第8話 継ぎ手のリーヤ
「……あたし、できない」
リーヤは、膝に顔を伏せたまま言った。
膝を抱えて、額をそこに押しつけている。俺と同じ座り方だ、と思った。厚い革の前掛けの焦げ跡の層が、腹のところで波打っていた。
俺は、何も言わなかった。
言う言葉がなかったからだ。「できるよ」と言うのは嘘だし、嘘は俺の口を通らない。「そうだね」と言うのは、たぶん最低だ。
炉の火が、ぱちぱち鳴っていた。
四日ぶん、この音を聞いている。そのうるささが、いま、彼女の代わりに喋っている。
外は、もう明るい。壁の上の細長い穴から、朝の光が三本、斜めに落ちている。光の中を、炭の粉が舞っていた。
暑い。朝なのに暑い。外は涼しいのに、この中だけ季節が違う。
しばらくして、彼女が顔を上げた。
目が赤かった。泣いたというより、寝ていないせいだと思う。一晩、まともに寝ていない。
目の下が灰色に落ちくぼんでいる。頬に炭の筋が二本ついていた。
髪も、ひどい色をしていた。
後ろで雑にまとめてあるのは、いつもと同じだ。ただ、その赤銅色が、乾いていた。灰をかぶったみたいに、くすんで、褪せている。一晩寝ていない人間の髪というのは、こういう色になるものなんだろうか。俺は、そのときはそう思った。
「あの人がさ」
「あの人?」
「でかいの。耳の」
「ドンさん」
「あれ、当たってる」
彼女は膝を抱えたまま、炉を見ていた。
炉の口から漏れる光が、彼女の顔の片側だけを照らしている。眉が濃いので、暗い方の目は、ほとんど見えなかった。
「聞こえてないふり、してる」
「うん」
「鉄って、見れば分かるんだよ。この温度じゃ駄目だとか、この厚みは無理だとか。あたし、それは分かるの」
「分かるんだ」
「分かる。分かるのに、打てない」
彼女は自分の右手を持ち上げた。
開いて、閉じて、また開いた。
爪は短くて、黒い。洗っても落ちない黒だ。左の親指だけ、側面が平らに削れている。何かを同じ場所でずっと押さえてきた指の形だった。
「頭では分かってるのに、手が言うこときかない。二十年、一回も」
「うん」
「だから、見ないことにしてた。見たら、無理だって認めることになるから」
俺は、彼女の脇に置かれたものを見た。
割れた金具だ。
昨日、彼女が持ってきたやつ。二十年もったという、親父の仕事。
厚くて、黒くて、端の方に穴が三つ。表面に細かい槌の跡が残っている。断面だけが白っぽい。
水桶には、六枚ぶんの失敗作が沈んでいる。全部、放り込まれた。
一晩で六枚。じゅう、という音を、俺は六回聞いた。
でも、この割れた金具だけは、放り込まれていなかった。
脇に、置いてある。
布が敷いてあった。
俺が来る前から、そこに敷いてあったやつだ。石の床に直接置かないように。
麻の切れ端で、端がほつれている。金具の形に合わせて、二つに折ってあった。
「それ」
「ん」
「捨てないんだ」
彼女は、割れた金具に目をやった。
「捨てるわけないでしょ」
「なんで」
「なんでって」
彼女は口を開けて、それから、少し困った顔をした。
困ると、この人は手元で何かをいじる。床の針金の切れ端を拾って、指の間で曲げはじめた。
「……親父のだから」
「新しいの打ったら、それ、要らなくなるよね」
「要らなくならない」
「でも門には付けられないよ。割れてるんだから」
「付けられなくても、要らなくならない」
彼女は言い切った。
言い切ってから、自分でも変なことを言ったと思ったらしく、目を逸らした。
逸らした先に、壁の額があった。彼女の目はそこへ行って、すぐ戻ってきた。顔は動かさなかった。
俺は、そのとき、棚の方を見ていた。
留め金の箱が置いてある棚だ。
道具の棚とは、別の棚だった。槌も火挟みも鑢も、壁の釘に無造作に掛かっている。手が届けばいい、という掛け方だ。この棚だけ、埃が払ってある。
