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第15話 底

 「六十一」


 ドンさんが言った。


 二日目の朝だった。


 港側から低い光が入ってきて、店の床に斜めの帯を作っている。昨日と同じ角度、同じ埃、同じ場所。違うのは、卓が六つとも空いていることと、この人が十六刻近く立ちっぱなしだということだった。


 「昨日の朝が十二だったよね」


 「十二だった」


 四十九周ぶん、この人はずっと聞いている。


 「ドンさん、座って」


 「座ると、聞こえにくい」


 「なんで」


 「足の裏から来るから」


 「足?」


 「石が鳴ってる。耳より、足のほうが早い」


 俺はそのとき初めて、この人が立ち続けている理由を知った。


 耳で聞いているんじゃない。両足の裏を石に押しつけて、街ごと聞いている。座ったら、足が浮く。




 外に出たら、坂に人がいた。荷担ぎではない。荷を持っていない。


 六人。坂の下の方に固まって、上を見ている。二人はうちの客で、あとは知らない顔だった。


 しばらく見ていて、分かった。


 次の周を、待っている。




 「見せもんじゃないよ!」


 マルタさんが鍋を持ったまま扉を蹴り開けた。


 「散れ! 散りな!」


 「うちの母ちゃんが、見てこいって」


 「見てどうすんだ」


 「分かんねえ」


 「分かんねえなら帰りな!」


 六人が二歩下がって、それから止まった。


 三歩目を下がらなかった。


 マルタさんはしばらく立って、何も言わずに戻ってきた。


 「散らないね」


 「散らないよ」


 「昨日は三人だった」


 「今日は六人」


 「明日は」


 「言うなよ」


 「言わないよ」




 昼前に、役所の使いが二人、坂を上がってきた。肩に布の束を担いでいる。


 一人が東側の軒に、もう一人が西側に、順番に吊っていった。青が一枚、白が一枚、また青。


 儀の前々日には、坂の両側に旗を出す。毎年そうする。俺も三度、この下を上って壇へ行った。


 布は下から吹き上げる風を受けて、坂の上に向かってふくらんだ。


 二人は途中で一度、手を止めた。風が来たからだ。


 影が、旗の下を抜けていった。


 二人はそれが通り過ぎるのを待って、また吊りはじめた。




 リーヤが来たのは、六十三周目だった。


 鍛冶場は下だから、坂を上ってくる。息が上がっていた。この人が息を切らしているのを見るのは初めてだ。


 目の下が黒い。腕をまくったままで、火傷の跡の上に新しい火脹れが二つできていた。


 右手に、何か持っていた。




 「できた」


 卓の上に置いた。


 金物だった。平たい。手のひらより少し大きい。片側が細く伸びて口になっている。革の紐が通してあった。


 継ぎ目が、見えなかった。打って合わせたはずなのに、どこで合わさっているのか分からない。指でなぞっても、段差がない。


 「これ」


 「水筒」


 「一晩で?」


 「一晩で」


 彼女は自分の手を見た。指が震えていた。


 「口のところ、噛めば開く。離せば閉じる。走りながらでも飲める」


 「すごい」


 「すごくない」


 彼女は言った。


 「作れるかどうかの話じゃなかったんだよ」




 六十四周目。俺たちは坂の途中に立った。昨日マルタさんが桶を置いたのと同じ場所だ。


 風が押し上げられてきた。影が来た。


 「ミア!」


 リーヤが水筒を差し出した。差し出したというより、押しつけようとした。走ってくる相手の胸の高さに、両手で構えた。


 ミアは、よけた。肩も触れずに、水筒の脇を抜けていった。


 「はーい!」


 声だけが、上へ遠ざかっていく。




