょうどいいだろう。瀬戸、お前は内海と組んで調べてみろ」
その瞬間、窓際の席でノートを閉じていた内海凪が顔を上げた。
内海とはお互いの家までは歩いて二分。
親同士も仲が良い、いわゆる幼なじみというやつだ。
同じ学区で育った俺たちは、そのまま同じ高校に進んでいた。
高二でまた同じクラスになって話す機会は増えたが、昔みたいに何でもない顔で隣に立てるほど子どもでもなく、かといって他人みたいに距離を取るほど遠くもない。
何だか距離感が分からない相手。
それが今の凪だった。
「先生、私のテーマ、まだあまり行き先が具体的には決まってませんが」
「だからちょうどいいんだ。瀬戸と内海で『瀬戸内班』だ」
「先生、今、完全に名前で決めましたよね」
俺が言うと、担任は真顔で首を横に振った。
「ちがうちがう。地域性と人材を考慮した結果だ」
「いえ、絶対名前ですよね」
「内海、瀬戸内地域をテーマにするにはこれ以上ない人材配置だと思うぞ」
教室がまた笑った。
凪は困ったように眉を下げたが、口元だけ少し笑っていた。
嫌がられてはいないみたいだ。
そこに少しだけ安心する自分がいて、俺はそれをごまかすように椅子の背にもたれた。
「内海は総合探究の希望欄に『瀬戸内の町と若者』と書いていただろう」
「はい。この辺りの10代の子たちは、進学や就職で地元を離れる人が多くなっています。瀬戸内を中心とした地域で、若者たちがどうして県外へ出ていくのか、どうして残るのか、いったん出た後に戻ってくる人はどういう人なのか、そこの土地に行ってみて、その土地の人たちと話をして調べたいと思っています」
凪の声は落ち着いていた。
こういう時、凪は強い。自分の考えを、まっすぐ言葉にできる。俺みたいに茶化して逃げない。
「人口流出と若者の進路選択だな。最近は特に重要なことだから、良いテーマだと思うぞ。瀬戸は進路未定の当事者だし、写真部だから記録係もできるだろう」
「俺は教材ですか」
「いや、違う。教材兼記録係だ」
担任は俺と凪の名前を見比べ、また少しだけ口元をゆるめた。
やはり面白いと思っている顔だった。
凪は新聞部で、校内広報みたいなことをよくやっている。行事の取材をして、短い記事を書いて、使う写真を選ぶ。
人の話を聞くのに慣れているし、メモを取るのも早い。
俺は帰宅部に近い写真部だ。
何か大きな賞を狙っているわけでもない。部室に古いカメラがいくつかあって、たまに撮影会があって、夏休みには自由課題を出す。それくらいのゆるい文化部だ。
凪は聞く。
俺は撮る。
だから、総合探究の旅としてはちょうどいいのかもしれない。
ただし、それは表向きの話だった。
俺は写真部のくせに、自分が何を撮りたいのか分からない。綺麗な空も、駅のホームも、海の写真も、撮ればそれなりに形になる。
でも、それだけだった。
自分が何を残したいのか、まだ分からなかった。
たぶん進路も、それと似ている気がする。
自分が何をしたいか、わからない。
「じゃああとは自由時間だ。好きに使えー」
そう言って担任はどっかりと椅子に座って自分は担当教科の採点を始めた。
「――ねえ、晴路くん。夏休みの予定って、何日か空いてる?」
凪が俺の席の方に来て、話しかけてきた。
「大都会岡山の警備で忙しいかもしれない」
「それなら、警備の合間で大丈夫だよ」
「それでいいのなら……」
凪は空いていた椅子だけを借りてくると、ノートを開き、その場で今後の予定を書き始めた。
牛窓、王子が岳、瀬戸大橋、下津井、宇野港、小豆島、鳴門、潮待ち鳥居前、尾道、しまなみ、大三島、周防大島、笠岡諸島……。
まずは岡山から始めて、瀬戸内海に沿って少し遠くまで広げていくつもりらしい。
横に小さく、移動手段と日付の候補が並んでいく。俺が進路希望調査票を冗談で埋めている間に、凪はもう夏の形を作り始めていた。
その横顔を見て、俺は少しだけ黙った。
凪は岡山に残るつもりだと、なんとなく思っていた。