三十個の留め金。全部、模様が違う。押すと開いて、離すと閉じる。がたつきがない。
蔓草。魚の鱗。組んだ縄。線が一本も途切れていない。
あれは、離れているものを、くっつける道具だった。
それから、彼女の手を見た。
火挟みを持つときの手。留め金を摘まむときの手。
この人は、鉄を打つ人じゃない。
この人は——
口が、勝手に動いた。
二度目だから分かる。考えて出すんじゃない。見えたから出る。
「――継ぎ手のリーヤ」
言った瞬間、空気の中に文字が残った。
薄い、白い線でできた文字だった。冬の朝に吐く息の、あの白さに近い。俺には字が読めない。読めないのに、それが今の言葉だと分かる。
鍛冶場は暗い。だから、はっきり見えた。炉の赤い光の手前に、白い線が浮いている。
一拍だけ浮かんで、それから彼女の方へ吸い込まれていった。
彼女の輪郭が、一瞬だけ、光の縁取りを持った。
光ったというより、そこだけ濃くなった。まとめた髪の後ろの丸みと、肩の線と、まくった腕の外側。細い線が、上から下へ走った。
そして、袖が動いた。
炎のリーヤの刺繍が、金の糸をほどきはじめた。
布を引っかく、かすかな音がする。糸が、生き物みたいに這った。ほどけて、組み直されて、また這う。金の糸が布の上を渡るたびに、炉の光を拾って、ちらちら光った。
金の糸のまま。色は変わらなかった。
縫い終わると、糸の端がぷつりと切れて、床に落ちた。
小さい音がした。糸が切れる音が、あんなに聞こえるものだとは思わなかった。
落ちたのは、ただの金色の糸だった。床の上で光っていた。拾えば、拾える。
――継ぎ手のリーヤ。
それから、もうひとつ起きた。
最初、俺は火の加減かと思った。
彼女の髪だ。
さっきまで、灰をかぶったみたいにくすんでいた。乾いて、褪せかけて、赤銅というより枯れた土に近い色だった。
それが、濃い。
同じところに座っている。同じ火が、同じ角度で当たっている。
なのに、色が違う。
赤銅だった。はっきりと赤銅だった。炉の光を受けて、まとめた髪の上側が、磨いた金属みたいに光っている。後れ毛の一本一本まで、色がある。
腕も赤かった。火の前に立つ人の腕はいつも赤い。でも、それとは別の赤が、内側から差している気がした。
俺は、何も言わなかった。
彼女は自分の袖を見ていて、気づいていなかった。
彼女は、自分の袖を見ていた。
長いこと見ていた。
触りもしなかった。ただ、見ていた。
それから、顔を上げた。
「……つぎて?」
「うん」
「地味じゃない?」
「地味だね」
「炎の方がかっこよくない?」
「かっこよかったね」
彼女は何か言いかけて、やめた。
「でも、あんたは炎じゃないでしょ」
彼女は口を閉じた。
閉じて、また自分の袖を見た。
「あんた、あれ作ったよね」
俺は棚の箱を指した。
「留め金」
「暇なときのって言ったでしょ」
「あれ、離れてるものをくっつける道具だよ」
「そりゃ、留め金だし」
「三十個作ってた。全部、模様が違った」
俺は続けた。
「それで、壊れたやつは捨てられない」
彼女が、こっちを見た。
針金が、指の間で止まっていた。
「あんたは、鉄を打つ人じゃないんだよ。繋ぐ人なんだ」
彼女は答えなかった。まばたきを二回した。二回目が、一回目より長かった。
「二十年、間違ったことやらされてたんだよ。火に立たされて」
彼女は立ち上がった。
ふらついた。一晩寝ていないので当然だ。俺が手を出そうとしたら、払われた。
「触んな」
「はい」
払った手が途中で止まって、そのまま腕をまくり直した。もともとまくってある腕を、もう一度。
彼女は割れた金具の前に膝をついた。
布の上のそれを、両手で持ち上げた。
持ち上げ方が、留め金を摘まむときの手だった。
断面を、光の下へ持っていった。壁の穴から落ちる三本のうちの、真ん中のやつだ。
しばらく見ていた。
それから、小さく言った。
