第13話 駆けるミア
「クルトさん!」
「来い! 走れ! こっち!」
声が裏返った。俺は緊張すると裏返る。
「そっち行ったら、店バレるでしょ!」
俺は、止まった。その通りだったからだ。
この子は坂の下から上ってきて、店の手前で足を止めた。ここへ来れば、三人もここへ来る。板があって、厨房にマルタさんがいて、卓にセシルさんがいる店に。
五年、この子は届け先を一度も間違えたことがないのだと、この街の誰もが言う。
届けてはいけない先も、間違えなかった。
「あたし、この街で一番速いから」
「ミア!」
「ちょっと連れてくだけ!」
彼女は走り出した。
俺のほうへ、じゃない。店のほうへ、でもない。
俺の脇を抜けて、さらに上へ走った。
風は下から吹き上げていた。彼女はその風に押されるように上っていった。上りで加速する人間を、俺は初めて見た。
銀の三つが、いっせいに向きを変えて、上りはじめた。
三人とも、足音がした。石を蹴る音が、坂を伝って返ってきた。
その後ろに、もう一つ、上ってくるものがあった。
そっちは、音がしなかった。
俺は追った。追ったけど、三歩で分かった。
届かない。
俺は走れない。二日前、この子について回って、坂の二軒目までで置いていかれた。五十歩だった。
それでも走った。上りだった。ずっと上りだった。
腿の付け根が張って、脚が上がらなくなって、膝が笑った。息が喉で鳴った。一度だけ振り返ったら、港の灯りが二つ、もうずいぶん下にあった。
青い石畳の上を、小さい影が上っていく。
路地に入って、右へ曲がって、また上って、左へ曲がって、二度見失って、二度、遠くの足音で位置を掴んだ。
足音の間隔が、上りなのに縮まっていない。俺の足音は、上るほど間隔が空いた。
最後の角を曲がったのは、たぶん、四半刻くらいあとだった。
行き止まりだった。
坂の上のほうの、細い路地の突き当たり。石壁が三方を囲んでいる。高さは俺の背の三倍。手がかりはない。
昔は道だったんだと思う。片側の壁だけ、石の積み方が新しい。石の大きさが揃っていて、目地が細い。あとから塞いだ壁だ。
地面は濡れていた。誰かが水を捨てた跡が、月の光で細く光っている。乾いた石畳は灰白で、濡れたところは黒い。その黒が、壁の際まで筋を引いていた。
奥の隅に空の樽が二つ。片方は横倒しになっていて、底の輪が外れかけている。
濡れた石の匂いと、酸っぱくなった野菜の匂いが混ざっていた。風がないので、その匂いが動かない。
その真ん中に、ミアが立っていた。立って、こっちを見ていた。
息が上がっていない。この子は、まだ余裕があった。
「クルトさん、おそーい」
「――ばか」
「怒らないでよ」
俺は膝に手をついた。汗が顎から落ちて、石に点をつけた。息が入っていかない。喉が鳴るだけだった。
ついて、顔を上げて、彼女の後ろを見た。
後ろの路地から、足音が三つ、上がってきていた。重い。走っている。上りを走る足音は、下りと違って、踏み込みのたびに間が空く。
そして上に、一人。
壁の縁に立って、こっちを見下ろしていた。銀の縁取りが二本。
月を背にしている。逆光だから、輪郭が黒く抜けるはずだった。
抜けなかった。輪郭がぼやけて、どこまでが人でどこからが夜なのか、目が決められなかった。
この人は、走ってきていない。
いつからそこにいたのか、分からない。
「クルトさん」
ミアが言った。
汗で、明るい亜麻色の髪が額に張りついている。
「あたし、走るよ」
「どこに」
「あっち。三人のほう。すり抜けて、下まで行く」
「無理だ」
「無理じゃないよ。路地、狭いもん。三人並べないでしょ」
俺は路地を見た。
三人は、もう並んでいなかった。
一人が先、二人が後ろ。壁に手をついて、間を塞いでいた。
あの人たちは、この街を知っている。
隙間がない。抜けるなら、どちらかに触れることになる。触れたら、終わりだ。
先頭の男が、口を開いた。
「そこの子供」