凪の家のことは知っている。
地域の活動にも顔を出している。祖母の手伝いで港の朝市に行くこともあるらしい。俺よりずっと、岡山や瀬戸内に足がついている。
だからきっと、進路も決まっているのだろう。
そう思っていた。
「内海はさ……」
「うん?」
「もう決めてるのか? 進路」
聞いた瞬間、凪のペンがほんの少し止まった。
それは一秒にも満たない間だった。
周りの笑い声や椅子を引く音に紛れてしまうくらい、小さな間。
「どうだろう、決めてるように見える?」
凪はノートに目を落としたまま言った。
「見える」
「そっか」
「違うのか?」
「どうだろう」
凪は笑った。
昔からの凪の笑い方だった。静かで、波が立たない。名前の通り、凪いだ海みたいなゆったりとした笑顔。
でも、その日だけはその静かな笑顔が少し苦しそうにも見えた。
「たぶん私も、調べながら考えたいんだと思う」
それだけ言って、凪はまたペンを動かした。
そのとき、担任が凪の書いている計画書を見に来ていた。
「どうだ? 予定は立ってきてるか?」
「少しずつですが一応立ててみてます」
「瀬戸、内海。夏休み前に旅程表を作って、保護者の確認を取れよ。学校にもより細かい予定は提出すること。分かったな」
「先生、そこまで言われると、逆に大ごと感が出ます」
「もし高校生男女が泊まりがけで調査に行くなら当然だろう」
「俺たち、幼なじみですよ」
「だからこそ、親同士には確認しろよな」
凪が小さくうなずく。
「うちは大丈夫だと思います。晴路くんのお母さんにも、母から連絡してもらいます」
「話が早い」
「幼なじみ……だからね」
凪はそう言って、今度は少しだけ俺を見た。
幼なじみ。
その言葉は便利だ。
近くにいても変じゃない。
二人で話していても変じゃない。
親に名前を出しても変じゃない。
でも、便利すぎて、その先を考えなくて済んでしまう。
俺は机の上の新しい進路希望調査票を見た。
現時点での希望進路欄は空白だった。
大都会岡山と書けば笑いになる。
未定と書けば、きっとこの担任は真面目に相談に乗ってくれるだろう。そういう面倒見のいい先生だ。
でも本当はそのどちらでもなかった。
俺は岡山を出たいのかもしれない。
けれど、どこへ行きたいのかは分からない。
凪と同じ岡山に残りたいのかもしれない。
けれど、残る理由を聞かれたら……うまく答えられない。
進路という言葉はまだまだ自分にぴんとこなかった。
「ねえ、晴路くん、見て。このタイトルでいい?」
凪が俺の机に自分のノートを寄せた。
そこには、夏休みの仮タイトルが書かれていた。
『瀬戸内の地域と若者の行き先――出ること、残ること、帰ること』
まじめだ。
まじめすぎる。
俺は少し考えて、タイトルの上に小さく書き足した。
『大都会岡山発』
凪がそれを見て、しばらく黙った。
「……え」
「急に親しみやすくなった」
「先生に消されそうじゃない?」
「消されたら、瀬戸内の海に訴える」
「海に?」
「海は広いから、たぶん話くらい聞いてくれる」
「晴路くん、それは進路相談じゃなくて願掛けだよ」
凪が今度はちゃんと笑った。
その笑い声を聞いた時、夏休みが少しだけ近づいた気がした。
■□■□■
旅程表は思ったより大ごとになっていた。
岡山の瀬戸内海に面する地域で、俺たちが最初に向かうことにしたのは牛窓だった。
そのあと、王子が岳、瀬戸大橋、下津井、宇野港と、岡山から見える瀬戸内の海を少しずつ西へたどる。
牛窓だけなら日帰りでよかった。
けれど、凪はせっかく瀬戸内をテーマにするなら、岡山だけで終わらせたくないと言った。
「岡山から始めるなら、そこから海がどうつながっているかも見ておきたいな」
「真面目だな」
「晴路くんが不真面目なだけだよ」
「大都会岡山代表としては、まず岡山の偉大さを他の県に知らしめる方向でも」
「その場合、最初に晴路くんが岡山のことをもっとちゃんと知らないといけないね」
