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第14話 止まらない

 「十二」


 ドンさんが言った。


 朝の光が、店の床に斜めに入ってきていた。港側から低く差す光だ。帯の中で埃がゆっくり回っている。


 誰も動かなかった。


 「十二周目?」


 「そう」


 「一周、どのくらい」


 彼は少し考えた。


 「夜のはじめは、半刻あった」


 「今は」


 「四半刻」


 速くなっていた。


 半刻は一刻の半分で、四半刻はそのまた半分だ。街を一周する時間が、一晩で半分になったということだ。


 「ドンさん」


 「うん」


 「ずっと聞いてるの?」


 「聞いてる」


 「寝てない?」


 彼は答えなかった。


 答えないのが答えだった。


 この人は、いつも死んだように立っている。今日は、立ち方が違った。膝が伸びきっていない。両足の幅がいつもより広い。倒れないように踏ん張っている人の立ち方だ。




 マルタさんは、その朝、店を開けなかった。


 卓を片づけもせず、火も入れず、扉を閉めたまま出てきた。三年で一度もなかったことだ。この人は熱を出した日でも開ける。


 「休みだ」


 「客、来るよ」


 「来たら追い返す」




 俺たちは坂に出た。


 朝の坂は、いつもどおりだった。


 荷担ぎが港から上がってくる。犬が同じところで寝ている。パン屋の煙が真っ直ぐ上がっている。石畳は乾いていて、坂の中央だけが磨り減って白い。


 井戸端で誰かが桶を落として、笑い声がした。


 昨日、この街の八十四人に「明日は来るな」と伝えて回った。


 みんな、来なかった。伝わったんだと思う。


 広場では今ごろ、区画ごとに人が呼ばれて、袖を出して、記録と照らされているはずだ。セシルさんはその隣で記録を取っている。


 だから今日の坂は、平和だった。


 誰も、何も知らない。


 「どこで待つ」


 「ここでいい」


 ドンさんが石畳の上を指した。店の前から十歩ほど下ったところだ。


 「ここを通る」


 「なんで分かるの」


 「十二回、同じところを踏んでる」


 彼は目を閉じたまま、片手を上げた。


 「下から来る」




 最初は、風だと思った。


 坂の下から、空気が押し上げられてきた。


 この街の風は海から陸へ吹く。朝はいつもそうだ。だから下から風が来ること自体は珍しくない。


 珍しいのは、その風が坂の形に沿って、細く、速く来たことだった。


 それから、影が来た。


 「あ、クルトさーん!」


 通り過ぎた。


 「おはよー!」


 俺は、声を出す前に、彼女を見失っていた。


 振り返った。


 彼女はもう、俺たちより上にいた。


 坂の二度目の折れ曲がりを、減速せずに曲がっていった。曲がり際に外側の壁へ手をつくのが、走る子の癖だ。この子はつかなかった。




 「……今の」


 「元気だったね」


 リーヤが言った。声が固かった。


 「元気だったよ」


 「いつもと同じだった」


 「うん」


 俺たちは、しばらく黙って坂の上を見ていた。


 パン屋の煙が、まだ真っ直ぐ上がっていた。


 「ドンさん、寝なよ」


 俺は言った。


 「寝たら」


 彼は、そこで言葉を探した。この人は急かしても速くならない。


 「寝たら、どこにいるか、誰も分からなくなる」


 「四半刻に一回、ここ通るじゃん」


 「通らない周がある」


 俺は、聞き返した。


 「え」


 「昨日の夜、三周ぶん、坂を上ってこなかった」


 「じゃあ、どこに」


 「港から出てない。港の中を回ってた」


 彼は目を閉じたまま、床を靴の裏で一度こすった。


 「荷受けの桟橋の手前に、割れてる石が一枚ある。あそこだけ音が違う。あれを、何十回も踏んでた」


 俺は、その意味を、少し遅れて理解した。


 港は、あの子が毎朝、荷を受け取る場所だ。


 真夜中の港に、荷はない。船も着いていない。荷受けの男も寝ている。


 それでも、あの子はそこを回っていた。


 「探してたんだと思う」


 ドンさんは、それだけ言った。


 何を、とは聞かなかった。聞いても、この人には分からない。




