第12話 無音のアダン
翌朝、街が違った。
何がどう違うのか、最初は分からなかった。
坂は同じだ。石畳が濡れている。明け方に降ったらしい。真ん中だけ乾いて灰白になっていて、端はまだ黒い。犬も同じところで寝ている。パン屋の煙も、いつもどおり真っ直ぐ上がっている。
俺は坂を下りていた。板の二十番に会うためだ。港で綱をなう男で、朝のうちなら捕まるとマルタさんが言った。
板というのは、店の前に立てかけてある壁板のことだ。俺に名前を見てほしい、という人が八十四人、書いてある。できてから十三日たつ。上から順に会って、十九番まで終わった。ほかに一人、順番を飛ばして呼び止めた爺さんがいる。合わせて二十人。
誰にも、名前は出なかった。
下りながら、違和感の正体を探した。
港まで半分ほど下りたところで、気づいた。
音が少ない。
いつもなら坂の上まで届く怒鳴り声が、今日はない。荷受けの太った男の声も、荷担ぎ同士の悪態も、桶を落として笑う声も、全部ない。
荷を担いだ連中が、黙って歩いている。すれ違うとき、目も合わない。
それから、もうひとつ。
俺は坂を下りきって、振り返って、上を見た。
坂を上がっていく人間が、七人いた。港で荷を受けて、街へ上げる連中だ。俺の脇を順に抜けていく。
七人とも、知った顔だった。うちの客が二人。板に名前がある人が一人。あとは坂で毎日すれ違う荷担ぎだ。よそから来た人間は、一人もいない。
その七人が全員、袖を隠していた。
この街で袖を隠すのは無礼だ。
二つ名は右の袖に縫われる。だから袖を見せろ、というのは、お前は何者だ、という意味になる。見せないのは、名乗らないのと同じだ。
それを、全員がやっていた。
腕を組んだり、荷物を右腕で抱えたり、上着の前を寄せたり。やり方はばらばらで、そのばらばらさが、かえって怖かった。
誰かに言われたわけではないと思う。言われたなら、やり方が揃うはずだ。
気がついたら、そうなっていた。
綱屋は、閉まっていた。
昼前に閉める店じゃない。戸の隙間から覗いたら、人はいた。奥で綱を巻いている。目が合って、逸らされた。
「あの」
返事はなかった。もう一度呼んだら、声だけが返ってきた。
「悪いね。今日は」
「今日は?」
「今日は、やめとくよ」
戸は開かなかった。
板に名前を書いた人に断られたのは、これが初めてだった。
二十人は、誰も断らなかった。名前が出なくても、また待ってますね、と言って帰っていった。断られない、というのが、この仕事の確かなところだった。
隣で、樽屋の婆さんが俺を見ていた。
目が合うと、顎で上をしゃくった。それだけだ。何も言わずに、また樽を洗いはじめた。
上、というのは、広場のことだ。
銀の縁取りの外套が、広場に三人いた。
俺は坂を上りきったところで足を止めた。腿の付け根が張っている。
広場は、いつもより広く見えた。人がいないからだ。
朝のこの時間は、井戸の周りに十人はいる。桶を上げる音と、滑車の軋みと、鳩と、女たちの声で埋まっている。今日は井戸の縁に誰も座っていない。桶は二つとも鎖につながれたまま、揺れない。
鳩だけがいつもどおりだった。
そして、広場の三方に、外套が立っていた。生成りの、白に近い外套。セシルさんと同じだ。ただし、セシルさんのは縁取りが一本。こっちは二本入っていた。
彼らは喋りもせず、動きもせず、ただ立って、通る人間を見ていた。
見ているというより、数えている顔だ。
三人のうち二人は、髪に色があった。濃い緑と、銀に近い灰。名の色だ。残りの一人は、色がなかった。
どの一人も、袖は隠していなかった。
店に戻ったら、客が三人しかいなかった。三日前まで、朝から満員だったのに。
卓が六つあって、埋まっているのは入口に近い一つだけだ。朝の光の帯が、空いた卓を斜めに切っている。帯の中で埃が回っている。今日は、埃を散らす人間がいない。
板が、店の中に入れてあった。厨房の入口の壁に立てかけ、前に樽が二つ置いてある。
「来ないね」
「来ないよ」
マルタさんは鍋を磨いていた。磨く必要のない鍋を、布で。この人は、不安になると磨く。三年見て知っている。
