第9話 走るミア
「あんた、皿の洗い方が下手すぎる」
朝から言われた。
桶の水はまだ冷たい。厨房の窓は東向きで、この時間だけ港の方から低い光が入る。床を斜めに切った帯の中で、埃が回っていた。
リーヤは店に来て三日目にして、厨房の主みたいな顔をしていた。俺の隣に立って、洗い終わった皿を次々に拭いている。
厨房の奥は暗いので、後ろでまとめた髪はただの黒い塊に見える。でも、手が光の帯に入るたび、髪の先だけが赤銅に灼けた。
「三年やってるんだけど」
「三年やってこれ?」
「これって何」
彼女は皿を一枚、光にかざした。窓から入る朝の光に透かして、縁のところを指で示す。
「ここ。縁の内側。指が届いてない」
「届いてるよ」
「届いてない。指の腹で押してるでしょ。爪の脇を使うの」
彼女は自分の手で実演した。
爪は短くて、洗っても落ちない鉄の粉で黒い。
指が、独立して動いていた。人差し指の第一関節だけが、ひょいと曲がる。
「……気持ち悪」
「褒め言葉として受け取っとく」
彼女は鼻から息を出して笑った。声は出さない。
「クルト」
入口から声がした。
ドンさんだった。夜警明けらしい。目が半分閉じている。
でかい体で入口を塞いでいるので、後ろから来た客が入れずに困っていた。
「ドンさん、詰まってる」
「あ」
彼は横にずれた。客が入ってきて、頭を下げて奥へ行った。
ずれたとき、側頭部に残った髪に光が当たった。赤みがある。十日前まで、そこには白と、白になりかけた茶しかなかった。
ドンさんは一番手前の卓に座った。椅子を引くとき、床が鳴らないように持ち上げてから下ろす。二メートル近い男が、いまだにそれをやる。
座って、そのまま前に倒れた。額を卓につけている。
「寝るなら上で寝な」
マルタさんが厨房から怒鳴った。鍋を片手に持ったままだ。
「ここでいい」
「金取るよ」
「取っていい」
「取るよ!」
「取っていい……」
語尾が消えて、彼は本当に寝た。
でかい背中が、ゆっくり上下していた。卓に汗が落ちて、木に染みた。
昼前に、セシルさんが来た。
扉が開いた。影が短い。もう光が真上に近い。入ってきて卓に着くまでに、この人は一度も歩幅を変えない。外套の裾を手で払ってから座る。坂を下りてきたはずなのに、靴に泥がついていない。この街で一番きれいな靴だ。
いつもの卓に座って、いつものように食い、いつものように口元を拭いて、指で唇を触った。
食うのが速い。それなのに音がしない。皿の上のものだけが減っていく。
「広場に、貼り紙が出ました」
「なんの」
「授名の儀です。来月」
俺は手を止めた。持っていた皿が水に沈んで、桶の縁から水が零れた。
リーヤも止まった。
寝ていたドンさんが、額を卓につけたまま「ん」と言った。この人は寝ていても聞こえるらしい。
「行くのかい」
マルタさんが厨房から顔を出した。
「行きます」
セシルさんが言った。
「私は仕事なので。……ただ」
彼女は珍しく、言葉を切った。
そして、腕を組んだ。この人はいつもそうする。この街で袖を隠すのは無礼なのに、誰も何も言わない。神官だからだ。
「今年は、少し様子が違います」
「どう違うの」
「まだ分かりません。分からないので、見に行きます」
広場は、坂を上りきったところにある。
店を出て、上る。この街の坂は三回折れる。二度目の折れが一番きつくて、ふくらはぎより先に腿の付け根に来る。海から風が吹き上がってくるので、上っているのに背中を押されている気がする。
途中で一度、振り返った。赤茶の瓦が段になって下へ落ちていって、その先に港がある。マストが三本、細く立っていた。
もう一度折れて、視界が開けたところが広場だ。