 六十六周目。


 リーヤが選んだのは、一度目の折れだった。


 坂が曲がるところは、道がいちばん狭い。石壁と、向かいの家の角のあいだ。大人が二人並べば、それで埋まる。


 彼女は真ん中に立って、水筒を差し出したまま動かなかった。


 「よけんな! ぶつかれ!」


 ミアは、よけた。


 ぶつからなかった。


 石壁とリーヤの肩のあいだ。指三本ぶんくらいの隙間を、通っていった。




 「なんで受け取んないの」


 リーヤが言った。声が変だった。


 「リーヤ。荷担ぎが、走りながら荷を渡すの、見たことあるよね」


 俺は言った。言いながら、自分で気づいた。


 「あるけど」


 「あれ、渡す方も動いてるでしょ。二人が同じ速さで並んでるから、渡せる」


 リーヤの手が、水筒の上で止まった。


 「止まってる人からは、受け取れないんだよ。指が触っても、掴んだ瞬間に腕が持ってかれる。あの速さだと、肩から抜ける」


 「じゃあ、走りながら渡せば」


 「誰が」


 リーヤが、口を開けたまま止まった。


 あの子と並んで走れる人間は、この街にいない。俺は昨日、四歩で置いていかれた。


 「紐は」


 俺は水筒の革紐を指した。


 「首に掛けるのは」


 「掛けるには頭を通す。腕を上げて、顎を引いて、一拍いる。その一拍がない」


 「じゃあ、こっちが掛けるのは」


 「あの速さで首に紐が掛かったら、折れる」


 彼女は自分の首の後ろを、掌でひと撫でした。


 「あたし、鉄の話ならできるけど、それは無理」




 「それに、掴むには一回だけ手を止めないといけない。腕が止まったら、肩が止まる。肩が止まったら」


 「……足が」


 「うん」


 昨日、四人で坂に並んだ。隙間を拳一つにした。それでも通られた。


 あれは、よけたんじゃない。触れられる形が、最初から作られていないんだ。


 受け取れないから、よけている。




 俺はそのとき、二日ぶりにこの子の顔を近くで見た。


 唇が切れていた。上唇の真ん中が、縦に一本。


 目は開いている。まっすぐ前を見ている。俺を見ていない。俺の向こうの、坂の上を見ている。


 髪の色が、また違って見えた。昨日は金に見えたところが、今日は白っぽい。


 汗を、かいていた。


 まだ、かいていた。


 セシルさんは、二日目の終わりごろに汗が出なくなると言った。


 俺はその汗を見て、少しだけ安心した。


 安心した自分が、いやだった。




 リーヤは、水筒を握ったまま坂に座り込んだ。石畳にそのまま。前掛けが汚れるのも気にしなかった。


 それから、水筒を両手で持ち上げて、日にかざした。


 継ぎ目のない金物が、朝の光を返した。


 「あたしさ」


 「うん」


 「継ぎ手なんだよ」


 「うん」


 「継ぎ目の見えないもんが作れるんだよ。この街で、たぶんあたしだけ」


 彼女は水筒を膝の上に下ろした。


 「なのに」


 声が、そこで一度切れた。


 「水一杯、渡せない」




 「じゃあさ」


 しばらくして、リーヤが言った。


 「坂、塞げばいいじゃん」


 「え」


 「さっきのとこ。大人二人で埋まるって、あんたも見たでしょ。二十人連れてきて、横に並んで、手ぇ繋げばいい」


 「よけらんないじゃん。ぶつかるしかないじゃん」


 俺は、何も言えなかった。


 言えなかったのは、同じことを、昨日からずっと考えていたからだ。


 「セシルさんが戻るまで待って」


 俺は言った。


 「なんで」


 「あの人なら、駄目な理由を知ってる。駄目じゃないなら、やろう」


 リーヤは少し黙った。


 「……戻ってこなかったら」


 「そのときは、やる」