「昨日の夜から、ぱったりだ」
「なんで分かるんだろ、みんな」
「分かるよ。こういうのは、誰も何も言わなくても分かるんだ」
彼女は鍋の底を布ごしに弾いた。いつもの音がしなかった。
半分白くて半分赤い頭が、厨房の暗がりに消えた。
セシルさんは、朝からずっと書いていた。卓に紙が四十枚以上散らばっている。羽根ペンの先が、朝のうちに二度替わった。何を書いているのか聞いても、答えなかった。
窓から入る光が白金の髪の輪郭を拾って、そこだけ明るく光っていた。
昼前に、その人が来た。
入口の光が、遮られなかった。
俺が気づいたのは、リーヤが顔を上げたからだ。卓の端で留め金をいじっていた手が止まって、目だけが動いた。それから腕をまくった。まくる必要のない場面で、まくった。
振り返ったら、そこに立っていた。
――いつから。
扉は鳴らなかった。床も鳴らなかった。ドンさんは入口の脇に立っていて、目を閉じていて、何も言わなかった。
細い男だった。中背。
姿勢がいいというより、首が長い。だから背が高く見える。肩に肉がない。外套が、骨の上に直接かかっているように見えた。
三十代半ばくらいだろう。額が広い。髪を短く整えていて、その髪が灰色だった。白髪なら光る。この人の髪は光らない。色が抜けているというより、まだ決まっていないような灰だった。
肌が白い。この街で肌が白いのは、外に出ない仕事をしている人間だけだ。それにしても白すぎる。
顔が、動かない。怒っても笑ってもいないという意味ではない。筋肉が動いていない。
俺は、その目を見た。色を確かめようとして、できなかった。灰色に見えた。次は茶色に見えた。もう一度見たら、また灰色だった。俺はこの日、この人の目の色を決められなかった。
外套の縁取りは、二本。
そして俺は、この人が入ってきた音を、まったく聞いていなかった。
「クルト」
彼は言った。俺の名前を、先に呼んだ。
「はい」
「アダンといいます」
彼はゆっくり歩いてきた。歩幅が一定で、上下に揺れない。頭の高さが変わらないまま、卓のあいだを進んでくる。
足音が、しない。石の床の上を歩いているのに、しない。
この床は、ドンさんが歩けば鳴る。俺が歩いても鳴る。マルタさんが歩けば、卓の上の器が跳ねる。
彼は空いた卓の横で止まった。座らなかった。
「セシル。ここにいたのか」
「はい」
セシルさんが立ち上がった。立ち上がり方が、いつもと違った。速かった。
彼女はいつも、外套の裾を手で払ってから立つ。今日は払わなかった。
「照合をしている。名簿と、実物のだ。この街の全員」
「全員ですか」
「全員だ」
彼は俺を見た。正確には、俺の袖を見た。
何もない袖を、たっぷり三秒見て、それから目を離した。
「君は問題ない。記録どおりだ。三度、授名なし。記録と一致している」
悪意はなかった。ないぶん、きつかった。
俺の袖に何も縫われていないことと、俺の頭に色がないことは、この人には同じ情報らしい。二つとも、記録どおりだ。
彼は次に、入口の脇を見た。
ドンさんが立っていた。いつもどおり、目を閉じて。ただし、今日は肩に力が入っていた。両手が体の横で握られている。
「そこの」
「はい」
「袖を見せてほしい」
店の中の三人の客が、いっせいに下を向いた。一人は器を持ち上げて、中身がないのに飲むふりをした。
ドンさんは、しばらく動かなかった。
それから、ゆっくり、腕を上げた。
褪せた布に、新しい糸で縫い直された文字。糸だけが白い。まわりの布は二十五年ぶんの灰色をしている。
聞き手のドン。
アダンは、それを見た。顔は動かない。
それから、外套の内側から小さい綴じ本を出した。黒く染めた布の表紙だ。ページの角を親指で送っていく。舐めない。速い。
「石割りのドン。四十歳。二十五年前、授名」
彼は顔を上げた。
「記録と違う」
「――訂正済みです」
セシルさんが言った。声が、いつもより低かった。
「訂正?」
「はい。昨日の夜に、私が」
俺は、そこで初めて知った。
昨日の夜、この人は店を出たあと、坂を上って神殿へ行ったのだ。石割りのドンを聞き手のドンに、炎のリーヤを継ぎ手のリーヤに。二件、自分から出した。俺には一言も言わずに。