 「ドン」


 「うん」


 「次、いつ」


 「四半刻」


 「四半刻ずっと、あの子はどこにいるの」


 彼は目を閉じたまま、順番に言った。


 「ここから上って、広場。西の外れ。東の区画。それから、東側の石段を下って、港」


 「石段」


 「うん。帰りは、この前を通らない」


 だから、四半刻に一度しか会えない。


 この街を一周するあいだ、彼女がこの坂を通るのは、上りの一回だけだ。




 十四周目。


 今度は、俺が道の真ん中に立った。


 両手を広げた。坂は狭い。荷車二台がやっとすれ違える幅しかない。ここなら抜けられない。


 ――抜けられた。


 どうやったのか分からない。俺の左を通ったのは分かった。それだけだ。


 俺は振り返って、坂の上を見た。


 「ミア!」


 「はーい!」


 返事はした。


 止まらなかった。




 十五周目。


 全員で並んだ。


 俺、リーヤ、マルタさん、ドンさん。坂の幅いっぱいに、横に並んだ。


 マルタさんが荷担ぎの連中を追い払った。


 「どきな! 今日は通行止めだ!」


 「なんでだよ」


 「うるさい! あとで飯おごる!」


 「何人ぶん」


 「全員だよ!」


 効いた。この人はいつも強い。半分白くて半分赤い頭が、坂の下に向かって怒鳴っているだけで、十人が黙って引き返した。




 来た。


 風が押し上げられて、影が来た。


 俺たちは動かなかった。


 そして――


 彼女は、止まらなかった。


 止まらないまま、四人の隙間を抜けていった。


 俺とリーヤのあいだ。拳一つぶんくらいの隙間だ。


 肩も触れなかった。




 その抜け方を見て、俺は寒くなった。


 逃げる抜け方じゃなかった。


 あれは、荷を担いだ連中のあいだを縫うときの抜け方だった。


 港で、毎朝やっているやつだ。


 人の隙間を縫うというより、隙間が最初からそこにあるみたいな走り方。三日前、俺は同じものを見た。あのときは、すごいと思った。


 あの子は、俺たちを、邪魔だと思っていない。


 通れるところがあったから、通っただけだ。




 「クルト」


 リーヤが、坂の下を見たまま言った。


 「なに」


 「靴」


 「え」


 「あの子の靴」


 彼女は、自分の指を二本立てた。それから、下ろした。


 「ない」




 俺は、そのあと三回、確かめた。


 十六周目。十七周目。十八周目。


 十八周目で、はっきり見えた。


 裸足だった。


 いつから裸足なのか、分からなかった。




 リーヤは、そこから動かなくなった。


 坂の同じ場所に立って、下を見ていた。後れ毛が顔にかかっていたが、払わなかった。


 「あんたさ」


 俺は声をかけた。


 「なに」


 「座ったら」


 「立ってる」


 「膝、笑ってるよ」


 「うるさい」


 彼女は、腕をまくった。火傷の跡が出た。白く盛り上がったのが古いやつで、赤いのが新しいやつだ。まくる必要のない場面だった。


 「あたし、あの子の靴、直したことあるんだよ」


 「え」


 「先月。つま先が抜けてたから、当て革貼った」


 彼女は、自分の左の親指の側面を見た。留め金を押さえる場所だ。平らに削れているところ。


 「二日で駄目にしやがって、って言ったの」


 「うん」


 「あの子、笑ってた」


 彼女は、いったん口を閉じた。


 「……あたし、また直すから」


 直せるものが、もうなかった。




 「クルトさん」


 セシルさんが、坂を下りてきた。


 広場から下りてきたので、息は上がっていない。外套の裾に土がついていた。この人の外套に土がついているのを、俺は初めて見た。


 「照合、終わったの」


 「午前の分は。西の外れの方はまだです」


 「誰か、出た?」


 「記録と違った方は、今のところ一人も出ていません」


 昨夜、四人で回ったぶんだ。伝わっていた。


 「あの人は」


 「広場にいます。抜けてきました」


 彼女は俺の隣に立って、坂の下を見た。


 それから、こう言った。


 「その前に、一つ」


 俺は言った。


 「あの子、広場を通ってるよね」