声が、路地の壁に当たって返ってきた。低い。走ってきたのに、息が乱れていない。
「西の外れを、夜通し走っていたな」
ミアは答えなかった。
「何を配っていた」
俺は、そこで、事の形をはっきり理解した。
この人たちが追っているのは、俺じゃない。この子だ。今夜この子がやったことは、無許可の名付けを求めた八十四人に、明日来るなと伝えて回ることだった。それを言わされたら、板の中身が全部出る。
そして、言わされるのは、十四の子供のほうだ。
俺は考えた。
考えるというより、頭の中で、使えるものを並べた。
皿洗いの腕。ない。足の速さ。ない。金。ない。体格。論外だ。
三年で覚えた酒場の常連の癖。ここでは何の役にも立たない。
叫んで人を呼ぶ。この時間、この路地の両側の家は、全部灯りが消えている。開かない。今夜、俺は十四軒を回って、そのうち二軒が灯りを消したのを見た。開けてくれない家がどういうものか、もう知っている。
一つだけあった。
名前だ。
ドンさんは、名前をもらった日から、店じゅうの人の位置を音だけで当てるようになった。リーヤは、次の朝から手が震えなくなった。名前は、その人にできることを一つ増やす。
この子がいま以上に速くなれば、三人のあいだを抜ける。
抜けたら、逃げきれる。この子より速い大人は、この街にいない。
一つだけあって、それは、使ってはいけないものだった。
――しばらく、名付けは控えてください。
昨日の夜、セシルさんはそう言った。俺は頷いた。
控えろというのは、街のためだ。八十四人のためだ。俺のためでもある。
新しい刺繍が一つ増えれば、明日の照合で記録と合わなくなる。合わないものが出たら、次に調べられるのは、坂に並んだ八十四人だ。
でも今、ここには八十四人はいない。
俺と、ミアと、上がってくる三人しかいない。
――見えていない。
俺は自分に言った。
この子の何を見た。走るところを見た。待つところを見た。指を折って数えるところを見た。港で値段を三秒で決めるところも、石段に座って港を見ているところも見た。
全部見て、それで、名前は出なかった。
昨日も出なかった。
今も、出ていない。
俺は、縛りを数えた。
一人に一度きり。消せない。つけ直せない。
同意が要る。
嘘は定着しない。
自分にはつけられない。
知らない相手には出ない。
三つ目に、俺は一瞬だけ、すがった。
嘘は口を通らない。
マルタさんが「無口なマルタ」と言おうとしたとき、言葉は喉で止まった。唇も舌も動いたのに、音だけが出なかった。あのとき彼女は咳き込んで、目に涙をためた。
だったら、間違ったことを言おうとすれば、俺も止まるはずだ。
――止めてくれ。
俺は、たぶん、そう思っていた。
自分で決めるかわりに、喉に決めさせようとしていた。
それがどれだけ卑怯なことか、このときの俺は考えていない。
足音が近づいてきた。
あと二十歩。
「ミア」
「なに」
「名前、つけていい?」
彼女が振り返った。
目が丸くなった。もともと丸い目が、もっと丸くなった。
それから、首を横に振った。
「やだ」
断られるとは思っていなかった。
思っていなかったこと自体が、俺の間違いだった。
この子は、初めて会った日に、足をぶらぶらさせるのをやめて、まっすぐ俺を見て、はっきり言っている。
「あたしは、あんたに名前つけてもらわないから」
そう言って、理由まで一緒に置いていった。
「みんな神殿でもらうのに、あたしだけ先にもらったら、ずるい」
「順番、あるでしょ。順番」
俺はあのとき、なんと答えていいか分からなくて、頷いた。
頷いたのに、いま、その反対を頼んでいる。
「ミア」
「だって、ずるいもん」
「うん」
「あと四日だよ。四日待ったら、もらえるんだよ」
彼女は右の袖を押さえた。糸の跡が一つもない、麻の袖だ。
「母さん、服買ってくれたんだよ。まだ見せてもらってないの。当日まで内緒なんだって」
あと十八歩。