「二十五年前の誤記を、昨日の夜に見つけたと」
「はい」
沈黙が、少し長かった。
油皿の火が揺れて、卓の影が動いた。それが動きの全部だった。
アダンは、セシルさんを見ていた。まばたきを、一度もしなかった。
「セシル。君の職掌に、訂正の権限はある」
「はい」
「ある。それは事実だ」
彼は綴じ本を閉じた。閉じる音もしなかった。
「ただし、訂正の根拠は残さねばならない。誰が、いつ、どうやって誤記に気づいたか」
「書いています」
「今日中に」
「はい」
彼は頷いた。それから、こう言った。
「ついでに、もう一件、同じ訂正が出ているな。継ぎ手のリーヤ」
卓の端で、リーヤの手が止まった。
留め金が、卓の上を転がって落ちた。誰も拾わなかった。
「この街は、昨日の夜に、急に誤記が増えたらしい」
彼は、店の中をゆっくり見回した。卓、椅子、剥がれたままの壁板。
視線が厨房の入口で止まった。樽が二つ積んである。その奥を、三秒だけ見た。俺の袖を見ていたのと、同じ長さだ。
「明日、この街の全員を呼び出す」
「全員」
セシルさんが言った。一拍おいてから言った。この人は、相手が喋り終わってから必ず一拍おく。
「広場に、区画ごとにだ。袖を出してもらう。記録と照らす。日が暮れるまでに終わらせる」
彼はもう一度、俺の方を向いた。
「クルト。記録と違う者が出たら、その者に、誰がやったかを聞く」
彼は歩き出した。音がしない。
扉のところで止まって、振り返らずに言った。
「セシル。君は明日、私の隣で記録を取れ。一日中だ」
それから、思い出したように、片腕を上げた。
外套の袖に、銀の糸で短く縫ってあった。
無音のアダン。
「名乗っていなかったな。よろしく」
扉が閉まった。閉まる音も、しなかった。
しばらく、誰も動かなかった。
客の三人が、そそくさと銅貨を置いて出ていった。銅貨の音が、やけに大きく響いた。
最初に口を開いたのは、ドンさんだった。目を開けて、入口を見ていた。
「クルト」
「うん」
「あの人。音が、しない」
俺は頷いた。
「俺にも聞こえなかった」
「そうじゃない」
ドンさんは、首を振った。いつもぼそぼそ喋る人が、はっきり言った。
「おれにも、聞こえない」
リーヤが青くなった。日に焼けた肌の下が、そういうふうに白くなるのを、俺は初めて見た。
「ドン、あんた、壁の向こうの足音も、何段目かも分かるんでしょ」
「分かる」
「じゃあ、あの人は」
ドンさんは、自分の耳の後ろを、指の背でひとつ叩いた。
「そこにいたのは、分かった。でも音じゃない。気配だけだ。入ってくるとき、おれは気づいてなかった。リーヤさんが顔を上げたから、いるって分かった」
「なんで言わなかったの」
俺はセシルさんに聞いた。
「言うと、止められると思いました」
「止めるよ」
「ですから、言いませんでした。先に出せば、こちらの届け出になります。あとから見つかれば、向こうの摘発です。同じ紙でも、名前が違います」
次に動いたのは、マルタさんだった。
厨房の入口へ行って、樽を二つどかした。一つ目は転がし、二つ目は蹴った。
板を引っ張り出して、卓の上に叩きつけた。とん、じゃなかった。がん、だった。
縁のささくれた壁板に、八十四行。字の大きい行と小さい行がある。書いた日が違うからだ。
「焼くよ」
「焼く?」
「これがなきゃ、八十四人は分かんないんだろ」
彼女は炉の方へ歩き出した。片手に板、片手に鍋。
「待ってください」
セシルさんが立ち上がった。今日は、外套の裾を払わなかった。
「焼いても、意味がありません」
「なんでだよ」
「その方たちは、明日、広場に来ます」
「そりゃ来るだろ。呼び出されてんだから」
「違います」
彼女は板を指した。指の先が、上から一行目で止まった。俺が自分で書いた行だ。
「そのあと、ここに来ます。順番待ちですから」
「いや、何人かはもう会ってるよ。十九番まで行った。ペレさんも入れたら、二十人」
「会いました。会って、名前は一つも出ていません。出なかった人は、帰っていません。また列の後ろに戻っています」