 セシルさんが戻ってきたのは、七十周目だった。昼を過ぎていた。丸一日ぶりだ。


 坂を下りてくる音で顔を上げた。この人はいつも歩幅が大きい。今日は小さかった。


 外套が汚れていた。裾だけじゃない。肩にも腕にも白い粉がついている。記録室の埃だと思う。細い目の、ふちだけが赤かった。


 「戻りました。昨日、戻らなかったので、心配させたと思います」


 「した」


 「すみません」


 彼女は卓に座った。裾を払わずに座った。


 「数えてきました」




 「三百年ぶんです。記録室に三千件、本殿の写しに残り。合わせて、二万一千四百二十六件」


 「一日で?」


 「一晩と、一日です」


 二万というのは、この街の人間を全部合わせても足りない。


 「それで」


 「動詞が、一件もありません」




 「どうし」


 「言葉の形の話です」


 彼女は卓の上に指で書いた。書いたところに何も残らないので、形だけの説明だった。


 「石割り。荷運び。桶作り。紡ぎ。洗い。掃除。聞き手。継ぎ手。全部、その人が何であるかを言っています。名前が、その人の形になる」


 彼女は指を止めた。


 「『駆ける』は違います。その人が何をしているかを言っています」


 「それの、何が」


 「していることには、終わりがあります。石を割る。割り終わる。荷を運ぶ。運び終わる。人が何かをするとき、終わる場所が要ります。渡す相手か、置く場所か、着く先か」


 「うん」


 「駆ける、には、それがありません」




 俺は、その意味が腹に落ちるまでに少しかかった。


 どこへ、が入っていない。誰に、も入っていない。


 あの子は終わろうとしている。終わるための行き先が、名前の中に書かれていない。


 だから探している。探して、見つからないから、また回る。


 「速いのは」


 俺は言った。


 「速いのは、なんで」


 「終わろうとしているからだと思います」


 彼女は言った。


 「早く終わらせようとして、速くなる。速くなっても終わらないので、もっと速くなる」




 「誰も、止め方を知りません」


 彼女はそう言った。


 言い方に、諦めはなかった。事実を読み上げる言い方だった。


 「前例がないというのは、誰も試したことがないという意味です。誰も試していないので、止め方も書かれていません」


 リーヤが立ち上がった。


 「じゃあ、塞ぐ」


 「塞げます」


 セシルさんは即答した。


 「二十人で手を繋げば、あの坂は塞げます。あの子は通れません」


 「ほら」


 「止まるのは、体だけです」




 リーヤの顔から、色が引いた。


 「名前は止まりません」


 セシルさんは続けた。


 「脚は動こうとし続けます。前に壁があっても、動こうとします。膝が、足首が、腰が、動こうとしたまま止められます」


 彼女は、自分の膝の上で指を組んだ。組んだ指が白かった。


 「どこまで保つかは分かりません。分かるのは、壊れるまでやめない、ということだけです」


 彼女は一拍おいた。


 「押さえたら、壊すのは私たちです」




 リーヤは水筒を持ったまま、それを見下ろしていた。




 「もし『走りのミア』だったら」


 「名詞です。速い子で、済みました」


 駆ける。走り。一文字だ。




 夜になった。


 油皿を三つ点けた。外の六人は、四人になって、二人になって、いなくなった。坂が静かになった。


 ドンさんは、まだ立っていた。


 「何周目」


 「八十九」


 六十一で始まった日が、八十九で終わろうとしていた。


 「ドンさん。足音、変わってない?」


 彼はしばらく黙っていた。目を閉じたまま、いま聞いた音をもう一度なぞっているんだと思う。