「……ああ」
「なに」
「見える」
彼女は、断面のある一点を指でなぞった。爪の黒い、短い指だ。
「ここ。ここと、ここ。ここを継げば、いける」
「継ぐ?」
「新しいの打たなくていい。これを直せばいい」
彼女は顔を上げた。
目は赤いままだった。でも、さっきまでと目つきが違った。もう道具を選んでいる顔だった。
「あたし、これならできる」
そこからは、速かった。
彼女は炉に炭を足して、俺にふいごを踏ませた。ただし、さっきまでの三分の一くらいの温度でいいらしい。
「そんなに要らない。もっと弱く」
「弱く」
「一定にして。息するみたいに」
同じ台詞だ。でも今度は、彼女の手が違った。
迷いがなかった。
火挟みを入れる角度が浅くない。持ち替えが速い。目を細めて温度を見るとき、迷って三回やり直したりしない。鉄を見て、一度で決める。
そして、彼女は打たなかった。
叩くのではなく、削って、合わせて、当てて、留めた。
割れた断面に、細い鉄の板を差し込んで、その上から薄い当て金をあてて、留め具で固定していく。ひとつずつ、位置を測って。
測るのに、彼女は道具を使わなかった。左の親指の側面を金具の縁に当てて、そこから指を送る。それだけで位置が決まるらしい。
留め具の一つ一つが、あの箱の中のやつと同じ、細かい仕事だった。
音が、変わっていた。
――かん、かん、かん、かん、かん、かん。
六回叩いて、六回とも同じ音だった。
俺は数えていた。癖である。四日間、この人の失敗の音を数え続けていた。八回のうち三回、ごつ、という鈍い音が混じるやつだ。
今日は、混じらなかった。
昼過ぎに、それは完成した。
金具は、割れる前の姿には戻っていなかった。
継ぎ目が見える。当て金が三箇所ついている。留め具の頭が、表に出ている。
どう見ても、直したものだった。
でも、頑丈だった。俺が両手で曲げようとしても、びくともしなかった。
「これ、もつの?」
「もつよ」
彼女は言い切った。
「二十年もった鉄だよ。全部が悪くなったわけじゃない。悪くなったとこだけ直したの。残りはまだ十分もつ」
彼女は金具を持ち上げて、光にかざした。
継ぎ目のところで、鉄の色がわずかに違っていた。
親父さんの鉄は、二十年ぶん黒い。彼女の当て金には、まだ青みが残っている。
新しいところと、古いところが、はっきり分かる。
「隠さないんだ」
「隠す?」
「継いだの、分からないように磨けるでしょ」
彼女は少し考えた。
それから、言った。
「……見えてた方がよくない?」
北門の金具は、その日のうちに付いた。
役所の使いが受け取りに来て、継ぎ目を見て、少し嫌な顔をした。
受け取りに来たのは、頼みに来た男とは別だった。背が低くて、腹が丸い。撫でつけた薄い髪が、汗で額に貼りついている。膝から下に石の粉が跳ねていた。下りで一度、勝手に速くなったんだと思う。
指の側面にインクの染み。袖の刺繍は横に長くて、俺には読めない。長い名前だな、とだけ思った。
「これ、新品じゃないんですか」
「直した」
「いや、新品でお願いしてたんですが」
「もつよ」
「もつって、その」
男は金具とリーヤの顔を交互に見て、そのたびに袖で額を拭いた。
俺が横から言った。
「じゃあ、割れたら金を返してもらうって話にしませんか。二十年もったら、そのぶん払う」
男は口を開けた。
「二十年後に?」
「そう」
「……あの、それ、私が生きてるか分からないんですけど」
「じゃあ息子さんに言っといて」
リーヤが、鼻から短く息を出した。
声は出ない。三日通って、ようやくそれが笑いだと分かった、あれだ。門の話が来てから、この音は一度も出ていなかった。
夕方、俺たちは北門まで見に行った。
鍛冶場は港のそばだから、北門までは街をまるごと上ることになる。
