第11話 我慢
膝が、治らなかった。
物置の高窓から、朝の光が落ちていた。壁の同じところに、細長い四角が映っている。夜は月がそこにいた。青が白に変わっただけだ。
俺は藁の上で仰向けのまま、右の脚を持ち上げてみた。持ち上がりはした。ただ、腿の裏が板になっていた。膝の皿の裏側に砂が挟まっている感じがして、曲げるのはやめた。
昨日、この脚で坂を上った。ミアの十一往復のうち、二往復ぶんだけだ。残りは座って待っていた。
それで、これだ。
店に出るには、階段を四段、上がらなければならない。
一段目で、唸った。
二段目は、右脚が上がらなかった。左を先に乗せて、右を引き上げた。
三段目で、壁に手をついた。掌に、剥がした板の跡の角が当たった。冷たい。
四段目は、腕で上がった。壁を押して、体を持ち上げた。
三年洗ってきた腕が、初めて役に立った。
「情けな」
リーヤが厨房から言った。
声のした方を見ると、厨房の入口に立って、片足に重心をかけていた。鍛冶場の炉の前だと、この人は髪も腕も赤く光る。店の中だと赤銅色は沈んで、ただの濃い茶だ。同じ人間なのに、場所で色が変わる。
「一日ついていっただけでしょ」
「一日ついていっただけであれだよ。あの子、毎日やってんだよ」
「知ってる。あたしは追いかけようとも思わないけど」
「賢いね」
「賢いよ」
鼻だけで笑った。声は出さない。この人の笑い方はいつもこれだ。
その日、俺は店にいた。
膝が動かないので、外へ出るのはやめた。皿を洗って、拭いて、棚に戻した。洗う前に数えて、戻してからもう一度数える。二十六枚。数が合っていると、少しだけ落ち着く。
坂の下が東なので、朝の光は港の側から入ってくる。扉を開けておくと、床に光の帯が一本、斜めにできる。帯の中だけ埃が見える。埃は落ちない。同じ高さでゆっくり回っている。
俺は左から三つ目の、脚が一本短い椅子に座った。膝を抱えようとして、抱えられなかったので、片脚だけ椅子の上に上げた。
考えていたのは、五日後のことだ。
あの子は壇に上がって、名前をもらう。オーウェンとかいう司名が読み上げて、袖に文字が縫われて、糸の端が切れて落ちる。
そのあと、あの子は俺のところへ来る。
そして聞く。合ってた?
俺は、答えなければいけない。
昨日、丸一日見た。走るところも、待つところも、値段を決めるところも、包みを結ぶところも見た。
なのに、何も言えない。
ドンさんのときは、見えた。あの人の中に、空いている場所があった。二十五年ぶん押し込められたものの脇に、隙間があった。
ペレさんのときも、見えた。埋まっているのが見えた。だから「合ってます」と言えた。
あの子は、どっちでもない。
いや、違うな。
空いてはいる。あるのに、それが我慢に見えない。
「なあ」
俺は顔を上げた。
上げてから、店の中を端から端まで一度、見た。
厨房の入口にリーヤ。奥の炉の前にマルタさん。手前から三つ目の卓にセシルさん。入口の脇にドンさん。
ドンさんは夜警明けで、立ったまま目を閉じている。扉の光を背負っているので、輪郭しか見えない。肩の線が扉の枠より広い。その塊が、呼吸のたびに少しだけ上下する。生きてはいる。
セシルさんは卓に紙を三枚、角を揃えて少しずつずらして並べていた。羽根ペンはまだ持っていない。窓の光が白金の髪を拾って、そこだけ明るい。
マルタさんは炉に薪を足していた。火が跳ねると赤ら顔がもう一段赤くなる。頭の上の白いところが、火の色を吸って橙に見える。
全員いる。
「みんな、ミアのこと、どう思う」
「なんの話だい」
マルタさんが薪を持ったまま顔を出した。
「あの子に、儀で何が来るはずなのか、俺には分からない」
「そりゃ十日だろ」
「うん。でも、なんか、方向が違う気がして」
俺は説明した。