言わなければならなかった。
昨日の夕方、店で、俺はこの子に言えなかった。危ないから、と言って、なにが、と聞かれて、答えられなかった。捕まったらどうなるか、全部言えば伝わる話だった。言わなかった。言ったら行かないかもしれない、と思ったからだ。
いま、言う。
行かせるために、言う。
昨日言えなかったことが、今日言えるようになった理由が、それだった。
「ミア。あの三人は、君を捕まえる」
「うん」
「捕まえて、今夜どこを回ったか聞く。誰に何を言ったか聞く」
「……うん」
「君は、覚えてる」
彼女の口が、少し開いた。
「八十四人ぶん、全部覚えてる」
昨日の夜、油皿を三つ点けた卓の上で、この子はセシルさんの読み上げに一度も聞き返さなかった。一番の荷運びのマティスさんから、八十四番まで。名前と、住んでいるところと、戸の開け方と、犬がいるかどうかまで。
いまこの街で、八十四人ぜんぶを言える人間は、二人しかいない。セシルさんと、この子だ。
セシルさんは、明日、アダンの隣にいる。
彼女は三人を見た。それから俺を見た。それから、また自分の袖を見た。
しばらく見ていた。
「……あの八十四人てさ」
「うん」
「あたしより、先に並んでる人たちだよね」
俺は、頷いた。
「そう」
「順番、あるでしょ。順番」
彼女はそう言って、笑った。
うまく笑えていなかった。口の形だけだった。
「じゃあ、いいや」
「いいの?」
「よくない」
即答だった。
「よくないけど、いいよ」
あと十五歩。
「早く。来ちゃうよ」
「なんか、こう、するの? 立つ? 目つむる?」
「なんもしなくていい」
「じゃあ立ってる」
彼女は立った。まっすぐ立って、こっちを見た。膝小僧の擦り傷が、月の光で黒く見えた。
俺は、その顔を見た。
この子は、自分がいま何を渡したか、分かっている。
分かっていて、渡した。
だから、あとになって俺が「知らなかったんだ」と言うことは、できない。知らなかったのは、この子じゃない。
旗が出て、屋台が出て、街じゅうが集まって、木の壇に十五になった子が横一列に並ぶ。全員、新しい服を着ている。親が用意する。司名が名を読み上げる。呼ばれた子が壇に上がって、袖に文字が現れて、糸の端が切れて落ちる。
その列に、この子は立たない。
立っても、何も起きない。もう持っているからだ。
母親が買った服は、着る日がなくなる。
あと十五歩。
名前を、待った。
いつもは、来る。
ドンさんのときは、喉の奥から勝手に上がってきた。リーヤのときは、金床を打つ音の合間に落ちてきた。ペレさんのときは、来なかった。来なかったから、来ないと言った。
俺は待った。
一つ数えた。
二つ数えた。
あと十歩。
名前は、来なかった。
だから、俺が、言った。
「――駆けるミア」
喉は、止まらなかった。
するっと出た。何の抵抗もなかった。挨拶みたいに出た。
あとで分かったことだが、当たり前だった。
嘘じゃなかったからだ。
あの子は速い。街で一番速い。それは本当だ。
縛りは、嘘を止める。
足りないものは、止めない。
俺が言ったのは、嘘ではなかった。ただ、この子の一部でしかなかった。一部でしかないものは、嘘ではないので、通ってしまう。
この縛りには、そこまでの精度がない。
空気に、白い文字が残った。
薄い、白い線でできた文字だ。冬の朝に吐く息の、あの白さ。俺には字が読めない。それでも、いま言った言葉がそこにあるのだと分かる。
一拍だけ浮かんで、ミアの方へ吸い込まれた。
ミアの輪郭が、光の縁を持った。肩の線と、汗で乱れた髪の先が、そこだけ一段濃くなった。
それから、彼女の袖を見た。
何もない袖だった。
刺繍がない。解くべき糸がない。
ドンさんのときは、古い刺繍がまずほどけた。二十五年ぶんの糸が、布から抜けていく音がした。爪で布をこするような、細い音だった。
今夜は、その音がしなかった。ほどくものがないからだ。
かわりに、糸が生えた。