この街で一番平らな場所で、鳩と、掃除している爺さんと、井戸と、掲示板がある。
石畳はここだけ新しい方の石だ。それでも真ん中は磨り減っていて、乾いていると灰白色、井戸のまわりだけ水がこぼれて黒い。歩くと踵の音がよく返る。
井戸は中央からやや東寄り。縁の石が磨り減って丸い。桶が二つ、鎖でつないである。誰かが汲むたびに滑車が鳴る。油が切れていて、きい、きい、と間の抜けた音が広場じゅうに届く。
鳩は井戸のまわりに固まっていて、人が近づいても三歩ぶんだけ飛んで、また降りる。匂いは水と鳩だけだ。
一日中よく光が当たる。街で一番明るい場所だ。いまは影が短くて、広場全体が白く見えた。
掃除の爺さんが、井戸の東側から西へ掃いていた。三年見ているが、名前は知らない。箒の柄の先が黒く光っている。
掲示板は北側の壁にある。木の板に紙を貼るだけのものだ。
その前に、子供が十人くらい集まっていた。
貼り紙は真新しかった。俺には読めない。
子供たちの頭は、全部、地の色だった。暗い茶、黒、栗、亜麻。北の海の血の白金が一人。それだけだ。
井戸の方はまるで違う。水を汲んでいる大人の頭の上には、青があって、緑があって、菫がある。三人に一人くらいの割合で、この世にない色が混じっている。
十歩と離れていない場所で、色がこれだけ違う。子供の群れは灰色で、大人の群れには色がある。十五になるまで、名の色は出ないからだ。
この街の子供はみんな、あっち側へ行く順番を待っている。
「なんて書いてある」
「授名の儀。来月の十二日。正午。今年十五になった者は全員出頭のこと」
リーヤが言った。
読み上げたわけじゃない。この人も字は読めない。朝から三回、読める誰かが読み上げるのを聞いたのだと言う。この街で字が読めるのは三人に一人もいない。掲示板の文句は、耳から耳へ移って広まる。
「出頭って書いてあるの?」
「書いてある。神殿の文はいつもこう」
「感じ悪」
「そう?」
子供たちは、貼り紙の前で騒いでいた。
「おれ、剣の名がいい」
「おまえ剣持ったことないだろ」
「持ったらいいだろ」
一人が井戸の東を指さした。壇が組まれる場所だ。もう一人がそこに立つ真似をした。
みんな、楽しそうだった。
俺にも、そういう時期があった。五年前だ。一度目のときは、俺も剣の名がいいと言っていた気がする。二度目と三度目のことは、あまり覚えていない。
――と、そのとき。
背中に、何かがぶつかった。
正確に言うと、ぶつかったというより、通過された。
肩を弾かれて、俺は半歩よろけた。よろけたときには、もう相手は三歩先にいた。
「ごめん!」
声だけが後ろに残った。高い声だ。走りながら出したとは思えないくらい、はっきりしていた。
小柄な影が、広場を斜めに突っ切っていく。
速い。
人の隙間を縫っているのに、一度も減速していない。よけているのではなく、空いているところが最初から見えているみたいな走り方だった。
頭の上で、明るい亜麻色の髪が跳ねていた。灰色の広場で、そこだけ光って見える。名の色じゃない。ただの地の色だ。それでも、離れていてもどこにいるかが分かった。
その子は、掲示板の前で急に止まった。
勢いがどこへ行ったのか分からない止まり方だった。踵が擦れる音すらしない。
止まって、貼り紙を見上げた。
一秒か、二秒。
それだけ見て、また走り出した。
「今の子」
俺は言った。
「速すぎない?」
「ミアだ」
リーヤが答えた。
「知ってるの?」
「知ってるよ。使い走りの子。うちにも来る」
「使い走り」
「手紙とか、小さい荷物を届けるの。港から坂の上まで、あの子なら一気に行く」
リーヤは、走り去った方を目で追っていた。
