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第10話 一日

 「ねえ」


 真後ろで声がした。


 皿を落としかけた。二十六枚のうちの一枚を、桶の縁で受け止めて、なんとか戻した。


 振り返ったら、ミアが立っていた。


 いつ入ってきたのか分からない。扉は鳴ったはずだ。鳴ったのに、鳴った気がしなかった。


 「なんで最近、あたしのこと見てんの」




 まっすぐ言われた。


 この子は、いつもまっすぐ言う。


 朝の光が港の側から低く入って、床に斜めの帯を作っている。彼女はその帯の真ん中に立っていた。


 だから髪が、やたら明るく見えた。明るい亜麻色で、先の方だけ日に焼けてもっと明るい。名の色じゃない。この子は十四だ。髪も目も肌も、生まれたときのままの色をしている。


 目は丸くて、濃い茶。まばたきが速い。膝丈の服は、裾を短く詰めてある。青だったものが、洗われすぎて水の色になっている。


 右の袖には、何も縫われていない。


 俺と同じだ。理由は違うけど。




 「見てないよ」


 「嘘」


 「見てない」


 「四日前、広場で待ってたでしょ」


 「……」


 「一昨日、港で樽に隠れてたでしょ」


 「隠れてない。座ってただけ」


 「樽の後ろで?」


 俺は、桶に手を戻した。


 洗うものはもうなかった。洗った皿をもう一度洗った。




 「別に、名前つけようとしてるわけじゃない」


 「知ってる」


 「知ってるの」


 「言ったじゃん。あたしは、あんたに名前つけてもらわないって」


 彼女は椅子を引いて座った。脚が一本短いほうを引いたので、座った瞬間にがたんと鳴った。誰も直さない椅子だ。


 足が床まで届かない。届かないぶんを、前後に振っている。


 「じゃあ、なんで見てんの」




 俺は、答えを持っていなかった。


 持っていないまま、口が動いた。


 「儀で、何が来るか」


 「うん」


 「それが、心配なんだよ」




 彼女は、きょとんとした。


 「心配?」


 「うん」


 「なにが」


 俺は、うまく言えなかった。


 言えないまま、扉の方を見た。




 ちょうど、その人が入ってきた。




 掃除のペレさんは、毎朝ここに来る。


 広場を掃き終わってから坂を下りてきて、湯を一杯飲んで、銅貨を一枚置いて、また上っていく。三年、ずっとそうだ。


 板に名前がある。三十番台のどこか。順番を待っている。


 板は上から順に見ている。セシルさんがそう決めて、俺もそうしてきた。いま十九番まで終わったところだから、この人の番は、まだ十いくつ先だ。


 それなのに俺は、湯を出しながら、呼び止めた。


 順番を飛ばしたのは、初めてだった。


 小柄な爺さんだ。腰が少し曲がっている。曲がっているのに、背が高く見える。肩が右下がりになっているのは、五十年、同じ向きに掃いてきたからだ。日に焼けた首の後ろに、深い皺が三本ある。


