第10話 一日
「ねえ」
真後ろで声がした。
皿を落としかけた。二十六枚のうちの一枚を、桶の縁で受け止めて、なんとか戻した。
振り返ったら、ミアが立っていた。
いつ入ってきたのか分からない。扉は鳴ったはずだ。鳴ったのに、鳴った気がしなかった。
「なんで最近、あたしのこと見てんの」
まっすぐ言われた。
この子は、いつもまっすぐ言う。
朝の光が港の側から低く入って、床に斜めの帯を作っている。彼女はその帯の真ん中に立っていた。
だから髪が、やたら明るく見えた。明るい亜麻色で、先の方だけ日に焼けてもっと明るい。名の色じゃない。この子は十四だ。髪も目も肌も、生まれたときのままの色をしている。
目は丸くて、濃い茶。まばたきが速い。膝丈の服は、裾を短く詰めてある。青だったものが、洗われすぎて水の色になっている。
右の袖には、何も縫われていない。
俺と同じだ。理由は違うけど。
「見てないよ」
「嘘」
「見てない」
「四日前、広場で待ってたでしょ」
「……」
「一昨日、港で樽に隠れてたでしょ」
「隠れてない。座ってただけ」
「樽の後ろで?」
俺は、桶に手を戻した。
洗うものはもうなかった。洗った皿をもう一度洗った。
「別に、名前つけようとしてるわけじゃない」
「知ってる」
「知ってるの」
「言ったじゃん。あたしは、あんたに名前つけてもらわないって」
彼女は椅子を引いて座った。脚が一本短いほうを引いたので、座った瞬間にがたんと鳴った。誰も直さない椅子だ。
足が床まで届かない。届かないぶんを、前後に振っている。
「じゃあ、なんで見てんの」
俺は、答えを持っていなかった。
持っていないまま、口が動いた。
「儀で、何が来るか」
「うん」
「それが、心配なんだよ」
彼女は、きょとんとした。
「心配?」
「うん」
「なにが」
俺は、うまく言えなかった。
言えないまま、扉の方を見た。
ちょうど、その人が入ってきた。
掃除のペレさんは、毎朝ここに来る。
広場を掃き終わってから坂を下りてきて、湯を一杯飲んで、銅貨を一枚置いて、また上っていく。三年、ずっとそうだ。
板に名前がある。三十番台のどこか。順番を待っている。
板は上から順に見ている。セシルさんがそう決めて、俺もそうしてきた。いま十九番まで終わったところだから、この人の番は、まだ十いくつ先だ。
それなのに俺は、湯を出しながら、呼び止めた。
順番を飛ばしたのは、初めてだった。
小柄な爺さんだ。腰が少し曲がっている。曲がっているのに、背が高く見える。肩が右下がりになっているのは、五十年、同じ向きに掃いてきたからだ。日に焼けた首の後ろに、深い皺が三本ある。
箒を持っている。うちの中でも持っている。柄の先が黒く光っていた。
目が青かった。
澄んだ、朝の海みたいな青だ。この街でこの色は珍しい。名の色である。
「五十年やっとります」
「五十年」
「十五で名前もろうて、次の日から」
彼は箒の柄を少し握り直した。言葉を出す前に、必ずそれをやる。
「掃除いうんは、まあ、その、なんです。誰でもできる仕事で」
「はい」
「名前をもろうたときに、周りが、ちょっと、笑いましてな」
「……」
「わしも、そのときは、ちょっと悔しくて」
彼は笑った。笑ったというより、口の形をそうしただけみたいな顔だった。頬は動かなかった。
「けど、五十年やっとると、まあ、そんなもんかと」
俺は、待った。
名前が来るのを待った。
ドンさんのときは、勝手に喉の奥から上がってきた。リーヤのときは、金床の音の合間に落ちてきた。
今回は。
来なかった。
来ないというより、入るところがなかった。
ドンさんのときは、あの人の中に、空いている場所があった。二十五年ぶん、何かが押し込められていて、その脇に隙間があった。
この爺さんには、それがない。
隅から隅まで埋まっている。
「ペレさん」
「はい」
「あんた、合ってますよ」
彼が、顔を上げた。
青い目が、まっすぐこっちを向いた。
「合ってる?」
「合ってます。完璧に」
俺は続けた。