俺は、板を見た。
消した行が一つもない。
板は八十四行のままだった。二十人に会って、一行も減っていない。ペレさんの行も残っている。合っていると言っただけで、名前は変えていないからだ。
当たり前だと思っていた。一度で出ないのは当たり前で、また見ればいい、と。
その当たり前が、いま、名前と住んでいるところの並んだ板になっている。
「一番から八十四番まで。八十四人、全員です」
マルタさんが、板を持ったまま止まった。
「明日、みなさんは広場で袖を出して、記録と照らされます。終わったら坂を下って、この店の前で足を止めます。いつもどおりです。順番を待っているからです」
彼女は、そこで言葉を切った。
「並んだ時点で、その列が証拠になります」
「証拠」
「無許可の名付けを求めた者の一覧です。この板と同じものが、生きて、店の前に並びます。アダン様は明日、広場にいます。広場から、この坂は見えます」
「見えたら、どうなんの」
リーヤが厨房から出てきた。布巾を肩にかけたままだ。
「並んだ人の名前を控えます。捕まえません。殴りません」
「控えられたら、どうなんの」
「八十四人は、この街の大人の、およそ二十五人に一人です」
彼女は板をなぞった。
「荷運び、紡ぎ、桶作り、石工、洗い女。港と、坂と、東と、西に散らばっています。同じ列に並んだ以外、互いに何の関係もありません。ですから、一人が呼ばれれば、その人は誰かの名前を言います。二人目が三人目を言い、三人目が四人目を言います」
彼女は顔を上げた。
「そして、八十四人のうちの誰か一人がクルトさんの名前を言えば、終わります」
誰も何も言わなかった。
俺は、自分の手を見た。まだ皿を持っていた。忘れていた。
「だから板を焼いても、意味がない、って言うんだね」
マルタさんの声が、一段低くなった。
「はい。板は、こちらが誰を知っているかの記録です。焼けば、こちらの記憶が消えます」
セシルさんは板の縁に指を置いた。
「消えないのは、あの方たちのほうです。八十四人全員が、自分が何番かを覚えています。覚えているから、待てるんです」
「じゃあ、明日の朝、あたしが表に出て怒鳴りゃいい。並ぶなって」
「遅いです。西の外れの方は、夜明けと同時に家を出ます。広場まで歩いて六百数えますから」
セシルさんは窓の外を見た。
「マルタさんが表に出るころには、もう坂の下まで来ています」
「じゃあ、どうすんだよ」
リーヤが布巾を肩から取って、卓に叩きつけた。湿った音がして、それきり触らなかった。
「伝えるしかありません。八十四人全員に。今夜のうちに」
俺は窓を見た。光の帯が、床の真ん中まで来ている。
「今、何刻」
「昼を過ぎたところです。日が落ちるまで、あと二刻半。落ちてから夜明けまでは、五刻あります」
リーヤの指が動いた。この人は数字が速い。板を初めて見たときも、八十四人を「一人四日として三百三十六日」と即座に言った。
「五刻で八十四人。四人で回れば、一人二十一人。一人あたり四半刻近くある。いけるじゃん」
「東の区画なら、いけます。家が密集していますから」
彼女は板の下のほうを指した。
「西の外れが、いけません。三十七軒あります」
セシルさんは指を二本立てた。
「一つ。家がまばらです。一軒から次の一軒まで、歩いて二百数えます。歩くだけで一刻」
「まあ、それは」
「二つ」
彼女は板を横に向けて、こちらへ押した。
「西の外れの三十七人は、住んでいるところの欄に、何と書いてありますか」
俺は見た。読めない。リーヤも読めない。
「『西の外れ』とだけ書いてあります。三十七人、全員です。あの区画には、通りの名前がありません。畑と、物置と、家が混ざって建っています。書きようがないんです。だから昼は、人に聞いて探します」
リーヤが、少し遅れて言った。
「夜は、聞く相手がいない」
「はい」
誰も、すぐには喋らなかった。
マルタさんが、板を卓に置いた。ゆっくり置いたので、音がしなかった。
「あたしは西は分かんないよ。港なら目をつぶってでも歩ける。でも西は、店をやる前に二回行ったきりだ」