 箒を持っている。うちの中でも持っている。柄の先が黒く光っていた。


 目が青かった。


 澄んだ、朝の海みたいな青だ。この街でこの色は珍しい。名の色である。




 「五十年やっとります」


 「五十年」


 「十五で名前もろうて、次の日から」


 彼は箒の柄を少し握り直した。言葉を出す前に、必ずそれをやる。


 「掃除いうんは、まあ、その、なんです。誰でもできる仕事で」


 「はい」


 「名前をもろうたときに、周りが、ちょっと、笑いましてな」


 「……」


 「わしも、そのときは、ちょっと悔しくて」


 彼は笑った。笑ったというより、口の形をそうしただけみたいな顔だった。頬は動かなかった。


 「けど、五十年やっとると、まあ、そんなもんかと」




 俺は、待った。


 名前が来るのを待った。


 ドンさんのときは、勝手に喉の奥から上がってきた。リーヤのときは、金床の音の合間に落ちてきた。


 今回は。




 来なかった。


 来ないというより、入るところがなかった。


 ドンさんのときは、あの人の中に、空いている場所があった。二十五年ぶん、何かが押し込められていて、その脇に隙間があった。


 この爺さんには、それがない。


 隅から隅まで埋まっている。




 「ペレさん」


 「はい」


 「あんた、合ってますよ」


 彼が、顔を上げた。


 青い目が、まっすぐこっちを向いた。


 「合ってる?」


 「合ってます。完璧に」


 俺は続けた。


 「肩が右下がりです。ずっと同じ向きに掃いてきた人の肩だ。手の握り方も決まってる。何十年も持ち替えてない。柄の先が黒く光ってるのは、そこしか握らなかったからでしょ」