「先月、あの子の靴に当て革を貼ってやった。二日で駄目にしやがったけど」
言いながら、笑っていた。
「街の子供で、あの子に勝てるのはいないよ。大人でも無理」
「ふうん」
その日の夕方、店にその子が来た。
扉が開くより先に、足音が聞こえた。坂の下から上ってくる足音だ。うちの前は上りの途中だから、ここへ来る人間はみんな一度息をつく。この子はつかなかった。
小柄だ。背は俺の肩くらいしかない。痩せているのに、脚だけが違った。ふくらはぎが短くて、走ってきた直後だから硬く盛り上がっている。そこだけ別の生き物みたいだ。
肌はよく焼けている。小麦色というより、小麦を焦がした色だ。焼けているせいで、笑うと歯だけがやたら白く見えた。目は丸くて、濃い茶。まばたきが速い。
髪は明るい亜麻色で、短い。先の方だけ、日に焼けてもっと明るくなっている。前髪が汗で額に貼りついていたが、直そうともしなかった。
膝小僧に、擦り傷が三つ。二つは治りかけの茶色で、一つだけ赤い。今日のやつだ。
服は膝丈で、裾を短く詰めてある。もとは青だ。何度も洗って、いまは薄い水色になっている。青の染料は南から船で来るから高い。この街の子供が着る色じゃない。誰かが奮発して買ったんだと分かる。
腰にくたびれた茶の布袋を下げていて、中に手紙が何通か入っていた。
そして、じっとしていない。立っているあいだも踵が上がったり下りたりしている。
袖には、何も縫われていない。
俺は一瞬、心臓が止まりかけた。
止まりかけて、当たり前だと気づいた。この子はまだ十五じゃない。袖に何もないのも、髪にも目にも名の色がないのも、それだけの話だ。
「マルタさーん! 紙屋から!」
声が高い。店の端まで届く。語尾を伸ばす癖がある。
彼女は袋から一通抜いて、厨房に突き出した。
「おう、ご苦労さん」
「銅貨一枚!」
「高いよ」
「坂だもん。上りだもん」
「二枚出すから、帰りに肉屋寄って来な」
「いいよ!」
交渉が終わった。速い。全部が速い。
彼女は俺を見た。
見て、目を丸くした。
「あ」
「ん」
「名付け屋の人だ」
「……その呼び方、広まってる?」
「広まってるよ。八十人くらい並んだんでしょ」
「八十四人」
「うわ、ちゃんと数えてる」
彼女は勝手に椅子を引いて座った。断りもしない。脚の一本短い椅子で、座った瞬間にがたんと鳴ったが、気にしない。足が床に届かないので、ぶらぶらさせている。
それから卓に手をついて、身を乗り出してきた。
顔が近い。人との距離が近い子だ。
「ねえ、あれ本当? 名前つけられるの」
「つけられる」
「ふうん」
彼女は俺の袖を見た。何も縫われていない、擦り切れた麻の袖を。
それから、自分の袖を見た。同じく、何も縫われていない。
「おそろいだね」
「そうだね」
「あたし、来月もらうけど」
その言い方が、あんまり嬉しそうだったので、俺は少し驚いた。
「楽しみなんだ」
「楽しみだよ!」
彼女は即答した。
「ずっと待ってたもん。十五になるの」
言いながら、指を折って数えはじめた。片手で足りなくなって、もう片方も使った。
「なにがもらえると思う?」
「速いやつ」
「速いやつ」
「絶対、速いやつ。だってあたし、街で一番速いもん」
彼女は胸を張った。実際、小さい胸だった。
「じゃあさ」
俺は言った。
「もし、速くない名前だったら」
彼女は、きょとんとした。
首を傾げた。困っている顔ですらない。質問の意味が通っていない顔だ。
それから、少し考えて、こう言った。
「そんなわけないじゃん」
「ねえ、名付け屋さん」
「クルト」
「クルトさん。ひとつ言っていい?」
「どうぞ」
彼女は、まっすぐ俺を見た。
ぶらぶらしていた足が、そのときだけ止まった。
