表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
11/16

第11話 我慢

 膝が、治らなかった。


 物置の高窓から、朝の光が落ちていた。壁の同じところに、細長い四角が映っている。夜は月がそこにいた。青が白に変わっただけだ。


 俺は藁の上で仰向けのまま、右の脚を持ち上げてみた。持ち上がりはした。ただ、腿の裏が板になっていた。膝の皿の裏側に砂が挟まっている感じがして、曲げるのはやめた。


 昨日、この脚で坂を上った。ミアの十一往復のうち、二往復ぶんだけだ。残りは座って待っていた。


 それで、これだ。


 店に出るには、階段を四段、上がらなければならない。


 一段目で、唸った。


 二段目は、右脚が上がらなかった。左を先に乗せて、右を引き上げた。


 三段目で、壁に手をついた。掌に、剥がした板の跡の角が当たった。冷たい。


 四段目は、腕で上がった。壁を押して、体を持ち上げた。


 三年洗ってきた腕が、初めて役に立った。


 「情けな」


 リーヤが厨房から言った。


 声のした方を見ると、厨房の入口に立って、片足に重心をかけていた。鍛冶場の炉の前だと、この人は髪も腕も赤く光る。店の中だと赤銅色は沈んで、ただの濃い茶だ。同じ人間なのに、場所で色が変わる。


 「一日ついていっただけでしょ」


 「一日ついていっただけであれだよ。あの子、毎日やってんだよ」


 「知ってる。あたしは追いかけようとも思わないけど」


 「賢いね」


 「賢いよ」


 鼻だけで笑った。声は出さない。この人の笑い方はいつもこれだ。




 その日、俺は店にいた。


 膝が動かないので、外へ出るのはやめた。皿を洗って、拭いて、棚に戻した。洗う前に数えて、戻してからもう一度数える。二十六枚。数が合っていると、少しだけ落ち着く。


 坂の下が東なので、朝の光は港の側から入ってくる。扉を開けておくと、床に光の帯が一本、斜めにできる。帯の中だけ埃が見える。埃は落ちない。同じ高さでゆっくり回っている。


 俺は左から三つ目の、脚が一本短い椅子に座った。膝を抱えようとして、抱えられなかったので、片脚だけ椅子の上に上げた。


 考えていたのは、五日後のことだ。


 あの子は壇に上がって、名前をもらう。オーウェンとかいう司名が読み上げて、袖に文字が縫われて、糸の端が切れて落ちる。


 そのあと、あの子は俺のところへ来る。


 そして聞く。合ってた?


 俺は、答えなければいけない。




 昨日、丸一日見た。走るところも、待つところも、値段を決めるところも、包みを結ぶところも見た。


 なのに、何も言えない。


 ドンさんのときは、見えた。あの人の中に、空いている場所があった。二十五年ぶん押し込められたものの脇に、隙間があった。


 ペレさんのときも、見えた。埋まっているのが見えた。だから「合ってます」と言えた。


 あの子は、どっちでもない。


 いや、違うな。


 空いてはいる。あるのに、それが我慢に見えない。




 「なあ」


 俺は顔を上げた。


 上げてから、店の中を端から端まで一度、見た。


 厨房の入口にリーヤ。奥の炉の前にマルタさん。手前から三つ目の卓にセシルさん。入口の脇にドンさん。


 ドンさんは夜警明けで、立ったまま目を閉じている。扉の光を背負っているので、輪郭しか見えない。肩の線が扉の枠より広い。その塊が、呼吸のたびに少しだけ上下する。生きてはいる。


 セシルさんは卓に紙を三枚、角を揃えて少しずつずらして並べていた。羽根ペンはまだ持っていない。窓の光が白金の髪を拾って、そこだけ明るい。


 マルタさんは炉に薪を足していた。火が跳ねると赤ら顔がもう一段赤くなる。頭の上の白いところが、火の色を吸って橙に見える。


 全員いる。


 「みんな、ミアのこと、どう思う」


 「なんの話だい」


 マルタさんが薪を持ったまま顔を出した。


 「あの子に、儀で何が来るはずなのか、俺には分からない」


 「そりゃ十日だろ」


 「うん。でも、なんか、方向が違う気がして」


 俺は説明した。


 ドンさんのときは、我慢が見えた。二十五年、聞こえることを誰にも言わなかった。言えば石が割れない言い訳になると思っていたからだ。その黙りが、手の甲の白い傷になって残っていた。