ドンさんのときは、我慢が見えた。二十五年、聞こえることを誰にも言わなかった。言えば石が割れない言い訳になると思っていたからだ。その黙りが、手の甲の白い傷になって残っていた。
リーヤも、二十年、認めなかった。火の前に立つと手が震えることを、自分に対しても認めなかった。認めたら父の名前が終わると思っていた。
「二人とも、我慢してたんだよ」
「そうだね」
リーヤが、留め金を指の間で回しながら言った。回しすぎて落として、拾わなかった。
「でもミアは」
「うん」
「我慢してるように見えないんだよ」
俺は両手を広げた。
「楽しそうなんだよ、あの子。ずっと。走ってるときも、待ってるときも」
「じゃあ、我慢してないんじゃないの」
リーヤがあっさり言った。
「そうなのかな」
「そうでしょ。全員が何か我慢してるわけじゃないよ」
「うん」
「ペレさんだって、合ってたじゃん」
それは、そうだ。
広場の爺さんは五十年、掃除のペレだった。俺は名前を言えなかった。言うことがなかったからだ。あの人の目は澄んだ青で、あれは合っている人間の色だ。
合っている人もいる。むしろ、その方が多い。神殿の記録は三千件で、外れているのが二百なら、残りの二千八百は合っている。
ミアも、そうなのかもしれない。
速い子が、速い名前をもらう。それだけの話なのかもしれない。
「ドンさん」
俺は入口の脇を見た。
「起きてる?」
「……起きた」
彼は目を閉じたまま答えた。この人はいつも死んでいるように見えて、いつも起きている。扉の横木に肩を預けて、朝から昼まで立っていることがある。座らないのは、椅子が鳴るからだ。
「ミアの足音、聞いたことある?」
「毎日聞いてる」
「どんな音?」
彼はしばらく黙った。
目を閉じたまま、頭の中で聞き直しているんだと思う。この人が言葉を探すときは時間がかかる。俺は三十まで数えるつもりで、十七で諦めた。
光の帯の中を、埃が一周した。
「……行きと帰りで、違う」
「違う?」
「荷物を持ってるときと、空のときで」
彼は目を開けた。小さい、濃い茶色の目だ。
「持ってるときの方が、軽い」
俺は椅子から脚を下ろした。
「軽い? 重いんじゃなくて?」
「軽い」
彼は自分の耳の後ろを、指の背でひとつ叩いた。
「踏み込みが浅い。跳ねてる感じだ。帰りは、べたっとしてる」
「重い荷を持ったら、普通は踏み込みが深くなるでしょ」
「なる」
「あの子は、逆ってこと?」
「逆だ」
「……荷物持ってる方が、軽く走ってるってこと?」
「そう聞こえる」
厨房で、リーヤが手を止めた。
「あたしも一個ある」
リーヤが言った。
「あの子の靴、見た?」
「靴?」
「あんた、手ばっかり見てるからでしょ。あたしは靴も見る」
彼女は布巾を肩にかけて、卓のこっち側へ回ってきた。
「先月、あの子の靴に当て革を貼ってやったんだよ。つま先。二日で駄目にしやがった」
彼女は指を一本立てた。爪が短くて黒い。洗っても落ちない鉄の粉だ。
「あの子の靴、前が減ってる。つま先が。走る子の減り方」
「そりゃそうでしょ」
「でもね」
彼女は床で一歩、走る形をやってみせた。体を前に倒して、つま先だけで着く。踵はつかない。
「あの子の靴は、踵も減ってる」
「踵?」
「同じくらい。走ってばっかりの子の靴は、踵はあんまり減らない。つま先だけが先に駄目になる」
「いや」
俺は言った。
「それ、坂だからじゃない? この街の人間はみんな下るんだから、踵は減るでしょ」
リーヤが、こっちを見た。
「あんた、いま、いいこと言った」
「え」
「足、見せて」
「は?」
「いいから」
俺は片足を上げた。彼女は踵をつまんで、外側の後ろを指した。爪の黒い、短い指だ。
「ここ。斜めに減ってるでしょ」
なっていた。左右とも、同じところが同じ角度で削れていた。言われるまで、一度も見たことがなかった。
「下りは外から着くの。だから角だけ、斜めに削れる。これが坂を下る人間の靴」