「急に弱点を突かれた」
凪はすました顔で、地図アプリを開いた。
最初の目的地は牛窓方面。
赤穂線で邑久まで出て、そこから牛窓行きのバスに乗る予定になっている。
岡山県内なので、その日は日帰りだ。
王子が岳や瀬戸大橋方面は、別の日に児島側から回る計画になっていた。
全部を泊まりで回るわけではない。
家に帰れる日は帰らなくてはお金もかかるし、親に許してもらうにも、その方が現実的だった。
ただ、香川や愛媛、広島、山口、兵庫まで足をのばすとなると、日帰りは難しい場所もあるかもしれない。
総合探究とちょこっと夏休みの旅行を兼ねて、民宿やユースホステルを使う予定も立て始めていた。
まずは岡山の海側を見て、それから数日かけて瀬戸内をぐるっと巡る。
凪の旅程表には、移動手段、宿泊先、親への連絡時間まで細かく書き込まれていた。
計画が壮大になってきたので、大人が聞いたら少し心配する計画だ。
実際、両家の親は心配していた。
ただ、俺と凪が幼なじみで、親同士も昔から顔を知っている。だから、色々とルールが設定された。
学校に出す旅程表や予定を互いの家にも出すこと。
基本的には日帰りにすること。
遠方で宿泊が必要な時だけ、事前に予約した宿を使い、男女別室にすること。
定期的に親に連絡すること。
移動は公共交通だけにすること。
夜歩きはしないこと。
かなり多くのルールが設定されたが、そんなことより俺はワクワクが勝っていた。
最初は乗り気ではなかったが、計画が具体的になるにつれて、いきなりやる気が出てきていたのだ。
単純な性格だと思う。
夏休みの旅行も兼ねていると思えば楽しみで仕方なかった。
母は言った。
「晴路、凪ちゃんに絶対に迷惑かけんようにな。あんたがもし手でも出したら……お母さんが殴るけぇな」
「俺の心配より、内海の迷惑の心配なのか」
「昔っから、あんたが迷惑をかける側じゃけな」
「信頼がない」
「実績があるけえ」
反論できなかった。
凪の母さんからはうちの母に直接連絡があったらしい。家族ぐるみの付き合いがあると、こういう時だけは話が早い。
その代わり、逃げ場もなかった。
□■□■□
夏休み三日目の朝、俺は岡山駅の改札前に立っていた。
まだ朝の七時前だというのに、駅はもう動き始めていた。
通勤の人、部活の遠征らしい高校生、キャリーケースを引く家族連れ、旅行鞄を肩にかけた大学生らしい人。駅の床に朝の光が反射して、売店のシャッターが半分だけ上がっている。
岡山駅は俺にとって、『いつもの場所』だった。
買い物に行く時も、遊びに行く時も、県外へ出る時も、だいたいここを通る。だから、これまで特別な場所だと思ったことは一度もなかった。
でも、この日だけは少し違った。
ここから、瀬戸内を巡る旅が始まる。
そう思うと、いつもの改札が、知らない入口みたいに見えた。
「――晴路くん」
呼ばれて振り向くと、凪が立っていた。
白のTシャツに、小さな花模様がついた帽子。
肩には小さめのリュック。もちろん私服の凪を見たことがないわけではない。
昔は近所の祭りでも、家族同士のバーベキューでもよく見ていた。
それなのに、少しだけ言葉が遅れた。
「晴路くん、おはよう」
「お、おはよう」
「え、何? 緊張してるの?」
「そりゃ、朝だから」
「ふーん、朝のせいにするんだね」
凪は少し笑った。
いつもの笑い方だった。
なのに、駅の朝の光の中で見ると、俺の知っている凪より少し遠く見えた。
目の前にいるのは幼なじみではなく、一人の同級生でもある。
これから同じ旅に出る相手として、改めて目の前に立っている感じがした。
俺はその説明しづらい気持ちをごまかすために、すぐに改札の上の表示を見上げた。
「さて、大都会岡山発の歴史的調査旅行が始まるわけだが……」
「歴史的になるかどうかは、晴路くんがちゃんと写真と記録を取るかどうかにかかっているよね」
「そうだな、記録係、責任重大だ」