「肩が右下がりです。ずっと同じ向きに掃いてきた人の肩だ。手の握り方も決まってる。何十年も持ち替えてない。柄の先が黒く光ってるのは、そこしか握らなかったからでしょ」
「……そりゃ、まあ」
「毎朝、井戸の東側から始めて、西へ掃いてく。風のある日は、風下から始める。鳩が降りてるところは飛ばして、あとで戻る。掃いた場所を二度掃かない」
俺は、自分でも驚いていた。
俺は人の顔を覚えられない。手元ばかり見ているから、顔の方は思い出せないことが多い。
それなのに、この爺さんが箒を動かす順番は、目を閉じても言える。
「あれ、誰かに教わったんですか」
「いや」
「自分で決めたんですか」
「……そうです」
「五十年かけて」
「まあ、そうなりますな」
「じゃあ、それ、掃除ですよ」
俺は言った。
「あんたの名前、間違ってないです」
しばらく、誰も何も言わなかった。
ペレさんは、箒を持ったまま立っていた。
それから、片手を離して、目のところに当てた。
「……すいません」
「いえ」
「いや、あの」
「はい」
「五十年、初めて言われたもんで」
彼は、しばらくそうしていた。離した手のぶんを、もう片方の手が支えていた。
箒は倒さなかった。
リーヤの手が止まっていた。留め金が、指の中で止まっている。
セシルさんは書いていなかった。羽根ペンを紙から離して、膝の上に下ろしている。
ドンさんは、入口の外を向いていた。目は閉じたままだ。
厨房で、鍋が一度、大きく鳴った。たぶん、わざとだ。
俺は皿を拭くふりをした。
ペレさんは、湯を飲まずに帰った。
銅貨は、いつもどおり一枚置いていった。
なんで今日だったのか、あとで考えた。
順番は、十九番までしか進んでいない。急ぐ理由もなかった。
たぶん、さっき、あの子に「心配だ」と言ったからだ。
言ってしまったので、確かめたくなった。
合っているかどうかが、俺には本当に分かるのか。
分かった。ペレさんは、合っていた。
それが分かったところで、あの子のことは、何も分からないままだった。
しばらく、店が静かだった。
「ねえ」
ミアだった。
足が止まっていた。ぶらぶらさせていた足が、床の上で止まっている。
「名前、つけなかったね」
「つけなかった」
「なんで」
「合ってたから」
「合ってた」
「うん。あの人の名前は、あの人に合ってる。だから何もしなくていい」
彼女は、しばらく黙っていた。
黙ってから、こう言った。
「じゃあ、合ってなかったら?」
俺は、答えた。
答えてしまってから、まずいと思った。
「二十五年、石が割れない」
ミアは、入口の脇を見た。
ドンさんが立っている。目を閉じている。褪せた布に、新しい白い糸で、聞き手のドン、と縫ってある。
彼女は、その袖を見ていた。
それから、自分の右腕に目を落とした。麻の生地に、糸の跡が一つもない。
「クルトさん」
「ん」
「儀で、あたしに何が来るか、分かる?」
「分からない」
「見ても?」
「見ても」
「四日見たのに?」
「四日見ても」
彼女は、椅子の上で膝を抱えた。
抱えてから、俺と同じ座り方だと気づいたらしく、すぐ足を下ろした。
「じゃあ、ついてくれば?」
「え」
「一日。朝から、終わりまで」
「なんで」
「四日じゃ足りないんでしょ」
彼女は椅子から降りた。
「一日ついてくれば、分かるかもしれないじゃん」
「分かって、どうすんの」
「言ってよ」
彼女は袋を肩にかけた。かけてから、肩の上で一度、位置を直した。
「儀の日、あたしが名前もらったらさ」
「うん」
「合ってるかどうか、教えて」
俺は、その頼まれ方を、しばらく飲み込めなかった。
この子は、名前をつけてくれとは言っていない。
順番は神殿だ。それは譲らない。
そのかわり——
合っているかどうかを、確かめる係を、俺に頼んでいる。
「……分かった」
「やった」
「ついていけるかな」
「無理だと思う」
「即答すんな」
「だって坂だよ? 十一往復だよ?」
「十一」
「今日は多いから」
彼女は干し肉の最後の一切れを飲み込んで、立ち上がった。
「じゃ、行こ」
「今から?」
「今から」
俺は皿を三枚洗いかけていた。
三枚とも、水に沈めたまま置いてきた。