 リーヤも、二十年、認めなかった。火の前に立つと手が震えることを、自分に対しても認めなかった。認めたら父の名前が終わると思っていた。


 「二人とも、我慢してたんだよ」


 「そうだね」


 リーヤが、留め金を指の間で回しながら言った。回しすぎて落として、拾わなかった。


 「でもミアは」


 「うん」


 「我慢してるように見えないんだよ」


 俺は両手を広げた。


 「楽しそうなんだよ、あの子。ずっと。走ってるときも、待ってるときも」




 「じゃあ、我慢してないんじゃないの」


 リーヤがあっさり言った。


 「そうなのかな」


 「そうでしょ。全員が何か我慢してるわけじゃないよ」


 「うん」


 「ペレさんだって、合ってたじゃん」


 それは、そうだ。


 広場の爺さんは五十年、掃除のペレだった。俺は名前を言えなかった。言うことがなかったからだ。あの人の目は澄んだ青で、あれは合っている人間の色だ。


 合っている人もいる。むしろ、その方が多い。神殿の記録は三千件で、外れているのが二百なら、残りの二千八百は合っている。


 ミアも、そうなのかもしれない。


 速い子が、速い名前をもらう。それだけの話なのかもしれない。




 「ドンさん」


 俺は入口の脇を見た。


 「起きてる?」


 「……起きた」


 彼は目を閉じたまま答えた。この人はいつも死んでいるように見えて、いつも起きている。扉の横木に肩を預けて、朝から昼まで立っていることがある。座らないのは、椅子が鳴るからだ。