坂は三回折れる。一回目の折れで脚に来た。二回目でリーヤに置いていかれた。三回目で振り返ったら、港が下にあった。さっきまで見上げていた帆柱が、いまは屋根より下で揺れている。
風が下から押し上げてくる。上るほど、潮の匂いが薄くなった。
広場を横切って、そこからまた上った。
街の北側の門は、でかい。石の柱に、木の扉が二枚。人が十人並んで通れる幅がある。
門番が、槍の石突きで石畳を突いていた。橙がかった金の髪が、夕日でほとんど赤い。荷車が一台、外から入ってきて、車輪が石を鳴らした。
その扉の上の方に、金具が付いていた。
遠目には、ただの黒い金具だ。
近づくと、継ぎ目が見える。当て金が三枚。留め具の頭が六つ。
風が吹いて、扉が少し軋んだ。
軋んだのは、木の方だ。
金具は、動かなかった。
「動いてない」
「動くわけないでしょ。留めたんだから」
彼女は腕を組んで、それを見上げていた。
夕日が門を照らしていて、彼女の腕の火傷が、白く浮いて見えた。
肘から手首まで。丸いのと、線状のと。新しい赤いのも二つ。
消えていない。
名前が変わっても、火傷は消えなかった。
「……消えないんだね」
俺が言うと、彼女は自分の腕を見た。
しばらく見ていた。
夕日が横から当たって、白い跡と赤い跡の境目に、細い影ができていた。触ったら硬いんだろうな、と思った。
それから、腕を下ろした。
「消えたら困る」
「困るの?」
「二十年ぶんだよ」
彼女は、袖を少し引っ張って、火傷を隠した。隠してから、また出した。
「無駄だったって思いたくないの、あたし」
そして、声を出して笑った。
初めて見た。
笑うと、眉の濃さが全然気にならなかった。怒っているようにしか見えない顔が、そのまま笑うと、意外なほど幼く見えた。
夕日が正面から当たって、髪が燃えているみたいだった。赤銅というのは、こういう色のことだったのか、と思った。今朝の、あの乾いた色じゃない。
「――は。地味な名前もらったのに、なんか、すっきりしてる」
坂を下りた。
下りは速い。膝に来る。踵から音がする。海が近づいてきて、潮の匂いが濃くなった。
鍛冶場の入口をくぐったとき、俺は一瞬、場所を間違えたのかと思った。
暗かったからだ。
いつもなら、入った瞬間に奥の赤が目に入る。今日は、赤が低い。炉の口の底の方で、炭が赤黒く沈んでいる。
彼女は薪を足さなかった。
壁際に薪が積んである。四日間、彼女が何度もそこへ手を伸ばすのを見た。今日は、そっちを見もしなかった。
彼女は道具を掛け直していた。槌を釘に。火挟みを釘に。俺は突っ立って、火を見ていた。
炭が沈むたびに、ぱ、と小さい音がする。その間隔が、だんだん長くなっていく。十数える間に三回だったのが、二回になり、一回になった。
熱が、引いていった。
顔に面で当たっていた熱が、まず消えた。次に、背中の汗が冷えた。冷えてから、四日ぶん汗を吸った服が重いことに気づいた。
煙が薄くなった。壁の穴から出ていく筋が細くなって、途中で見えなくなった。
暗くなった。炉の光が届かなくなった隅から順に、道具が見えなくなっていく。
匂いも変わった。鉄と炭と焼けた油の匂いが引いて、冷えた灰の匂いだけが残った。
それから、音が聞こえた。
海の音だ。
波が桟橋の下に入る音。縄が擦れる音。
四日間、俺はこの建物の中で、外の音を一度も聞いていなかった。
俺は薪の山を見て、それから、何も言わずに外に出た。
あとで足すかもしれない、と思っていた。
その夜、鍛冶場の炉が、消えた。
俺は坂の上からそれを見た。
港の方の、いつも一点だけ赤かったところが、今日は暗い。
しばらく、本当に消えたのかどうか分からなかった。目を凝らしても、暗いままだった。
月が出ていて、石畳が青かった。街には灯りが点々と散らばっている。でも、あの一点だけは、三年前からずっとそこにあったやつだ。
それが、ない。