「うん」
「で」
彼女は指を一本立てた。
「あの子、どこ走ってるか、あんた昨日ついて回ったよね」
「うん」
「言ってみて」
「……港で荷を受けて、坂を上って、店の前を通って、広場。そこから西の外れ、東の区画」
「帰りは」
「東側の石段を下りて、港」
「そう」
リーヤは、俺の靴から手を離した。
「あの子、坂を下らないんだよ」
俺は、口を開けたまま止まった。
言われてみれば、そのとおりだった。
昨日、俺はあの順路を丸一日ついて回った。上りは坂で、下りは石段だ。同じ道を、十一回。坂を下ったのは、朝、店から港へ出た一回きりだった。
「上りは爪先で押すでしょ。踵は着かない」
「着かない」
「石段を駆け下りるのも爪先。踵から着いたら、段の角で滑って落ちる」
俺は、昨日の石段を思い出した。
段の高さが揃っていない。俺は二度、踏み外しかけた。あの子は踏み外さなかった。跳ねるみたいに下りていって、音が軽かった。
「じゃあ、あの子の靴の踵は」
「走ってるあいだ、一回も地面についてない」
「なのに、減ってる」
彼女は指を揃えて、平らな面を作ってみせた。
「しかも、平らに。角じゃなくて、面で」
「面」
「面で減るのは、乗せっぱなしにしてるからだよ。動かないで、体重かけたまま」
彼女は俺を見た。眉が濃くて、下がらない。
「走ってるあいだは、踵が浮いてる。それでも減ってるってことは」
「走ってないときに、減らしてる」
「そう」
彼女は言った。
「あの子の靴は、両方減ってる。立ってる時間が長い証拠」
「あと、もう一個」
リーヤが言った。
言ってから、少し考えた。言うかどうか迷った顔だった。
「これ、関係あるか分かんないんだけど」
「言って」
「あの子、母親の洗い物は運んでないよね」
俺は、顔を上げた。
「え」
「うち、洗いのイレナさんに出してるの。前掛けとか、布巾とか。鉄の粉つくから、うちのは別料金なんだけどさ」
「うん」
「取りに来るのも、持ってくるのも、イレナさん本人」
「ずっと?」
「あたしが鍛冶場ひとりでやりはじめた頃から。だから、五年くらい」
俺は、昨日の夕方を思い出した。
路地の突き当たり。低い屋根。歪んだ窓枠。
戸の脇に、洗い上がった籠が三つ。畳んであって、角が揃っていて、上に埃よけの布がかけてあって、縁に届け先の木札が挿してあった。
ミアは、その横を通った。
目もやらなかった。
一日じゅう他人の荷を担いで、他人が手紙を三回読み終わるまで立って待っていた子が、自分の家の前の籠を、素通りした。
「なんで運ばないんだろ」
「知らない」
リーヤは肩をすくめた。
「喧嘩でもしてんじゃないの。親子なんて、そんなもんでしょ」
厨房で、マルタさんの手が止まった。
止まったのが、音で分かった。
俺は厨房の方を見た。
マルタさんは、こっちを見なかった。
薪を一本足して、火の位置を直して、それきりだった。
俺は、昨日を思い出した。
石段に座って、膝に顎を乗せて待っていた四半刻。
立ったまま、婆さんが手紙を三回読むのを待っていた時間。三回目が終わるまで、あの子は動かなかった。
布地を広げる女の人を、じっと見ていた時間。
「……確かに、待ってる時間の方が長かった」
「でしょ」
「でも、それは仕事だし」
「仕事なら、置いて帰ればいいじゃん」
リーヤが言った。
「あたしが客なら、置いてってくれた方が楽だよ。留守にしてるのが悪いんだし」
もっともだ。
もっともなんだけど。
――渡さないと、届いたことにならないじゃん。
「あたしからも一個」
マルタさんが厨房から言った。
「あの子、うちに来ると、必ず二人ぶん頼むんだよ」
「二人ぶん?」
「自分のと、誰かのと」
彼女は鍋を持ったまま、卓の縁に寄りかかった。木がみしりと言った。
「自分のはここで食う。もう一つは布に包んで、持って帰る」