 「ミアの足音、聞いたことある?」


 「毎日聞いてる」


 「どんな音?」


 彼はしばらく黙った。


 目を閉じたまま、頭の中で聞き直しているんだと思う。この人が言葉を探すときは時間がかかる。俺は三十まで数えるつもりで、十七で諦めた。


 光の帯の中を、埃が一周した。


 「……行きと帰りで、違う」


 「違う?」


 「荷物を持ってるときと、空のときで」


 彼は目を開けた。小さい、濃い茶色の目だ。


 「持ってるときの方が、軽い」


 俺は椅子から脚を下ろした。


 「軽い? 重いんじゃなくて?」


 「軽い」


 彼は自分の耳の後ろを、指の背でひとつ叩いた。


 「踏み込みが浅い。跳ねてる感じだ。帰りは、べたっとしてる」


 「重い荷を持ったら、普通は踏み込みが深くなるでしょ」


 「なる」


 「あの子は、逆ってこと?」


 「逆だ」


 「……荷物持ってる方が、軽く走ってるってこと?」


 「そう聞こえる」


 厨房で、リーヤが手を止めた。




 「あたしも一個ある」


 リーヤが言った。


 「あの子の靴、見た?」


 「靴?」


 「あんた、手ばっかり見てるからでしょ。あたしは靴も見る」


 彼女は布巾を肩にかけて、卓のこっち側へ回ってきた。


 「先月、あの子の靴に当て革を貼ってやったんだよ。つま先。二日で駄目にしやがった」


 彼女は指を一本立てた。爪が短くて黒い。洗っても落ちない鉄の粉だ。


 「あの子の靴、前が減ってる。つま先が。走る子の減り方」


 「そりゃそうでしょ」


 「でもね」


 彼女は床で一歩、走る形をやってみせた。体を前に倒して、つま先だけで着く。踵はつかない。


 「あの子の靴は、踵も減ってる」


 「踵?」


 「同じくらい。走ってばっかりの子の靴は、踵はあんまり減らない。つま先だけが先に駄目になる」


 「いや」


 俺は言った。


 「それ、坂だからじゃない? この街の人間はみんな下るんだから、踵は減るでしょ」


 リーヤが、こっちを見た。


 「あんた、いま、いいこと言った」


 「え」


 「足、見せて」


 「は?」


 「いいから」


 俺は片足を上げた。彼女は踵をつまんで、外側の後ろを指した。爪の黒い、短い指だ。


 「ここ。斜めに減ってるでしょ」


 なっていた。左右とも、同じところが同じ角度で削れていた。言われるまで、一度も見たことがなかった。


 「下りは外から着くの。だから角だけ、斜めに削れる。これが坂を下る人間の靴」


 「うん」


 「で」


 彼女は指を一本立てた。


 「あの子、どこ走ってるか、あんた昨日ついて回ったよね」


 「うん」


 「言ってみて」


 「……港で荷を受けて、坂を上って、店の前を通って、広場。そこから西の外れ、東の区画」


 「帰りは」


 「東側の石段を下りて、港」


 「そう」


 リーヤは、俺の靴から手を離した。


 「あの子、坂を下らないんだよ」




 俺は、口を開けたまま止まった。


 言われてみれば、そのとおりだった。


 昨日、俺はあの順路を丸一日ついて回った。上りは坂で、下りは石段だ。同じ道を、十一回。坂を下ったのは、朝、店から港へ出た一回きりだった。


 「上りは爪先で押すでしょ。踵は着かない」


 「着かない」


 「石段を駆け下りるのも爪先。踵から着いたら、段の角で滑って落ちる」


 俺は、昨日の石段を思い出した。


 段の高さが揃っていない。俺は二度、踏み外しかけた。あの子は踏み外さなかった。跳ねるみたいに下りていって、音が軽かった。


 「じゃあ、あの子の靴の踵は」


 「走ってるあいだ、一回も地面についてない」




 「なのに、減ってる」


 彼女は指を揃えて、平らな面を作ってみせた。


 「しかも、平らに。角じゃなくて、面で」


 「面」


 「面で減るのは、乗せっぱなしにしてるからだよ。動かないで、体重かけたまま」


 彼女は俺を見た。眉が濃くて、下がらない。