店を出て、まず坂を下りた。
うちの店は坂の中ほどにある。一度目の折れのすぐ上だ。だからどこへ行くにも、まず上るか下るかを決めることになる。
下りは楽だと思われがちだが、楽なのは肺だけだ。膝に来る。石畳は磨り減って丸いから、踵から先に着いて、そのたびに音が鳴る。放っておくと勝手に速くなる。体が前のめりになる。
折れをひとつ曲がるたびに、海が近づいた。屋根の色も変わっていく。港側の瓦は潮にやられて、赤茶が抜けかけている。
匂いが入れ替わるのは、最後の折れだ。パン屋の煙が切れて、塩と魚が来る。
ミアは俺の三歩前を、跳ねるように下りていった。
踵が、鳴らない。
俺の踵は、一歩ごとに鳴っていた。
港は、うるさい。
石造りの桟橋が三本。今日は船が四隻着いていて、そのうち二隻から荷を降ろしていた。
木箱が桟橋の上に積み上がって、その脇を樽が転がされていく。転がす男が二人、受ける男が一人。怒鳴り声が飛ぶが、内容はほとんど聞き取れない。縄が石の角で擦れる音が、ずっと鳴っている。
犬が二匹いる。いつも同じ二匹だ。片方は茶で、片方は白に近い汚れた灰。
匂いは、塩と、魚と、濡れた縄と、船底の油。倉庫の裏に乾いた海藻が積んであって、そこだけ少し甘い。
光がおかしい。東からの朝の光が海面で跳ね返って、下から顔を照らしてくる。だから港の朝は、みんな顔の下側が明るい。
足元の石畳は濡れている。ここはいつも濡れている。踵から着くと必ず滑るので、港では爪先から下ろす。この街の人間は全員そうしている。
「ミア! こっち!」
荷受けの小屋の前で、太った男が手を振っていた。
樽みたいな体で、腕を上げると脇のところで布が突っ張る。顔は日に焼けて赤黒い。指が太くて、指先だけインクで汚れている。荷の数を板に書きつける仕事だからだ。
髪が青かった。深い、海の底みたいな青。名の色だ。坂の上からでもあの男がどこにいるかは分かる。
「おはよー」
「今日は多いぞ」
「うわ」
男が布袋を差し出した。ミアは中を覗いて、指を折って数えた。
「……十九」
「多いだろ」
「多い。銅貨足して」
「三枚」
「五枚」
「四枚」
「四枚半」
「……四枚半」
「毎度」
速かった。
値段が決まるまで、三つ数えるあいだもなかった。
袋を肩にかけて、彼女は坂を見上げた。
見上げてから、肩の上で一度、位置を直した。
俺はあとで知るのだが、この掛け直しは、中身を落とさないためじゃない。
走っているあいだ、中で荷が動かないようにするためだ。
上りは、別の生き物だった。
息が上がる。腿の前が焼ける。ふくらはぎより先に、腿の付け根に来る。
この街の坂は三回折れる。港から数えて一回目の折れのすぐ上に、うちの店がある。そこから広場までに、あと二回。
二度目の折れが一番きつい。
俺は、店の前を過ぎたところで、もう置いていかれた。
ミアは振り返らなかった。振り返らずに、声だけ寄越した。
「遅ーい!」
「うるさい」
「歩幅がちっちゃいんだよ!」
俺は返事をしなかった。返事をする息がなかった。
彼女は、上りで歩幅を変えない。
これは、たぶん、すごいことだ。
荷担ぎは全員、上りで歩幅を詰める。詰めて、回転を上げて、それでも最後の十歩でどこかに一度息をつく。俺もそうだ。
この子は詰めない。爪先で押して、そのまま同じ幅で上っていく。踵が一度も着かない。
広場に出た。
白い。
この街で一番平らな場所だ。石畳が揃っていて、坂じゃない。井戸があって、掲示板があって、鳩がいて、端に木が二本ある。
ミアは、広場を斜めに突っ切った。
突っ切って——掲示板の前で、一瞬だけ足を緩めた。
止まったわけじゃない。二歩か三歩、幅が短くなっただけだ。顔だけ上に向けて、また元の速さに戻った。
紙が三枚貼ってある。一枚は新しい。
俺は追いついてから、それを見上げた。
黒い印が並んでいる。縦に、いくつも。
読めない。
「なに見てんの」
「いや」
「クルトさん、字読めないでしょ」
「読めない」
「あたしも」
彼女は笑った。
「じゃあ二人とも見てもしょうがないじゃん」
そう言って、また走り出した。