「あたしも分かんない」
リーヤが言った。後れ毛を二回払った。
「鍛冶場と、北門と、東。西は、行く用がない」
言ってから、自分で引っかかった顔をした。
「……いや、あるか。洗いのイレナさん、西だよね」
「西です」
セシルさんが言った。
「じゃあ、あの人の家なら」
リーヤは、そこで止まった。止まってから、首を振った。
「分かんない。五年出してるのに、行ったことない。いつも向こうが来るから」
五年、前掛けと布巾を預けて、五年、受け取っている。
それでも、家は知らない。
二人が俺を見た。俺は、三年、坂と店のあいだしか歩いていない。
「俺も」
「私もです。神殿の人間が夜に街を歩けば、それだけで理由を聞かれます」
八十四行のうち、三十七行が、どこにあるのか分からない家だった。
夕方になった。
窓の外の石畳が橙になっていた。この街で最後まで日が当たるのは西の外れだ。
客は七人しか来なかった。七人とも、右袖を隠して座った。この店で、右袖を隠して座る客を、俺は初めて見た。
扉が開いた。
勢いよく開いた。音がした。
俺は、その音でほっとした。自分でも情けないくらい、ほっとした。
「ただいまー!」
ミアだった。
坂を上ってきたはずなのに、息が上がっていない。上りの最後の十歩で歩幅が落ちない子は、この街にこの子しかいない。
汗だくだった。明るい亜麻色の髪が額に貼りついている。十四だから、髪にも目にも名の色はない。膝丈の服の裾が、右側だけ擦り切れていた。走るとき、右手で裾を掴む癖があるからだ。膝小僧に、新しい擦り傷が一つ増えている。腰の袋は空で、腿に貼りついていた。
この子だけが、右袖を隠していなかった。隠す理由がない。十四の袖には、まだ何も縫われていない。
彼女は勝手に椅子を引いた。脚の短いほうを引いたので、座った瞬間に鳴った。
引いて、卓の上の板を見た。
「なにこれ」
「なんでもない」
「嘘だ。みんな怖い顔してるもん」
彼女は板に顔を近づけた。読めないくせに、じっと見た。丸くて濃い茶の目が、行を追うように左から右へ動いた。
「これ、名前でしょ」
「なんで分かるの」
「並び方でわかる。手紙の宛名と同じ形だもん」
俺は、何も言えなかった。
「今日さあ、変な人いっぱいいたよ。銀のやつ。三人。広場に突っ立ってるの。邪魔だから、あいだ抜けてったら、なんか見られた」
この店で、この子だけが、いつもと同じ温度だった。
「その人たちも見に来るのかな、儀」
「かもね」
「あと四日だよ」
彼女は指を四本立てて、こっちに向けた。
「じゃあ、いい名前つけてもらお」
セシルさんが、静かに言った。
「ミアさん。今夜、この八十四人に、明日ここへ来るなと伝えなければなりません」
「セシルさん」
俺は止めようとした。止めようとして、口が動かなかった。
――言うな。この子は関係ない。
そう思った。はっきり思った。言葉の形になって、頭の中に並んだ。
それなのに、音が出なかった。
出なかったんじゃない。
俺は、頭のどこかで、数えていた。
八十四人。今夜のうちに。動けるのが四人。西の外れが三十七軒。通りの名前がない。夜は誰にも聞けない。
誰なら、回れる。
答えは、目の前の椅子の上にいた。板を覗き込んで、足を前後に振っていた。
俺は、その計算をやめなかった。やめないまま、口を閉じていた。
止めなかったんじゃない。止めようとして、止めなかった。
この二つは、あとになるほど、違うものになる。
ミアは、板をもう一度見た。それから、けろっと言った。
「あたし、やるよ」
「待って」
「なんで?」
「危ないから」
「なにが?」
彼女は本気で分かっていない顔をしていた。首を傾げて、目をまっすぐこっちに向けている。俺はいつも人の手元ばかり見ているのに、このときは目を見た。
「あの銀の人たちに、見つかったら」
「見つかったら、なに?」
俺は、答えられなかった。
捕まる、と言えば済む話だった。いや、済まない。捕まったあと、この子は誰に何を聞かれるのか。俺の名前が出るまで、どれだけ聞かれ続けるのか。
全部、言えば伝わる話だった。言えなかった。