「うん。あと、寝坊しない係もね」
「今日はむしろ俺のほうが早かった」
「今日はね」
凪はスマホで旅程表を確認した。
今日の目的地は牛窓方面。赤穂線で邑久まで出て、そこから牛窓行きのバスに乗る。岡山の海側を見る最初の日で、日帰りの予定だった。
大人たちにはきちんとした探究課題として説明したが、正直に言えば、俺にはまだ実感がなかった。
自分が何を見たいのか。
何を知りたいのか。
何を決めたいのか。
それが分からないまま、切符だけを持っている。
「晴路くん」
「ん?」
「行き先って、決まってなくてもいいと思うんだ」
凪が改札の向こうを見ながら言った。
「いきなりどうしたんだ」
「顔に書いてあったから」
「え、俺ってそんなに分かりやすい?」
「うん。大都会岡山って書いてある」
「……それは進路希望だろ」
凪はまた小さく笑い、それから少しだけ真面目な顔になった。
「でも、本当に。旅の行き先は決まってるけど、私たちの行き先は決まってなくてもいいと思う。それを決めるために、行くんでしょ?」
そう言われると、胸の奥が少しだけ軽くなった。
凪は俺よりずっと落ち着いていた。
けれど、その凪でもまだ進路ははっきりと決まっていないらしい。
それだけで、少し救われた。
俺たちは改札を抜け、岡山駅の三番・四番のりばへ続く階段の方へ進む。
西大寺、邑久、播州赤穂。
発車標には、岡山駅から東側への地名が並んでいる。牛窓へ直接行く列車はない。赤穂線で邑久まで出て、そこから牛窓行きのバスに乗る。
それが凪の立てた旅程だった。
岡山駅は俺たちにとっては普通の駅だ。
でも、別の見方をすれば、ここは瀬戸内へ出る入口でもある。
何度も見たことがある発車標なのに、その日はどこまでも続いているように見えた。
凪が発車標を見上げた。
「ねぇ、晴路くん、あれ見て」
「え、何?」
「あれ」
三番のりばの発車標の一番下に、一行だけ見慣れない表示が混じっていた。
『せとうち各駅停車』
『終点未定』
俺は足を止めた。
周りの人たちは何も気にしていない。
通勤の人はスマホを見たまま歩き、部活の高校生たちは笑いながら階段を下りていく。誰も、その表示に反応していない。
「内海」
「見えてる」
「終点、未定って書いてあるよな」
「書いてある」
「そんな列車、あったっけ?」
「うーん、大都会でも、さすがにないと思う」
表示の下に、小さくもう一行が浮かんだ。
『行き先に迷うお客様は、ご乗車ください』
俺と凪は、同時に黙った。背筋が少し冷えた。
夏休み三日目の岡山駅。朝の人の流れ。
売店から漂う弁当のにおい。
改札を抜ける足音。
いつもの現実はちゃんとそこにある。
なのに、三番のりばの先だけが少し遠く見えた。
凪が俺を見る。
「あの、晴路くん……」
「うん」
「行ってみる?」
普通なら、行かない。
怪しい。意味が分からない。怖い。
そもそも終点未定の列車なんて、乗っていいわけがない。
でも、俺は自分の手元を見た。
切符。
旅程表。
そして、凪のノートに書かれた言葉を思い出した。
大都会岡山発。
岡山から海へ。
出ることと残ること。
俺は息を吸った。
「行き先未定の人間に、行き先未定の列車が来たんだ」
「でも、あれ、私たちにしか見えて、ないよね……?」
「ぽいな。だからこそ、探究課題としては強い」
「……学校に提出できるかな」
「なら、できない部分は瀬戸内の神秘として処理しよう」
凪は困ったように笑った。
けれど、逃げようとはしなかった。
二人でその列車へ近づいてみる。
三番のりばの端、本来なら車両が停まるはずのない余白に、その列車は停まっていた。
見たことがあるようで、ない車両。
古い普通列車にも見えるし、どこかの観光列車にも見える。銀色の車体の窓には朝の岡山駅ではなく、かすかに光る海が映っていた。
扉の横に、行き先表示が出ている。
『せとうち各駅停車』
『終点未定』
『次は、牛窓夕凪』
牛窓……夕凪?