 「……そりゃ、まあ」


 「毎朝、井戸の東側から始めて、西へ掃いてく。風のある日は、風下から始める。鳩が降りてるところは飛ばして、あとで戻る。掃いた場所を二度掃かない」


 俺は、自分でも驚いていた。


 俺は人の顔を覚えられない。手元ばかり見ているから、顔の方は思い出せないことが多い。


 それなのに、この爺さんが箒を動かす順番は、目を閉じても言える。


 「あれ、誰かに教わったんですか」


 「いや」


 「自分で決めたんですか」


 「……そうです」


 「五十年かけて」


 「まあ、そうなりますな」


 「じゃあ、それ、掃除ですよ」


 俺は言った。


 「あんたの名前、間違ってないです」




 しばらく、誰も何も言わなかった。


 ペレさんは、箒を持ったまま立っていた。


 それから、片手を離して、目のところに当てた。


 「……すいません」


 「いえ」


 「いや、あの」


 「はい」


 「五十年、初めて言われたもんで」


 彼は、しばらくそうしていた。離した手のぶんを、もう片方の手が支えていた。


 箒は倒さなかった。


 リーヤの手が止まっていた。留め金が、指の中で止まっている。


 セシルさんは書いていなかった。羽根ペンを紙から離して、膝の上に下ろしている。


 ドンさんは、入口の外を向いていた。目は閉じたままだ。


 厨房で、鍋が一度、大きく鳴った。たぶん、わざとだ。


 俺は皿を拭くふりをした。




 ペレさんは、湯を飲まずに帰った。


 銅貨は、いつもどおり一枚置いていった。




 なんで今日だったのか、あとで考えた。


 順番は、十九番までしか進んでいない。急ぐ理由もなかった。


 たぶん、さっき、あの子に「心配だ」と言ったからだ。


 言ってしまったので、確かめたくなった。


 合っているかどうかが、俺には本当に分かるのか。


 分かった。ペレさんは、合っていた。


 それが分かったところで、あの子のことは、何も分からないままだった。




 しばらく、店が静かだった。




 「ねえ」


 ミアだった。


 足が止まっていた。ぶらぶらさせていた足が、床の上で止まっている。


 「名前、つけなかったね」


 「つけなかった」


 「なんで」


 「合ってたから」


 「合ってた」


 「うん。あの人の名前は、あの人に合ってる。だから何もしなくていい」




 彼女は、しばらく黙っていた。


 黙ってから、こう言った。


 「じゃあ、合ってなかったら?」




 俺は、答えた。


 答えてしまってから、まずいと思った。


 「二十五年、石が割れない」




 ミアは、入口の脇を見た。


 ドンさんが立っている。目を閉じている。褪せた布に、新しい白い糸で、聞き手のドン、と縫ってある。


 彼女は、その袖を見ていた。


 それから、自分の右腕に目を落とした。麻の生地に、糸の跡が一つもない。




 「クルトさん」


 「ん」


 「儀で、あたしに何が来るか、分かる?」


 「分からない」


 「見ても?」


 「見ても」


 「四日見たのに?」


 「四日見ても」




 彼女は、椅子の上で膝を抱えた。


 抱えてから、俺と同じ座り方だと気づいたらしく、すぐ足を下ろした。




 「じゃあ、ついてくれば?」




 「え」


 「一日。朝から、終わりまで」


 「なんで」


 「四日じゃ足りないんでしょ」


 彼女は椅子から降りた。


 「一日ついてくれば、分かるかもしれないじゃん」


 「分かって、どうすんの」


 「言ってよ」


 彼女は袋を肩にかけた。かけてから、肩の上で一度、位置を直した。


 「儀の日、あたしが名前もらったらさ」


 「うん」


 「合ってるかどうか、教えて」




 俺は、その頼まれ方を、しばらく飲み込めなかった。


 この子は、名前をつけてくれとは言っていない。


 順番は神殿だ。それは譲らない。


 そのかわり——


 合っているかどうかを、確かめる係を、俺に頼んでいる。




 「……分かった」


 「やった」


 「ついていけるかな」


 「無理だと思う」


 「即答すんな」


 「だって坂だよ? 十一往復だよ?」


 「十一」


 「今日は多いから」


 彼女は干し肉の最後の一切れを飲み込んで、立ち上がった。


 「じゃ、行こ」


 「今から?」


 「今から」


 俺は皿を三枚洗いかけていた。


 三枚とも、水に沈めたまま置いてきた。




 店を出て、まず坂を下りた。


 うちの店は坂の中ほどにある。一度目の折れのすぐ上だ。だからどこへ行くにも、まず上るか下るかを決めることになる。


 下りは楽だと思われがちだが、楽なのは肺だけだ。膝に来る。石畳は磨り減って丸いから、踵から先に着いて、そのたびに音が鳴る。放っておくと勝手に速くなる。体が前のめりになる。


 折れをひとつ曲がるたびに、海が近づいた。屋根の色も変わっていく。港側の瓦は潮にやられて、赤茶が抜けかけている。


 匂いが入れ替わるのは、最後の折れだ。パン屋の煙が切れて、塩と魚が来る。


 ミアは俺の三歩前を、跳ねるように下りていった。


 踵が、鳴らない。


 俺の踵は、一歩ごとに鳴っていた。




 港は、うるさい。


 石造りの桟橋が三本。今日は船が四隻着いていて、そのうち二隻から荷を降ろしていた。


 木箱が桟橋の上に積み上がって、その脇を樽が転がされていく。転がす男が二人、受ける男が一人。怒鳴り声が飛ぶが、内容はほとんど聞き取れない。縄が石の角で擦れる音が、ずっと鳴っている。