 「通ります」


 「今日、広場、あんたらが照合してるんじゃないの」


 セシルさんは、頷いた。


 「区画ごとの列で、広場は埋まっています。アダン様は袖を一つずつ見ています」


 「じゃあ、もう」


 「今日は、見ていません」


 「なんで」


 「袖を出して並んでいる人間を、一人ずつ見ているからです。 走って通り抜ける子を見る余裕は、今日はありません」


 俺は、少しだけ息をついた。


 ついてから、聞いた。


 「明日は」


 「あります」




 俺は、一度だけ、広場まで上がった。


 人が並んでいた。区画ごとに四列。列の尻は、井戸の縁を回って、掲示板の下まで伸びていた。


 全員が、右腕を前に出していた。


 袖をまくって、腕を出したまま、黙って前へ詰めていく。子供も、年寄りもだ。荷担ぎは荷を足元に下ろして、それでも右腕だけは上げていた。


 列の先に、白い外套が三つ。そのまた先に、一人。


 アダンは屈んでいなかった。背筋を伸ばしたまま、差し出された腕を上から見ていた。一人につき三秒。それより長くも短くもならなかった。


 俺は掲示板の脇の壁に寄って、それを見ていた。


 四半刻に一度、風が来る。


 列の横を、影が通り抜ける。


 「ペレさーん! おはよー!」


 誰も顔を上げなかった。掃除の爺さんが箒を止めて、片手を上げただけだった。


 アダンも、上げなかった。腕を見ていた。


 俺はそこで、息をついた。ついてから、自分が何に安心したのかを考えて、気持ちが悪くなった。


 あの人が腕を見ているあいだは、あの子は見つからない。


 街じゅうの人間が袖を出して並んでいることが、あの子を隠していた。




 「クルトさん。今から、分かっていることを全部言います」


 「え」


 「聞きたくないと思います。それでも、聞いてください」


 彼女は、紙を出さなかった。


 この人が、何も見ずに喋るのを、俺は初めて見た。




 「一つ目」


 「うん」


 「あの子は、水を飲んでいません」


 俺は坂の下を見たまま、頷いた。頷いてから、その言葉の意味が遅れて届いた。


 「昨日の夜、この店を出てから、一度もです。走りながら飲むことはできません。止まらないからです」


 「……うん」


 「人は、水を飲まずに動き続けて、三日保ちません」


 坂の下から、風が押し上げられてきた。


 次の周が来る音ではなかった。ただの風だった。


 「二日目の終わりごろに、汗が出なくなります。汗が出なくなると、体の中に熱がこもります。そのあとは、走りながら倒れます」


 「倒れたら」


 「そこが問題です」


 彼女は、初めて俺の方を見た。


 「倒れても、たぶん止まりません。 名前が『駆ける』だからです」


 「待って」


 俺は言った。


 「名前が『駆ける』だと、なんで止まらないの」


 彼女は、答えるまでに間をおいた。


 「分かりません」


 「分かんないの」


 「それを確かめに行きます」




 「二つ目」


 「うん」


 「名前は消せません。一人に一度だけです。三千件の記録に、取り消された例は一件もありません」


 「知ってる」


 「三日後の授名の儀で、あの子の名前は読み上げられません」


 「……」


 「もう持っているからです。壇に立っても、何も起きません」




 「三つ目」


 彼女は、そこで一度、言葉を切った。


 「これが一番よくありません」


 「なに」


 「あの子は、生きた証拠です」


 俺は、彼女の顔を見た。


 「街じゅうの人間が、明るいうちに、あの子が走っているのを見ています。十四の子供が、袖に名前を持って、朝から止まらずに走っている。十五になっていないのに、名前がある」


 「……あ」


 「神殿があの子を見つけたら、調べるのは、あなたではありません」


 彼女は坂の下を見た。


 「あの子です」




 俺は、そこに立っていた。


 立っていて、足の裏の感覚がなくなった。


 三日後に、儀がある。三日前に壇が組まれ、二日前に坂の両側へ青と白が吊るされ、前の日に屋台が出る。当日の朝、ペレさんが井戸の東側から掃きはじめる。昼、壇に、十五になった子が横一列に並ぶ。