最初の目的地、牛窓と同じ名前だった。
でも、牛窓に鉄道の駅はない。
本当なら、俺たちは赤穂線で邑久まで行き、そこから牛窓行きのバスに乗る予定だったのだ。
凪の旅程表にも、しっかりとそう書いてある。
なのに、目の前の行き先表示には、当たり前みたいに『牛窓夕凪』と出ていた。
「内海」
「うん。牛窓に駅はないよね」
「……だよな」
「それに、そもそも夕凪駅なんて聞いたことない」
「内海の……名前にも似てる」
凪はこちらを見てくる。
扉が開いた。
中から、なぜか潮の匂いがした。
――岡山駅のホームなのに、夏の海の匂い?
凪が小さく息をのむ。
俺も、もう冗談を言えなかった。
車内は空いていた。向かい合わせの座席が並び、天井の古い扇風機がゆっくり回っている。
窓の外には岡山駅のホームがあるはずなのに、遠くで波が光っていた。
乗っていいのか。
ちゃんと戻れるのか。
――そもそも、これは現実なのか?
迷っていると、車内の奥から声がした。
「お乗りになるなら、お早めに」
見ると、車掌らしい人が立っていた。
その顔はよく見えない。帽子の影が深く、声だけがやけに近い。
「この列車は、行き先を決めかねている方々のための各駅停車の列車です」
「方々?」
俺が聞き返すと、車掌は切符鋏を鳴らした。
「人間だけが行き先に迷うと思っておられますか」
背中が冷える。
凪がそっと俺の袖をつかんできた。
昔なら、こういうときに手を引くのは俺の役目だった気がする。祭りの人混みでも、暗い帰り道でも、凪が少し怖がると、手を引いて少し先を歩いた。
でも、今はどちらが前か分からない。正直、俺も少し怖かった。
だから、袖をつかまれたことにどこか安心した自分がいた。
「……晴路くん」
「うん」
「やめるなら、今だと思う」
「そうだな」
凪は列車の奥を見た。
誰も座っていない向かい合わせの席。
窓の外にあるはずの岡山駅のホーム。
その向こうで、ありえないはずの海が光っている。
「でも、迷っているのが人間だけじゃないなら。なおさら少し聞いてみたい……かも」
凪の声は小さかった。
でも、逃げる声ではなかった。
俺は笑いそうになった。
凪はこんなときまで、何だか真面目だった。
でも、その真面目さに引っ張られてしまう自分がいる。
「……じゃあ、行ってみるか。出たとこ勝負だ」
「……うん!」
「いざ、大都会岡山発、終点未定の旅へ!」
「それ、本当にタイトルにするつもり?」
「じゃあ、仮題で」
凪が少し笑った。
その笑いに背中を押されるように、俺は先に列車に足を踏み入れた。
後ろから凪も続く。
それを確認したように、扉が静かに閉まった。
ホームのざわめきが遠ざかり、代わりに波の音が近づいてきた。
車掌が俺たちの前に立つ。
「瀬戸晴路さま。内海凪さま」
名前を呼ばれて、俺たちは同時に顔を上げた。
「どうして名前を」
「この列車は、行き先未定のお客様をお待ちしておりました」
車掌は切符鋏を小さく鳴らした。
「お二人の切符を拝見します」
俺たちは普通の切符を差し出した。
岡山から目的地へ向かうために買った切符だ。
車掌はそれを受け取ると、鋏を入れる代わりに、白い小さな切符を二枚重ねて返してきた。
そこには、見たことのない文字が印字されていた。
『大都会岡山発』
『終点未定』
『目的:行き先確認』
『乗客:瀬戸晴路』
もう一枚には⋯⋯
『大都会岡山発』
『終点未定』
『目的:行き先確認』
『乗客:内海凪』
とあった。
「目的、行き先確認って」
「晴路くん、そのままだね」
「旅券にまで自分の進路が未定なことをいじられるとは思わなかった」
車掌の口が少しだけ動いたように見えた。
「……迷いを笑えるうちはまだ進めます」
「迷いを笑えなくなったら?」
「そのときは、どなたかに聞けばよろしい」