西へ抜けた。
広場から西の外れまでが、この街で一番長い。緩い下りで、家がだんだんまばらになる。
石畳が途切れて、土になる。土になると音が変わる。ぱたぱたという、ばかみたいに軽い音になる。
畑がある。洗濯物が干してある。この街で最後まで日が当たるのはここだ。
一軒目。
婆さんが出てきた。腰が二つに折れている。目が白く濁っていて、こっちを見ているのかどうか分からない。
ミアは包みを渡した。
婆さんは、その場で開けた。中は手紙だった。
そして、読みはじめた。
声に出して。
時間がかかった。ものすごくかかった。一行読むのに、指で追って、口の中で三回繰り返す。
読み終わって、また最初から読んだ。
二度目も終わって、また最初から読んだ。
三回、読んだ。
そのあいだ、ミアは立っていた。
膝に手を当てるでもなく、壁に寄りかかるでもなく、まっすぐ立って、婆さんの顔を見ていた。
俺は、頭の中で数えていた。癖である。
三百まで数えて、やめた。
三百というのは、この街の人間が広場から西の外れまで歩く数だ。それだけの時間、この子は動かなかった。
婆さんが顔を上げた。
「ありがとうね」
「はーい」
「息子がね」
「うん」
「元気だって」
「よかったね」
ミアは、そこで初めて笑った。
笑ってから、走り出した。
「あのさ」
俺は追いかけながら言った。息が上がっていた。
「置いてけばよくない?」
「え」
「手紙。戸のとこ置いとけば、あとで読むでしょ」
彼女は走りながら、こっちを見た。
眉が上がって、口が半分開いた。
本気で分かっていない顔だった。
「なんで?」
「なんでって、時間の無駄じゃん。三百数える間、突っ立ってたよ」
「無駄じゃないよ」
「無駄でしょ」
彼女は前を向いた。
それから、こう言った。
「――渡さないと、届いたことにならないじゃん」
俺は、その一言を、そのときは聞き流した。
息が上がっていたからだ。
あとになって、何度も思い出すことになる。
三軒目は、糸屋だった。
桶屋の隣にある。戸が開けっ放しで、中に糸巻きが天井まで積んである。埃と、羊の脂の匂いがした。
出てきたのは、四十くらいの女の人だった。指の腹が、糸で切れた細い傷だらけになっている。
紡ぎのエルサさん。板に名前がある。
俺を見て、少し驚いた顔をした。
「あら」
「どうも」
「あの」
「はい」
彼女は、言うかどうか少し迷ってから、言った。
「待ってます」
俺は頷いた。
「三十八番です」
「はい」
それだけだった。
彼女は糸を受け取って、頭を下げて、中に戻った。
ミアが、こっちを見ていた。
「順番待ってる人?」
「うん」
「三十八番って、あと三十七人いるってこと?」
「そう」
「うわ」
彼女は走り出した。
東の区画へ回った。
西の外れから東の区画までは、街を横に横断することになる。緩い下りだ。神殿の下を回り込むので、右手にずっと白い石の壁が見えている。この街で白い建物は、あれだけだ。
東の区画は家が密集していて、路地が狭い。石段が多い。
その石段を下りきると、港に戻る。
一周した。
俺は、桟橋の縁に座り込んだ。
「まだ一周だよ」
「知ってる」
「あと十回だよ」
「言うな」
二周目で、俺は気づいた。
同じ道を通っている。
港で荷を受けて、坂を上って、うちの店の前を過ぎて、広場を斜めに突っ切って、西へ抜けて、東へ回って、石段を下りて、港に戻る。
一周目とまったく同じだった。
石畳の、踏む石まで同じだ。広場の井戸の手前に、他より少しだけ盛り上がった石が一枚ある。一周目、彼女はそれを踏まなかった。二周目も踏まなかった。
「なあ」
「なにー」
「毎回、同じとこ走ってる?」
「そうだよ」
「なんで」
「そのほうが速いもん」
三周目で、もう一つ気づいた。
荷の順番も、決まっている。
袋の中で、届け先の遠い順に入っている。だから彼女は、中を見ないで手を突っ込んで、次の一つを出せる。
港で袋を受け取ったとき、彼女は中を覗いて指を折った。あれは数を数えていたんじゃない。
その場で、並べ替えていたんだ。
俺は、今朝のことを思い出していた。
