表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
9/12

第9話 走るミア

 「あんた、皿の洗い方が下手すぎる」


 朝から言われた。


 桶の水はまだ冷たい。厨房の窓は東向きで、この時間だけ港の方から低い光が入る。床を斜めに切った帯の中で、埃が回っていた。


 リーヤは店に来て三日目にして、厨房の主みたいな顔をしていた。俺の隣に立って、洗い終わった皿を次々に拭いている。


 厨房の奥は暗いので、後ろでまとめた髪はただの黒い塊に見える。でも、手が光の帯に入るたび、髪の先だけが赤銅に灼けた。


 「三年やってるんだけど」


 「三年やってこれ?」


 「これって何」


 彼女は皿を一枚、光にかざした。窓から入る朝の光に透かして、縁のところを指で示す。


 「ここ。縁の内側。指が届いてない」


 「届いてるよ」


 「届いてない。指の腹で押してるでしょ。爪の脇を使うの」


 彼女は自分の手で実演した。


 爪は短くて、洗っても落ちない鉄の粉で黒い。


 指が、独立して動いていた。人差し指の第一関節だけが、ひょいと曲がる。


 「……気持ち悪」


 「褒め言葉として受け取っとく」


 彼女は鼻から息を出して笑った。声は出さない。




 「クルト」


 入口から声がした。


 ドンさんだった。夜警明けらしい。目が半分閉じている。


 でかい体で入口を塞いでいるので、後ろから来た客が入れずに困っていた。


 「ドンさん、詰まってる」


 「あ」


 彼は横にずれた。客が入ってきて、頭を下げて奥へ行った。


 ずれたとき、側頭部に残った髪に光が当たった。赤みがある。十日前まで、そこには白と、白になりかけた茶しかなかった。


 ドンさんは一番手前の卓に座った。椅子を引くとき、床が鳴らないように持ち上げてから下ろす。二メートル近い男が、いまだにそれをやる。


 座って、そのまま前に倒れた。額を卓につけている。


 「寝るなら上で寝な」


 マルタさんが厨房から怒鳴った。鍋を片手に持ったままだ。


 「ここでいい」


 「金取るよ」


 「取っていい」


 「取るよ!」


 「取っていい……」


 語尾が消えて、彼は本当に寝た。


 でかい背中が、ゆっくり上下していた。卓に汗が落ちて、木に染みた。




 昼前に、セシルさんが来た。


 扉が開いた。影が短い。もう光が真上に近い。入ってきて卓に着くまでに、この人は一度も歩幅を変えない。外套の裾を手で払ってから座る。坂を下りてきたはずなのに、靴に泥がついていない。この街で一番きれいな靴だ。


 いつもの卓に座って、いつものように食い、いつものように口元を拭いて、指で唇を触った。


 食うのが速い。それなのに音がしない。皿の上のものだけが減っていく。


 「広場に、貼り紙が出ました」


 「なんの」


 「授名の儀です。来月」


 俺は手を止めた。持っていた皿が水に沈んで、桶の縁から水が零れた。


 リーヤも止まった。


 寝ていたドンさんが、額を卓につけたまま「ん」と言った。この人は寝ていても聞こえるらしい。


 「行くのかい」


 マルタさんが厨房から顔を出した。


 「行きます」


 セシルさんが言った。


 「私は仕事なので。……ただ」


 彼女は珍しく、言葉を切った。


 そして、腕を組んだ。この人はいつもそうする。この街で袖を隠すのは無礼なのに、誰も何も言わない。神官だからだ。


 「今年は、少し様子が違います」


 「どう違うの」


 「まだ分かりません。分からないので、見に行きます」




 広場は、坂を上りきったところにある。


 店を出て、上る。この街の坂は三回折れる。二度目の折れが一番きつくて、ふくらはぎより先に腿の付け根に来る。海から風が吹き上がってくるので、上っているのに背中を押されている気がする。