 「……重くなった」


 「重い?」


 「踏み込みが、深い」


 俺は顔を上げた。




 四日前、この人はこう言った。行きと帰りで違う。荷物を持っているときのほうが、軽い。


 俺はそのとき「軽い? 重いんじゃなくて?」と聞き返した。


 持っていないときのほうが、重い。




 あの子は、二日間、何も持っていない。


 手のひらの上に、部品が三つ並んでいる。


 届けるものを探して、真夜中の港を回っていた子。


 持っていないほうが重い足音。


 行き先のない動詞。


 三つとも、同じ形をしている気がする。


 気がするだけで、繋がらない。




 「クルトさん」


 セシルさんが言った。まだ湯を持っていた。冷めきっているはずだった。


 「今日、何か分かりましたか」


 「分かった。分かったけど、足りない」


 彼女は頷いた。


 「明日、私はアダン様の隣に戻ります。今日抜けたぶんを聞かれます」


 「うん」


 彼女は湯を卓に置いて、立ち上がった。


 「三日目です」


 「知ってる」


 「いえ」


 彼女は扉のところで振り返った。


 「明日が三日目です、と言ったのではありません」


 「じゃあ何」


 「明日で、終わりです」


 扉が閉まった。


 閉まる音は、した。




 「百十七」


 ドンさんが言った。


 三日目の朝だった。


 禿げ上がった頭に汗が浮いて、乾いて、また浮いて、白い筋になっている。


 「一周、四半刻より短い」


 「短い」


 昨日の朝が六十一で、今が百十七だ。五十六周ぶんが一日で通った。十二刻を五十六で割れば、一周は四半刻に足りない。




 外に出た。


 坂に人がいた。


 俺は数えた。癖である。数えないと落ち着かない。


 二十三人いた。


 昨日は六人だった。一昨日は三人だった。


 坂の下の方に固まって、上を見ている。誰も喋っていない。荷担ぎの列が横をすり抜けていくのに、誰も避けない。避けられている。


 袖を見た。これも癖だ。


 石割り、桶作り、縄ない、干し場、荷担ぎ、荷担ぎ、荷担ぎ。灰色に褪せた糸ばかりだ。この街の袖はみんな灰色になる。


 その中に、二本だけ色があった。一人は緑、一人は青。名の色だ。


 マルタさんが扉を蹴り開けた。


 「昨日、散れって言ったよね」


 「言われました」


 「散ってないよね」


 「散ってないです」


 答えたのは痩せた爺さんだった。素直すぎて、マルタさんの言葉が止まった。


 「……なんで散らないんだい」


 「散っても、家で同じこと考えるんで」


 マルタさんは鍋を持ったまましばらく立って、それから何も言わずに店に戻り、湯の入った桶を持って出てきた。


 「飲みな」


 「え」


 「立ってるだけなら、水くらい飲みな。倒れられたら片づけるのはあたしだ」




 「水を飲まないで、動いてる」


 昼、マルタさんが厨房から言った。鍋の柄を握ったまま、動かしていない。


 「三日たった」


 「うん」


 「あたしはね、亭主が死ぬのを見てるんだよ」


 誰も何も言わなかった。


 「五日、水が入らなかった。三日目に喋らなくなって、四日目に手が動かなくなって、五日目に死んだ」


 「うちの亭主は、寝てたんだ」


 彼女は鍋を炉に戻した。


 「あの子は、走ってる」


 「三日で死ぬってのはね」


 彼女は言った。


 「人の話だろ」




 その意味が腹の底に落ちるまでに、少しかかった。


 落ちてから、俺は卓に手をついた。


 名前は、体の決まりの上に乗っている。


 止まれない、というのは、疲れても止まれない、という意味だと思っていた。


 違う。


 終われない、という意味だ。