ペレさんの箒の順番。井戸の東から西へ。風のある日は風下から。鳩のいるところは飛ばして、あとで戻る。
誰にも教わっていない。五十年かけて、自分で決めた。
この子も、同じことをしている。
誰も教えていない。順路も、荷の並べ方も、袋の掛け直し方も、全部この子が自分で決めた形だ。
ペレさんは、それで合っていた。
じゃあ、この子も——
四周目で、俺の膝が笑いはじめた。
思考は、そこで止まった。
昼、マルタの店に寄った。
ミアは椅子を引いて座った。脚の短いほうを引いた。
「二人ぶん」
「はいよ」
マルタさんは何も聞かなかった。聞かないまま、椀を二つ出した。
ミアは一つをその場で食べた。速い。飲むみたいに食べる。
もう一つには手をつけなかった。
彼女は前掛けの中から布を出して、椀の中身をそこに包んだ。器用に包んだ。角を折って、上で結んで、崩れないようにする結び方だ。何百回もやった人の手つきだった。
包んで、腰の袋に入れた。
「それ、誰の」
「んー」
「聞いちゃまずかった?」
「べつに」
彼女は答えなかった。
答えないかわりに、別の話をはじめた。
「あのさ。名前もらったら、速くなるのかな」
「え」
「なるでしょ。ドンさん、耳よくなったんでしょ」
「……なった」
「じゃあ、あたしも速くなる」
彼女は指を折りはじめた。
「そしたら、一日に二十軒回れる」
「二十軒」
「今は十四が限界だから」
俺は、朝の袋を思い出した。
「朝、十九って言ってなかった?」
「言った」
「十四しか回れないなら、五軒余るじゃん」
彼女は、指を折るのをやめた。
「うん」
「余ったの、どうすんの」
「明日」
「明日でいいの?」
「よくない」
そこで初めて、この子は言葉を選んだ。
選んで、結局、まっすぐ言った。
「よくないけど、六人だから」
「六人」
「今日届かないの、だいたい六人。毎日それくらい」
彼女は水を飲んで、立ち上がった。
「行こ」
俺は、その数を、その日は数のまま持っていた。
六人。
意味がつくのは、次の日の夕方だ。
厨房でマルタさんが、こっちを見ていた。
目が合った。
マルタさんは、何も言わずに顔を引っ込めた。
午後。
五周目で、俺は上りを歩いた。
六周目で、坂の途中に座った。
七周目からは、石段のところで待つことにした。
情けなかったが、これ以上ついていくと、明日、皿が洗えなくなる。
だから俺は、そこで見ていた。
石段の上から、東の区画を見下ろす形になる。路地が下へ落ちていって、その先に港と海がある。
ミアが路地に入る。
しばらくして、出てくる。
また入る。また出てくる。
俺は、数えはじめた。
癖である。
走っている時間と、止まっている時間を、別々に数えた。
路地の突き当たりの家。石段が三段ある。叩いても返事がない。
ミアはその石段に座った。膝に顎を乗せた。
待った。
俺は数えた。
四百二十まで数えたところで、家の人が坂の下から帰ってきた。籠を持った女の人だった。
ミアは立ち上がって、包みを渡した。
女の人は籠を石段に置いて、包みを開けて、「まあ」と言った。
布地だった。青い。
「娘のなの。儀の日の」
「へえ」
「間に合ってよかった」
ミアは、その布を見ていた。
じっと見ていた。
それから、走り出した。
俺は、二つの数を持って、店に帰ることになる。
走っていた時間より、待っていた時間の方が、長かった。
ずっと長かった。
十一周目が終わったのは、日が落ちてからだった。
西の外れに最後まで日が当たっていて、そこだけ橙色をしていた。
「終わりー」
ミアは腰の袋を叩いた。ぺたんという音がした。空だ。
俺は壁に手をついて立っていた。膝が言うことを聞かない。
「クルトさん、大丈夫?」
「大丈夫じゃない」
「明日も来る?」
「来ない」
「即答」
「送ってく」
俺は言った。
「え、逆でしょ。あたしが送ってこうか?」
「いいから」
ミアの家は、西の外れにある。
順路からは外れる。広場から西へ抜ける道を、途中で二本、路地に入ったところだ。
だから彼女は、一日に十一回この近くを通って、一度も家には寄らない。