 途中で一度、振り返った。赤茶の瓦が段になって下へ落ちていって、その先に港がある。マストが三本、細く立っていた。


 もう一度折れて、視界が開けたところが広場だ。


 この街で一番平らな場所で、鳩と、掃除している爺さんと、井戸と、掲示板がある。


 石畳はここだけ新しい方の石だ。それでも真ん中は磨り減っていて、乾いていると灰白色、井戸のまわりだけ水がこぼれて黒い。歩くと踵の音がよく返る。


 井戸は中央からやや東寄り。縁の石が磨り減って丸い。桶が二つ、鎖でつないである。誰かが汲むたびに滑車が鳴る。油が切れていて、きい、きい、と間の抜けた音が広場じゅうに届く。


 鳩は井戸のまわりに固まっていて、人が近づいても三歩ぶんだけ飛んで、また降りる。匂いは水と鳩だけだ。


 一日中よく光が当たる。街で一番明るい場所だ。いまは影が短くて、広場全体が白く見えた。


 掃除の爺さんが、井戸の東側から西へ掃いていた。三年見ているが、名前は知らない。箒の柄の先が黒く光っている。


 掲示板は北側の壁にある。木の板に紙を貼るだけのものだ。


 その前に、子供が十人くらい集まっていた。


 貼り紙は真新しかった。俺には読めない。


 子供たちの頭は、全部、地の色だった。暗い茶、黒、栗、亜麻。北の海の血の白金が一人。それだけだ。


 井戸の方はまるで違う。水を汲んでいる大人の頭の上には、青があって、緑があって、菫がある。三人に一人くらいの割合で、この世にない色が混じっている。


 十歩と離れていない場所で、色がこれだけ違う。子供の群れは灰色で、大人の群れには色がある。十五になるまで、名の色は出ないからだ。


 この街の子供はみんな、あっち側へ行く順番を待っている。


 「なんて書いてある」


 「授名の儀。来月の十二日。正午。今年十五になった者は全員出頭のこと」


 リーヤが言った。


 読み上げたわけじゃない。この人も字は読めない。朝から三回、読める誰かが読み上げるのを聞いたのだと言う。この街で字が読めるのは三人に一人もいない。掲示板の文句は、耳から耳へ移って広まる。