 三日前というのは、今日のことだ。


 その列に、あの子はいない。


 いないだけじゃない。


 その日までに、たぶん、いない。




 「じゃあさ」


 リーヤが言った。


 声が、震えていなかった。震えていないことが、かえって怖かった。


 「水さえ飲ませれば、死なないってこと?」


 「飲ませられるなら」


 「飲ませられるなら?」


 「走りながら飲むのは、無理です」


 「無理じゃないかもしれないじゃん」


 セシルさんは、答えなかった。


 答えないことが、この人なりの誠実さなんだと思う。


 「あたし、考える」


 リーヤが言った。


 「なんか作る。飲めるやつ。走りながら飲めるやつ」


 「リーヤさん」


 「なに」


 「三日です」


 「知ってる。聞いた」


 彼女は坂を下りはじめた。鍛冶場の方へだ。


 こっちを見ないまま、手だけ上げた。いつもの、雑な上げ方だった。


 下りは速い。踵が石を叩く音が、四つ、五つと間隔を詰めて、一度目の折れ曲がりの向こうへ消えた。




 十九周目。


 四半刻ごとに、彼女は来る。


 だから、話す時間は、毎回ある。


 二言か、三言だけ。




 「ミア! なんで走ってるの!」


 「え?」


 「なんで走ってんの!」


 「――なんか!」


 声が、上へ遠ざかった。


 「まだあると思って!」




 二十周目に入る前に、もう一つ聞いた。


 「疲れてない!?」


 「ぜんぜん!」


 即答だった。嘘をついている声じゃなかった。


 それが、いちばんよくなかった。


 この子は、疲れていないのではない。疲れているのが、届いていない。




 二十周目。


 「なにが!」


 「え?」


 「まだあるって、なにが!」


 彼女は、坂の途中で、少しだけ速度を落とした。


 落として、こっちを見た。


 初めて、困った顔をした。首を傾げた。三日前、井戸の縁でパンを食べながら見せた顔と同じだった。


 「……わかんない」


 それから、また速くなった。




 俺は、そこにしゃがみ込んだ。


 石畳が冷たかった。朝の光が当たっているのに、まだ冷たい。


 ――渡さないと、届いたことにならないじゃん。


 三日前、この子はそう言った。


 この子は、置いて帰らない。相手が留守なら、帰ってくるまで待つ。手紙を三回読み終わるまで、動かない。渡すところまでが、この子の仕事だ。


 その子が、いま、腰に空の袋を提げて走っている。


 ――届けるものが、ない。


 ないのに、探している。


 探しても、ない。


 だから、止まれない。




 俺は立ち上がった。


 立ち上がって、坂の下を見て、次が来るのを待った。


 「クルトさん」


 セシルさんが言った。


 「やめてください」


 「まだ何も言ってない」


 「顔に書いてあります」




 二十一周目が来た。


 俺は、道の真ん中に立って、口を開けた。


 彼女が坂を上がってくる。下から風が来る。


 俺は、言った。


 「――歩くミア」




 何も、起きなかった。


 空気に、文字は残らなかった。


 輪郭は、光らなかった。


 袖の糸は、揺れただけだった。切れていない端が、風で揺れただけだった。


 言葉が、言葉のまま、坂に落ちた。


 なぜ何も起きなかったのか、俺には分かっていた。


 名前は、見えたときに来る。


 ドンさんは、見えた。二十五年ぶんの我慢が、手の甲の白い傷になって残っていた。リーヤのときも見えた。火の仕事の下手さと、指先の細工の腕が、同じ手についていた。


 昨日の夜も、今日も、俺にはこの子が見えていない。


 見えていない人間が口を動かしても、それはただの声だ。


 昨日の夜、通ってしまったほうが、おかしかった。


 彼女は、俺の横を通り過ぎた。


 「なにー?」


 「……なんでもない」


 「へんなのー」




 「一人に一度だけです」


 セシルさんが言った。


 「知ってる」


 「知っていて、やりましたね」


 「うん」


 「一件も、ありません」


 俺は、頷いた。


 頷くしかなかった。




 「クルトさん」


 「うん」


 「私は、本殿に行きます」