 「走ってるあいだは、踵が浮いてる。それでも減ってるってことは」


 「走ってないときに、減らしてる」


 「そう」


 彼女は言った。


 「あの子の靴は、両方減ってる。立ってる時間が長い証拠」




 「あと、もう一個」


 リーヤが言った。


 言ってから、少し考えた。言うかどうか迷った顔だった。


 「これ、関係あるか分かんないんだけど」


 「言って」


 「あの子、母親の洗い物は運んでないよね」


 俺は、顔を上げた。


 「え」


 「うち、洗いのイレナさんに出してるの。前掛けとか、布巾とか。鉄の粉つくから、うちのは別料金なんだけどさ」


 「うん」


 「取りに来るのも、持ってくるのも、イレナさん本人」


 「ずっと?」


 「あたしが鍛冶場ひとりでやりはじめた頃から。だから、五年くらい」




 俺は、昨日の夕方を思い出した。


 路地の突き当たり。低い屋根。歪んだ窓枠。


 戸の脇に、洗い上がった籠が三つ。畳んであって、角が揃っていて、上に埃よけの布がかけてあって、縁に届け先の木札が挿してあった。


 ミアは、その横を通った。


 目もやらなかった。


 一日じゅう他人の荷を担いで、他人が手紙を三回読み終わるまで立って待っていた子が、自分の家の前の籠を、素通りした。




 「なんで運ばないんだろ」


 「知らない」


 リーヤは肩をすくめた。


 「喧嘩でもしてんじゃないの。親子なんて、そんなもんでしょ」


 厨房で、マルタさんの手が止まった。


 止まったのが、音で分かった。


 俺は厨房の方を見た。


 マルタさんは、こっちを見なかった。


 薪を一本足して、火の位置を直して、それきりだった。




 俺は、昨日を思い出した。


 石段に座って、膝に顎を乗せて待っていた四半刻。


 立ったまま、婆さんが手紙を三回読むのを待っていた時間。三回目が終わるまで、あの子は動かなかった。


 布地を広げる女の人を、じっと見ていた時間。


 「……確かに、待ってる時間の方が長かった」


 「でしょ」


 「でも、それは仕事だし」


 「仕事なら、置いて帰ればいいじゃん」


 リーヤが言った。


 「あたしが客なら、置いてってくれた方が楽だよ。留守にしてるのが悪いんだし」


 もっともだ。


 もっともなんだけど。


 ――渡さないと、届いたことにならないじゃん。




 「あたしからも一個」


 マルタさんが厨房から言った。


 「あの子、うちに来ると、必ず二人ぶん頼むんだよ」


 「二人ぶん?」


 「自分のと、誰かのと」


 彼女は鍋を持ったまま、卓の縁に寄りかかった。木がみしりと言った。


 「自分のはここで食う。もう一つは布に包んで、持って帰る」


 「誰の?」


 「言わない。持って帰るだけ」


 「毎回?」


 「毎回だね。あたしは客が何を頼んだかを忘れない」


 彼女は少し考えて、それから言った。


 「たぶん、母親だろ」


 「聞いてないの?」


 「聞かないよ。聞かれたくないから言わないんだ」


 彼女は鍋の底を掌で叩いた。とん、と鳴って、それで話が終わりになった。




 「私からも」


 セシルさんが羽根ペンを持ち上げて、一度持ち直した。書く前に必ずこうする。今日は書かないのに、こうした。


 「名簿を確認しました。八十四人の中に、ミアさんはいません」


 「そりゃそうでしょ。まだ名前ないし」


 「いえ」


 彼女は顔を上げた。


 「あの名簿は、名前を変えてほしい人の名簿ではありません」


 「え」


 「マルタさんが板に書いたのは、『あなたに見てほしい人』の一覧です。名前があってもなくても書けます」


 俺は板を思い出した。


 あの日、名前と、住んでいるところと、袖の二つ名を書かせていた。書けない人間の方が多くて、たいていはマルタさんが代わりに書いた。字がでかいので、三人ぶんで一行が埋まった。二つ名の欄が空の人も、何人かいた。