「あたしは、あんたに名前つけてもらわないから」
厨房で、リーヤの手が止まった。布巾を持ったまま、こっちを見ないで。
俺は、ちょっと笑った。
「なんで」
「だって、ずるいじゃん」
「ずるい」
「みんな神殿でもらうのに、あたしだけ先にもらったら、ずるい」
彼女は袋の紐を結び直しながら、あっさり言った。
「順番、あるでしょ。順番」
俺は、なんと答えていいか分からなかった。
順番。俺も三度、順番どおりに並んで、三度とも何ももらえずに壇を降りた。それでも順番は順番だった。
分からなかったので、頷いた。
「そのかわり」
彼女は続けた。
「儀の日、見に来てよ」
「見に?」
「あたしが名前もらうとこ。広場で」
「なんで俺が」
「だって、名前に詳しいでしょ」
彼女は椅子から降りて、袋を肩にかけ直した。走る前に必ずやるらしい。
「あんたが見てたら、いい名前が来る気がする」
根拠がなさすぎる。
でも、彼女は本気で言っていた。本気で言っているのが、顔に全部出ていた。
「……分かった」
「約束ね」
「約束」
「じゃ、肉屋行ってくる!」
彼女は走り出した。
入口を出るときに、ドンさんの寝ている卓の脇をすり抜けていった。卓から肘がはみ出していたのに、触れてすらいない。
ドンさんが、額を卓につけたまま言った。
「……速いな」
「起きてたの」
「今、起きた」
彼は目を閉じたまま、自分の耳のあたりを指した。それだけやって、また寝た。
俺はそれから、何日かミアを見た。
見た、というより、街を歩いていると必ずどこかで見かけた。
順路は決まっている。港で荷を受けて、坂を上る。うちの前を通るとき、この子はいつも上っている。上りきって広場を横切り、西の外れまで行って、東の区画へ抜けて、最後は東側の石段を駆け下りて港へ戻る。
だから、店の前に現れるのは一周に一度だけだ。帰りは石段を下るので、坂には来ない。
この子は、一日中走っている。
そして、気づいたことが二つあった。
ひとつ目。
彼女は、届けたあと、すぐには走り出さない。
紙屋の婆さんに手紙を渡したとき、彼女は少しだけ、その場に立っていた。
立っている、といっても、じっとしてはいない。走り出したくてたまらないのに、走り出さない。
婆さんが封を開けて、中を読んで、それから「ああ」と声を出した。嬉しそうな声だった。
ミアは、それを見てから、走り出した。
同じことが、東の区画でもあった。
小さい包みを届けて、受け取った男が中を見て笑ったのを確認してから、彼女は走り出した。
急ぎの仕事のはずなのに、そこだけ、律儀に待っている。
俺は、それを三回見た。
三回とも、待つ長さが同じだった。十数える間くらいだ。その十のあいだ、彼女は相手の顔だけを見ていた。
ふたつ目。
彼女は、いつも同じ道を通る。
港から東へ行くなら、海沿いを行った方が近い。平らだし、まっすぐだし、荷車も通れる。
でも彼女は、必ず坂を上って、広場を突っ切って、それから東へ下りていく。
遠回りだ。しかも上りが入る。一日に何周もするなら、その差は馬鹿にならない。
速い子が、わざわざ遅い道を選んでいる。
なんでだろう、と思って、四日目に広場で待ってみた。
南の端に立って、坂の下を見ていた。彼女は必ず下から来る。上ってくる足音は、下りてくる足音とは違う。刻みが細かい。
滑車がきいきい鳴って、鳩が二回飛び立って、爺さんが井戸の東から西まで掃き終わった。
彼女は来た。
広場を斜めに突っ切って、そして——掲示板の前で、一瞬だけ止まった。
貼り紙を見上げる。
一秒か、二秒。
それだけ見て、また走り出した。
毎回、そうだった。止まる長さも同じだった。
あの子は字が読めないはずだ。読めないのに、毎回止まる。