 犬が二匹いる。いつも同じ二匹だ。片方は茶で、片方は白に近い汚れた灰。


 匂いは、塩と、魚と、濡れた縄と、船底の油。倉庫の裏に乾いた海藻が積んであって、そこだけ少し甘い。


 光がおかしい。東からの朝の光が海面で跳ね返って、下から顔を照らしてくる。だから港の朝は、みんな顔の下側が明るい。


 足元の石畳は濡れている。ここはいつも濡れている。踵から着くと必ず滑るので、港では爪先から下ろす。この街の人間は全員そうしている。




 「ミア! こっち!」


 荷受けの小屋の前で、太った男が手を振っていた。


 樽みたいな体で、腕を上げると脇のところで布が突っ張る。顔は日に焼けて赤黒い。指が太くて、指先だけインクで汚れている。荷の数を板に書きつける仕事だからだ。


 髪が青かった。深い、海の底みたいな青。名の色だ。坂の上からでもあの男がどこにいるかは分かる。


 「おはよー」


 「今日は多いぞ」


 「うわ」


 男が布袋を差し出した。ミアは中を覗いて、指を折って数えた。


 「……十九」


 「多いだろ」


 「多い。銅貨足して」


 「三枚」


 「五枚」


 「四枚」


 「四枚半」


 「……四枚半」


 「毎度」


 速かった。


 値段が決まるまで、三つ数えるあいだもなかった。




 袋を肩にかけて、彼女は坂を見上げた。


 見上げてから、肩の上で一度、位置を直した。


 俺はあとで知るのだが、この掛け直しは、中身を落とさないためじゃない。


 走っているあいだ、中で荷が動かないようにするためだ。




 上りは、別の生き物だった。


 息が上がる。腿の前が焼ける。ふくらはぎより先に、腿の付け根に来る。


 この街の坂は三回折れる。港から数えて一回目の折れのすぐ上に、うちの店がある。そこから広場までに、あと二回。


 二度目の折れが一番きつい。


 俺は、店の前を過ぎたところで、もう置いていかれた。


 ミアは振り返らなかった。振り返らずに、声だけ寄越した。


 「遅ーい!」


 「うるさい」


 「歩幅がちっちゃいんだよ!」


 俺は返事をしなかった。返事をする息がなかった。




 彼女は、上りで歩幅を変えない。


 これは、たぶん、すごいことだ。


 荷担ぎは全員、上りで歩幅を詰める。詰めて、回転を上げて、それでも最後の十歩でどこかに一度息をつく。俺もそうだ。


 この子は詰めない。爪先で押して、そのまま同じ幅で上っていく。踵が一度も着かない。




 広場に出た。


 白い。


 この街で一番平らな場所だ。石畳が揃っていて、坂じゃない。井戸があって、掲示板があって、鳩がいて、端に木が二本ある。


 ミアは、広場を斜めに突っ切った。


 突っ切って——掲示板の前で、一瞬だけ足を緩めた。


 止まったわけじゃない。二歩か三歩、幅が短くなっただけだ。顔だけ上に向けて、また元の速さに戻った。


 紙が三枚貼ってある。一枚は新しい。


 俺は追いついてから、それを見上げた。


 黒い印が並んでいる。縦に、いくつも。


 読めない。


 「なに見てんの」


 「いや」


 「クルトさん、字読めないでしょ」


 「読めない」


 「あたしも」


 彼女は笑った。


 「じゃあ二人とも見てもしょうがないじゃん」


 そう言って、また走り出した。




 西へ抜けた。


 広場から西の外れまでが、この街で一番長い。緩い下りで、家がだんだんまばらになる。


 石畳が途切れて、土になる。土になると音が変わる。ぱたぱたという、ばかみたいに軽い音になる。


 畑がある。洗濯物が干してある。この街で最後まで日が当たるのはここだ。




 一軒目。


 婆さんが出てきた。腰が二つに折れている。目が白く濁っていて、こっちを見ているのかどうか分からない。


 ミアは包みを渡した。


 婆さんは、その場で開けた。中は手紙だった。


 そして、読みはじめた。


 声に出して。


 時間がかかった。ものすごくかかった。一行読むのに、指で追って、口の中で三回繰り返す。


 読み終わって、また最初から読んだ。


 二度目も終わって、また最初から読んだ。


 三回、読んだ。


 そのあいだ、ミアは立っていた。


 膝に手を当てるでもなく、壁に寄りかかるでもなく、まっすぐ立って、婆さんの顔を見ていた。




 俺は、頭の中で数えていた。癖である。