「誰の?」
「言わない。持って帰るだけ」
「毎回?」
「毎回だね。あたしは客が何を頼んだかを忘れない」
彼女は少し考えて、それから言った。
「たぶん、母親だろ」
「聞いてないの?」
「聞かないよ。聞かれたくないから言わないんだ」
彼女は鍋の底を掌で叩いた。とん、と鳴って、それで話が終わりになった。
「私からも」
セシルさんが羽根ペンを持ち上げて、一度持ち直した。書く前に必ずこうする。今日は書かないのに、こうした。
「名簿を確認しました。八十四人の中に、ミアさんはいません」
「そりゃそうでしょ。まだ名前ないし」
「いえ」
彼女は顔を上げた。
「あの名簿は、名前を変えてほしい人の名簿ではありません」
「え」
「マルタさんが板に書いたのは、『あなたに見てほしい人』の一覧です。名前があってもなくても書けます」
俺は板を思い出した。
あの日、名前と、住んでいるところと、袖の二つ名を書かせていた。書けない人間の方が多くて、たいていはマルタさんが代わりに書いた。字がでかいので、三人ぶんで一行が埋まった。二つ名の欄が空の人も、何人かいた。
「あの子は、書いていません」
「ああ」
「あの日、彼女はまだ来ていなかったのかもしれません。ただ」
彼女は紙をめくった。めくりかけて、手が途中で止まった。
「その後も、書いていません」
全部、揃っている気がした。
荷物を持っているときの方が軽い足音。
両方減った靴。
二人ぶんの飯。
名簿に書かない子。
母の籠だけ、五年、触らない子。
それから、昨日聞いた言葉が、いくつか。
全部、手のひらの上に並んでいる。ドンさんは音で、リーヤは靴で、マルタさんは注文で、セシルさんは書かれていないもので見た。
並んでいるのに、繋がらない。
「クルトさん」
セシルさんが言った。
この人は声の高さが変わらない。変わるのは間だけだ。
今日は、間が長かった。
「一つ、伺っていいですか」
「どうぞ」
「あなたは、その人が何を我慢しているかを見る、とおっしゃいましたね」
「言った」
「では、逆に伺います」
彼女は羽根ペンを置いた。
木と木が当たる小さい音がした。店の端まで届くくらい、静かだった。
「我慢していることを、本人が我慢だと思っていなかったら、どうなりますか」
俺は、口を開けた。
開けたまま、しばらく閉じられなかった。
閉じ方が分からなくなった、というのが近い。顎の付け根に力が入らない。舌が上顎から離れたまま、乾いていくのが分かった。
「……それは」
「ドンさんは、聞こえることを苦しいと思っていました」
「うん」
「リーヤさんは、火の前に立つのを苦しいと思っていました」
「うん」
「二人とも、自覚があったんです。だから、あなたに見えた」
彼女は続けた。腕を組んだ。右の袖が、左の肘の下に隠れた。
「では、本人が平気だと思っていたら。むしろ、幸せだと思っていたら」
俺は、椅子の背にもたれた。
背もたれが、かたんと鳴った。三年、毎日聞いている音なのに、今日はやけに大きく聞こえた。
「……見えない」
「見えないでしょうね」
見えない、というのは、見落としているという意味じゃない。
見る場所が、ないということだ。
我慢は、隠すから盛り上がる。盛り上がるから、外から触れる。本人が隠していないものは、盛り上がらない。平らなままだ。
俺はずっと、隠されているものを探す仕事をしてきた。
隠していない人間の前で、自分が何をすればいいのか、俺には分からなかった。
その日の夕方、ミアが来た。
扉が開いて、光が入ってきた。この時間の光は橙で、西向きの窓から低く差すので、入ってくる人間は逆光になる。人影が、扉のところで一度、肩の袋をかけ直した。
あの掛け直し方をするのは、一人しかいない。
「ねえねえ聞いて」
汗だくだった。前髪が額に貼りついて、亜麻色の先だけ濃い。膝小僧に、昨日はなかった擦り傷が一つ増えていた。赤い。まだ乾いていない。