「見てましたね」
背中から声がした。
セシルさんだった。いつからいたのか分からない。この人はいつもそうだ。
「見てた」
「何か出そうですか」
俺は、しばらく考えた。
「出ない」
「そうですか」
「まだ、四日だし」
俺は掲示板を見上げた。
読めない文字が並んでいる。真新しい紙。四隅に釘が打ってある。北向きの壁なのに、紙だけが白い。
隣にセシルさんが並んだ。読めない者と読める者が、同じ紙を並んで見上げていた。
「あの子さ」
「はい」
「毎回、あれ見てるんだよ」
「授名の儀の貼り紙を」
「うん。遠回りしてまで」
セシルさんは、しばらく黙っていた。
それから、指で唇を触った。
「……そうですか」
いつもより、少しだけ、間があった気がした。
「クルトさん」
「なに」
「神殿の記録は、この街の分だけで三千件あります。四十年ぶんです」
急に何の話だ、と思った。
「そのうち、二百件以上が、実態と合っていません」
「合ってない」
「石を割れない石割り。荷を運べない荷運び。神殿はそれを誤記として処理してきました」
「二百」
「十五人に一人です」
俺は、広場にいる人間を数えかけて、やめた。
「もうひとつ、いいですか」
「なんで今日はそんなに喋るの」
「貼り紙が出たからです。――それから、記録の一番古い綴りに、名付け役という言葉が出てきます。神殿ができる前に、人に名を与えていた者だそうです。とっくに絶えました」
「ふうん」
「その項に、一行だけ、こう書いてあります」
彼女は一拍おいた。
「名付け役は、自分に名を持たない」
風が下から上がってきて、貼り紙の隅がめくれた。
「なんで」
「書いていません」
「そこ書いといてよ」
「理由まで書き残す人は、あまりいないんです。書いた本人には、当たり前のことなので」
俺は自分の右の袖を見た。
何も縫われていない。三年、何も縫われたことがない。
絶えた連中の話だ。四十年より前の、どうでもいい話だ。
なのに、しばらく袖から目が離せなかった。
紙の隅が、また風でめくれた。今度は釘が一本浮いていた。
セシルさんが腕をほどいて、手を伸ばした。爪先立ちもせずに上の隅に届く。指で釘を押し込む。
そのとき、外套の袖が肘まで滑り落ちて、下に着ている生成りの袖が出た。
右の袖だ。肘と手首のあいだ。
何も、縫われていなかった。
彼女は押し込み終わると、腕を下ろして、いつものように組んだ。
「風が強いですね」
「うん」
俺は、それ以上は何も言わなかった。言わないほうがいい気がした。
その夜、店で、リーヤに言われた。卓は六つとも埋まっていて、厨房は火と油の匂いで一杯だった。
「あんた、あの子のこと気にしてるでしょ」
「気にしてる」
「なんで。名前つけないんでしょ、あの子」
「つけないよ。本人が要らないって言ってるし」
俺は皿を洗いながら、答えた。手はいつもより速く動いていた。
「でも、来月もらうんだよ」
「そうだね」
「神殿から」
リーヤの手が、止まった。
俺は、それ以上は言わなかった。
言わなくても、この店にいる全員が、同じことを考えていたと思う。
三千件のうち、二百件以上。
十五人に一人。
石を割れない石割りが、この街に二百人以上いる。
俺は皿を洗い終えて、数を数えた。
百六十四枚。
多い。最近、店が混んでいる。名付け屋を見に来る客が減らないせいだ。
マルタさんが炉に薪を足した。火が上がって、吊るした干し肉の影が壁で伸びた。
リーヤが布巾を絞りながら、こっちを見ずに言った。
「あの子、いい名前もらうといいね」
「うん」
「もらうよ、たぶん」
「うん」
俺たちは、それきり黙って手を動かした。
厨房の火が、ぱちぱち鳴っていた。