 俺は顔を上げた。


 「本殿って、都の? 徒歩十日でしょ」


 「街の神殿に、本殿の写しがあります。アダン様が持ってきたものです」


 「それ、勝手に読めるの」


 「読めません」


 彼女は、坂の上を見た。神殿の白い屋根が、朝より近くに見えた。光の角度が変わったせいだと思う。


 「三千件は、この街の記録です。本殿には、もっとあります」


 「どのくらい」


 「分かりません。誰も数えたことがないので」


 「そこに、方法が」


 「ありません」


 即答だった。


 「……ないの」


 「ないと思います。ですが、ないことを確かめた人間も、いません」


 「何を見に行くの」


 「名前の形です」


 「形」


 「三百年ぶんの名簿に、『駆ける』と同じ形の名前が何件あるかを数えます」


 彼女は紙束を抱え直した。


 「一件もなければ、前例がないということです。前例がないことが分かれば、少なくとも、何を探しても無駄なのかが分かります」


 彼女は歩き出した。坂を上る歩き方だ。歩幅が大きい。


 三歩行って、止まって、振り返った。


 「クルトさん」


 「はい」


 「今日、私が戻らなかったら」


 「え」


 「それは、そういうことです」


 彼女は行った。


 俺は、止められなかった。今日、俺が止められたものは、一つもなかった。




 昼を過ぎて、広場のほうから、音が鳴りはじめた。


 木を打つ音だ。重い。掛矢で杭を打っている。二人でやっているらしく、一つ打って、少し置いて、もう一つ打つ。


 「壇だね」


 マルタさんが言った。


 「壇」


 「儀の壇だよ。三日前から組むんだ。毎年」


 俺は、指を折った。


 今日、明日、明後日。その次が儀だ。あと三日ある。


 井戸の東側に木を組む。四段の階段がついた台だ。組み上がったら、青と白の布を巻く。十五になった子が、そこに横一列に並ぶ。


 その音が、坂の上から降りてくる。


 風が押し上げられてきた。影が来た。


 「クルトさーん!」


 通り過ぎた。


 あの子は、その音の中を通っていった。


 自分が立つはずだった台が組み上がっていく音の中を、止まらずに。


 あの子は、まだ知らない。




 二十三周目。昼になった。


 マルタさんが桶を持ってきた。水と、パンと、干し肉。


 坂の途中に置いて、その横に立った。


 「食え!」


 次の周で、ミアが来た。


 「食え! 置いてある!」


 「ありがとー!」


 通り過ぎた。


 次の周も。


 次の周も。




 「なんで食わないんだ」


 マルタさんが言った。


 珍しく、声が小さかった。この人の小声を聞くのは、三年で三度目だ。


 「聞こえてないんじゃない」


 「聞こえてるよ。返事してんだから」


 「じゃあ」


 彼女は、桶を見た。


 水に、朝からずっと日が当たっていて、ぬるくなっていた。


 「……今、手が塞がってるんだろ」


 あの子は、何も持っていなかった。


 それでも彼女は、桶を下げなかった。


 水を替えて、また置いた。




 二十五周目。昼過ぎ。


 石畳に、点が残るようになった。


 同じところに、いくつか。


 坂の一度目の折れ曲がりの、内側だ。曲がるときに一番体重がかかるところだった。


 最初に気づいたのはマルタさんだった。


 彼女は何も言わずに厨房に戻って、砂の袋を持ってきた。


 坂に撒いた。


 撒いて、足で均した。


 それから、また戻って、もう一袋持ってきた。




 「なんで隠すの」


 俺は聞いた。


 「隠してない」


 「隠してるでしょ」


 「滑るからだよ」


 彼女は、こっちを見なかった。


 「あの子が転んだら、どうすんだ」




 二十七周目。


 俺は、一度だけ、並走を試した。


 彼女が来る前から坂の下の方で構えて、通り過ぎる瞬間に走り出した。上りだ。


 四歩だった。


 四歩で、背中が点になった。


 三日前は、五十歩ついていけた。あのときは坂の途中で彼女が止まって、膝に手をついている俺を見て笑っていた。


 膝をついて、石畳に手をついて、そこでしばらく動けなかった。


 誰も、情けないとは言わなかった。