「誰に?」
車掌は窓の外へ目を向けた。
「同じように迷っている方に、です」
その瞬間、窓いっぱいに海が近づいていた。
線路の両側に夏草が揺れ、その向こうに、朝の光を受けた水面が広がっている。
岡山駅のホームはもう見えなかった。
窓の外は現実の路線ではありえない景色だった。けれど、潮の匂いも、窓から入る湿った風も、遠くで鳴く鳥の声も、全部が本物みたいに肌に触れた。
凪が切符を見つめたまま言う。
「どうして、私たちなんですか?」
車掌はすぐには答えなかった。
列車がゆっくりと揺れる。扇風機の羽が回り、少し冷たい風が凪の前髪を揺らした。
「行き先が決まっている方では、聞けない相談がございます」
「聞けない相談?」
「はい。迷っている方の言葉でなければ、届かない問いがあるのです」
俺は凪を見た。
凪も俺を見ていた。
俺は岡山を出たいのかもしれない。けれど、どこへ行きたいのか分からない。
凪は岡山に残るつもりなのかもしれない。けれど、それが本心なのか、責任感なのか分からない。
行き先未定。
切符に書かれたその迷いが、急に重く感じられた。
「……最初の相談者がお待ちです」
車掌が言った。
「牛窓夕凪の神様とお呼びしています」
「牛窓……夕凪の神?」
その瞬間、列車が速度を落とした。
窓の外の海が近くなる。
水面は穏やかで、朝なのに夕方みたいな金色を少しだけ含んでいた。遠くには島影が浮かび、白い鳥が低く飛んでいる。潮の匂いの中に、古い木と、乾いた網の匂いが混じった。
やがて、短いホームが見えてきた。
駅名標には青い文字でこう書かれていた。
『牛窓夕凪』
現実にはない駅。
けれど、どこかで見たことがあるような海。
その風景は瀬戸内海のどこかと言われても信じられるものだった。
列車が止まる。
扉が開くと、波音がそのまま車内へ入ってきた。
ホームにはひとりの老人のような人が立っている。
白い着物に、薄い青の羽織。
髪も眉も真っ白で、顔には深い皺がある。けれど、その背中は不思議と小さくは見えなかった。海の方から吹く風が、その人の袖を静かに揺らしている。
その人は俺たちを見ると、少し困ったように笑った。
「よう来たな」
声は穏やかだった。
でも、その奥に長い時間が沈んでいるように聞こえた。
「あなたが牛窓夕凪の神様ですか」
「そう呼ぶ者も、もう少なくなったがな」
神様は海を見た。
その横顔に、晴れた日の水面みたいな明るさと、夕方の港みたいな寂しさが一緒にあった。
凪が一歩前へ出る。
「私たちに、聞きたいことがあるんですか」
神様はゆっくりとうなずいた。
「あぁ、わしは若い者たちに聞きたい」
風が止んだ。
波音だけが残る。
「出ていく子たちに、寂しいと言ってもよいのか」
その言葉に俺は何も返せなかった。
凪も黙っていた。
いつもなら、相手の言葉を受け止めるためにメモ帳を開く凪が、そのときだけ何も動かなかった。
書いてしまうと、ただの調査になってしまう。
そんな問いだったからだろうか。
――出ていく子に、寂しいと言ってもよいのか。
神様の声なのに、なぜか遠いものには聞こえなかった。
玄関で「行ってらっしゃい」と笑う親の声。
港で船を見送る人の声。
帰ってこいと言いたいのに、言えば足を止めてしまいそうで飲み込んだ誰かの声。
その全部が聴こえてくる波の音に混じっている気がした。
俺はまだ県外に出るとも残るとも決められていない。
凪もきっと、自分が本当に残りたいのか、まだ言葉にできていない。
だからこそ、その問いは俺たちの胸の奥まで届いた。
牛窓夕凪の神様はもう一度、静かに言った。
「残れとは言わぬ。縛りたいわけでもない。ただ、出ていく子たちに、寂しいとだけは言ってもよいのか」
それが、俺たちがせとうち各駅停車で受けた、最初の相談だった。