 「出頭って書いてあるの?」


 「書いてある。神殿の文はいつもこう」


 「感じ悪」


 「そう?」


 子供たちは、貼り紙の前で騒いでいた。


 「おれ、剣の名がいい」


 「おまえ剣持ったことないだろ」


 「持ったらいいだろ」


 一人が井戸の東を指さした。壇が組まれる場所だ。もう一人がそこに立つ真似をした。


 みんな、楽しそうだった。


 俺にも、そういう時期があった。五年前だ。一度目のときは、俺も剣の名がいいと言っていた気がする。二度目と三度目のことは、あまり覚えていない。




 ――と、そのとき。


 背中に、何かがぶつかった。


 正確に言うと、ぶつかったというより、通過された。


 肩を弾かれて、俺は半歩よろけた。よろけたときには、もう相手は三歩先にいた。


 「ごめん!」


 声だけが後ろに残った。高い声だ。走りながら出したとは思えないくらい、はっきりしていた。


 小柄な影が、広場を斜めに突っ切っていく。


 速い。


 人の隙間を縫っているのに、一度も減速していない。よけているのではなく、空いているところが最初から見えているみたいな走り方だった。


 頭の上で、明るい亜麻色の髪が跳ねていた。灰色の広場で、そこだけ光って見える。名の色じゃない。ただの地の色だ。それでも、離れていてもどこにいるかが分かった。


 その子は、掲示板の前で急に止まった。


 勢いがどこへ行ったのか分からない止まり方だった。踵が擦れる音すらしない。


 止まって、貼り紙を見上げた。


 一秒か、二秒。


 それだけ見て、また走り出した。




 「今の子」


 俺は言った。


 「速すぎない?」


 「ミアだ」


 リーヤが答えた。


 「知ってるの?」


 「知ってるよ。使い走りの子。うちにも来る」


 「使い走り」


 「手紙とか、小さい荷物を届けるの。港から坂の上まで、あの子なら一気に行く」


 リーヤは、走り去った方を目で追っていた。


 「先月、あの子の靴に当て革を貼ってやった。二日で駄目にしやがったけど」


 言いながら、笑っていた。


 「街の子供で、あの子に勝てるのはいないよ。大人でも無理」


 「ふうん」




 その日の夕方、店にその子が来た。


 扉が開くより先に、足音が聞こえた。坂の下から上ってくる足音だ。うちの前は上りの途中だから、ここへ来る人間はみんな一度息をつく。この子はつかなかった。


 小柄だ。背は俺の肩くらいしかない。痩せているのに、脚だけが違った。ふくらはぎが短くて、走ってきた直後だから硬く盛り上がっている。そこだけ別の生き物みたいだ。


 肌はよく焼けている。小麦色というより、小麦を焦がした色だ。焼けているせいで、笑うと歯だけがやたら白く見えた。目は丸くて、濃い茶。まばたきが速い。


 髪は明るい亜麻色で、短い。先の方だけ、日に焼けてもっと明るくなっている。前髪が汗で額に貼りついていたが、直そうともしなかった。


 膝小僧に、擦り傷が三つ。二つは治りかけの茶色で、一つだけ赤い。今日のやつだ。


 服は膝丈で、裾を短く詰めてある。もとは青だ。何度も洗って、いまは薄い水色になっている。青の染料は南から船で来るから高い。この街の子供が着る色じゃない。誰かが奮発して買ったんだと分かる。