布の上に、何もないところから、白い糸が浮き上がってきた。うねりながら、ひとりでに縫われていく。生き物みたいに。
ミアが「うわ」と言った。笑っていた。
縫い終わった。
駆けるミア。
ここから先を、はっきり書いておく。
名付けが終わるとき、いつも三つのことが起きる。
一つ。**糸が縫い上がる。**名前が入った、という意味だ。
二つ。**糸の端が切れて、落ちる。**縫い終わった、という意味だ。ドンさんのときも、リーヤのときも、最後に端がぷつりと切れて、床に落ちた。十六日前、俺はドンさんの落とした糸を拾った。いまも持っている。
三つ。**名の色が差して、そこで止まる。**その色でいい、という意味だ。
三つ揃って、終わりになる。
今夜、起きたのは、一つ目だけだった。
糸の端は、切れなかった。
袖から垂れたままだった。指の長さくらい。
風はない。この路地には、さっきから風が入ってこない。匂いが動かないのだから、風はない。
それなのに、その端が、少し揺れていた。
名の色は、止まらなかった。
ミアの髪に色が差した。名の色だ。俺はこの十六日で二度見ている。ドンさんのときと、リーヤのときと。
二度とも、色は差して、そこで止まった。止まった色が、その人の色になった。
今回は、止まらなかった。
一瞬、金に見えた。夕日に焼けた麦みたいな金だった。
次のまばたきで、白に見えた。
それから、また亜麻色に戻った。
亜麻色は、この子がもともと持っている髪の色だ。つまり、一周して、何もなかったところへ帰ってきた。
俺は、その髪を見ていた。見ていて、色を言おうとして、言えなかった。
いま何色だったかを、思い出そうとして、思い出せなかった。
――どこかで、これを見た。
そう思った。
思って、思い出す前に、足音があと五歩まで来ていた。
「クルトさん」
ミアが顔を上げた。
「あたし、なんか」
「うん」
「軽い」
彼女は、その場で一歩、踏んだ。
石畳が、鳴らなかった。
「行くね」
「――ミア」
「三人、連れてく。クルトさんは下から出て」
「待て」
「待たない」
彼女は走り出しかけて、それから、一度だけ振り返った。
笑っていた。いつもの顔だった。
「あたし、名前もらったの、クルトさんが最初なんだ」
俺の口は、動かなかった。
「なんか、いいね。それ」
この子は、俺を慰めていた。
自分が四日後の壇に立てなくなった直後に、そっちを慰めていた。
彼女は行った。
速かった。
ついさっき、俺はこの子を追った。追って、三歩で諦めた。あのときは、それでもまだ「人が走っている」に見えた。速い子が走っている、という絵だった。
今のは、絵が違った。
走る人間には、必ず上下がある。踏み込むたびに体が沈んで、蹴るたびに浮く。遠くから見ると、頭の高さが波を打つ。この街で誰を見てもそうだ。
この子の頭は、上下しなかった。
高さが変わらないまま、路地の奥へ滑っていった。
先頭の一人が腕を伸ばした。伸ばした先に、もういなかった。
二人目が振り返る前に、通り過ぎていた。
三人目は、そもそも彼女を見なかったと思う。あの人はまだ前を向いていた。前を向いたまま、髪だけが後ろに引かれていた。
石畳は、一度も鳴らなかった。
鳴らないかわりに、風の音がした。狭いところを、細長いものが通り抜けたときの音だ。
そのあと、樽が一つ転がった。彼女が触れたわけじゃない。あとから来た風が倒した。
俺は、名前を呼んだ。
二度呼んだ。二度目は、自分でもよく聞こえないくらい大きく呼んだ。
届かなかった。届かなかったというより、あの子はもう、声が届く場所にいなかった。
声は音だから、進む速さが決まっている。あの子の速さは、いま、そういう決まりの外にあるように見えた。
俺は、その樽が壁に当たって止まるのを見ていた。
見ていて、ようやく、気づいた。
路地の出口は、直角に曲がっている。この街の路地はどれもそうだ。曲がるときは、必ず減速する。今夜ここまで上ってくるあいだ、俺は角のたびに壁に手をついた。手をつかないと曲がれない。