路地は狭い。土だ。石畳が途切れている。
突き当たりに、小さい家があった。
屋根が低い。壁は石だが、上のほうだけ木で継いである。窓は一つ。木の枠が歪んでいて、閉まりきっていない。
その戸の脇に。
籠が、三つ積んであった。
洗い上がった洗濯物だ。
畳んである。角が揃っている。上に布がかけてあって、埃をよけてある。
三つとも、届け先が決まっているのが分かった。籠の縁に、小さい木札が挿してある。
俺は、それを見た。
それから、ミアを見た。
ミアは、籠の横を通った。
目もやらなかった。
見なかったんじゃない。見ない、ということをした。
一日じゅう、他人の荷を担いで、他人の顔を見て、他人が読み終わるまで立って待っていた子が、自分の家の前に積んである籠を、素通りした。
戸が開いた。
女の人が出てきた。
背が低い。痩せている。
髪は濃い茶で、生え際に白いものが混じっている。後ろでひとつに結んでいる。
目が丸い。濃い茶だ。
ミアと同じ目だった。
手が荒れていた。指の関節が赤い。爪のまわりが白くふやけている。水仕事の手だ。
俺は、その手を見ていた。
俺の手と、同じ形をしていた。
「おかえり」
「ただいまー」
母親は、俺を見た。
見て、少し困った顔をした。
「あの」
「あ、マルタさんとこの。クルトさん」
「そう」
「送ってくれたの」
「うん」
母親は、俺に頭を下げた。丁寧な下げ方だった。
それから、娘に目を戻した。
「まだやってるの、それ」
声は、大きくなかった。
怒ってもいなかった。
ただ、疲れた人の声だった。
「うん」
「もういいでしょう、そんな仕事」
「うん」
「うん、じゃなくて」
「聞いてるよ」
ミアは、そう言って、家に入った。
入りぎわに、こっちを向いた。
「クルトさん」
「ん」
「明日も来る?」
「来ないって言ったろ」
「言ってたね」
彼女は笑った。
「あ、そうだ」
「なに」
「約束、忘れないでよ」
「儀の日でしょ」
「そう。見に来て」
「行くよ」
「絶対だよ」
「絶対」
彼女は満足そうに頷いて、戸を閉めた。
母親は、そこに立っていた。
立ったまま、閉まった戸を見ていた。
それから、籠の一つを持ち上げた。
三つのうち、一番上のやつだ。
持ち上げて、腕にかけて、路地の方へ歩き出した。
この時間から、届けに行くらしい。
「あの」
俺は言った。
「持ちましょうか」
「いえ」
即答だった。
「重いですよ、それ」
「慣れてますから」
彼女は歩き出した。
歩き出してから、一度だけ振り返って、また頭を下げた。
俺は、そこにしばらく立っていた。
立って、路地の奥を見ていた。
母親の背中が、路地を出て、坂の方へ消えた。
歩くのが速かった。
小柄で、痩せていて、籠を抱えているのに、速い。
あの歩き方を、俺は今日、一日じゅう見ていた。
俺は坂を下りた。
下りは膝に来る。今日の膝には、来すぎた。二回、壁に手をついた。
頭の中には、二つの数があった。
走っていた時間。
待っていた時間。
それと、もう一つ。
籠が、三つ。
店に着いたとき、もう油皿が点いていた。
リーヤが厨房から顔を出した。
「うわ、死んでる」
「死んでる」
「で」
「なにが」
「分かったの。あの子に何が来るか」
俺は、椅子に座った。
座って、膝を抱えようとして、抱えられなかった。
一日、見た。
朝から日が落ちるまで、この子のやることを全部見た。
走るところも、待つところも、値段を決めるところも、包みを結ぶところも、他人の家の石段に座っているところも見た。
全部、覚えている。
ペレさんの箒の順番を覚えているのと、同じくらいはっきり覚えている。
なのに。
「……分かんない」
「分かんないの」
「分かんない」
リーヤは、それ以上聞かなかった。
布巾を絞って、卓を拭きはじめた。
今朝、ペレさんには、入るところがなかった。
隅から隅まで埋まっていたからだ。合っている人間の中身は、そういう形をしている。
あの子は、違う。
空いている。
どこかが、はっきり空いている。
空いているのに、俺には、その穴の形が見えない。
儀まで、あと六日だった。