言ったら、この子は行かないかもしれない。行かなかったら、西の外れの三十七人が、明日ここに来る。
俺は、そこまで考えて、黙った。
「あたしね」
ミアは椅子の上で膝を抱えた。赤い擦り傷が、顎のすぐ下に来た。
「覚えるの、得意なの。八十四人でしょ。今日は十四軒しか回ってないから、まだ余ってる」
「余ってるって」
「足が」
彼女は笑った。よく焼けた顔の中で、歯だけが白い。
四日後に、儀がある。三日前から広場に壇が組まれ、前々日に坂の両側へ青と白の布が吊られ、前の日に屋台が出る。当日の昼、その壇に、今年十五になる子が横一列に並ぶ。全員、親が用意した新しい服を着ている。
その列に、この子は立てる。
まだ、立てる。
立てなくなるとしたら、それは今夜だ。
俺は、その顔を見ていた。見ていて、止めなかった。
読み上げが始まった。
日が落ちた。マルタさんが油皿に火を入れた。三つ点けた。いつもは一つしか点けない。
卓の上に、板と、火と、ミアの肘。
「一番。港の三番倉庫の裏。荷運びのマティス」
「港の三番倉庫の裏、マティスさん」
「八番。西の坂、桶屋。桶作りのゲト」
「西の坂の桶屋、ゲトさん」
速い。止まらない。セシルさんが読み終わる前に、ミアの口が動きはじめる。一行に、十数える間もかかっていない。
二十を過ぎたあたりで、リーヤが小声で言った。
「あの子、一回も聞き返してない」
「うん」
「馬鹿でしょ」
「馬鹿だね」
リーヤは笑わなかった。鼻から息も出さなかった。
「三十八番。西の坂、桶屋の隣。紡ぎのエルサ」
「西の坂の桶屋の隣、エルサさん」
俺の手が止まった。その人には二日前に会っている。困ったような笑い方をして、待ってます、と言った。俺は、三十八番です、と言った。
板の、ちょうど真ん中だ。まだ、半分も終わっていなかった。
問題は、そこから先だった。
「四十六番。西の外れ。門番のヨナス」
セシルさんが顔を上げた。
「ここから、住んでいるところが書けていません。三十七人、全部『西の外れ』です」
「ヨナスさんね」
ミアは、板を見もしなかった。
「井戸から西に出て、三つ目の分かれ道を右。杏の木がある家。屋根の南側が新しいほう」
セシルさんの手が、止まった。
「四十七番。西の外れ。オルグ」
「オルグさんち、二軒あるよ。兄弟で別に住んでるの。どっち?」
「板には、一人しか書いてありません」
「じゃあ弟のほうだ。兄ちゃんのほうは足が悪いから、坂上がってこないもん」
リーヤが、口を半分開けたまま、俺を見た。
俺も、たぶん同じ顔をしていた。
三十七人ぶん、全部そうだった。
名前を読み上げるたびに、この子は家の場所を言った。
分かれ道が何本目か。何の木があるか。屋根がどっち向きか。犬がいるかいないか。夜に叩くならどっちの戸か。
「四番目の戸は開かないよ。閂が折れてるから。裏に回って窓」
次の行へ指が滑った。息継ぎがなかった。
「この人、耳が遠いから、戸叩いても駄目。窓の下の桶を蹴るの」
「ここ、犬いる。噛まない。うるさいだけ」
セシルさんは、途中から読むだけになった。
この人は、面白いものを見ると指で唇を触る。十七日いっしょにいて、分かったのはそれくらいだ。
触らなかった。触るかわりに、二度、書くのをやめて、ミアの顔を見た。
俺は、その横で数えていた。
三十七人ぶん、この子が喋ったのは、家のことと、戸のことと、そこに住んでいる人の耳や足や犬のことだった。
自分がどれだけ速く行けるかは、一度も言わなかった。
言えばよかったのに、と思う。あたしなら一刻で回れる、と言えばよかった。実際そうなんだから。
言わなかった。
俺は、それを、ただの性格だと思った。
そう思ったことを、あとで何度も思い出すことになる。
八十四人を四つに割った。
東の区画をリーヤ。十九人。坂の中腹から横へ入る。
港をマルタさん。十四人。坂を下る。帰りは上る。
坂の上を俺。十四人。上って、上って、また上る。
残りの、いちばん広くていちばん遠い西の外れを、ミア。三十七人。広場まで上って、そこから西へ行く。
「なんで一番多いところを、あの子に」