 三百まで数えて、やめた。


 三百というのは、この街の人間が広場から西の外れまで歩く数だ。それだけの時間、この子は動かなかった。




 婆さんが顔を上げた。


 「ありがとうね」


 「はーい」


 「息子がね」


 「うん」


 「元気だって」


 「よかったね」


 ミアは、そこで初めて笑った。


 笑ってから、走り出した。




 「あのさ」


 俺は追いかけながら言った。息が上がっていた。


 「置いてけばよくない?」


 「え」


 「手紙。戸のとこ置いとけば、あとで読むでしょ」


 彼女は走りながら、こっちを見た。


 眉が上がって、口が半分開いた。


 本気で分かっていない顔だった。


 「なんで?」


 「なんでって、時間の無駄じゃん。三百数える間、突っ立ってたよ」


 「無駄じゃないよ」


 「無駄でしょ」


 彼女は前を向いた。


 それから、こう言った。


 「――渡さないと、届いたことにならないじゃん」




 俺は、その一言を、そのときは聞き流した。


 息が上がっていたからだ。


 あとになって、何度も思い出すことになる。




 三軒目は、糸屋だった。


 桶屋の隣にある。戸が開けっ放しで、中に糸巻きが天井まで積んである。埃と、羊の脂の匂いがした。


 出てきたのは、四十くらいの女の人だった。指の腹が、糸で切れた細い傷だらけになっている。


 紡ぎのエルサさん。板に名前がある。


 俺を見て、少し驚いた顔をした。


 「あら」


 「どうも」


 「あの」


 「はい」


 彼女は、言うかどうか少し迷ってから、言った。


 「待ってます」


 俺は頷いた。


 「三十八番です」


 「はい」


 それだけだった。


 彼女は糸を受け取って、頭を下げて、中に戻った。


 ミアが、こっちを見ていた。


 「順番待ってる人?」


 「うん」


 「三十八番って、あと三十七人いるってこと?」


 「そう」


 「うわ」


 彼女は走り出した。




 東の区画へ回った。


 西の外れから東の区画までは、街を横に横断することになる。緩い下りだ。神殿の下を回り込むので、右手にずっと白い石の壁が見えている。この街で白い建物は、あれだけだ。


 東の区画は家が密集していて、路地が狭い。石段が多い。


 その石段を下りきると、港に戻る。




 一周した。


 俺は、桟橋の縁に座り込んだ。


 「まだ一周だよ」


 「知ってる」


 「あと十回だよ」


 「言うな」




 二周目で、俺は気づいた。


 同じ道を通っている。


 港で荷を受けて、坂を上って、うちの店の前を過ぎて、広場を斜めに突っ切って、西へ抜けて、東へ回って、石段を下りて、港に戻る。


 一周目とまったく同じだった。


 石畳の、踏む石まで同じだ。広場の井戸の手前に、他より少しだけ盛り上がった石が一枚ある。一周目、彼女はそれを踏まなかった。二周目も踏まなかった。


 「なあ」


 「なにー」


 「毎回、同じとこ走ってる?」


 「そうだよ」


 「なんで」


 「そのほうが速いもん」




 三周目で、もう一つ気づいた。


 荷の順番も、決まっている。


 袋の中で、届け先の遠い順に入っている。だから彼女は、中を見ないで手を突っ込んで、次の一つを出せる。


 港で袋を受け取ったとき、彼女は中を覗いて指を折った。あれは数を数えていたんじゃない。


 その場で、並べ替えていたんだ。




 俺は、今朝のことを思い出していた。


 ペレさんの箒の順番。井戸の東から西へ。風のある日は風下から。鳩のいるところは飛ばして、あとで戻る。


 誰にも教わっていない。五十年かけて、自分で決めた。


 この子も、同じことをしている。


 誰も教えていない。順路も、荷の並べ方も、袋の掛け直し方も、全部この子が自分で決めた形だ。


 ペレさんは、それで合っていた。


 じゃあ、この子も——




 四周目で、俺の膝が笑いはじめた。


 思考は、そこで止まった。




 昼、マルタの店に寄った。


 ミアは椅子を引いて座った。脚の短いほうを引いた。


 「二人ぶん」


 「はいよ」


 マルタさんは何も聞かなかった。聞かないまま、椀を二つ出した。


 ミアは一つをその場で食べた。速い。飲むみたいに食べる。