 「あの子は、書いていません」


 「ああ」


 「あの日、彼女はまだ来ていなかったのかもしれません。ただ」


 彼女は紙をめくった。めくりかけて、手が途中で止まった。


 「その後も、書いていません」




 全部、揃っている気がした。


 荷物を持っているときの方が軽い足音。


 両方減った靴。


 二人ぶんの飯。


 名簿に書かない子。


 母の籠だけ、五年、触らない子。


 それから、昨日聞いた言葉が、いくつか。


 全部、手のひらの上に並んでいる。ドンさんは音で、リーヤは靴で、マルタさんは注文で、セシルさんは書かれていないもので見た。


 並んでいるのに、繋がらない。




 「クルトさん」


 セシルさんが言った。


 この人は声の高さが変わらない。変わるのは間だけだ。


 今日は、間が長かった。


 「一つ、伺っていいですか」


 「どうぞ」


 「あなたは、その人が何を我慢しているかを見る、とおっしゃいましたね」


 「言った」


 「では、逆に伺います」


 彼女は羽根ペンを置いた。


 木と木が当たる小さい音がした。店の端まで届くくらい、静かだった。


 「我慢していることを、本人が我慢だと思っていなかったら、どうなりますか」




 俺は、口を開けた。


 開けたまま、しばらく閉じられなかった。


 閉じ方が分からなくなった、というのが近い。顎の付け根に力が入らない。舌が上顎から離れたまま、乾いていくのが分かった。


 「……それは」


 「ドンさんは、聞こえることを苦しいと思っていました」


 「うん」


 「リーヤさんは、火の前に立つのを苦しいと思っていました」


 「うん」


 「二人とも、自覚があったんです。だから、あなたに見えた」


 彼女は続けた。腕を組んだ。右の袖が、左の肘の下に隠れた。


 「では、本人が平気だと思っていたら。むしろ、幸せだと思っていたら」


 俺は、椅子の背にもたれた。


 背もたれが、かたんと鳴った。三年、毎日聞いている音なのに、今日はやけに大きく聞こえた。


 「……見えない」


 「見えないでしょうね」


 見えない、というのは、見落としているという意味じゃない。


 見る場所が、ないということだ。


 我慢は、隠すから盛り上がる。盛り上がるから、外から触れる。本人が隠していないものは、盛り上がらない。平らなままだ。


 俺はずっと、隠されているものを探す仕事をしてきた。


 隠していない人間の前で、自分が何をすればいいのか、俺には分からなかった。




 その日の夕方、ミアが来た。


 扉が開いて、光が入ってきた。この時間の光は橙で、西向きの窓から低く差すので、入ってくる人間は逆光になる。人影が、扉のところで一度、肩の袋をかけ直した。


 あの掛け直し方をするのは、一人しかいない。


 「ねえねえ聞いて」


 汗だくだった。前髪が額に貼りついて、亜麻色の先だけ濃い。膝小僧に、昨日はなかった擦り傷が一つ増えていた。赤い。まだ乾いていない。


 服はいつもの膝丈だ。もとは青かったらしいが、洗いすぎて、いまは薄い水色になっている。靴は革で、何度も直してある。つま先の当て革だけ、色が新しい。


 断りもせずに椅子を引いて、腰を下ろした。三日目からそうだった。


 「なに」


 「服買ってもらった」


 彼女は立ち上がって、その場でくるっと回った。裾が遅れて回って、遅れて止まった。


 いつもの膝丈の服だった。


 「今日じゃないよ。儀の日に着るやつ。母さんが」


 「ああ」


 「まだ見せてもらってないんだけどね。当日まで内緒って」


 彼女は座り直して、卓に肘をついた。足はぶらぶらさせている。


 嬉しそうだった。とんでもなく嬉しそうだった。笑うたびに歯が見える。この街の子供にしては、やたら白い歯だ。


 俺は、昨日のことを思い出した。東の区画で、女の人が青い布を広げて、娘の服にするんだと言った。ミアは、それをじっと見ていた。


 あのとき何を考えていたのか、俺は聞かなかった。


 「あと五日」


 「五日」


 「昨日六日だったから」


 「計算できてる」


 「あたし算数できるもん」


 「字は読めないのに」


 「うるさいなあ」


 厨房でマルタさんが笑った。欠けた前歯から息が漏れる。




 ミアは、しばらく喋って、それから急に立ち上がった。


 「あ、やば。あと一軒あった」


 「今から? 暗くなるよ」


 「近いから。港の綱屋」


 彼女は袋を肩にかけて、掛け紐の位置を親指で送った。二度、送った。


 それから、思い出したように振り返った。


 「クルトさん」


 「ん」


 「約束、忘れないでよ」


 「儀の日でしょ」


 「そう。見に来て」


 「行くよ」


 「絶対だよ」


 「絶対」


 彼女は扉に手をかけて、そこでまた振り返った。


 「あとね」


 「まだあるの」


 「合ってるかどうか、教えてね」


 「うん」


 「絶対来てね」


 「行くよ」


 彼女は満足そうに頷いて、走っていった。


 入口を出るときに、ドンさんの脇をすり抜けていく。扉の幅はあの人の肩でほとんど埋まっている。その残りを、減速せずに抜けた。触れてすらいない。


 坂を下っていく音がした。下りは勝手に速くなる。踵が石を叩く音が、二つ、三つ、四つと間隔を詰めて、一度目の折れの向こうで聞こえなくなった。


 いつもの順路なら、ここから上る。港で荷を受けて、上って、広場へ抜けるのが、この子の一日の形だ。


 今日は下っていった。もう受ける荷がないからだ。最後の一軒を置いたら、そのまま帰る。


 ドンさんが、目を閉じたまま言った。


 「跳ねてる」




 店が静かになった。


 夕方の混雑までは、まだ少しある。マルタさんは豆を洗い、リーヤは卓を拭き、セシルさんは朝からの三枚を並べたままだ。一文字も増えていない。


 俺は、彼女が座っていた椅子を見ていた。


 座面に砂が落ちている。坂の砂だ。乾いた、白っぽいやつ。


 昨日の一日を、頭の中で、最初から流した。


 朝。港。石畳が濡れて、下から光を跳ね返していた。荷受けの太った男が手を振って、ミアが袋を覗いて、指を折って、十四と言った。三枚、五枚、四枚、四枚半。三秒で終わった。