 死ぬというのは、終わることだ。終わることも、止まることの一つだ。




 「ドンさん。足音、変わった?」


 彼は目を閉じたまま、耳の後ろを指の腹で押さえた。


 「変わった」


 「どう」


 彼は答えるまでに時間をかけた。光の帯の中を、埃が二周した。


 「……止まろうとしてる」


 俺は、聞き返せなかった。


 「毎周?」


 「毎周」


 「止まろうとして、止まってないってこと?」


 「そう聞こえる。踏み込みが、一回だけ、浅い。浅くて、そのあと深い。深いのは、取り返してるからだ」




 厨房でマルタさんの手が止まった。リーヤが顔を上げた。


 「じゃあ、そこで止めればいいじゃん」


 リーヤが言った。


 「そこがどこか分かれば、そこで止めればいいじゃん」


 言われて、俺はようやく気づいた。


 それは、分かる。


 「ドンさん。その浅いのは、一周のどこ?」


 「場所は、分からない」


 「なんで」


 「おれは、音しか聞いてない」


 彼は目を開けた。小さい、濃い茶色の目だ。三日ぶんの充血で、白いところが赤かった。


 「でも」


 彼は言った。


 「数なら、言える」




 俺は卓に板を出した。名簿の板だ。裏返した。裏はまだ何も書いていない。


 「ドンさん。店の前を通ってから、何数えたところ」


 「上がってきて、五十くらい。四十五から五十五のあいだ。毎周同じだ」


 リーヤが来る前から指を動かしていた。


 「店から広場まで、走って五十。あの子の足なら四十かそこら」


 「うん」


 「五十なら、広場に入って、十。広場は走れば端から端まで二十くらいでしょ。その半分」


 彼女は指を二本、卓の上に置いて、間を狭めた。


 「広場の、真ん中」




 「広場ですな」


 声がした。


 入口に、小さい爺さんが立っていた。背が低い。俺より頭ひとつ低い。痩せていて、首の皮が余っている。日に灼けた顔に、皺が縦にも横にも入っている。着ているものは何度も洗った生成りで、右袖の刺繍だけが、この街には珍しく黒に近い濃さで残っていた。


 荷運びのマティス。


 六十年、この街の荷を運んできた人だ。


 「順番、一番でしたな」


 「……はい」


 一番にしたのは、俺だ。あの日、この人は名前を書かずに帰った。それに気づいて、俺が板の一番上に書き足した。


 一番にしておいて、何も渡していない。


 「なんで広場なんですか」


 「広場は、平らですから」


 彼は入ってきた。歩幅が小さい。小さいのに、速い。


 「広場に入ると、足が速くなります。石が揃ってるんで。あそこだけ、坂じゃない。速くなったぶん、同じ十でも伸びますな。坂の十と、平らの十は、わしの足で二割違います」


 「二割」


 「あの子の足なら、もっとでしょう」


 リーヤが指を折り直した。三つ折って、止まった。


 「……真ん中じゃない。真ん中より、向こう」




 広場は広い。端から端まで歩いて百数える。走れば二十。井戸は真ん中より手前で、向こうにあるのは掲示板と、木が二本。


 一周は四半刻を切っている。彼女が広場を突っ切るのは、その中のほんの一部だ。目で追える時間じゃない。




 外に出た。二十三人が、まだいた。俺はその前に立った。


 「あの子が、一周に一回だけ、止まろうとしてるんです」


 顔が上がった。二十三ぶん、いっせいに。


 「どこかは分かりません。広場のどこかです。止め方も分かりません」


 セシルさんは、そこで一度、板を持ち直した。


 「先に一つ。坂を塞ぐのは、なしです。二十人で並べば塞げます。あの子は通れません。でも、止まるのは体だけです。脚は動こうとし続けます。押さえたら、壊れるのは、あの子です」