 もう一つには手をつけなかった。


 彼女は前掛けの中から布を出して、椀の中身をそこに包んだ。器用に包んだ。角を折って、上で結んで、崩れないようにする結び方だ。何百回もやった人の手つきだった。


 包んで、腰の袋に入れた。


 「それ、誰の」


 「んー」


 「聞いちゃまずかった?」


 「べつに」


 彼女は答えなかった。




 答えないかわりに、別の話をはじめた。


 「あのさ。名前もらったら、速くなるのかな」


 「え」


 「なるでしょ。ドンさん、耳よくなったんでしょ」


 「……なった」


 「じゃあ、あたしも速くなる」


 彼女は指を折りはじめた。


 「そしたら、一日に二十軒回れる」


 「二十軒」


 「今は十四が限界だから」


 俺は、朝の袋を思い出した。


 「朝、十九って言ってなかった?」


 「言った」


 「十四しか回れないなら、五軒余るじゃん」


 彼女は、指を折るのをやめた。


 「うん」


 「余ったの、どうすんの」


 「明日」


 「明日でいいの?」


 「よくない」


 そこで初めて、この子は言葉を選んだ。


 選んで、結局、まっすぐ言った。


 「よくないけど、六人だから」


 「六人」


 「今日届かないの、だいたい六人。毎日それくらい」


 彼女は水を飲んで、立ち上がった。


 「行こ」




 俺は、その数を、その日は数のまま持っていた。


 六人。


 意味がつくのは、次の日の夕方だ。


 厨房でマルタさんが、こっちを見ていた。


 目が合った。


 マルタさんは、何も言わずに顔を引っ込めた。




 午後。


 五周目で、俺は上りを歩いた。


 六周目で、坂の途中に座った。


 七周目からは、石段のところで待つことにした。


 情けなかったが、これ以上ついていくと、明日、皿が洗えなくなる。




 だから俺は、そこで見ていた。


 石段の上から、東の区画を見下ろす形になる。路地が下へ落ちていって、その先に港と海がある。


 ミアが路地に入る。


 しばらくして、出てくる。


 また入る。また出てくる。




 俺は、数えはじめた。


 癖である。


 走っている時間と、止まっている時間を、別々に数えた。




 路地の突き当たりの家。石段が三段ある。叩いても返事がない。


 ミアはその石段に座った。膝に顎を乗せた。


 待った。


 俺は数えた。


 四百二十まで数えたところで、家の人が坂の下から帰ってきた。籠を持った女の人だった。


 ミアは立ち上がって、包みを渡した。


 女の人は籠を石段に置いて、包みを開けて、「まあ」と言った。


 布地だった。青い。


 「娘のなの。儀の日の」


 「へえ」


 「間に合ってよかった」


 ミアは、その布を見ていた。


 じっと見ていた。




 それから、走り出した。




 俺は、二つの数を持って、店に帰ることになる。


 走っていた時間より、待っていた時間の方が、長かった。


 ずっと長かった。




 十一周目が終わったのは、日が落ちてからだった。


 西の外れに最後まで日が当たっていて、そこだけ橙色をしていた。


 「終わりー」


 ミアは腰の袋を叩いた。ぺたんという音がした。空だ。


 俺は壁に手をついて立っていた。膝が言うことを聞かない。


 「クルトさん、大丈夫?」


 「大丈夫じゃない」


 「明日も来る?」


 「来ない」


 「即答」




 「送ってく」


 俺は言った。


 「え、逆でしょ。あたしが送ってこうか?」


 「いいから」




 ミアの家は、西の外れにある。


 順路からは外れる。広場から西へ抜ける道を、途中で二本、路地に入ったところだ。


 だから彼女は、一日に十一回この近くを通って、一度も家には寄らない。




 路地は狭い。土だ。石畳が途切れている。


 突き当たりに、小さい家があった。


 屋根が低い。壁は石だが、上のほうだけ木で継いである。窓は一つ。木の枠が歪んでいて、閉まりきっていない。


 その戸の脇に。




 籠が、三つ積んであった。




 洗い上がった洗濯物だ。


 畳んである。角が揃っている。上に布がかけてあって、埃をよけてある。


 三つとも、届け先が決まっているのが分かった。籠の縁に、小さい木札が挿してある。


 俺は、それを見た。