俺はセシルさんに聞いた。答えは分かっていた。速いからだ、と言われると思った。
彼女は羽根ペンを置いてから言った。
「速いからではありません」
「え」
「あの子だけが、三十七軒の戸を全部知っているからです」
「ドンさんは」
「おれは」
彼は入口の脇に立っていた。目を閉じたまま。起きているのか寝ているのか分からない。
「ここにいる。ここで、聞いてる。誰かが坂を上がってきたら、分かる。走って知らせる」
「走れるの、ドンさん」
「走れる」
走れなかった。あとで知った。彼は歩いて、二回転んだ。
出る前に、ドンさんが扉に手をついた。しばらく、そうしていた。
「今は、いない」
それだけ言って、手を離した。
四人で、外へ出た。
夜の街は、昼より静かだった。
月が出ていた。石畳が青い。昼のあいだ灰白だった石が、月が乗ると青くなる。坂の犬はいつもの場所にいて、目を開けて、俺を見て、鳴かなかった。犬が鳴かない夜は不吉だと、この街の年寄りは言う。
俺は坂の上の家を、一軒ずつ叩いた。
扉を叩く音は、思ったより響いた。昼なら誰も気にしない音だ。夜は違う。一軒叩くと、その音が坂を下って、下の家の壁に当たって返ってくる。だから二軒目の人は、俺が来るのを先に知っている。
「明日、うちに来ないでください」
「なんでだい」
「理由は聞かないで」
「うちは、何番だったかね」
「五十一番です」
だいたいの人が、それで分かってくれた。分かってくれた人ほど、扉を閉めるのが速かった。閉める前に、俺の袖を見た人が三人いた。何もない袖を見て、頷いて、閉めた。
十四軒のうち、二人だけ、開けてくれなかった。叩く前は隙間から細い光が出ていて、叩いたら、消えた。
俺は扉の前に立って、二十数えた。それから、その二人の名前を、覚えて帰った。
店に戻ったのは、真夜中だった。坂の上にも下にも、灯りが一つも見えなかった。
マルタさんはもう戻っていた。リーヤもいた。
「港は」
「全部回った」
彼女は鍋を持っていなかった。三年で、ほとんど見たことがない。片手に空の袋を提げている。港へ下るとき、パンを十四個入れていったやつだ。
「マティスさん、なんて?」
マルタさんは、椅子に座った。座るとき、床が鳴った。
「『分かった』って。それだけ。あの爺さん、明日も来るよ」
「え」
「言っても来る。六十年、荷運びって呼ばれてんだ。一度でいいから別の名前で呼ばれたいってさ。そういうのは、明日でいいや、にならないんだよ」
彼女は掌で卓を叩いた。鍋の底を叩くときと同じ叩き方だった。
「あたしが朝もう一回行く。家の前に立ってて、出てきたら坂の下まで押して帰す」
「東は」
「終わった。十九人。三人、寝てた。叩き起こした。文句言われた。言わせといた」
リーヤは腕をまくったままだった。
「西は」
「まだ」
セシルさんが板を見ていた。板の右端に、あとから引いた線が三本。四本目だけ、空いている。
彼女はそこに指を置いて、動かさなかった。
昨日の夜から、この人は一度も唇を触っていない。
ドンさんが、目を開けた。
「三人」
「え」
「坂の下。走ってる」
俺は立ち上がった。
「ミア?」
「違う」
彼は首を振った。この人は頷くときも、上半身ごと動く。
「足音が、重い。男が三人」
「どのへん」
「一度目の折れ曲がり。まだ、下だ」
この坂は三回折れる。一度目の折れ曲がりは、店のすぐ下にある。
俺は扉に走った。走って、開けて、坂の下を見た。
銀が三つ、上がってきていた。
月の光が縁取りに当たって、そこだけ線になって動いている。生成りの外套は夜に沈んで見えない。銀の線が三本、上がってくる。
そして、その手前に、小さい影があった。
止まっている。こっちを見ている。
――ミアだ。
この距離では色が見えない。亜麻色の髪も、薄い水色の服も、月の下では全部灰色になる。それでも分かった。立ち方で分かった。
彼女は袋を肩にかけたままだった。中身は空だった。三十七人ぶん、全部届けたあとの空だった。
目が合った。この距離で、この暗さで、目が合うはずがないのに、合った。
彼女は、笑った。