 誰も、何も言わなかった。


 言いながら、これは駄目だと思った。できないことばかり並べている。


 「でも」


 俺は言った。


 「場所だけなら、分かります」




 「一周、四半刻もありません。一人で見てたら、通り過ぎたで終わります。でも」


 俺は上を指した。広場だ。


 「二十人が、広場に散って立ってたら」


 「誰か一人の前を、必ず通ります」




 板を裏にして、卓の縁に立てかけた。


 俺は字が書けない。書けるのは形だけだ。だから線を引いた。広場を下手くそな四角で。井戸に丸を一つ。掲示板に四角を一つ。木みたいなものを二つ。


 「ここに、立ってください」


 四角の上に、点を打っていった。二十三個。


 打ちながら、板の表を思い出していた。八十四人の名前が書いてある面だ。順番待ちの板で、見るたびにげんなりしていた。


 待たせる板と、立ってもらう板だ。同じ板の、表と裏だった。




 ペレさんが坂を上ってきた。箒を持っている。


 「わし、掲示板の前でよろしいか」


 「いいですけど、なんで」


 「五十年、そこを掃いとりますんで。わしの立つ場所は、そこだけです」




 マティスさんは、坂の上がってくる口に立った。


 いちばん先に見える場所で、いちばん短くしか見えない場所だ。


 「そこ、一瞬しか見えませんよ」


 「わし、一番でしたんで」


 誰かが笑った。笑い声が広場に落ちて、すぐ消えた。




 広場に出た。


 白かった。昼過ぎの光が真上から落ちて、石畳が焼けている。鳩は掲示板の上に、日の当たる側から順に並んでいた。


 二十三人が、広場の中に点みたいに立っていた。井戸のそば。木の下。掲示板の前。端の階段。


 誰も喋っていない。全員が、坂の上がってくる口を見ている。


 風が来た。下からだ。


 鳩が、いっせいに飛んだ。




 影が来た。


 速かった。人が三日走ったら、遅くなる。速くなっていた。


 髪が見えた。明るい亜麻色だったはずのものが、灰色になっていた。汚れでも埃でもない。色が抜けている。


 汗を、かいていなかった。昨日はかいていた。


 彼女は広場を斜めに突っ切って、西へ抜けていった。速すぎて、足音が一つに聞こえた。




 「はい」


 声がした。


 ペレさんだった。箒を持ったまま、掲示板の前に立っている。


 「わしの前を、通りました」


 全員が集まってきた。


 「見た。井戸の向こうを抜けてった」


 「浅いのなんて分かんねえよ、あの速さで」


 「わしは、聞こえました」


 ペレさんが言った。


 「石の音が、一回、抜けました」


 「抜けた?」


 「掃いてると、音を覚えるんですわ。石が一枚ずつ、違う音を出しますんで」


 彼は掲示板の下を、箒の先で示した。


 「ここですな。ここの音が、鳴らんかった」




 俺は、その石畳を見た。


 何もなかった。磨り減って丸くなった石が、他と同じように並んでいるだけだ。


 顔を上げた。


 掲示板があった。木の枠に板を打ちつけただけのやつだ。雨で膨れて、下の隅が反り返っている。紙が三枚貼ってある。二枚は端が破れて、字が半分ない。


 一枚だけ、新しかった。白い。まだ角が立っている。




 俺は、字が読めない。そこにあるのが字だということしか分からない。


 黒い印が縦に並んでいる。数えたら、二十二あった。


 「誰か、読める人」


 誰も動かなかった。


 この街で、字を読めるのは三人に一人だと言われている。二十三人いれば七人は読めるはずだった。


 誰も手を挙げなかった。