俺はしばらく立っていた。マルタさんの店の前だった。中から皿の音がしていた。俺が洗っていない皿の音だ。
翌朝、鍛冶場に行った。
入口をくぐると、寒かった。
寒いわけがない。初夏だ。外は暖かい。それでも、この建物の中だけ、石が冷えていた。
リーヤは炉の前にしゃがんで、火をつけていた。
灰を掻き出したあとだった。白い灰が桶に半分入っている。素手で均していた。触れる温度になっている、ということだ。
「消したの?」
「消した」
「三年ぶりでしょ」
「三年ぶり」
彼女は火打ち石を打った。一度目は火花が散っただけだった。二度目で火が入った。
削りかすに移った火を、両手で囲って、息を吹いた。細い煙が上がって、それから、ぱ、と音がした。
「消したら親父が終わるって、思ってたんだよね」
「うん」
「終わんなかった」
彼女は炉に薪を足した。
火が薪を舐めて、炉の中が明るくなった。その明るさが床に届いて、道具に届いて、彼女の腕に届いた。腕が赤くなった。髪も赤くなった。
鍛冶場に、色が戻った。
「毎朝つければいいだけだった。二十年、毎朝つけてたんだよ、あの人も」
壁の額は、そのままだった。
炉の真上、煙で一番燻される場所に掛かっている。掛けたのは親父さんじゃないな、と思った。生きている人間は、自分の袖布を額に入れない。
煤で灰色になった布と、金の糸。炎のバルド。
布の端はほつれている。もとは白かったはずだ。袖から切り取ったときの切り口が、真っ直ぐじゃない。
額の裏になっている壁だけ、たぶん元の色をしている。三年、一度も動かしていない証拠だ。
位置も変わっていない。
「それ、外さないんだ」
「なんで外すの」
「いや、あんた炎じゃなくなったし」
彼女は、額を見上げた。
それから、こともなげに言った。
「あの人は炎だったんだよ。あたしが違うだけ」
継ぐ、というのは、そういうことらしかった。
名前じゃない。名前は、あの人のところに置いたままでいい。
店に戻ったのは、昼過ぎだった。
昼の混みが終わって、卓が三つ、まだ片づいていない。扉から入る光が、床に細い帯を作っていた。
マルタさんが厨房から顔を出して、俺を見て、それから俺の後ろを見た。
リーヤが、店に入ってきていた。
「なんだい、あんた」
「飯」
「金は」
「ある」
「じゃあ座りな」
彼女は一番手前の卓に座った。椅子は、脚が一本短いやつだった。座ると鳴った。座り直して、また鳴らして、それきり気にしなくなった。
そして、袖を、卓の上に置いた。見せる置き方だった。
この街では、そうやって座る。
マルタさんが、その袖を見た。
金の糸で、継ぎ手のリーヤ。
見てから、彼女はリーヤの顔を見た。それから髪を見た。髪を見ている時間の方が、袖より長かった。
鍋を持っていない方の手が、前掛けの上で一度止まった。
「……ふうん」
この街の年寄りは、全員この音を出す。
俺が皿を洗っていると、リーヤが厨房を覗き込んできた。
厨房は狭い。干し肉が吊るしてあって、頭を下げないと入れない。
「あんた」
「なに」
「名簿、八十四人だっけ」
「うん」
「一人ずつ、四日かけてたら、何年かかると思ってんの」
「……計算しないで」
「三百三十六日。一年もかからないよ」
「あ、そんなもん?」
「あんた、算数もできないの」
彼女は棚から布巾を勝手に取って、洗い終わった皿を拭きはじめた。
「手伝う」
「え」
「見るんでしょ、人のこと。あたしも見る」
俺は手を止めた。
「なんで」
彼女は皿を拭きながら、こっちを見なかった。
「二十年、誰にも気づかれなかった側だから」
彼女は皿を積み上げた。
積み上げるとき、皿と皿が当たる音がしなかった。指で受けて、置いていた。留め金を摘まむときの手だった。
「気づかれない方の気持ちなら、分かる」
その日、俺は皿を百五十二枚洗った。
半分は、リーヤが拭いた。
数えたのは、俺だけだった。