 腰にくたびれた茶の布袋を下げていて、中に手紙が何通か入っていた。


 そして、じっとしていない。立っているあいだも踵が上がったり下りたりしている。


 袖には、何も縫われていない。


 俺は一瞬、心臓が止まりかけた。


 止まりかけて、当たり前だと気づいた。この子はまだ十五じゃない。袖に何もないのも、髪にも目にも名の色がないのも、それだけの話だ。


 「マルタさーん! 紙屋から!」


 声が高い。店の端まで届く。語尾を伸ばす癖がある。


 彼女は袋から一通抜いて、厨房に突き出した。


 「おう、ご苦労さん」


 「銅貨一枚!」


 「高いよ」


 「坂だもん。上りだもん」


 「二枚出すから、帰りに肉屋寄って来な」


 「いいよ!」


 交渉が終わった。速い。全部が速い。




 彼女は俺を見た。


 見て、目を丸くした。


 「あ」


 「ん」


 「名付け屋の人だ」


 「……その呼び方、広まってる?」


 「広まってるよ。八十人くらい並んだんでしょ」


 「八十四人」


 「うわ、ちゃんと数えてる」


 彼女は勝手に椅子を引いて座った。断りもしない。脚の一本短い椅子で、座った瞬間にがたんと鳴ったが、気にしない。足が床に届かないので、ぶらぶらさせている。


 それから卓に手をついて、身を乗り出してきた。


 顔が近い。人との距離が近い子だ。


 「ねえ、あれ本当? 名前つけられるの」


 「つけられる」


 「ふうん」


 彼女は俺の袖を見た。何も縫われていない、擦り切れた麻の袖を。


 それから、自分の袖を見た。同じく、何も縫われていない。


 「おそろいだね」


 「そうだね」


 「あたし、来月もらうけど」




 その言い方が、あんまり嬉しそうだったので、俺は少し驚いた。


 「楽しみなんだ」


 「楽しみだよ!」


 彼女は即答した。


 「ずっと待ってたもん。十五になるの」


 言いながら、指を折って数えはじめた。片手で足りなくなって、もう片方も使った。


 「なにがもらえると思う?」


 「速いやつ」


 「速いやつ」


 「絶対、速いやつ。だってあたし、街で一番速いもん」


 彼女は胸を張った。実際、小さい胸だった。


 「じゃあさ」


 俺は言った。


 「もし、速くない名前だったら」


 彼女は、きょとんとした。


 首を傾げた。困っている顔ですらない。質問の意味が通っていない顔だ。


 それから、少し考えて、こう言った。


 「そんなわけないじゃん」




 「ねえ、名付け屋さん」


 「クルト」


 「クルトさん。ひとつ言っていい?」


 「どうぞ」


 彼女は、まっすぐ俺を見た。


 ぶらぶらしていた足が、そのときだけ止まった。


 「あたしは、あんたに名前つけてもらわないから」


 厨房で、リーヤの手が止まった。布巾を持ったまま、こっちを見ないで。


 俺は、ちょっと笑った。


 「なんで」


 「だって、ずるいじゃん」


 「ずるい」


 「みんな神殿でもらうのに、あたしだけ先にもらったら、ずるい」


 彼女は袋の紐を結び直しながら、あっさり言った。


 「順番、あるでしょ。順番」


 俺は、なんと答えていいか分からなかった。


 順番。俺も三度、順番どおりに並んで、三度とも何ももらえずに壇を降りた。それでも順番は順番だった。


 分からなかったので、頷いた。




 「そのかわり」


 彼女は続けた。


 「儀の日、見に来てよ」


 「見に?」


 「あたしが名前もらうとこ。広場で」


 「なんで俺が」


 「だって、名前に詳しいでしょ」


 彼女は椅子から降りて、袋を肩にかけ直した。走る前に必ずやるらしい。


 「あんたが見てたら、いい名前が来る気がする」


 根拠がなさすぎる。


 でも、彼女は本気で言っていた。本気で言っているのが、顔に全部出ていた。


 「……分かった」


 「約束ね」


 「約束」


 「じゃ、肉屋行ってくる!」


 彼女は走り出した。


 入口を出るときに、ドンさんの寝ている卓の脇をすり抜けていった。卓から肘がはみ出していたのに、触れてすらいない。


 ドンさんが、額を卓につけたまま言った。


 「……速いな」


 「起きてたの」


 「今、起きた」


 彼は目を閉じたまま、自分の耳のあたりを指した。それだけやって、また寝た。




 俺はそれから、何日かミアを見た。


 見た、というより、街を歩いていると必ずどこかで見かけた。


 順路は決まっている。港で荷を受けて、坂を上る。うちの前を通るとき、この子はいつも上っている。上りきって広場を横切り、西の外れまで行って、東の区画へ抜けて、最後は東側の石段を駆け下りて港へ戻る。