 三人に一人というのは、たぶん、坂を上ってくる人間の話じゃない。




 「おれ、少しなら」


 後ろから声がした。


 十六か十七くらいの男だった。背が高くて、肩が薄い。粉の匂いがする。手の甲に火傷の点がいくつもあった。窯の跳ねだ。パン屋の倅だ。


 「注文の紙は読むんで。全部は無理ですけど」


 「読んで」


 彼は掲示板の前に立って、少し困った顔をした。


 「上のは、儀の日取りです。明日です」


 「下は」


 彼は指でなぞった。なぞりながら読む人だ。


 「名前が、並んでます。今年、十五になる子です。呼ばれる順に」




 俺は息を吸って、止めた。


 「読んで」


 「全部ですか」


 「全部」


 彼は読みはじめた。つっかえながら、一つずつ。二十二の名前が、広場に一つずつ落ちていった。


 誰の名前も知らなかった。


 十一番目で、彼が止まった。


 止まって、俺を見た。


 「あの」


 「読んで」


 「……ミア」




 誰も、何も言わなかった。


 鳩が掲示板の上に戻ってきて、また並んだ。日の当たる側から順に。




 「あの子は、ここで止まろうとしとるんですかな」


 ペレさんが言った。


 「なんでですかな」


 俺は、掲示板を見上げた。


 あの子は字が読めない。だから、読みに来ているはずがない。


 そこまでは、すぐ分かった。分からないのは、その先だった。




 「この紙、貼り出したとき、誰か読み上げましたか」


 俺は聞いた。


 「読みましたな」


 ペレさんが言った。


 「役所のもんが、貼って、上から順に読みました。毎年そうです。読まんと、半分の人間には分かりませんので」


 「広場で?」


 「広場で。人が集まっとりました」


 俺は、その場面を思い浮かべた。


 紙が貼られて、役所の人間が上から順に読み上げる。二十二人ぶん。


 その中に、あの子もいた。


 聞いていた。


 自分が十一番目だと、耳で知った。




 あの子は算数ができる。


 指を折って、あと六日、あと五日、と数えていた。片手で足りなくなると、もう片方を使った。字は読めないのに、そこだけは速い。


 俺は掲示板の紙を見た。


 黒い印が、縦に並んでいる。何が書いてあるかは分からない。


 でも、上から十一個目がどれかは、分かる。


 数えればいい。


 この子がやっているのは、それだ。


 読んでいるんじゃない。数えている。


 上から十一番目に、まだ何か書いてあるか。それだけを、四半刻に一度、走りながら確かめている。


 三日、ずっと。




 そこまで考えて、俺は、もっと簡単なことに気づいた。


 あの子は、自分が呼ばれないことを、まだ知らない。


 言っていない。言う機会が一度もなかった。四半刻に一度、二言だけ。その二言で言えることじゃない。


 あの子はまだ、十一番目に呼ばれるつもりでいる。




 「その紙は、今日の夕方に貼り替えられます」


 声がした。


 セシルさんが、広場の上の口から下りてきていた。外套の白い粉が、昨日より多い。


 「二十二人が、二十一人になります」


 「……なんで、そんなことまで分かるの」


 「記録が、変わったからです」




 「一昨日の夜、路地で、あの子は名前を授かりました。あの場に、アダン様がいました」


 俺は、あの壁の上を思い出した。


 銀の縁取りが二本。月を背にしているのに、輪郭が抜けなかった。あの人は、俺が名前を言うところから、何もない袖に糸が生えて縫い上がるところまで、全部、上から見ていた。