あの子は、減速しなかった。
角のところで、体が傾いだのは見えた。傾いで、そのまま曲がって、消えた。
速いのではない。
止まり方を、しなくなっている。
路地の奥で、三人が同時に向きを変えた。
誰も、何も言わなかった。命令も、合図もなかった。
三人とも、坂を下って走り出した。下りの足音は速い。踵から鳴って、間が詰まっていく。
その音が、遠ざかった。
俺は、一人になった。
壁の上を見た。
アダンは、まだそこにいた。
動いていなかった。俺と同じものを見ていたはずなのに、顔は動いていなかった。
「クルト」
彼は、俺の名前を先に呼んだ。
「……はい」
「今のは」
彼はそこで、一度、言葉を切った。
それから、こう聞いた。
「その子の名前は、誰が決めた」
俺は、何も言えなかった。
言えなかったのは、怖かったからじゃない。
その質問に、答えがあったからだ。
俺が決めた。
見えていないのに、決めた。
名前は来なかった。来なかったのに、口に出した。
俺は、この街の司名がやっていることを、正しくないと思ってきた。人を見ないで名前を配るから外れるのだ、と思ってきた。
今夜、同じことをした。
しかも、司名は仕事でやっている。俺は、自分が困ったからやった。
彼は、それ以上何も言わなかった。
捕まると思った。
捕まらなかった。
セシルさんが言っていた。あの人は捕まえない。控えるだけだ、と。
その控えるだけの人が、綴じ本も出さなかった。
書かなかった。
書かなくても覚えていられることだったのか、書くまでもないと思われたのか、俺には分からない。
壁の上から、いつのまにかいなくなっていた。
降りた音も、しなかった。
俺は、濡れた石の上から動けなかった。
動けないまま、いま自分が何を見ていたのかを思い出そうとした。
銀の縁取り。二本。灰色の髪。
目の色は、思い出せなかった。
坂を下りながら、上着の内側を探った。
小さい布の袋がある。中に、白い糸の端が一本入っている。ドンさんの袖から落ちたやつだ。十六日前、セシルさんが卓に置いて、彼女が帰ったあとに俺が拾った。それから毎日持っている。
立ち止まって、月にかざした。
端が、切れている。断ち切ったみたいに、まっすぐ切れている。誰かが鋏を入れたわけじゃない。ひとりでに切れて、床に落ちた。
これが、終わったということだ。
俺はそれを袋に戻して、また下りはじめた。
あの子の袖の糸は、まだ垂れている。
店に戻ったのは、明け方近くだった。
下りは膝に来る。下りきる手前で一度足がもつれて、壁に手をついた。
扉を開けたら、全員いた。
マルタさんが立ち上がった。椅子が倒れた。リーヤが布巾を落とした。ドンさんは目を開けていた。油皿が三つとも点いていた。
セシルさんが、口を開いた。
「ミアさんは」
「囮になった」
彼女の羽根ペンが、卓の上で止まった。
「三人、連れてった」
「捕まりましたか」
「捕まってない。速すぎて、誰も追いつけてない」
リーヤが、息を吐いた。
「じゃあ、よかったじゃん」
俺は、答えなかった。
「クルト」
マルタさんが言った。
「何した」
俺は、答えられなかった。
「あんた、何した」
俺は、話した。
何もない袖に糸が生えたこと。縫い上がったこと。
そして、糸の端が切れなかったこと。
名の色が、金になって、白になって、また亜麻色に戻ったこと。
言い終わってから、店が静かになった。
マルタさんは、俺の顔を見ていた。
この人は、腹が立つと鍋を持ち替える。三年見ていて知っている。
持ち替えなかった。持っていた鍋を、そのまま卓に置いた。置くとき、底が卓に当たる音がしなかった。最後まで手で支えて下ろしたからだ。
それから、椅子を引いて、座った。
「あんた、飯食ってないだろ」
「え」
「昼から何も食ってない」
彼女は立ち上がって、厨房へ行った。