 リーヤも、何も言わなかった。それが一番きつかった。




 夕方になった。


 三十三周目だった。


 坂の下から、女の人が上がってきた。


 背が低い。痩せている。歩くのが速い。ミアと同じ歩き方だった。


 髪を後ろでひとつに結んでいて、生え際に白いものが混じっている。濃い茶だ。ミアの明るい亜麻色とは、まるで違う色だった。


 目が、丸い。そこだけが同じだった。


 腕に、布の包みを抱えていた。


 この街の子供が普段着る布じゃなかった。新しい。まだ一度も洗っていない布だ。


 生成りの布で、丁寧に畳んである。角が揃っている。何度も畳み直した形だ。


 歩きながら、その包みを、右腕から左腕へ持ち替えた。


 少ししてから、また右へ戻した。




 彼女は、坂の途中で止まった。


 俺たちの少し下だ。


 止まって、坂の下を見た。


 俺は、声をかけようとした。


 かけられなかった。


 下から、風が押し上げられてきた。




 「あ、母さん!」


 ミアが来た。


 来て、通り過ぎた。


 通り過ぎながら、片手を上げた。


 「いってきまーす!」


 それだけだった。


 彼女は坂の上へ消えた。


 女の人は、包みを抱えたまま、そこに立っていた。




 しばらくして、彼女は、こちらを向いた。


 俺を見て、それから、俺の袖を見た。


 何も縫われていない袖を。


 「あんたかい」


 俺は、頷いた。


 言い訳を、頭の中で三つ作った。三つとも、口に出さなかった。出せるようなものじゃなかった。


 彼女は、何も言わなかった。


 怒鳴らなかった。泣かなかった。掴みかかりもしなかった。


 ただ、包みを右腕から左腕へ持ち替えた。


 持ち替えて、少し考えるような顔をして、それから、こう言った。


 「あの子、昨日の夜から、何も食べてないんですよ」


 「……はい」


 「うち、朝は決まってパンなんです。二つ焼くんです。あの子のと、あたしのと」


 「はい」


 「今朝、二つとも、そのまま残ってて」


 彼女は、坂の上を見た。


 「あの子、朝だけは、絶対に家で食べていくんですよ。どんなに急いでても。食べてから、いってきますって言って出るんです」




 俺は、その言葉を、しばらく置いておいた。


 置いておいてから、数えはじめた。


 昨日の夜、この子は店で何も食べていない。板の読み上げのあいだ、卓に肘をついて、水も飲まなかった。そのあと夜通し西の外れを回って、そのまま朝になった。


 今朝、家のパンは二つとも残っている。


 昼、マルタさんが桶を置いた。水とパンと干し肉。ありがとー、と返事をして、通り過ぎた。次の周も、その次の周も。


 いま、三十三周目だ。


 昨日の夜からずっと、この子の口には、何も入っていない。


 水も、一滴も。


 セシルさんは、三日と言った。


 その一日目が、いま終わろうとしている。




 「あの」


 俺は言った。


 言ってから、続きがないことに気づいた。


 女の人は、待ってくれた。


 待ってくれたので、俺は結局、一番言いたくないことを言った。


 「止められないんです」


 「はい」


 「押さえても、たぶん、止まりません」


 「はい」


 彼女は、それも、そうですか、という顔で受けた。


 それから、抱えていた包みを、少しだけ持ち上げた。


 「これ」


 「はい」


 「儀の日の服なんです」


 俺は、包みを見た。生成りの布に、丁寧に畳んだ角が揃っている。


 「持ってきても、しょうがないんですけど」


 彼女は、また左腕へ持ち替えた。


 「他に、持ってくるものが、思いつかなくて」




 女の人は、それきり何も聞かなかった。


 なぜこうなったのか。誰がやったのか。どうすれば戻るのか。


 一つも聞かなかった。


 包みを抱えたまま、坂の途中に立っていた。


 次の周が来るまで、四半刻。


 彼女は、そこで待つつもりなんだと分かった。


 待って、また「いってきまーす」と言われるつもりなんだと。


 俺は、その横に立った。


 立って、一緒に、坂の下を見た。


 それしか、できることがなかった。

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