 それから、ミアを見た。




 ミアは、籠の横を通った。


 目もやらなかった。


 見なかったんじゃない。見ない、ということをした。


 一日じゅう、他人の荷を担いで、他人の顔を見て、他人が読み終わるまで立って待っていた子が、自分の家の前に積んである籠を、素通りした。




 戸が開いた。


 女の人が出てきた。


 背が低い。痩せている。


 髪は濃い茶で、生え際に白いものが混じっている。後ろでひとつに結んでいる。


 目が丸い。濃い茶だ。


 ミアと同じ目だった。


 手が荒れていた。指の関節が赤い。爪のまわりが白くふやけている。水仕事の手だ。


 俺は、その手を見ていた。


 俺の手と、同じ形をしていた。




 「おかえり」


 「ただいまー」


 母親は、俺を見た。


 見て、少し困った顔をした。


 「あの」


 「あ、マルタさんとこの。クルトさん」


 「そう」


 「送ってくれたの」


 「うん」


 母親は、俺に頭を下げた。丁寧な下げ方だった。


 それから、娘に目を戻した。




 「まだやってるの、それ」




 声は、大きくなかった。


 怒ってもいなかった。


 ただ、疲れた人の声だった。




 「うん」


 「もういいでしょう、そんな仕事」


 「うん」


 「うん、じゃなくて」


 「聞いてるよ」


 ミアは、そう言って、家に入った。


 入りぎわに、こっちを向いた。




 「クルトさん」


 「ん」


 「明日も来る?」


 「来ないって言ったろ」


 「言ってたね」


 彼女は笑った。




 「あ、そうだ」


 「なに」


 「約束、忘れないでよ」


 「儀の日でしょ」


 「そう。見に来て」


 「行くよ」


 「絶対だよ」


 「絶対」


 彼女は満足そうに頷いて、戸を閉めた。




 母親は、そこに立っていた。


 立ったまま、閉まった戸を見ていた。


 それから、籠の一つを持ち上げた。


 三つのうち、一番上のやつだ。


 持ち上げて、腕にかけて、路地の方へ歩き出した。


 この時間から、届けに行くらしい。




 「あの」


 俺は言った。


 「持ちましょうか」


 「いえ」


 即答だった。


 「重いですよ、それ」


 「慣れてますから」


 彼女は歩き出した。


 歩き出してから、一度だけ振り返って、また頭を下げた。




 俺は、そこにしばらく立っていた。


 立って、路地の奥を見ていた。


 母親の背中が、路地を出て、坂の方へ消えた。


 歩くのが速かった。


 小柄で、痩せていて、籠を抱えているのに、速い。


 あの歩き方を、俺は今日、一日じゅう見ていた。




 俺は坂を下りた。


 下りは膝に来る。今日の膝には、来すぎた。二回、壁に手をついた。


 頭の中には、二つの数があった。


 走っていた時間。


 待っていた時間。




 それと、もう一つ。


 籠が、三つ。




 店に着いたとき、もう油皿が点いていた。


 リーヤが厨房から顔を出した。


 「うわ、死んでる」


 「死んでる」


 「で」


 「なにが」


 「分かったの。あの子に何が来るか」




 俺は、椅子に座った。


 座って、膝を抱えようとして、抱えられなかった。




 一日、見た。


 朝から日が落ちるまで、この子のやることを全部見た。


 走るところも、待つところも、値段を決めるところも、包みを結ぶところも、他人の家の石段に座っているところも見た。


 全部、覚えている。


 ペレさんの箒の順番を覚えているのと、同じくらいはっきり覚えている。




 なのに。




 「……分かんない」


 「分かんないの」


 「分かんない」


 リーヤは、それ以上聞かなかった。


 布巾を絞って、卓を拭きはじめた。




 今朝、ペレさんには、入るところがなかった。


 隅から隅まで埋まっていたからだ。合っている人間の中身は、そういう形をしている。


 あの子は、違う。




 空いている。


 どこかが、はっきり空いている。




 空いているのに、俺には、その穴の形が見えない。




 儀まで、あと六日だった。

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