叱られるよりきつかった。
セシルさんが、羽根ペンを持った。
持ったまま、紙に何も書かなかった。
「クルトさん」
「はい」
「名前は、来ましたか」
「……」
「来ましたか」
俺は、床を見た。
「来なかった」
誰も、何も言わなかった。
リーヤが何か言いかけて、やめた。
マルタさんは鍋を持ってきて、卓に置いた。置いただけで、叩かなかった。
セシルさんが、羽根ペンを置いた。
「今夜起きたことを、三つに分けます」
彼女は指を一本立てた。
「縫い上がった。名前は、入りました」
二本目。
「端が切れなかった。縫い終わっていません」
三本目。
「色が定まらなかった。その色でいい、という返事が来ていません」
彼女は指を下ろした。
「入って、終わっていなくて、決まっていない。三千件の記録の中に、その例は」
彼女はそこで止まった。
止まって、少し考えて、それから言い直した。
「……いえ。あとにします」
「なに」
「今、言ってもどうにもならないことです」
彼女は、指を唇に持っていかなかった。
持っていきかけもしなかった。手は膝の上に置いたままだった。
「あのさ」
リーヤが言った。
腕をまくった。夜明けの店で、まくる意味はない。この人がそれをやるのは、何かに気づいたときだ。
「あたしのとき、切れたよね」
「切れた」
「ドンのときも」
「切れた」
「じゃあ、切れないってことは」
彼女は、そこで自分の左の親指を見た。焼けて硬くなっているところだ。
「まだ縫ってる、ってことじゃないの」
俺は、その意味が分かるまでに、少しかかった。
縫い終わっていない、ということは、いまも縫われ続けている、ということだ。
ミアは、戻ってこなかった。
一刻経った。
誰も寝なかった。誰も帰らなかった。
マルタさんは湯を沸かして、注いで、誰も飲まないので、また沸かし直した。三回沸かし直した。
リーヤは卓の端に座って、手元で小さい留め金をいじっていた。同じ留め金を、何度も外しては嵌めていた。外すときに小さい音がして、嵌めるときにも小さい音がする。その音が、四半刻ずつ続いた。
ドンさんは入口の脇に立っていた。目を閉じて、いつもより顎を上げていた。
俺は、皿を洗った。
洗うものがなくなったので、洗った皿をもう一度洗った。
二十六枚あった。
朝になった。
窓の外が白くなった。港側から、低い光が入ってきた。床に斜めの帯ができて、埃が回りはじめた。坂の下から荷担ぎの声が聞こえはじめた。
戻ってこなかった。
「探しに行く」
リーヤが立ち上がった。
「どこを」
「知らない。全部」
「待て」
ドンさんだった。
目を閉じたまま、彼は言った。
「さっきから、ずっと聞こえてる」
店が、静かになった。
「聞こえてるって」
「あの子の足音」
「あんた、そんな遠くまで聞こえんの」
リーヤが言った。
「石が繋がってるからな」
ドンさんは、自分の足元を指した。耳ではなく、足を。
「耳より、足のほうが早い」
彼は、床を靴の裏で一度こすった。
「港」
「うん」
「坂。ここの前を、上っていった」
「うん」
「広場。西の外れ。東の区画」
彼は、少し黙った。
「……また、港」
俺は、立ち上がった。
立ち上がって、その順番を、頭の中でもう一度なぞった。
港。坂。広場。西の外れ。東の区画。石段を下って、港。
知っていた。
三日前、俺が一日ついて回った順番だった。
あの子は、いま、いつもの仕事を回っている。荷は持っていない。届け先もない。それでも、同じ順番で回っている。
「ドンさん」
「うん」
「何周目」
彼は、答えるまでに時間をかけた。
「……九周目だ」
「一周、どれくらい」
彼はまた黙った。今度は、さっきより長かった。
「最初のは、半刻あった」
「うん」
「さっきのは、半刻なかった」
リーヤが顔を上げた。
「短くなってんの」
「短くなってる」
ドンさんは、床から靴の裏を離さなかった。
「一周ごとに、少しずつ」