 一軒目。港のすぐ上。走らなかった。近いから、と言った。婆さんが出てきて、その場で封を開けた。三回読んだ。ミアは立ったまま、三回目が終わるまで動かなかった。


 坂。二軒目からが本番で、俺は五十歩で置いていかれた。


 三軒目。糸屋。エルサさんが「待ってます」と言った。俺は「三十八番です」と言った。


 昼。広場の井戸。パンが二つと、パンが一つ。足をぶらぶらさせながら、人の癖を指で数えた。指が足りなくなるまで折った。


 午後。東の区画。留守。石段。四半刻。港のマストが四本、ゆっくり揺れていた。一度も「まだかな」と言わなかった。


 夕方。広場。掲示板。読めないのに、いつもの倍、立ち止まっていた。


 ――名前もらったら、もっと速くなるでしょ。そしたら、一日に二十軒回れる。今は十四が限界だから。


 ――二十軒回れたら、あと六人ぶん、待たなくてよくなる。


 俺は、そこで止まった。


 止まって、最後の一行だけ再生した。


 ……今日届かない人が、六人いるから。


 六人。


 十四軒回って、二十軒ぶんの荷がある。差が六。毎日、六。


 あの子は、毎日、六人を置いてきている。


 置いてきて、その六人が誰かを、全部覚えている。


 誰が三回読むか。誰が送り主を先に聞くか。誰が匂いを嗅ぐか。


 覚えているなら、今夜、その六人の顔が頭の中にある。


 婆さんが扉を開けて、誰も立っていないのを見る。靴屋の爺さんが、今日は来なかったなと思って戸を閉める。北門の脇のおばさんが、嗅ぐものがないまま鍋を火にかける。


 あの子は、それを全部、知っている。


 知っていて、届かない。


 そして、そのことを、一度も口に出したことがない。


 ――だって、待ってるんだもん。


 あれは、覚えている理由を言ったんじゃない。




 俺は立ち上がった。


 立ち上がろうとした、が正しい。


 昨日から曲がらなかった膝が、伸ばした瞬間になくなった。関節の中身がどこかへ行って、腿から下が他人のものになった。


 体が横に落ちた。椅子ごと行った。倒れる途中で卓の縁を巻き込んで、皿が二枚滑って、片方が床に落ちた。


 派手な音がした。


 「なにしてんの」


 「いや、今、なんか」


 「なんか?」


 「今、なんか、見えかけた」


 俺は床に手をついたまま、頭の中を探した。


 さっきまで、そこに形があった。あと一言で名前になるところだった。


 ない。


 倒れた拍子に、逃げた。


 床は油で少し滑る。俺はしばらく起き上がらなかった。


 「……あー」


 「消えた?」


 「消えた」


 リーヤが呆れた顔をした。もともと怒って見える顔なので、正面からだと区別がつかない。


 「馬鹿でしょ」


 「馬鹿だね」


 厨房でマルタさんが鍋の底を叩いた。笑っているらしい。


 落ちた皿は、割れていなかった。数えたら、二十六枚のままだった。




 その夜、セシルさんが、いつもより遅くまで残っていた。


 店の火は落としてある。卓の蝋燭が一本だけで、光が下から来るので、頬骨の高いこの人は、目のあたりが暗く沈む。


 紙を書いていたわけではない。


 朝から並べていた三枚が、そのまま置いてある。羽根ペンは、インクをつけないまま指のあいだにあった。


 何も書かずに、卓に座っていた。


 「どうしたの」


 「今日、神殿から報せが来ました」


 俺は皿を置いた。


 「なんて」


 「今年の授名の儀に、中央から人が来るそうです」


 「中央」


 「本殿です。この街の神殿より、上」


 彼女は、指で唇を触らなかった。


 今日は、一度も触っていない。


 「……珍しいこと?」


 「二十年ぶりです」


 「何しに来るの」


 「名簿を見に来ます」


 彼女は羽根ペンを、インク壺の横に置いた。


 「書いてあることと、実際の人間が合っているかどうかを、確かめる役です」


 俺はその意味を、少し遅れて理解した。


 合っているかどうか。


 この十日ほどで、この街には、書いたものと合わなくなった人間がいる。二十五年石を割れなかった石工が、いま夜警をやっている。炎と縫ってあった娘の袖が、いまは継ぎ手になっている。


 全部、俺だ。


 彼女は立ち上がって、外套を羽織った。裾を手で払ってから袖を通す。座るときも立つときも、必ず一度、裾を払う。


 「明日から、少し街の様子が変わると思います」


 「変わるって」


 「知らない顔が増えます」


 彼女は扉のところで足を止めて、こちらを振り返った。


 扉の外は、もう暗い。月が出ていて、坂の石畳が青い。その青の中で、外套の銀の縁取りが、一本だけ光っていた。


 「クルトさん」


 「はい」


 「しばらく、名付けは控えてください」


 俺は、頷いた。


 頷いてから、夕方のことを思い出した。


 ――あと五日。


 ――絶対来てね。


 ――合ってるかどうか、教えてね。




 俺は、まだ何も見えていない。


 五日ある。


 五日しかない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