 だから、店の前に現れるのは一周に一度だけだ。帰りは石段を下るので、坂には来ない。


 この子は、一日中走っている。


 そして、気づいたことが二つあった。




 ひとつ目。


 彼女は、届けたあと、すぐには走り出さない。


 紙屋の婆さんに手紙を渡したとき、彼女は少しだけ、その場に立っていた。


 立っている、といっても、じっとしてはいない。走り出したくてたまらないのに、走り出さない。


 婆さんが封を開けて、中を読んで、それから「ああ」と声を出した。嬉しそうな声だった。


 ミアは、それを見てから、走り出した。


 同じことが、東の区画でもあった。


 小さい包みを届けて、受け取った男が中を見て笑ったのを確認してから、彼女は走り出した。


 急ぎの仕事のはずなのに、そこだけ、律儀に待っている。


 俺は、それを三回見た。


 三回とも、待つ長さが同じだった。十数える間くらいだ。その十のあいだ、彼女は相手の顔だけを見ていた。




 ふたつ目。


 彼女は、いつも同じ道を通る。


 港から東へ行くなら、海沿いを行った方が近い。平らだし、まっすぐだし、荷車も通れる。


 でも彼女は、必ず坂を上って、広場を突っ切って、それから東へ下りていく。


 遠回りだ。しかも上りが入る。一日に何周もするなら、その差は馬鹿にならない。


 速い子が、わざわざ遅い道を選んでいる。


 なんでだろう、と思って、四日目に広場で待ってみた。


 南の端に立って、坂の下を見ていた。彼女は必ず下から来る。上ってくる足音は、下りてくる足音とは違う。刻みが細かい。


 滑車がきいきい鳴って、鳩が二回飛び立って、爺さんが井戸の東から西まで掃き終わった。


 彼女は来た。


 広場を斜めに突っ切って、そして——掲示板の前で、一瞬だけ止まった。


 貼り紙を見上げる。


 一秒か、二秒。


 それだけ見て、また走り出した。


 毎回、そうだった。止まる長さも同じだった。


 あの子は字が読めないはずだ。読めないのに、毎回止まる。




 「見てましたね」


 背中から声がした。


 セシルさんだった。いつからいたのか分からない。この人はいつもそうだ。


 「見てた」


 「何か出そうですか」


 俺は、しばらく考えた。


 「出ない」


 「そうですか」


 「まだ、四日だし」


 俺は掲示板を見上げた。


 読めない文字が並んでいる。真新しい紙。四隅に釘が打ってある。北向きの壁なのに、紙だけが白い。


 隣にセシルさんが並んだ。読めない者と読める者が、同じ紙を並んで見上げていた。


 「あの子さ」


 「はい」


 「毎回、あれ見てるんだよ」


 「授名の儀の貼り紙を」


 「うん。遠回りしてまで」


 セシルさんは、しばらく黙っていた。


 それから、指で唇を触った。


 「……そうですか」


 いつもより、少しだけ、間があった気がした。




 「クルトさん」


 「なに」


 「神殿の記録は、この街の分だけで三千件あります。四十年ぶんです」


 急に何の話だ、と思った。


 「そのうち、二百件以上が、実態と合っていません」


 「合ってない」


 「石を割れない石割り。荷を運べない荷運び。神殿はそれを誤記として処理してきました」


 「二百」


 「十五人に一人です」


 俺は、広場にいる人間を数えかけて、やめた。


 「もうひとつ、いいですか」


 「なんで今日はそんなに喋るの」


 「貼り紙が出たからです。――それから、記録の一番古い綴りに、名付け役という言葉が出てきます。神殿ができる前に、人に名を与えていた者だそうです。とっくに絶えました」


 「ふうん」


 「その項に、一行だけ、こう書いてあります」


 彼女は一拍おいた。


 「名付け役は、自分に名を持たない」


 風が下から上がってきて、貼り紙の隅がめくれた。


 「なんで」


 「書いていません」


 「そこ書いといてよ」


 「理由まで書き残す人は、あまりいないんです。書いた本人には、当たり前のことなので」


 俺は自分の右の袖を見た。


 何も縫われていない。三年、何も縫われたことがない。


 絶えた連中の話だ。四十年より前の、どうでもいい話だ。


 なのに、しばらく袖から目が離せなかった。




 紙の隅が、また風でめくれた。今度は釘が一本浮いていた。


 セシルさんが腕をほどいて、手を伸ばした。爪先立ちもせずに上の隅に届く。指で釘を押し込む。


 そのとき、外套の袖が肘まで滑り落ちて、下に着ている生成りの袖が出た。


 右の袖だ。肘と手首のあいだ。


 何も、縫われていなかった。


 彼女は押し込み終わると、腕を下ろして、いつものように組んだ。


 「風が強いですね」


 「うん」


 俺は、それ以上は何も言わなかった。言わないほうがいい気がした。




 その夜、店で、リーヤに言われた。卓は六つとも埋まっていて、厨房は火と油の匂いで一杯だった。


 「あんた、あの子のこと気にしてるでしょ」


 「気にしてる」


 「なんで。名前つけないんでしょ、あの子」


 「つけないよ。本人が要らないって言ってるし」


 俺は皿を洗いながら、答えた。手はいつもより速く動いていた。


 「でも、来月もらうんだよ」


 「そうだね」


 「神殿から」


 リーヤの手が、止まった。


 俺は、それ以上は言わなかった。


 言わなくても、この店にいる全員が、同じことを考えていたと思う。


 三千件のうち、二百件以上。


 十五人に一人。


 石を割れない石割りが、この街に二百人以上いる。




 俺は皿を洗い終えて、数を数えた。


 百六十四枚。


 多い。最近、店が混んでいる。名付け屋を見に来る客が減らないせいだ。


 マルタさんが炉に薪を足した。火が上がって、吊るした干し肉の影が壁で伸びた。


 リーヤが布巾を絞りながら、こっちを見ずに言った。


 「あの子、いい名前もらうといいね」


 「うん」


 「もらうよ、たぶん」


 「うん」


 俺たちは、それきり黙って手を動かした。


 厨房の火が、ぱちぱち鳴っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