服はいつもの膝丈だ。もとは青かったらしいが、洗いすぎて、いまは薄い水色になっている。靴は革で、何度も直してある。つま先の当て革だけ、色が新しい。
断りもせずに椅子を引いて、腰を下ろした。三日目からそうだった。
「なに」
「服買ってもらった」
彼女は立ち上がって、その場でくるっと回った。裾が遅れて回って、遅れて止まった。
いつもの膝丈の服だった。
「今日じゃないよ。儀の日に着るやつ。母さんが」
「ああ」
「まだ見せてもらってないんだけどね。当日まで内緒って」
彼女は座り直して、卓に肘をついた。足はぶらぶらさせている。
嬉しそうだった。とんでもなく嬉しそうだった。笑うたびに歯が見える。この街の子供にしては、やたら白い歯だ。
俺は、昨日のことを思い出した。東の区画で、女の人が青い布を広げて、娘の服にするんだと言った。ミアは、それをじっと見ていた。
あのとき何を考えていたのか、俺は聞かなかった。
「あと五日」
「五日」
「昨日六日だったから」
「計算できてる」
「あたし算数できるもん」
「字は読めないのに」
「うるさいなあ」
厨房でマルタさんが笑った。欠けた前歯から息が漏れる。
ミアは、しばらく喋って、それから急に立ち上がった。
「あ、やば。あと一軒あった」
「今から? 暗くなるよ」
「近いから。港の綱屋」
彼女は袋を肩にかけて、掛け紐の位置を親指で送った。二度、送った。
それから、思い出したように振り返った。
「クルトさん」
「ん」
「約束、忘れないでよ」
「儀の日でしょ」
「そう。見に来て」
「行くよ」
「絶対だよ」
「絶対」
彼女は扉に手をかけて、そこでまた振り返った。
「あとね」
「まだあるの」
「合ってるかどうか、教えてね」
「うん」
「絶対来てね」
「行くよ」
彼女は満足そうに頷いて、走っていった。
入口を出るときに、ドンさんの脇をすり抜けていく。扉の幅はあの人の肩でほとんど埋まっている。その残りを、減速せずに抜けた。触れてすらいない。
坂を下っていく音がした。下りは勝手に速くなる。踵が石を叩く音が、二つ、三つ、四つと間隔を詰めて、一度目の折れの向こうで聞こえなくなった。
いつもの順路なら、ここから上る。港で荷を受けて、上って、広場へ抜けるのが、この子の一日の形だ。
今日は下っていった。もう受ける荷がないからだ。最後の一軒を置いたら、そのまま帰る。
ドンさんが、目を閉じたまま言った。
「跳ねてる」
店が静かになった。
夕方の混雑までは、まだ少しある。マルタさんは豆を洗い、リーヤは卓を拭き、セシルさんは朝からの三枚を並べたままだ。一文字も増えていない。
俺は、彼女が座っていた椅子を見ていた。
座面に砂が落ちている。坂の砂だ。乾いた、白っぽいやつ。
昨日の一日を、頭の中で、最初から流した。
朝。港。石畳が濡れて、下から光を跳ね返していた。荷受けの太った男が手を振って、ミアが袋を覗いて、指を折って、十四と言った。三枚、五枚、四枚、四枚半。三秒で終わった。
一軒目。港のすぐ上。走らなかった。近いから、と言った。婆さんが出てきて、その場で封を開けた。三回読んだ。ミアは立ったまま、三回目が終わるまで動かなかった。
坂。二軒目からが本番で、俺は五十歩で置いていかれた。
三軒目。糸屋。エルサさんが「待ってます」と言った。俺は「三十八番です」と言った。
昼。広場の井戸。パンが二つと、パンが一つ。足をぶらぶらさせながら、人の癖を指で数えた。指が足りなくなるまで折った。
午後。東の区画。留守。石段。四半刻。港のマストが四本、ゆっくり揺れていた。一度も「まだかな」と言わなかった。
夕方。広場。掲示板。読めないのに、いつもの倍、立ち止まっていた。
――名前もらったら、もっと速くなるでしょ。そしたら、一日に二十軒回れる。今は十四が限界だから。