 見ていて、綴じ本を出さなかった。書かずに、いなくなった。


 俺はあのとき、書かなかったことを、少しだけ安心して受け取っていた。


 「昨日の朝、お書きになりました」


 セシルさんが言った。


 「私が、隣で見ていました。ミア。十四。授名済み」




 「見ただけで?」


 「見た人が本殿の方なら、それで記録になります。本殿の記録には、証人が要りません」


 彼女は続けた。声の高さが変わらない。


 「授名済みの子は、儀に出ません。出る必要がないからです。そして神殿の記録は、毎朝、役所へ回ります。役所は、回ってきた記録どおりに掲示を作り直します」


 「役所の人が、あの子を外すって決めたの」


 「いいえ」


 彼女は掲示板を見上げたまま言った。


 「誰も決めていません。紙が、順番に動いただけです」




 俺は、その言い方に、しばらく何も返せなかった。


 怒鳴る相手が、どこにもいなかった。


 アダンは見たものを書いた。役所は回ってきたとおりに作る。貼りに来る二人は、言われたとおり糊をつける。


 誰も、悪意で外していない。


 外したのは、俺だ。一昨日の夜に、路地で。




 「一つだけ、書かれていないことがあります」


 セシルさんが言った。


 「なに」


 「授名済みの行には、必ず誰が授けたかを書きます。三千件、全部書いてあります」


 「うん」


 「あの子の行だけ、そこが空です」


 俺は、彼女を見た。


 「書き忘れ?」


 「あの方は、書き忘れません」


 彼女は、そこで一拍おいた。


 「空欄は、埋めるために空けてあります」




 止め方は分からない。名前は消せない。水は渡せない。三日の限界はもう過ぎていて、終わることさえ許されていない。


 できることが、一つもなかった。


 一つもないのに、二十三人が広場に立っている。意味がないのに、誰も帰らない。


 「解けないのと」


 俺は言った。誰にでもなく言った。


 「何もできないのは、別だ」


 「はい」


 セシルさんが答えた。


 「別です」




 この半日で、分かったことが一つある。


 あの子が一周に一度、足を浅く踏む場所。掲示板の下の、石一枚。


 そこで何をしているか。上から十一番目を、数えている。


 ドンさんが数を出して、マティスさんがそれを場所に直して、二十三人が広場に散って、ペレさんが音の抜けを聞いた。


 三日かけて、それだけだ。


 止められない。それでも、どこで止まりたがっているかは、分かった。




 「クルトさん」


 マルタさんが、いつのまにか坂を上ってきていた。鍋を持っている。


 「呼ばないのかい」


 「え」


 「名前だよ。あんたが呼べば、あの子は返事するだろ。いつも返事してるじゃないか」


 俺は、掲示板を見上げた。




 考えなかったわけじゃない。


 四半刻に一度、二言だけ言える。あの子は必ず返事をする。今朝も、はーい、と言った。


 でも、二言で言えることは、二つしかない。


 嘘か、本当かだ。


 嘘は喉で止まる。マルタさんが「無口なマルタ」で止まったのと同じだ。


 そして本当のことは。


 ――君は、もう呼ばれない。


 それを二言に切って、走っている子の耳に放り込んで、そのあと四半刻、一人で走らせることになる。


 「言えない」


 俺は言った。


 「言ったら、あの子は、それを持ったまま一周する」


 マルタさんは、鍋を持ち替えなかった。


 「……そうだね」


 「うん」


 「呼んで済むんなら、あたしが昨日から呼んでるよ」




 夕方になった。


 広場に屋台が出はじめた。儀の前の日は屋台が出る。焼いた魚と、菓子と、南の果物。値段が一日だけ倍になる。組み上がった壇の周りに青と白の布が巻かれて、その横で魚が焼かれていた。


 四半刻に一度、鳩が飛ぶ。そのたびに、屋台の前の子供たちが振り返って、また前を向く。


 誰も、走っている子の話をしなかった。




 役所の使いが二人、広場に上がってきたのは、日が傾いてからだった。昨日、坂に旗を吊っていた二人だ。


 一人が糊の壺を、もう一人が丸めた紙を持っている。


 掲示板の前に来て、貼ってある新しい紙を下の端から剥がした。剥がして、丸めて、脇に挟んだ。それから持ってきた紙を広げて、同じ場所に貼った。四隅を押さえて、真ん中を掌で撫でて、それで終わりだ。


 二人は坂を下りていった。




 二十三人が、それを見ていた。


 誰も止めなかった。止める理由が、誰にも分からなかったからだ。


 あそこに何が書いてあるかを知っている人間は、この広場に二人しかいなかった。




 俺は、掲示板の前に立った。


 黒い印を、数えた。


 二十一あった。




 「読めますか」


 セシルさんが後ろから言った。


 「読めない」


 「読まなくても、分かりますね」


 「分かる」


 剥がされた紙は、あの二人の脇に挟まれて、坂を下りていった。




 風が来た。下からだ。


 鳩が飛んだ。


 影が来た。




 彼女は掲示板の前を通った。


 通り過ぎながら、顔を上げた。


 一瞬だ。まばたきより短い。


 貼り替えられたばかりの紙を、見上げていた。


 いつもと同じ角度で。いつもと同じ長さで。




 「クルトさん」


 ペレさんが、箒の先で足元を示した。


 「今の。石が」


 「うん」


 「二枚、鳴らんかった」




 俺は、その石を見た。


 二枚だ。昨日までは一枚だった。浅い一歩が、二歩になった。


 「読めないはずなのに」


 「読めていません」


 セシルさんが言った。


 「読めていませんが、数は数えられます」


 俺は、掲示板を見上げた。


 昨日まで、黒い印が上から二十二あった。いま、二十一ある。


 数えれば、一つ足りない。


 それでも、十一番目には、まだ何か書いてある。


 その二つを、あの子は同時に見ている。


 合わないものを見たとき、人はいったん足を止める。


 止まれないので、石が一枚ぶん、余計に鳴らなかった。


 たぶん、そういうことだ。




 彼女は西へ抜けていった。


 誰も、何も言わなかった。


 あの子は、一つ足りないことに気づいた。


 足りないのが自分だとは、気づいていない。


 気づかないまま、明日も数えに来る。


 明日はない。


 明日が、儀だ。

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