――二十軒回れたら、あと六人ぶん、待たなくてよくなる。
俺は、そこで止まった。
止まって、最後の一行だけ再生した。
……今日届かない人が、六人いるから。
六人。
十四軒回って、二十軒ぶんの荷がある。差が六。毎日、六。
あの子は、毎日、六人を置いてきている。
置いてきて、その六人が誰かを、全部覚えている。
誰が三回読むか。誰が送り主を先に聞くか。誰が匂いを嗅ぐか。
覚えているなら、今夜、その六人の顔が頭の中にある。
婆さんが扉を開けて、誰も立っていないのを見る。靴屋の爺さんが、今日は来なかったなと思って戸を閉める。北門の脇のおばさんが、嗅ぐものがないまま鍋を火にかける。
あの子は、それを全部、知っている。
知っていて、届かない。
そして、そのことを、一度も口に出したことがない。
――だって、待ってるんだもん。
あれは、覚えている理由を言ったんじゃない。
俺は立ち上がった。
立ち上がろうとした、が正しい。
昨日から曲がらなかった膝が、伸ばした瞬間になくなった。関節の中身がどこかへ行って、腿から下が他人のものになった。
体が横に落ちた。椅子ごと行った。倒れる途中で卓の縁を巻き込んで、皿が二枚滑って、片方が床に落ちた。
派手な音がした。
「なにしてんの」
「いや、今、なんか」
「なんか?」
「今、なんか、見えかけた」
俺は床に手をついたまま、頭の中を探した。
さっきまで、そこに形があった。あと一言で名前になるところだった。
ない。
倒れた拍子に、逃げた。
床は油で少し滑る。俺はしばらく起き上がらなかった。
「……あー」
「消えた?」
「消えた」
リーヤが呆れた顔をした。もともと怒って見える顔なので、正面からだと区別がつかない。
「馬鹿でしょ」
「馬鹿だね」
厨房でマルタさんが鍋の底を叩いた。笑っているらしい。
落ちた皿は、割れていなかった。数えたら、二十六枚のままだった。
その夜、セシルさんが、いつもより遅くまで残っていた。
店の火は落としてある。卓の蝋燭が一本だけで、光が下から来るので、頬骨の高いこの人は、目のあたりが暗く沈む。
紙を書いていたわけではない。
朝から並べていた三枚が、そのまま置いてある。羽根ペンは、インクをつけないまま指のあいだにあった。
何も書かずに、卓に座っていた。
「どうしたの」
「今日、神殿から報せが来ました」
俺は皿を置いた。
「なんて」
「今年の授名の儀に、中央から人が来るそうです」
「中央」
「本殿です。この街の神殿より、上」
彼女は、指で唇を触らなかった。
今日は、一度も触っていない。
「……珍しいこと?」
「二十年ぶりです」
「何しに来るの」
「名簿を見に来ます」
彼女は羽根ペンを、インク壺の横に置いた。
「書いてあることと、実際の人間が合っているかどうかを、確かめる役です」
俺はその意味を、少し遅れて理解した。
合っているかどうか。
この十日ほどで、この街には、書いたものと合わなくなった人間がいる。二十五年石を割れなかった石工が、いま夜警をやっている。炎と縫ってあった娘の袖が、いまは継ぎ手になっている。
全部、俺だ。
彼女は立ち上がって、外套を羽織った。裾を手で払ってから袖を通す。座るときも立つときも、必ず一度、裾を払う。
「明日から、少し街の様子が変わると思います」
「変わるって」
「知らない顔が増えます」
彼女は扉のところで足を止めて、こちらを振り返った。
扉の外は、もう暗い。月が出ていて、坂の石畳が青い。その青の中で、外套の銀の縁取りが、一本だけ光っていた。
「クルトさん」
「はい」
「しばらく、名付けは控えてください」
俺は、頷いた。
頷いてから、夕方のことを思い出した。
――あと五日。
――絶対来てね。
――合ってるかどうか、教えてね。
俺は、まだ何も見えていない。
五日ある。
五日しかない。




